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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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源氏の血(一)

 その年の十二月、実朝はかねての見込みどおり権大納言の職に任じられ、続いて翌年の建保六年(一二一八)三月には、左近衛大将の叙任を受けた。左近衛大将は大内裏の警備を担う近衛府の長官職にあたるが、この左大将の叙任について、実朝は一つの策を弄した。


 権大納言の就任を告げる使者が下向したのは、建保六年(一二一八)の正月二十一日だった。実朝は使者を丁寧に歓待したものの、取り立てて喜色も表さず、そればかりか使者が京へ戻るとすぐに近習を呼んだ。


「朝廷に使いを出す」


 驚きあきれる近習に、実朝は、大将の職を求めること、大江広元に使者の人選を行わせることを矢つぎ早に命じた。そうして最後に


「父上にあやかりたいのだ」

 と、噛んで含めるように言い渡した。


 頼朝は建久元年(一一九〇)、初めて上洛を果たした際に、叙任を受けて権大納言と右近衛大将を兼任したことがある。頼朝が望んでいたのは征夷大将軍であったこともあり、直後に辞したのだが、実朝はその先例を挙げ、今、権大納言の職を得たからには、父にあやかってぜひ右大将の職を得たいのだと周囲に説いた。


 周りの諫止や説得を退けて、実朝の望みどおり、翌月、朝廷へ使いが立てられた。が、使者が鎌倉を発って二日後、父と同じ官職に就くことをあれ程切望していたはずの実朝は急に態度を変え、家臣の波多野朝定という者を呼んだ。右大将ではなく左大将を求めるようにと命じ、あらためて京へ向けて発たせた。


 波多野朝定は三月十六日、無事朝廷の除目(じもく)をたずさえて戻り、実朝は左近衛大将と左馬寮御監(さめりょうごげん)の叙任を受けた。左馬寮御監は治安警備を司る官職であるが、近衛大将と兼任する慣例があり、いわばついでに任命された職である。権大納言の時とは一転して実朝は非常に喜び、朝定に褒美の太刀を一振り与えた程であった。


 この、左大将叙任が意味するところは大きい。


 将軍に就いてからというもの、実朝はまるで子供が乳でも欲しがるように、官位の昇進を朝廷にねだって来た。がしかし、今回の左大将の叙任は、事の本質においてこれまでとはまるで異なるのである。


 朝廷における出世コースは、納言などの官職から左近衛大将を経て大臣へ昇進するというのが慣例化されているのだった。左大将の官職を得ることは、その先の大臣の座を得ることとほぼ同意なのである。しかも、大臣とはいうまでもなく、朝政を執る太政官の官職である。要は、今回のことで、実朝は大臣の座、そしてその先に朝政への参与を見据えていることを周囲にはっきりと示したのだった。


 朝廷への使いの件も、これで察することが出来る。実朝は二日の間に右から左へ心変わりしたのでも何でもなく、当初から左大将をもくろんでいたのである。しかし、重臣らが鎌倉御所と朝廷が必要以上に距離を縮めることを嫌っている以上、難色を示すことは目に見えていた。そのため、父と同じ官職を得るという大義名分を押し立て、朝廷への使いを承認させたのである。いわば、父をだしに使って周囲を謀ったことになる。


『鎌倉殿は何を考えておいでなのか』


 義時には、疑念や憤りがとりわけ濃かった。


 東国武士を統べる鎌倉の将軍が、朝廷の太政官に入る。それが、武家が朝廷を掌握することを意味すればよいのだが、実朝のこと、そうはなるまい。朝廷の権力からの独立を求めて来たはずの鎌倉御所が、朝廷に取り込まれる事態を招くことは疑いようがなかった。


