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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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公暁と実朝(一)

「京からは何か申して来ましたか」


 背後に声がして、実朝は文机から顔を上げた。隠し立てしても無駄ですよ、と言いながら政子が視界の隅をさっとかすめ、目の前に座った。頬が胡粉のように白く、目尻がぴんと張っている。何事かに憤っている時の顔だった。


「何も隠し立てなどしてはおりませぬが」


 実朝は写経をしていた筆を筆架に休ませながら落ち着き払って答えた。

 政子が言っているのは、権大納言の一件に違いなかった。実朝は現在、権中納言と左近衛中将の官職を兼任しているが、昨年、源仲章(なかあきら)が上洛した際、坊門忠信(信子の兄)から、実朝を権大納言に推挙する話が出ているとの噂を聞いた。先日、実朝はその話がどこまで進んでいるのか確かめるために、というよりも、ありていにいえば推挙を催促するため、使いを朝廷に送っていたのである。


「私は以前にもはっきり諌めたはずですよ」


 むやみに昇進を求めることの心得違いを、政子はあらためて説いた。そもそも官位とは、朝廷に対して功があった際、褒章として与えられるというのが基本である。頼朝が正二位、権大納言、右近衛大将という地位を得たのは、何といっても平家を都から追い、朝廷を皇家と公家の手に取り戻したことによる。


 しかし頼朝と比べると、実朝は朝廷に対し何の功もあげていない。にもかかわらず、既に官位は正二位である。それだけではなく、朝廷はさらに頼朝と同格の官職を与えようとしているという。


「京には何らかの意図があるとは思われませぬか」


「考え過ぎですよ」


 権大納言や権中納言といった権官は、いわば予備役であるため、定員外の扱いになる。極端にいえば幾らでもばら撒くことが出来る官職であり、大仰に考える程のことではないと言って実朝は政子をなだめたが、政子はだまされなかった。予備役とはいえ、大納言の権官など、おいそれと叙任されるものではないのである。


「では、受けるつもりですか」


 口調が冷ややかになった。

 千幡。政子は幼名で実朝を呼んだ。その響きは体から力を奪う呪文のように実朝には聞こえる。政子は手を伸ばして実朝の袖をつかんだ。


「もしや、誰か入れ知恵した者がおるのではないのかえ」


 指先が、布がきしむばかりに衣を握りしめた。


「そうであろう。甘言を弄して昇進をすすめる者がおるのじゃな。言いやれ、誰の入れ知恵じゃ」


「母上」


 実朝は政子の言葉をさえぎった。


「母上にとってわたしは、誰かの言いなりでしか動かぬ、そのような人間なのですか」


 政子は息を呑んで言葉を詰まらせた。引きつれたように上がった目尻が実朝を見た。そなたを案じているのだと、その目は訴えていた。子を思う母の心だと。しかし同時に、視線の奥には、実朝の背信に対する憎悪が、ささにごりのように浮き上がっている。


 実朝は視線をそらし、文机に向き直った。


「お下がり下さい」


 政子はしばらく、かたくなにその場に押し黙っていたが、やがて小袖の色彩をひるがえして立ち上がった。


「――昇進のことばかりに気を取られてお忘れでございましょうが、数日のうちに公暁(くぎょう)が戻りますよ。私にはどのような仕打ちをしてもよいけれど、あの子には温かな態度をお願い致します」


      * * * * *


 頼家の遺児であり、修行のため近江の園城寺に行っていた公暁の帰国が決まったのは、由比ヶ浜での船の一件があってからまだ間もない五月半ばのことだった。鶴岡八幡宮の別当であった定暁(ていぎょう)が、長年の持病だった背中の腫瘍のためににわかに没し、公暁が新たな別当に任じられたのである。


 この決定を強く後押ししたのは、政子であった。実は、公暁を別当に任じることには、評定では慎重な声が多かった。寺に入ったものの、勉学にまるで不熱心であるとの話は鎌倉にしっかり聞こえているし、そればかりか昨年、怪しげな衆徒の少年らと延暦寺の宿坊を襲い、人を殺めたとの噂まで伝わっている。年令もまだ十八と若過ぎ、皆はまだ園城寺に置いて修行をさせた方がよいと考えたが、政子は繰り返し、公暁を推した。


