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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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源氏の血(二)

      * * * * *


 実朝はなにゆえ、養子を迎えて将軍としての寿命を縮めようとしているのか、そもそも太政官の先に何を見据えているのか。それは実朝に言わせれば、ごく簡単なことであった。


 夜、温まった夜具の中で、信子は実朝の胸元に身をもたせて横たわっていた。いつものことだが、明かりを吹き消した部屋はひどく暗かった。目をじっと凝らしても夫の姿はもちろんのこと、鼻先にかざした自分の手指すら見えない程に闇が濃く、信子は、何だか自分の身が闇に溶けまぎれてしまったような心持ちがした。体の存在が心許なく感じられるのは、闇のせいばかりはなく、彼女の思考がひどく興奮しているせいもあるかもしれない。脳裏に去来しているのは、数日前に実朝から打ち明けられた話であった。


「――殿。起きていらっしゃいますか」


 信子は、少し頭を上げ、囁いた。間を置かず、衣擦れの音が応えた。


「起きているよ」


「先日のお話のことですけれど」


 声が洩れるのを恐れて、信子は実朝の胸に顔をうずめながら言った。


「あの時、殿は、いずれ鎌倉を捨てるつもりだとおっしゃいましたね……?」


 それは、左大将叙任の除目が届いた日の夜のことだった。ちょうど今のように、信子と夜具に共寝していた実朝は、やおら手の動きを止めると信子の体を両腕でかき抱いた。常とは違う、夫の荒々しい仕種に驚く間もなく、


「信子、わたしは、鎌倉を捨てる」


 耳元に口を寄せ、実朝は低い、しかし明瞭な声音で囁いた。


 思わずかすかに息を呑んで、しかし信子はそれきり声も立てず、身じろぎすらしなかった。愛撫を受け止めていた白い肌と同様に、その体は実朝がこれから語るどんな言葉も受け入れるべく、温かな影となって静かに横たわっている。


「わたしは左大将になった。そなたも知ってのとおり、左大将の官職を得たならば、その先の昇進は約束されている。遠からず、大臣に昇ることになろう」


 実朝は一度言葉を切った。宿直に洩れ聞かれるのを恐れてか、信子の耳に口を押し当てるようにして一段と声をひそめた。


「わたしは、朝政を執るために京に赴く。しかしそのあとは、京に上ったのちは、わたしはもはや二度と鎌倉には帰らぬ。御所が転覆しようが、東を戦火と血泥が舐め尽くそうが、この地を踏むことはない。生まれ育った国との縁、母上も含め、共に生きて来た人々との縁を、ことごとく断ち切ってしまうつもりだ。

 ――全ては生きるため、命を拾うためだ。鎌倉に、もはやわたしの生きる余地はない。だが朝廷の庇護に入れば、あるいは命を拾うことが出来るやも知れぬ。それゆえに、京に行く」


 努めて押し殺してはいたが、声音はしばしば乱れた。さすがの実朝も心の高ぶりを抑えかねているのか、腰にまわした手の爪が、いつしか信子の柔らかな肌に食い込んだ。


「信子、だがそなただけは伴って行くよ」


 少しの間言葉を呑み、気持ちを落ち着かせると、実朝は今度は包み込むような仕種で信子の体を抱いた。


「案ずるな、ひとりだけ残しはせぬ。そなたの生まれた地が、これからわたしの帰るべき国となるのだよ」


「――ああ、殿」


 それまでじっと口を閉ざしていた信子が初めて安堵の声を上げた。闇の中で温もりが大きく波打ったと思うと、両の腕が実朝の頭を胸元にしかと抱いた。


 夫が心の中に何かを決しているらしいことは、彼女は少し以前から薄々感づいていたのである。何があろうと夫に従う心づもりはあったものの、実朝の決意が二人を別離させることになるかもしれないと、それだけが信子の恐れであったのだ。


「ですが……」


 しかし沈黙ののち、信子は体を離すと新たな不安を口にした。大きな安堵の反動のせいか、それとも抱擁のあとの肌の冷えのせいか、胸の中にはもう、暗い不安が雲のように沸き立ち始めている。


