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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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草薙の剣(二)

 頼朝を生きた神剣と定めたことにより、朝廷の元には三種の神器がそろうことになった。しかし、これは神器を補完するためだけが目的ではなかった。それ以上に大きな意味があったのである。


 頼朝に期待されたものは、何より朝廷への忠心であった。古くからまつろわぬ地であったところの東を、帝の守り刀として平らげ治めることであった。頼朝が鎌倉に独立した政治機関を置くことを朝廷があっさりと容認したのも、要は、鎌倉の御所とは、東国武士団の牙を抜き、東の地から王権を守護する出城と朝廷が見なしたからに他ならない。


「ただし、お分かりかと存じまするが、これはあくまでも朝廷の一方的な思惑にございます。事実、東国のもののふども、そして佐殿御自身の思惑とも一致するものではございませんでした」


「しかし結局、父上は容れられたのであろう」


「はい。わたくしが進言致しました」


 一瞬、二人の間に沈黙が立ち昇り、背後に柘榴の若葉がやわらかな擦れ音を立てた。


 東国の武士団が頼朝に求めたのは、朝廷から独立した東国の確立であった。もちろん、かつて平将門が画策したような独立国というのは無理があるとしても、朝廷と対等に交渉することが出来、場合によっては対抗することを可能にする、そうした確固たる力の確立、それが、頼朝を頂いた東の民が望んだことであった。


 しかし、先に述べたような朝廷の思惑をもし受け入れるならば、鎌倉の御所はあくまでも朝廷の出先機関に過ぎないことになる。独立した力どころか、朝廷の隷属物になりかねない。それは東国の武士団にとって受け入れられるものではないはずだった。それでも、広元は朝廷の思惑に沿うようにと、頼朝に進言した。


「朝廷に追従する必要はございません。しかし、あからさまに否定してもいけません。佐殿は帝の守護神剣であるという意識を東の御家来衆と分かち合うのがよろしゅうございましょう。ただし、暗黙のうちにでございます」


「広元、それはちと、危うくはあるまいか」


 広元が進言した時、頼朝はそう言って視線を向けた。いぶかしげな、というよりも不安げなまなざしである。


 頼朝は武門の棟梁として東を束ねているが、子飼いの家臣団を抱えているわけではない。豪族たちの一揆の上に担がれている状態であるから、御家人たちが不満を抱き離反すれば、たちまち裸同然になってしまう。自分自身の立場の弱さについては、頼朝は誰より敏感であった。


 しかし広元の考えは頼朝とは違っていた。確かに頼朝は鎌倉に強い勢力を持ってはいないが、朝廷の守護者となることは、その弱みを充分に補うものであると広元は踏んだ。それは帝と、それ以上に日の本をあまねく治める大神、アマテラスの後ろ楯を得ることである。いわば、武勇に優れた棟梁に過ぎない頼朝を、神性を帯びた絶対的な東の王へと押し上げることであった。


「――成程」


 と、合点したように頷いたのは、頼朝ではなく、実朝の方だった。実朝は、血で血を洗う戦いが止むことなく繰り返された、東国の歴史を覚えていた。武力で他を圧し、勝ち残った者が頭となったとて、それも束の間、わずかでも力に翳りが見えれば、その者はたちまち血の中に沈み、再び争いが始まる。たとえ誰が棟梁になろうとも、しょせんそれは他者よりも相対的に勝っているに過ぎない。東という土地は、武力で治めきることは出来ない土地なのだと、以前そう語ったのは、義時であった。


「西国はいざ知らず、我ら東国武士の中には、血を求めて止まぬ獣の魂が巣食っております。それゆえに、争いを収めるためにも、我らは源氏の御曹司、貴種を頂く必要があったのですよ」


 その時、義時はそうも語った。義時の話はそのとおりであろう。だが、ただ貴種を頂いただけでは、その統治はいずれ崩れる。実際、長い歴史の中で、貴人が都から下り治めた例はあったが、東に平らかな日々が訪れることはなかった。それは無理もない。貴種といえども、二代、三代と下るうちに血は薄くなってしまう。かつまた、統治を円滑に行うために土地になじめば、貴人の貴人たる性質は鈍くなる。


 異邦人という性質は弱みであると同時に、人々を畏怖させる目に見えない力がある。しかし時が経てばその薬効は失われざるを得ない。


 広元はそれゆえに、源氏の血だけに頼ることをしなかった。義時の口にした、東の荒ぶる血。それを押さえつけるためには、貴種以上の、人々を畏怖させるものが要る。それが、朝廷であり、神だったのである。


