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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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公暁と実朝(三)

「幼い頃はよくこうして姉上から折檻を受けたものだ」


 政子が立ち去ると、義時は尻を撫でながら皆に向かってこぼした。


「この歳になってやられるとは思わなんだわ」


「これは。今後安養院様と話す時は尻を手で守らねばなりませぬな」


 誰かが大仰に感心して見せ、笑いが流れた。

 風呂など使っているうちに夕暮れが近づいた。皆は旅亭を出、波打ち際に設けられた観月のための泉殿に入った。ここで宴を開きながら、思い思いに歌など詠んで遊ぶのである。


 残光が空の奥に吸い込まれて消えると、海から黒いしじまが浜めがけて寄せて来る。この近くには漁民の小屋なども散らばっているのだが、義村が今夜は船を出すことを禁じたために、浜は潮が砂を洗い、岩肌を舐める寂しげな波音の他には、生活を感じさせる音は何一つ、泉殿には届いて来なかった。


 ただ、月の色だけが、音を圧して海に満ちている。今宵の月は空恐ろしいばかりに冴え渡り、暗碧(あんぺき)の中天を切り裂いて現れた隻眼のようであった。海原は一面、銀砂子が乱舞し、月のかけらを水平線の彼方へと運び去った。


「これは、素晴らしい観月になりましたな」


 義時が感じ入って声を上げ、皆が同調した。

 仄明かりの漂う中、酒肴の膳が運ばれた。酒の香りと、炙り魚の香ばしい香り、やがてそこに落ち着いた墨の香りが入り混じり、時を運んだ。


 二、三首歌を披露したあと、実朝は筆を置き、波音にじっと耳を傾けた。潮の行き来する穏やかな音の合間を衝いて、時折、闇を押し分けるような海鳴りが耳に響いて来る。目を閉じるとあたかも生ける物全てが死に絶えたあとの世にこの身が遊んでいるようで、その殺伐とした空想の心地良さに、実朝はわずかな驚きを覚えた。


『わたしの人生に、もはや人は要らぬのだ』


 ふと、そんなことを思った。幼い頃から縁を結び、共に生きて来た鎌倉の人々との結びつきからもしも引き離されたとしたら、あたかも土から引き抜かれた草のように、生きて行くことは出来ぬであろうと、実朝は今まで、漠然とそのように思って来た。だが、恐らくそれは正しくはない。そもそも、少なくとも将軍の座に就いた時からこんにちまで、人と人との健全な縁など、実朝の周りにはほとんど皆無だったのだから。


 なにゆえ、このようなことに思い当たったのかは、実朝にも分からなかった。ただ、急に心の表に浮かび上がって来たその思考は、ひどく愉快に感じられた。


「殿、お疲れでございますか」


 先程から、歌も詠まずにおもての景色を眺めたきりの実朝に気づいて、信子がかたわらからそっと声をかけた。実朝は顔を上げ、大事ない、と小さく笑って見せた。


「信子、孤独というのはよいものだ。わたしは、周りの者全てを捨てたく思うよ。人を捨て、景物とだけ戯れて生きるならば、この世は愉しい。そんなことを考えていた」


 実朝の言葉は幸い、信子の他には誰の耳も届かなかった。


      * * * * *


 城ヶ島から戻ると、公暁が機嫌伺いに訪ねて来た。良い観月であった、と実朝は感想を述べ、奇岩に彩られた荒海の光景を語って聞かせた。


「あのように寂しげな浦里へ迷い込んで見る月は、鎌倉の空にかかる月と同じとは思われぬな。恐ろしげな海鳴りも耳に快かった。夜が明けるのが惜しいと思うたよ」


「それはようございました。確かに、島へお出かけになる前と今とでは、お顔の色が夜と昼ほど違うております」


 さすがにそこまでは変わるまいと実朝は笑って反論したが、しかし確かに、島から戻ってからは、心の澱が洗い流され、澄んだ血が体に流れ込んだような爽快さが体にはあった。城ヶ島の荒々しい景観と、そして観月の席でふと心に去来した思考、両方の効能であろうと、実朝は密かに思った。


「そなたも参ればよかったものを」


 少し前、実朝は公暁から、近江朝の遺構を求めて粟津を訪れた、少年時代の思い出話を聞いていた。あの時この若者は、枯れ野に成り果てた粟津のさまを熱っぽく語り、草の波の中にいにしえの死者の声を聞いたのだと言った。そんな公暁である。波と風に覆われた島の景観は、気に入るのではないかと思われた。