「大臣は、摂関家の子弟を任ずるというのが定めでございます。朝廷の方々がその慣例を曲げるでしょうか」


「いや、曲げる」


 実朝は言った。小さいが底力のある声であった。


「朝廷には、仲章を通して働きかけている。だが、あの者がさほど尽力せずとも、わたしを太政官に昇らせると思うのだ。

 鎌倉の今の状況を、京はあまりよく思うてはおらぬ。既に東国は力をつけ過ぎたと懸念しておるし、北条が一人勝ちに力を掌握しておるのも不安なのだ。昨年、政所の顔ぶれに手を入れるようにと申して参ったが、あの一件からもよく分かる。

 朝廷の狙いは、鎌倉御所の力を削ぐことだ。それゆえ、将軍であるわたしをあちらに抱き込みたいのだ。帝に何の功も挙げていないわたしに今までこれ程の昇進を許したのはそのためだ。今回も間違いなく昇進はある。傀儡ではあっても鎌倉の頭で、頼朝の血を引いた後継ぎだ。使い道は幾らでもあるのだよ」


「それでは、殿は……」


「朝廷の策にこちらから乗るのだ。文弱の愚かな将軍が朝廷に絡め取られるという形にでもしなければ、わ

たしが鎌倉から逃れることは出来まい」


「……殿のお身が心配です」


 信子はぽつりと言った。実朝が画策していることは明らかに東国への背信であった。朝廷へのあからさまな接近は、御所はもちろんのこと、御家人たちの怒りと憎悪をどれ程買うか分からない。朝廷の庇護下に入るといっても、実際に京に赴くまでは、実朝はその憎悪の中で時を過ごさなくてはならないのである。


 案ずるな、というように実朝が頭を振って見せたのが、かすかな衣擦れで分かった。今実朝を弑すれば後を継ぐ者がいない。確かに血筋でいえば公暁がいるが、政子が、あれほど可愛がっている公暁を危うい政争の只中に引き込むとは思えない。公暁の異母弟にあたる禅暁は遠く京の仁和寺に入って既に長く、政子や義時に呼び戻す意思のまるでないことを示している。今しばらくは、害される恐れはないであろうと実朝は踏んでいた。


「以前話したな。鎌倉はまことのところは、もはや実朝を必要とはしておらぬ。だが将軍実朝は必要なのだ。このからくりは分かるね」


「分かりますわ。――でも、その、ならば御養子はお迎えにならない方がよいのではありませんか。皇子がおいでになれば……」


 信子は言葉を続けようとしたが、ちらりと部屋の外を恐れる様子を見せ、口をつぐんだ。腕の下からするりと抜け出すと、実朝の上に覆いかぶさった。左右の肩から豊かな黒髪が滑り下りて天蓋のように二人の体を包んだ。


 ――皇子が鎌倉においでになれば、皇子を次の将軍に立てて殿を隠居させ、亡き者にすることが出来るではありませんか。


「兄上様のように……」


 長い髪にすっぽりと包まれた薄闇の下で、信子が囁いた。


 胸を押し潰している恐怖は、その肌が示している。さっきまでさらりと流れていた汗はいつの間にか引き、小刻みに震える胸元にはじっとりと冷たい汗がにじんでいた。


「それは、わたしも分かっている。だからこそ、上皇様に養子をお願い申し上げたのだよ」


 しばらく黙ったあと、実朝が言った。


 皇子の、将軍としての役割は恐らく実朝の場合とほとんど変わりがない。実体のない権威を着ただけの傀儡であり、神の皮を着ただけの木偶である。しかし、実朝とは決定的に異なる点がある。それは、皇子は皇家の血を持っていることだった。皇家は、天照大神の孫にあたるニニギ神を始祖とするという伝承を持つ。つまり、真に神の血を継いでいることになる。