 政子は、いずれは公暁を八幡宮の別当として呼び戻すつもりだった。しかし今、他の者がその座に就いてしまえば、次の機会はいつになるか分からない。政子も六十になる。年令から来るあせりがあった。それに、今後公暁が心を入れ替えて修行に励み出したとしたら、それはそれで困るのである。いずこかの山寺に籠もりたいとか、またはこの間の実朝のように、宋で修行をすると言い出されては、鎌倉に呼ぶという念願は遠のいてしまう。今が、愛孫を手元に呼び戻す絶好の機会と政子は見込んだのだった。


 実朝と政子の間に冷ややかなやり取りがあってから十日程のち、公暁は後見人である備中阿闍梨と共に近江から帰国し、御所に挨拶に訪れた。


「ただ今、戻りました」


 広間に入って来た公暁は実朝の前に手をついたが、乳母夫の三浦義村始め、居並んだ者たちの間には、思わず驚きと当惑を含んだざわめきが洩れた。


「ああ、公暁。たくましゅうなられたこと」


 政子が目を細め、真っ先に愛孫に声をかけたが、政子の声にすら、わずかに困惑の色が見えた。

 公暁が近江へ向けて鎌倉を発ったのは、十二の年だった。それから六年もの年月が経っているのだから姿形が変わっているのは当然なのだが、それにしても目の前の若者の変貌は大き過ぎた。丈は鴨居をくぐる程に高く、しかも墨染めの衣の上から、その体に肉がたくましく盛り上がり、しなやかに張りつめているのが見て取れる。皆の記憶にある少年の姿が、面立ちにも体つきにも、微塵も残っていないのである。


「よく戻って来てくれた。今後は鶴岡八幡宮の別当として、わたしを助けて欲しい」


 政子に続き実朝が声をかけた。


「辻殿(公暁の母)だが、病が癒えて間もないゆえ、今日は参っておらぬ。折を見て寺を訪うてやるがよい」


「お心遣い、かたじけなく存じます」


 帰国の挨拶は滞りなく済んだが、公暁は、人々の戸惑った視線を浴びるのに、居心地の悪さを覚えたようだった。型にはまった雑談をわずかに交わすと、彼はそそくさと部屋を下がって行った。


 変貌に少なからず当惑した部分もあったが、それでも政子にとって公暁が可愛い孫であることには変わりがなかった。その後、御所で和歌会などの催しがあると、政子はほとんど毎回のように、公暁を伴った。ただ、当の公暁は、作歌は出来ぬからと歌一つ詠むわけではなく、政子の後ろに黙然と控えているだけである。うたた寝をして時を過ごしていることすらあった。


「あれでは面白味もありますまいに」


 義時が首をかしげた。共に菓子や酒を饗し言葉を交わして時を過ごすならともかく、置物のようになってかたわらで寝ているだけの公暁を毎回和歌会に伴って来て何が面白いのか、それが義時には何とも解せなかった。


「母上の情深さであろうな」


 実朝はそう解釈した。政子という人は、ひたすら人に愛情を注ぐことで幸福を感じる類の女性であるようだった。しかし無償の愛といえば美しいが、情を一方的に注ぐだけで、相手から何も受け取ろうとしない利己的な愛といえなくもない。事実、愛情の対象である公暁が、小さな童から紙の文になり、そして見上げるようなたくましい若者へと変じても、政子の方には何の変化も見られないというのがそれを暗に示している。自己完結型の愛というのは、実朝には少し健全でないようにも思われるのだった。


「成程、そうしたおなごは確かにおりまするな」


「おや、それは伊賀殿のことかな」


「ああ、いやいや、あれはもうこちらから情を吸い上げるばかりで」


 義時はさりげなく妻を悪し様に言い、そのあとしてやったりと愉快そうに笑った。その様子から察するに妻の伊賀の方には日頃から相当に手を焼いているらしかった。


「ともかく、母上としてはあれはあれで満足なのであろう。わたしは子がないゆえ偉そうには申せぬが、母というものは多かれ少なかれ、ああしたところを持っているものかもしれぬな」


「ふむ。まあまあ、悪いことではございませぬな。別当殿をうとんじられるよりはよほど好ましゅうございまする」


 義時はそこで話を打ち切り、実朝の前から下がった。部屋を出ると、廊下を渡って来る源仲章の姿が見えた。二人は穏やかに目礼してすれ違った。が、仲章が行き過ぎると同時に、義時の目元には薄皮を引いたように険しい表情が浮かび上がった。


 昨年、実朝は仲章の進言で政所の人事に手を入れ、別当職を増員した。その際、大江広元を別当の筆頭に任じ、仲章を次席と定めたことも既に述べた。

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