「先君が築き上げられたものが、皆水の泡になりかねぬ。そうなったら何とお詫び申し上げればよいのだ」


 義時は口の中でそう、低くうめいたが、彼の最も深刻な懸念は実は他のところにある。有力者を排除し、粛清を繰り返してようやく北条一門による東国の掌握が見えて来たのである。しかし実朝が太政官に入ってしまえば、長年担ぎ上げてきた大儀を、北条は失うことになる。しかも、鎌倉の政に朝廷が口を出す格好の口実を与えることにもつながりかねなかった。これでは一体何のために苦労し、血を流して来たのか。


 養子のこともある。一向に世継ぎが出来ないことに業を煮やし、政子は以前から実朝に対し、側室を持つようにとしきりに勧めていた。しかし昨年の秋口、実朝はそれをはっきりと退け、その代わりに京から、それも後鳥羽上皇から養子を迎えたいとの案を出した。既に養子となっている公暁と竹御所(頼家の娘)とは違い、始めから将軍の後継として皇子を養育する意向であった。


「それでですが。この件は母上にお任せしたいのですよ。源通行殿の叔母君は上皇様の信が厚いと聞いておりまするゆえ」


 政子には、年明け早々上洛の予定があった。一つには熊野権現への参拝のため、そしてもう一つは、今年十六になる姪孫の縁組みのためである。嫁ぎ先は今名前の出た源通行であるが、通行の母、藤原範子と、叔母の兼子は、共に後鳥羽上皇の乳母を務めたことがある。特に兼子の方は、それ以来上皇の側近のような立場であり、執政の場で権勢を振るっていることを実朝は知っていた。上洛の折に、兼子を通じて上皇に養子の件を申し入れてもらいたいと実朝は言った。


 京から養子を迎えることはその後評定で了承された。そして政子は上洛し、今に至る。


 義時の手の中で扇が鳴った。手にした者の胸中を映してか、どこかぎすぎすとささくれのある音だった。ただし断っておくと、義時は養子の件で反対するところはなく、むしろ良策と思っていた。


 側室が世継ぎを生めば実家は将軍の外戚として強い発言力を持つ。それでは十五年前の頼家の二の舞になりかねない。東国に後ろ楯のない京出身の世継ぎならばその点で安心であった。しかも養子は皇家の皇子である。これを奉じる執権家の権威も一段と強まることになろう。


 好条件は整っている。しかし、鎌倉将軍が東国に背を向け、太政官を見据えているという事実を考え合わせると、養子のこともすんなりと腹に落ちて来ないのである。


 ――除くか。


 手あぶりの炭火を眺めながら、義時はそんなことを心の中に一人ごちた。かざした手のひらに炭火が映って血を塗りつけたように赤い。不吉な光景であったが、しかしこの時、義時は将軍の命を奪う、などということまでは考えていなかった。この冬、実朝の体調は少々思わしくない。折を見て、健康を理由に隠居を迫り、いずこかの寺に入っていただく。その折には坊門家の影響を遠ざける意味でも、北の方である信子にも落飾してもらう方がよい。あとは何のことはない、渡宋計画で御所が揺れていた時に図面を引いた、実朝のいない鎌倉の構造を実行に移せばよいだけのことではないか――。


 ふと我に返り、義時はたった今まで脳裏に流れていた思考を己であざ笑った。北条一門は確かに権力を掌握し東国をほぼ手中に収めた。しかしだからといって、北条が東の王になったとおごるほど、義時は愚かではなかった。北条が持っている力などたかが知れている。覇者になっては斃れて行った、いにしえのもののふどもと、実は大差がないのである。そうではない、北条家の強さは単純な力よりも、源氏の大将という貴種、生き神を奉じていることであることを、義時はよく知っていた。


 養子の件がいかようになるかはまだ分からぬが、何にせよ、北条家が力を維持するためにも将軍の座を空位にするわけには行かぬであろう。


『大臣は摂関家から出すというのが朝廷の長年の慣例じゃ。左大将をくれてやったからと申して、果たして武官を太政官に昇らせるかは怪しいものだ』


 とりあえずそうつぶやいて、義時は自身を納得させるより他なかった。和田合戦を収め、彼の周りに平穏無事な時が流れて三年になる。その落ち着いた日常に心身が慣れた今は、あまり物騒なことは考えたくないという気持ちもあった。


