密謀と密約(一)
座敷に座っていた政子の耳に、鳥の鳴き音がかすかにふれた。声は山向こうから空を渡り、細く、長く、透明な糸を引いて繰り返し伸びて来る。澄み切った美声は、恐らくあの、目の覚めるような青色の羽根を持ったオオルリであろう。
険峻な峰々を連ねた高野山からこの山麓の社殿まで、細い鳴き音が途切れもせずに降りて来るのは不思議であった。長く響く声を耳でたどってみると、この一帯を覆っている静寂が手に取るように感じられる心持ちがした。
自然が造り出す静寂は、政子にはなじみの深いものである。政子が生まれ育った鎌倉は、今でこそ人が行き交い、物が行き交い、学問や芸術も流入し、東の都と呼ばれるほどに開けた土地になったけれども、政子が幼少期を過ごした頃などは、山々と海の間にこっそりと置かれた玩具のような、小さくひなびた、他愛もない土地であった。のしかかって来るような黒い山を背後に背負い、目の前にはうねる潮がひたひたと迫る土地の姿は、人々に自然の巨大な目を否応なしに感じさせた。
静寂とは、それは自然が人々を脅しつける声であった。山や海や叢林はそれぞれに異なった眼を持ち、夜も昼も人間の営みを監視し続ける。そうしてある日、まったく唐突な悪意や憎悪を発揮しては、気まぐれに人々の暮らしを破壊するのだった。
自然が振るった暴力をまのあたりにするたび、政子は、人はなんと孤独な生き物かと思わずにはいられなかった。人々の命の上には常に、自然の冷たい目があった。鳥も獣もその存在を許されているというのに、同じ命でありながら、この世の中で人は唯一、自然が許していない存在なのだった。人はその怒りにふれないように、息を殺しおびえて生きていかねばならないのだと、大水で押し流された田畑を見て、政子はそんなことをつくづくと考えたりした。
政子の記憶に染み付いた静寂とはこのようなものであった。
がしかし、この、高野山の一帯を支配している深い静けさはそれとは違った顔を持っているように思われた。山は鎌倉のそれよりもずっと深く険しく、人を寄せつけないほどであるというのに、生み出される無音の空間には、あの、荒くささくれた凶暴さが感じられない。
これは自然が造る静寂ではなく、人が生み出す静謐なのだろうと政子は思った。高野山は弘法大師を開祖とした真言宗の修行の場であり、信仰の場である。数え切れないほどの修行僧が、悟りと真実を求めて山に入って来た。ここでは人の堅い信念が自然を圧倒し、深い沈黙の場を作っているのではないか。この想念は、理性と知性を重んじるところの強い政子の気に入った。
政子の耳はオオルリの声から離れて廊下へ意識を向けた。来るべき人はまだ来ないようである。
* * * * *
心身には、先日まで滞在していた京でのもろもろの記憶が、まだ鮮やかに残っていた。政子が最初に上洛を果たしたのは建久六年(一一九五)のことになる。上洛の目的は、朝廷に嫡男頼家の披露目を行うため、それから長女大姫を後鳥羽上皇へ入内させるためであり、非常に華やかな、しかし強い緊張を伴った滞在であった。
あれから二十三年という月日が経っていたが、訪れてみると、京の町は思い出の中の形や色を驚くほどとどめており、景色の変化の少なさと、自分の記憶の確かさに、政子自身が戸惑ったくらいだった。しかし、あの時京の地を共に踏んだ夫も息子も娘も、今はこの世の人ではない。頼朝と大姫は病で没し、頼家は伊豆の修善寺で命を落とした。昔と何ひとつ面影を変えない京の町を、今度はひとりきりで再び歩くのは、やはり心寒いものがある。京の都と比べて、自分の上には何と長い時が流れたのかと、政子は思わずにはいられなかった。
政子の心はしばし、過去の記憶への感慨に流れたが、しかしすぐに、オオルリの声に引かれて現実の思考へと戻って来た。
――上皇様への謁見が叶わなかったのだけが、無念といえば無念であるな。
とはいえ、それとて藤原兼子の知遇を得たことと引き比べれば、それほどくよくよと残念がることではなかった。仕込みはして来たのだ。いわば、自分は米を研ぎ、麹と混ぜて信頼の置ける杜氏に託して来た。あとはあの方にお任せすればよい。酒を育てるように、気を熟させてくれるに違いない。
今回政子が上洛したのは、姪孫の縁組と、そしてそれ以上に将軍家に養子を迎え入れるためであった。しかも後鳥羽上皇の皇子を、というのが、実朝の希望である。上皇は、上は女院から下は舞女まで、実に十数人の皇子をもうけていた。その中からしかるべき皇子を貰い受け、実朝の後継者として鎌倉で養育したい。朝廷にとっても皇家にとっても悪い話ではないはずだったが、上皇はなにゆえか難色を示し、謁見はなかなか実現しなかった。謁見は時期尚早と判断した政子は、あとのことを兼子に託し、京を後にして来たのである。
