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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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源氏の血(五)

      * * * * *


 清子が去ると急に屋敷は静かになった。遠くにひそひそと足音がして、途切れ、引戸を繰る音がした。日暮れが間近いので、女官たちが戸締りに歩いているのである。部屋の明かり障子の隅にはまだかろうじて陽の色が暮れ残っていたが、眺めているうちにくすみ、赤々とした色は周囲の薄闇に溶けて行くようだった。


 廊下に再び足音が聞こえ、途切れ、引戸が繰られた。足音が途切れるたびに廊下が少しずつ暗くなるのが分かる。あたかも闇が歩み寄って来るさまを思わせた。


 清子から祭りの残酷な顛末を聞いた夜、実朝は生き神の少年を夢に見た。こちらをじっと見上げた少年の表情が、部屋に漂う薄闇の中にありありと浮かんだ。


 あの後で知ったことだが、生き神を祀る儀式というのは、東西を問わずこの国の非常に多くの土地で行われているものだった。神霊は幼子の体に降りるという古くからの信仰ゆえに、生き神となるのはほとんどの場合子供である。そして川勾のように、祭りのあとで子供がいけにえにされるのも、これもまた決して珍しいことではないのだった。


 生き神となった子供が命を奪われるのは、紙の形代に災厄を移し、それを焚き上げるのと同じ意味がある。だが、神として祀られた者が一転していけにえとなるのは、それだけの理由ではあるまい。鎌倉の祭司として、時にある種の巫女として、信仰と呪術の只中で生きて来た実朝には、そのからくりは容易に察せられた。


 神への崇敬には、常に畏怖の感情が付随するのだった。しかし畏怖はそこに恐怖を含む。そして恐怖はいずれ必ず、人々の憎悪や怨嗟を引き寄せる。崇敬が強いほど、相反して憎悪も深くなる。神であったものがいつしか怨嗟の的となり、災厄の象徴として排除されるに至るというのは、これは呪術的信仰の必然なのだった。


 引き戸越しに女の声がして、明かりが運ばれて来た。気がつけば闇は部屋の床から天井まで満々と満ち、ひんやりとした静けさが身の内を浸していた。女官は灯明台を引き寄せ灯を移し、そして一言も発せぬまま、戸の隙間から出て行った。


 部屋は再び実朝ひとりになった。灯明皿の上で赤い灯が魚のように身を揺らし、灯心がかすかな音を立てた。体に微熱が生じているのか、充分離して置いているはずの灯明の火が肌に熱かった。灯明に手をかざしてみた。肌に火の色が映り、筋を引いて指を流れた。


 仏教が渡来する以前、古代の呪術においては、恐らく神とは「殺されるもの」であったのだ。その性質は川勾の祭りに色濃く残っている。生き神信仰とは、神を降ろし恵みをもたらしてもらうためのものではなく、神を殺すことがその本質なのであろう。


『父上は、気づいていたのであろうな』


 実朝の思いは、神として鎌倉を治めた父の上に流れずにはいられない。


 異分子の徹底した粛清を行い、天皇家との婚姻を画策し、父の晩年は統治の完成をやみくもに急いだ感がある。統治と執政の仕組みを万端に整えて、頼家に家督を譲りたかったのだと広元は語ったが、それだけでは説明のつかない、得体の知れない切迫感が伴っていたように実朝には感じられてならない。


 草薙の剣の魂を身に降ろし、神の性質を帯びた棟梁となる。それは東国を治めるために確かに有効な手立てであった。しかし、全てにおいて慎重であった父のことであるから、それほど経たないうちに、生き神として祀られることが最後には何をもたらすか、その危うさに気がついたのに違いなかった。今となっては胸の内を推し測るすべは何もないが、父はいずれ訪れることになる運命に抗おうとしたのではなかったか。


 思えば兄もまた、周囲が強いた生き方に抗おうとした。それは御所をいたずらに混乱させ、結果として兄の命を縮めるだけの結末しかもたらさなかったが、しかし実を結ばなかったとはいえ抗おうとしたことに違いはない。そして今、実朝は神の呪縛から逃れ、自らの手で命を拾うべく、父の作った東の都を捨て去ろうとしている。生き神のさだめは人の憎悪をすすぐために命を絶たれることにある。ならば、そのさだめに抗おうとするのは源氏の血の宿命かもしれなかった。


 信子は夫のもとに薬湯の椀を運ぼうとしていた。清子を見送った実朝の様子に少し疲れが見えたため、命じて煎じさせたのである。女官の手に掲げられた明かりに導かれて、信子は渡り廊下を渡った。陽が落ちたとたんに雲が厚く覆い始め、日暮れから間もないというのに、既に地表はひどく暗かった。普段であれば庭の景色が見えるはずの廊下の左右にも、黒漆を流し込んだような惣闇が伸びているばかりだった。