「参りたいとは思うたのでございますが、ですがそれよりも、日々の喧騒から少し自由になりたかったもので」


 公暁は笑った。彼の場合、日々の喧騒とはすなわち政子のことである。童から青年に成長する過程を見なかったせいなのか、政子にとっては公暁は今も、手を引かなければ足元の危うい童子であるらしかった。


「手ずからお育てしたのですから分からないではないですけれど、あれでは小鳥か猫ですね」


 信子があきれて囁いたことがある。信子の指摘どおり、鴨居をくぐる程の体躯になった公暁に菓子などを取ってやっている政子のさまは、子猫を腕の中に抱いて片時も放さない、童女を思わせた。


「母上はそなたが可愛くて仕方がないのだ。近江にいた間のご様子を見ているからよく分かる。うるさいであろうが、多少は大目に見てやってくれ」


「安養院様のお心は承知しております。父があのようなことになったのちも、あの方は何変わることなくわたくしを可愛がって下さいました。ありがたいと思うております。思わねば罰があたりましょう」


 実朝は胸苦しさを覚えた。三月前、若宮大路を歩きながら、頼家の殺害を決定した意思は政子であったと広元が言った、その告白が咄嗟に思い出されたのだった。


「公暁、そなたも鎌倉に戻って思うことは多々あるであろうな」


 思わず洩らされた言葉の意味を、公暁は理解しかねた。実朝に真意を確かめ、父親の事件のことだと察すると


「さようなことを申し上げたのではございません。わたくしとて全く何も思わぬと申せば嘘でございます。しかしそのように言葉の裏を読まれるのは愉快ではございませぬな」


 不愉快そうな表情をおもてに上すと、語気鋭く吐き捨てた。実朝は失言をわびた。公暁は黙ってこうべを垂れた。


 かたわらの近習は二人の様子をはらはらしながら見守っていた。何といってもこの若い別当は、近江で悪僧さながらに刃傷沙汰まで起こした男なのである。よもや腹立ちまぎれに鎌倉殿に狼藉などはするまいなと、そっと背筋を伸ばして身構えた。


 しかし公暁は、狼藉どころか座を立つ風も見せず、膝の上に視線を落としてしまった。眉間に刻まれたしわはそのままだが、先ほどあらわにした憤りは消え、頬には気まずさと困惑が入り混じったような、混沌とした表情が滲んでいる。若者特有の、自らの感情を発露させることに無防備な顔つきである。自身の少年時代を振り返っても、実朝には縁のなかったものであった。公暁の表情に、実朝は思わず、甘酸っぱいような感慨を覚えた。


「鎌倉殿」


 さんざん黙り込んだあとで、公暁は顔を上げた。実朝は頷いて見せた。何事か言いたいことがあるのだろうと思って、今まで辛抱強く待っていたのである。


「貴方様はわたくしの養父であり、その前に血のつながった叔父君にございまするゆえ、貴方様には包み隠さず申し上げてもよろしゅうございましょう――。

 園城寺にいた頃も、父の死について何くれと申す者がございました。ですが、実を申せば父の死は、わたくしにとってそれほど重みを持ってはおらぬのですよ」


 終わりの方にはため息がまじった。


「心がついて来ぬのです」


 公暁は拳を上げ胸板を軽く打って見せた。


「父の死でわたくしの人生は大きく変わりました。それについて思いをめぐらせることはございます。ですが、父があのように殺されたことには、何も心が動きませぬ。

 近江の皇子の死は我が身が切れる程に痛ましく感じるというのに、父上の死に様は。――わたくしにとっては、野を駆けていた獣が矢に射られたのと同じです。

 人としてどうかと思いますが、どうしようもありませぬ。わたくしの心は何か大きなものが欠落しておるのでございましょう」


 公暁は自嘲気味に首を振ると、実朝に挑むような視線を向けた。親の死を何とも思わぬなど、当時としても許されぬ破倫であった。当然のことながら、実朝から叱責が飛ぶと思ったのである。


 しかし実朝はしばらく考えたあと、それは、情の問題ではなく、父子の距離の問題ではないかと感想を述べた。武家はどこも同じだが、特に将軍家における父と息子の関係は、始めから強い機能性と政治性を帯びざるを得ない。公暁が成長するまで頼家が生きておれば、そこにもっと違った関係も生まれたのであろうが、その前に公暁は父と死に別れた。しかも頼家は病などではなく、政の一つの作用として命を落としたのだから、血の通った哀悼の情を持ちづらいのは致し方ないようにも思われた。


 実朝の冷静な分析を、公暁は驚いた表情で聞いた。そして実朝の冷静さにうながされて、胸に鬱屈したものを吐露する気になったらしかった。

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