ただ正直なところを述べると、政子はこの期に及んでも、腹の底では、親族の中から自分の眼鏡に適った娘を選び、実朝の側室に入れる案を捨てかねた。それは政治的な判断というよりは、感情的な部分に拠っていた。
正室の信子を迎えた時、実朝は、足利義兼の娘をという周囲の推薦を拒み、京の公家の娘を将軍家の室に入れることを頑なに言い張った。外戚が力を持つことを避けるためにも、この選択は正しかったとは思うものの、感情的な憤りは、十八年経った今でも、政子の中で解消されないしこりとなっている。母親にありがちな傲慢を、政子もまた持っていた。息子の知性を自分より劣ったものと頭から決めてかかっていたから、その息子が自分の手を振り切って人生の大きな選択を行ったのが腹立たしかったし、今も腹に据えかねているのだった。
しかしそれはあくまでも政子の感情的な事情である。鎌倉御所の評議は、上皇の皇子を後継とするという実朝の案を容認した。そこで、年明け早々に上洛の予定になっていた政子が、養子の使いも務めることになったのである。
「上皇様の皇子をお世継ぎに。それはよろしきこと」
政子と藤原兼子の会見は容易に実現した。兼子は、件の姪孫が嫁いだ、源通行の叔母にあたる婦人だが、そうした姻戚関係よりも、事前に贈った金銀の引き出物が功を奏したのである。招かれた屋敷で政子が養子の件を打ち明けると、兼子は鷹揚に頷いた。
「皇家の皇子が将軍家を継ぐ。これは朝廷と鎌倉御所との結びつきをこれまで以上に強めるものです。権大納言殿(実朝のこと)と安養院殿の決断を嬉しく思いますよ。そして、この大事をわたくしにゆだねて下さったことも、嬉しく思います」
「なにとぞ、上皇様にお口添えを」
深く頭を下げると、兼子は目元を穏やかに笑ませた。
――まるで闇夜にたゆたう薄絹のような。
これは、その笑みを見た政子の咄嗟の感想である。感情をあらわにせず、茫漠とした、朧月のような薄笑みで胸の内を包み込んでしまうのは、貴族にありがちな反応だった。だが、この婦人の笑みには何か得体の知れない影が見え隠れするような気もする。
「鎌倉へは、冷泉宮様に下向いただくことと致しましょう」
穏やかな笑みはそのままに、兼子はその場で政子に返答した。たった今しがた、兼子が将軍の後継者として推薦した冷泉宮とは、自らの屋敷で養育している頼仁親王であった。皇子は現在十八才で、親王宣下も既に数年前に受けている。兼子は、皇子が信子の甥にあたることも示し、良縁ではないかと言った。
「皇子は学問を好み、そしてまた、学問と同じくらい、武技も好んでおりますよ。武張ったことを好むのは、これは上皇様のお血筋でございましょうねえ。まことを申せば、皇子が武を好むのはいかがかと思うておりましたけれど、このようなご縁が待っていたためと思えば、すべて合点が行くと申すもの」
絹の袖でさらりと口元を覆って、兼子はほほ、と柔和に笑った。まことに、と政子は同調して笑って見せたが、内心では兼子の独断に驚かざるを得なかった。
政子は当然のことながら、養子の件を兼子から上皇や廟議に取り次いでもらいたかったのである。しかしこの老婦人は、いかに自分の手で養育したとはいえ、誰にもどこにも何の断りも入れぬまま、頼仁親王を東下させ、鎌倉将軍を継がせるという大事をひとりで決めてしまっているのである。この人はまさに、朝政の中枢そのものなのだと、あらためてその権威を見せ付けられた思いがした。
政子は目を上げ、兼子のおもてをつくづくと眺めた。兼子の人生は、姉の範子と共に後鳥羽上皇の乳母を務めたところから始まっている。時に母親であり、時に教育役である乳母が強い影響力を持つのは、これは武家も皇家も変わりがない。兼子も恐らく、多感な時期にそばに寄り添って何かと助言を与え、上皇の信頼を得たのであろう。
そんな彼女に転機が訪れたのは四十五才、後宮の長官にあたる、典侍に任じられてからである。これを機に、それまでは奥で上皇に働きかけることで政に接触していた兼子は、はっきりとした形で政に関わるようになる。朝政への発言力、それと同時に上皇への影響力をさらに強め、表舞台での存在感を増して行ったと、政子は兼子の履歴をそのように聞いていた。
藤原一門はもともと後鳥羽上皇と関係が深かった一族ではあるものの、幼い折に父が病没した兼子には、これといった強い後ろ楯はなかったはずである。乳母の一人に過ぎなかった女性が朝廷の中でこれほどの力を持つに至ったのは、彼女がいかに才気溢れる女であったかを物語る。