 しかし一方で、実朝に対する何とも言いようのない苛立ちは、腹の底をじりじりと焼きながら残った。その感情が、彼が長年押し出して来た執政者としての理性ではなく、利を貪るために親子で殺し合って来た坂東武者の荒ぶる血から出ていることを、義時は気づいていたかどうか――。


      * * * * *


 実朝の胸中を読めずにいたのは、大江広元も同様であった。実朝が大臣の官職を求めていることは分かる。鎌倉を離れて上洛し、朝政への参与をもくろんでいることも分かる。だが、何かまだ見えぬものがある。その、影になっているものが実朝のもくろみであるのか、それとも感情であるのか、それも判然としない。こなれ切れないものを延々と腹に抱えているような居心地の悪さを、広元は感じ続けていた。


『目が開いていようがいまいが、見えぬものは見えぬわい』


 文机に寄りかかったまま憮然としてつぶやいた。墨染めをまとった僧形である。昨年の暮れ近く、広元は眼病と腫物の悪化によりにわかに床に伏し、一時は危篤の事態に陥った。その際、御仏の慈悲にすがるべく、病床で髪を落とし入道したのである。幸い仏の加護があったのか、その後は何とか持ちこたえ、現在はこうして床を払うまでに回復した。眼病の後遺症で目はまだほとんど見えないが、客が来れば迎えて話を聞き、求められれば政の助言なども与えるなど、以前とほとんど変わらぬくらいである。それまで務めていた陸奥守の職を義時に譲って第一線からは退いたものの、未だに鎌倉の長老であった。


 乾いた唇から思わず、湿った吐息が洩れ出た。養子の一件も、義時とは全く違う意味で、広元には気にかかった。世継ぎとするべく養子を迎えたいと始めに言い出したのは、政子でも義時でもなく、実朝だったと広元は聞いていた。


 しかし世継ぎが出来ることは、実朝の存在の絶対性をおびやかすことになる。鎌倉の水も知らない世継ぎであるから、間違いなく傀儡の将軍であり実朝が後見をすることになるであろうが、それは実朝の立場を別段有利にするものではなかった。


 唐船が座礁したあと、若宮大路を広元と共に下りながら、実朝は、いずれは源頼朝の血を引く者が頭として望まれぬものになることを看破した。将軍は偽りの神性をまとって形骸となる。それが鎌倉、そしてこの国の統治を磐石にするのだと言った。


 しかし、鎌倉の精神的柱である生き神は、今は実朝しかいない。広元が頼朝と作り、北条家が押し進めて来た統治の形態は、確かに既に源氏の貴種を必要としなくなりつつある。しかしそうであるとしても、代わりがいないというささやかな事実は、当分の間将軍の身を守ることになる。それは実朝が誰よりも理解しているはずだった。政子のすすめに従って側室を迎えた方が、将軍源実朝の延命につながる。そうであるのに、わざわざ世継ぎを迎えて、自分が無用のものとして切り捨てられる時を早めようとする、その意図がはかりかねた。


 若宮大路で実朝に明かしたこと、つまり、朝廷に対してはあくまでも出先機関として鎌倉御所を営み、東国に対しては朝廷と朝廷が頂く神を後ろ楯として統治をはかるという、頼朝と広元の描いた青写真を、広元は実は実朝以外には誰にも語っていなかった。北条始め、鎌倉の御家人どもにはあまり気分のよい舞台裏ではなかったし、その感情的な反発が、せっかく築いた統治の構造を揺さぶることを恐れたのである。


 そのようなわけで、今も広元は、実朝の行動について不安に感じつつも、その不安を誰に明かすわけにも行かなかった。

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