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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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草薙の剣(四)

      * * * * *


 陽の道が途切れ、行く手に唐突に人の流れが現れた。若宮大路は鎌倉の町を南北に貫いている。いわば道によって町が分断された格好であり、人々の生活にとっては不便この上ない。そこで、大路には横道との交差地点が都合三ヵ所設けられている。下馬と呼ばれるその場所だけは、誰が大路を横切っても構わなかった。


 荷車を押して行く者がある。鍬、すきを肩に持たせて急ぎ足で通り過ぎて行く者がある。草を食べさせるためか、牧童が子牛を引いて行く。通り過ぎて行く者ばかりではない、おちこちに思うまま筵が引かれ、その上に腰を据えている者がある。雑貨や食べ物、さまざまなものを商う行商人たちである。


 供回りが前に出、押し出された泥のように路に放埓に広がった者たちを大声で追い立てた。人々は驚き、憤慨のまじった目をさっとこちらに向けたが、しきりと声を荒げるもののふの後ろに控えた、何やら高貴ないでたちの青年に気づくと、青ざめ口をつぐんでそそくさと路を開けた。将軍源実朝と分かったのではない。やんごとなき者に近づくとろくな目に遭わぬことを、民草は長い年月のうちに学んでいる。好奇と恐怖のまなざしの中、実朝は人ごみを通り抜けた。生臭い生命のにおいが押し寄せて体を取り巻き、そして背後に遠ざかった。大路は再び、神さびた孤独の空間に立ち戻った。


 遠く由比ヶ浜で風がみなもを騒がせるのを実朝は聞いた。樹木はおろか、ほとんど下草すらない若宮大路では、風はただ無言で駆け上って来る。待つうちに、目の前の砂が軽やかに蹴散らされたと思うと、透明な波が体を押し包んだ。風は潮の匂いを含んでいた。人間が作り出すのとは異なる、冷たい無機的な生命の匂いである。実朝の肌を一瞬緩やかに愛撫し、海風は八幡宮の方へと駆け去った。


 一陣の風が乱したあとも、若宮大路は青く澄んだ陽光をたたえ、静まり返っている。


「――広元。わたしには今ひとつ、分からぬことがある」


 静まり返った中、ふと実朝の声が響いた。


「東を治めるために源氏の血が、そして草薙の剣という神の後ろ楯が必要であったという、そなたの話は理解した。だがわたしには、鎌倉に源氏の血がいつまでも必要であるとは、どうしても思われぬ」


 広元の目の前で、一瞬時が止まった。実朝の背が陽光を負いながらゆっくりと歩いて行く。あとを従者が付き従い、数歩行き過ぎたところで、急に歩みを止めた広元の方をいぶかしげに振り返った。実朝は歩みを止めない。実朝の衣は秘色(ひそく)である。かつて唐の都では天子への献上品だった禁色である。空の色と驚くほど酷似していた。


「実朝という人間は、空ろだ」


 空をまとった背が言った。

 神の息子として生まれた実朝がなにゆえ神の性質を失い人の世に堕ちたのか、もはやあらためて問う必要はなかった。政の空隙を埋めるため、頼家や実朝も含めた御所の主だった者たちが頼朝の皮を被り、死んだ神を演じたのだと広元は明かした。それで充分であった。


「将軍を演じることは出来る。だが神が神を演じることは出来ぬのだよ。神懸かりの巫女を見よ、神を演じるのは人の役目だ。そして神を演じた時、神は神ではなくなるのだ」


 鎌倉の三代将軍、源実朝が何者であるのか、実朝は今、明確に理解していた。実朝は神ではなかった。神を祀る役を担いながらも、祭司ではなかった。死んだ神の残像をはめ込む、木の台座に過ぎなかった。そして身に宿っていると思っていたわずかな神性とは、神を模した木の面に過ぎなかった。


 実朝が静かに言葉を接ぐにつれ、若宮大路に満ちる陽光はぎらぎらとまぶしさを増し、広元は見開いた両目をえぐられるように感じた。それは路が尽き由比ヶ浜が向こうに徐々に開けていたためであったが、広元の精神はそれを認識するのに手間取った。