「実朝という人間は、空ろだ」


 以前、若宮大路を広元と下りながら洩らした言葉を、実朝は今一度、口にした。


 実朝には今になって見えることがあった。実朝は、病弱で武技もなく、兵を率いることも政を執ることもままならぬ将軍であった。将軍の資質とは無縁の、まさに空ろな将軍であった。しかし、であればこそ、ちょうど神懸りの巫女のように、草薙の剣の神性を父から借りることが出来たのではないのか。そして今、実朝は皇家の皇子の父となる。その時、実朝はあたかも鏡のように、今度は皇家の血が持つ神性を借りることが出来るのではないか。


 もちろん、それはまことの神性ではなく、やはり単なる神の残骸に過ぎない。しかし、それはそれで構わないと実朝は考えていた。


 実朝は皇子の神性を映す鏡となる。そして皇子は、実朝という将軍の影をはめ込む台座となる。そうして何が残るか。


「広元が語ってくれた。東の人々の中には、朝廷と朝廷が頂く神への恐れがある。父上はそれゆえ、自らを草薙の剣と化すことで東国を治めた。神器への恐れで人々を縛ったのだよ。皇子は、わたしにとっての草薙の剣だ。皇家の血に対する東国の恐れは今も強いからね」


「皇子の血に対する恐れが、その父、つまり貴方様への恐れにもなるとおっしゃりたいのですね」


「そうだ。鎌倉にいる間ばかりではない、何よりも、鎌倉を出たあとで、わたしを守るものになる」


 実朝が画策しているのは単なる出奔ではなかった。鎌倉御所の三代将軍、源実朝の身が京に移ったというだけでは、恐らく身の安全は保てない。何らかの理由を設けて連れ戻すことも出来るし、事と次第によっては刺客を送ることも考えられた。命を守るためには、実朝は東国の人々の手の届かないものに変容しなければならなかった。


 実朝の出奔のあと、鎌倉には実朝の影が皇子と共に残る。しかしそれはもはや、頼朝の子として生まれ、鎌倉の祭司を務めて来た三代将軍の影ではない。神の子である皇子の父、さらに言えば、かつて東を平らげた神の血を帯びた影であった。影は自ら動くことも、語ることもない。それゆえにかえって、黒々とした血をなすりつけたような恐れは、人々の中に深く強く焼き付けられるはずだった。


「恐れというものは、そこにある時よりも、目の前から消えたあとの方が強いのだよ」


 自分の生き死にに関わる話であるというのに、実朝の口調はひどく冷静であった。


      * * * * *


「殿は、いずれ鎌倉を捨てるとおっしゃいましたね」


 胸元に顔を埋めて、くぐもった声で信子は訊いた。


 ――言ったよ。実朝は答えた。


「ではもしも、鎌倉に変が起きた時は、いかがあそばします。その時はやはり……」


「いや、戻らぬ。和田合戦のごとき乱が起きようが、もはやわたしとは関係のないことだ」


「では、あの、もしも……。もしも、のお話ですよ。朝廷と鎌倉との間にいさかいが起こったならば……」


「その時は、わたしは朝臣の一人として鎌倉と戦うことになる。この手に弓を取って戦場に出ることはあるまいが、帝が鎌倉を滅ぼすと思し召すならば、わたしはそのためには力を惜しまぬ。その結果、皆々の首が河原に並ぶなら、それまでのことだ。

 ――冷酷と思うか」


 信子は言葉では答えなかった。ただ夫の頬を両手で挟み、その冷酷さを共有しようとするかのように、唇を優しく吸った。


 鎌倉、そして鎌倉の人々に対して実朝がこれ程に酷薄な感情を持つとは、誰も思わなかったに違いない。実朝が太政官の先に何を見ているか、広元は看破することが出来なかったが、それは実朝の冷徹さを予見出来なかったためである。しかし実朝に言わせれば、こうした非情さは何も今出て来たものではなかった。幼い頃から、自分の死ぬ時を数えて来た彼である。それは今まで自らに向いていた冷酷さが、ひるがえって外に向いたに過ぎなかった。

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