 急に、女官が咽で小さな叫び声を上げた。


「何事ですか」


 驚いて声をかけたが、女官は庭のあらぬ方を凝視し、その場に凍り付いている。肩ごしに視線をたどった信子の目に、人の姿が映った。細い体に頭から藍の被衣(かつぎ)をすっぽりと被り、その姿から人影は女と知れた。何か言うでもなく、動くでもなく、闇一色の中、こちらへまともに顔を向けてたたずんでいる。ただその顔は、影が濃く射してうかがうことは出来なかった。


 今にも消え入りそうに震える女官を庇って、信子は一歩踏み出した。


 誰――。気丈に声をかけようとした時、藍の女は目の前を無言で駆け抜け、闇に解けた。小さな手燭ひとつしかない中で、庭に立つ人の姿など見えるはずがないことに気がつき、信子と女官は共に胸のつぶれるような悲鳴を上げた。悲鳴を聞きつけて人々が駆けつける足音に、取り落とした椀からぷんと立ち昇った薬湯の匂いが混じった。


 これより少し前、深夜に庭を眺めていた実朝の目の前を、やはり藍を被った女が夢のように走り抜けたと信子が聞いたのは、だいぶ後のことであった。


      * * * * *


 暮れの迫る頃、牛車や衣装などが鎌倉に送られて来た。年明けに実朝は八幡宮に参拝し、右大臣任命の礼参りを行うことになっていた。その際の儀式に必要なさまざまな品が、後鳥羽上皇より届けられたのである。参拝の儀には京から公卿衆が参列することになっていたが、坊門忠信の下向も決まったことを、使いの者は報告した。信子の兄であり、現在は坊門家の当主である。


 年が明け、正月の二十四日。昨夜から降り始めた雪は地表に一尺ほどにも降り積もり、鎌倉の町は急に静まり返った。雪の中、坊門忠信が御所を訪問した。実朝と義兄弟の縁を結ぶ、盃事の儀式を執り行うために訪れたのである。忠信と実朝はかねてから親しい文のやり取りはあったものの、実際に会うのはこれが初めてだった。この機会を捕えて将軍家と坊門家の結びつきをより確かなものにすることが、この日の盃事の狙いであった。


「いや、貴方様の教養はいただいた文からも容易に察しておりましたが」


 女官たちの給仕で儀式がとどこおりなく済んだのち、忠信は満面の笑みをたたえながら、そう、妹婿を褒めちぎった。


「こうして直にお会いしてみると、歌、仏学、有職故実と、知識の広さ、深さにはただただ、感服するばかりですな。貴方様とはいくら語らっても語り尽くすということがなさそうじゃ」


 と、大声で断言して、忠信はぴしゃりと膝を叩いた。両の頬が愉しそうにだぶだぶと揺れた。家督を継いでから彼はなにゆえか急に太り始め、現在はちょうど、縦に割った瓜に目鼻を描き込んだような風貌になっている。


「いや、わたしの方こそ、権大納言殿の歌の解釈には幾度となく目を開かされたものです。お会いして教示をいただけるのを楽しみにしておりました」


「我が坊門家のためにも、将軍家のためにも、今後はこのような機会を増やさなくてはなりませぬ。鎌倉殿、ぜひぜひ、上洛を。お待ちしておりまするぞ」


 忠信はあけすけにそんなことを言い、かたわらに控えた信子は冷や冷やした。


「お疲れになりましたでしょう」


 大騒ぎして忠信が帰ったあと、信子は恐縮気味に夫をねぎらった。


「あのように騒がしいお方ですから」


「何、気にせずともよい。わたしも久方振りに愉しい時を過ごした」


「申し訳ございません」


 寝衣を取るために信子は部屋を出て行った。実朝は女官に命じて庭に面した引き戸を開けさせた。


 清らかな白色が地面を覆っていた。血の気配も時の移ろいも全て白衣の下に包まれ、声を潜めた。静謐で、そして清浄であった。だが平穏ではない。ただ清いだけの空間は、それは安寧ではなく深い混沌であるかも知れぬ。実朝はふっと吐息をついた。唇のそばで、舞い落ちて来た雪片が、慌てたように身をひるがえし、いずこかへ去った。雲の向こうでは陽が落ちたと思われる。鎌倉の地に闇が迫りつつあった。空には雪が満ちて来る気配がある。疲労の残った肌を冷気が針のように刺した。


「今宵は灯しなど要らぬな。雪の明かりだけで充分だ」


 誰に言うともなく、実朝はつぶやいた。


 鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式は、明日であった。

(第七話・了 / 第二章・完結)

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