「広元、そなたが何を考えたか分からぬではない」


 実朝の声に、かすかな潮の匂いがまじった。


「嫡子が棟梁を継いで行く形は、どこかで後継者争いが起こることは避けられぬ。しかも、源氏の棟梁が武家の頭以上のものになってしまったからには、後継者争いはそのまま、東国の転覆につながる。奇しくも兄上自らがその証となってしまわれたわけだが……」


 路は切れ、目の前に海が現れた。遠くに海鳴りがしたと思うと、潮と、海藻、うねる波と空、そして死んだ生き物のにおいを内包した透明な風が、どっと押し寄せた。


 広元――。風と共に実朝の視線がひるがえり、老臣をじっと見つめた。


「わたしが大江広元ならば、こう考える。いつまでも源氏の血に頼り続けるべきではないと。東の、ひいては日の本の統治を磐石にするならば、政、権力争い、そうした生臭いものは替えの利く御家人がやればよい。神はただ、人々の上に無言で君臨し、仰ぎ見られておればよい。

 目に見えぬ大神が鎌倉を平らげるというそなたが描いた統治の形は、それで揺るがぬものに近づく。つまり「神」は(じつ)を失い、全くの形骸、傀儡となり果てた方がよいのだ。そうであるならば、源頼朝、真に神であった者の血を継ぐ者が将軍の座に座り続けるのを、東は望むまい。

 ――広元、東は、源氏の血をいつまで必要とする」


 振り返った実朝の肩越しに、遠く黒い影がうずくまっていた。打ち捨てられた唐船の影である。あの巨船と、砂に立つ若い将軍とは、人々に畏怖されながら、その実は木偶に過ぎぬという点で似ていた。だが今、木偶に過ぎない将軍の目には人ならぬ光がある。全てを見通した神の目であった。


 焼けた砂が足の下に熱かった。が、広元はその熱さは感じず、背ににじんだ汗の冷たさだけを感じた。鎌倉殿、ようやく広元は声を絞った。


「広元が叛意を抱いていると、貴方様はさようにおおせられまするか」


「そなたが刃を向けるとは思うておらぬよ」


 広元の抱いた恐怖を察して、実朝はいたわるように言ったが、内心には複雑なものがあった。この二、三日の間、実朝は鎌倉の政と将軍の在り方について考え続け、そして一つの不幸な結論に達していた。


 重臣の意に沿う限り、将軍の命は保証されるはずだった。だがそうした日々はもはや過ぎた。鎌倉の仕組みの中で、源氏の嫡男という機能が必要なくなった時、実朝の存在意義もなくなる。彼をを守護するものはなくなるのではないのか――。


 広元がおもてに表した狼狽は、実朝が出した無情な結論が正しいことを何より示していた。


 広元は首垂れた。全ては頼朝が成し遂げた東の平定を守りたい一心でやったことだった。何悪びれることも恐れることもなかった。だが、胸の内を人に看破されるということは、それだけで怖いことであった。広元は痛みをもってその恐怖を噛みしめた。


「――鎌倉を転覆させるだけの力を持った御家人が残っておるうちは、御所は安泰とは申せませぬ。それゆえ、草薙の剣の力を借りねばなりませぬ。三年前討たれた和田義盛は、その、最後の一人にございました」


 やがて目を上げると、広元は一息に言った。ためらいもない口調は、はらわたをつかみ出して目の前に置くのにも似た、赤裸々さがあった。


「さようであったか」


 実朝の声に驚きはなかった。


「左衛門尉がわたしの命綱であったとは。あの男らしいことだ」


 和田義盛の役割とは、彼が自ら選び取ったものではない。もしも若き日の父が逆に和田の姫を見初めていたならば、和田一族の役回りを北条一門が請け負っていたはずである。


 しかし、御所を無言で脅かすことで、いわば実朝の命をつなぐ役割を演じていたとは、あの愚直で武骨な老臣にいかにもふさわしかった。


 どこか呆然とした(てい)で立ち尽くしている広元の背後に、若宮大路の参道が社殿めがけて伸びている。かつて、冬空の下、義盛や朝盛と共に参道を下って海に出た日のことを実朝は思い起こさずにはいられなかった。空も路も人も変わらず、ただあの日かたわらにいた者が、枝から零れ落ちたように消えている、そのやるせなさを思った。