 その時既に、広元と頼朝は、鎌倉の地に独立政府を作り一大勢力を築く青写真を練り上げていた。神性を帯びた王として東を治めるという案は、今述べたように、東の土豪を治めるのに都合がよい。そして京に対しては、朝廷の手が及ばぬ独立機関を成立させる、格好の大義名分になる。


「東の民は朝廷に反発を抱いておりますが、しかし同時に、拭い切れぬ恐れをも抱いております。鎌倉殿を通じて帝が、いや、かつて東を平らげた荒神がにらみを利かせるという統治の形は、この地を治めるためにも、きっと役立ちましょう」


 広元は声を励ましたが、


「そうだとよいが」


 頼朝は気のない様子でつぶやいただけだった。一見、賛否不明の相槌を打つのはこの英雄の癖である。若干十四で叛逆者の嫡子として蛭ヶ小島に流され、豪族の利害の中を泳ぎ渡り、薄氷を踏んで生きて来る中で、自然に身についた知恵だった。


 広元は、自分の進言は必ず容れられるだろうと確信していた。神器、草薙の剣を祀った熱田神宮の血を受け継いでいるという思いは、頼朝に強い。平家が三つの神器を奪って都落ちしたと知った頼朝は、他の二つの神器を捨てても神剣だけは取り戻すようにと厳しく命じた。しかし願いも虚しく、よりにもよって剣だけが、壇ノ浦の荒波に没したことは、頼朝にとって悔いても悔やみきれぬ、痛恨の極みだった。


 自らの肉体を剣とし、神剣の魂を降ろすという想念は、それゆえに、頼朝の心を揺り動かさぬはずはないのだった。それは神剣が失われた無念を慰撫するためや、政の利害のためだけではない。東国を飛び越えて日の本の掌握も見据え始めていた英雄の、自尊心を満足させるものでもあったのである。それを広元は知っていた。


 ふと手を上げ、頼朝は肉の厚い手のひらで胸元を押さえた。


「この身が、草薙の剣になる、か」


 低くつぶやいた。逡巡しているように見えるが、赤子をあやすように胸板をしきりと打つそのしぐさには、どっしりと重たい底力が透けて見える。


 やがて、手が止まった。


 頼朝は東国の神となったのである。


「このことは、いずれお話致すつもりでございました」


 広元の声が低く流れた。疲労のためか、興奮のためか、実朝は頭に軽いしびれを感じた。目の前の庭は夜闇を満々とたたえ、澄んで静まり返っていた。とろりと(こご)った闇の底から、時折かすかな葉音が響き、その光景は夜の海の冷たさを思わせた。


「機を逸したまま、今日までを過ごしてしもうたのは、これは広元の不徳の致すところにございます。お許し下され。

 しかし今日唐船が座礁したと聞き及んだ時、わたくしには咄嗟に、この草薙の剣のことが思い起こされ申した。政のかけひきではございましたが、源氏の血に神剣の魂が宿ったのは、紛れもない事実でございます。それゆえ、源氏の御大将は朝廷を守るために東にとどまらねばなりませぬ。

 あたかも剣の魂が、朝廷のために源氏の棟梁を東に留めようとしたように思われましてな。それゆえ、殿の不快も顧みず、かような長き話をさせていただきました」


 長い話を終え、広元は古木のように口を閉ざした。


 二人の間に重い静寂が漂った。無音の世界は人の心を雄弁にする。いにしえびとの影を宿して座している老臣を見つめながら、実朝はニニギの神を思った。


 アマテラスから神剣を授けられ、人の世を治めるために高千穂の地に天降った神である。順序は異なっているものの、父の人生はニニギの伝承とよく似ている。父もまた、神剣を抱いて東の地に天降ったといってよい。そして父は鎌倉の豪族の娘、――母を娶り、東の地に根を下ろし、平定した。ニニギもまた、降臨したのち笠沙の岬でコノハナサクヤビメを見初め、そうして神と人の血を受け継いだ息子たちが天皇家の始祖となるのである。


 父、頼朝が、武門の棟梁や土地の統治者である以上に、一個の神としての性質を帯びて鎌倉に君臨したという事実は、実朝には感動に近い驚きだった。それは、決して交わることのないと思われた父子を初めて結んだ橋であった。

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