      * * * * *


 海風に当たり過ぎたのが毒になったのか、実朝はその夜発熱し、寝込んだ。起きているのでもなく、夢を見ているのでもない曖昧模糊とした意識の中を際限もなく行ったり来たりして長い時を過ごしたのち、ようやく、泥から浮かび上がるように、実朝は目覚めた。


 灯明に照らされた天井の板が見えた。木目の模様で、自室に寝ていることはすぐ分かった。波打ち際の砂紋に似た木目に、火影が波を作って流れた。実朝の意識は由比ヶ浜に捨てられた唐船を思った。だがそれは、船板が張られ船首を大きくもたげた姿ではない。白々とした虚ろな骨を陽の下に晒した、獣の屍のような姿である。板戸の隙からかすかに風が洩れた。頬の産毛をゆるく風が舐めたのが感じられた。この風は浜にも吹いているだろう。ふと、むき出しの骨を潮風で切られる船の傷みを思った。


 人がいなくなってから間があるのか、部屋には既に水のような静寂が満ちて、この空間に人がいたという記憶をかき消してしまっていた。横たわる実朝は静寂の一部だった。夜半の静けさを好み、しばしばひとり濡れ縁に出て夜を明かす癖のある彼には、夜気の匂いでおおよその刻限が分かる。夜はやや明け方に傾きつつあるようだった。


 その時戸板が滑り、衣擦れがして信子がのぞき込んだ。明かりが足りないために、白い肌はところどころ薄青い影が隈取っている。信子は額を冷やしていた布を取り上げ、たらいで絞った。指で熱を確かめようとして、初めて実朝が目覚めたことに気がついた。


「お目覚めになられましたか。お加減はいかがですか」


「わたしはどのくらい眠っていた」


「三日目の夜が明けるところですわ」


 信子は薬師を呼ぼうとしたが、実朝はその袖を捕らえた。


「ですが……」


「もう大事ない。静けさを少し味わっていたいのだ」


 信子をとどめておいて、実朝は袖を離した。空になった手が不自然に宙を漂っている。何かを察して、信子はそっとその手を取った。手のひらは熱で乾いていた。


 薄暗い空間で、信子の指が仄白く光った。骨の白さであった。実朝の脳裏に再び、唐船の骨がよぎった。


「信子、陳和卿は。あの者はいかがしておる」


「あの、それが、鎌倉をお出になられたとか」


 とある寺に招かれて奥州へ下ったと、信子は義時からの報告を伝えた。つい昨日のことだという。何も殿が臥せっている時に去らなくてもと、信子は不人情を嘆いたが、


 ――相模の奴め。陳和卿を始末しおったな。


 血生臭い凶行はいつも、実朝が病で意識をなくしている隙を狙って行われる。兄の時と同じだった。


 義時の勝手な振る舞いは不快であったし、陳和卿は哀れであったが、しかし実朝の中には、血潮の通った感情というものは湧いて来なかった。


 ――哀れだが、致し方あるまい。

 そんな、ひどく落ち着き払った、酷薄な冷静さがあった。


 あの、宋から流れて来た者は大きな役割を果たした。船のことではない。鎌倉と御所を揺るがす巨大な嵐を引き込んだことである。その結果、実朝は広元からあまりに重要な事実を得、幼い頃から求めていた、自らの人生のからくりに対する、その答えを得た。


 全ては陳和卿の果たした仕事といってよい。しかし彼の仕事は済んだ。森羅万象は全て、与えられた役目を果たしたならば朽ちて消えて行くのがこの世の摂理である。人もしかり、陳和卿もまた、しかりであろう。


 半年の間親しく語らった老仏師の姿は既に実朝の中で温みを失っていた。前世の仏弟子の死に哀憐の情は覚えたが、そこに体温は上って来なかった。信子の手を引き寄せ、実朝は肌に唇でふれた。熟れた果実でも食べるように、実朝は信子のさらりと涼しい肌を吸った。まだ少し熱が高いのか、肌のひんやりとした冷たさが心地良かった。


「信子、わたしは新たな命を得たような心持ちがする」


 ふと唇を離して実朝が言った。信子は一瞬黙ったが、問い返すことをせずに頷いて見せた。仰臥している実朝の目に、怖くなるような色を察したのである。

(第五話・了)

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