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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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草薙の剣(一)

 時は少し戻る。半年がかりの渡宋計画が頓挫したその夜、実朝は濡れ縁に座って夜をやり過ごした。体はひどく疲労していた。そしてそれ以上に、心が困憊していた。


 つい半日前まで船を中心に置いて渦巻いていた喧騒と興奮は、ほとんど物質的な確実性を持って、鎌倉と、そして実朝の体を覆っていたはずだった。しかしその船が座礁してがらくたになり果ててみると、全ては夢の中の出来事であったかのようだった。唐船、宋、医王山、そして自分自身。何もかもが頼りなく、弱々しく感じられた。


 人生で最も虚しい夜であるはずだったが、どこかで恐れていた程には、実朝は挫折の痛みを感じてはいなかった。もともと自嘲という感情には甘い悦楽が含まれている。彼は扇を取り、漫然と頬を扇いだ。


「――殿」


 長く伸びた闇に声がした。衣ずれが近づき、膝元の灯明が広げる光の丸い輪の中に広元の姿が現れた。明かりが見えたので顔を出したのだと言った。


 膝の痛みを気にしながら、広元がひどく力んだ仕種で腰を下ろしているその背後に、庭木が風で揺れた。柘榴の葉だな、実朝はぽつりとつぶやいた。濡れ縁にはかたわらに小さな灯明がひとつあるきりで、庭の様子は闇に塗り込められている。だが実朝には、やわらかな葉音から、少し離れた一隅に立つ、柘榴の枝が揺れたのだと知れた。


 浜から憮然として戻った時、彼の目には柘榴の黄緑の若芽が映った。柘榴の葉は芽吹いたばかりの時は鮮やかな茜色をしている。それが葉が開くにつれ、洗われたように美しい翡翠の色を帯びて行くのだった。そのさまを眺めるのが毎年の春の楽しみであったのだが、今年はその季節をすっかり逃してしまっていたことに、実朝はその時初めて気がついた。


 だが柘榴を眺めたとて何になろう。相変わらず、景物は全て実朝に冷たい。いや、猥雑で下劣な喧騒にかしずいていたその分、彼らは以前よりももっと、実朝によそよそしくなったようだった。


「殿。お疲れとは存じまするが、少々お耳に入れたきことが」


 風音と共に、広元が口を開いた。


「唐船のことならば、申してくれるな。わたしが愚かであった」


 心身共に疲れ切っている夜であった。叱責であれ慰撫であれ、付き合うのはおっくうであった。しおらしい様子を見せてさっさと切り上げようとしたが、広元はいやいやと、手を上げて制した。


「渡宋のことではございませぬ……。

 お小さき折より、広元は、殿に先々代様のことや鎌倉の成り立ちについてお聞かせして参りました。ですが一つだけ、今日まで語りこぼしていたことがございます。なにとぞ、わずかの間、お耳を拝借致したく」


 渋色の衣に包まれた影の後ろに、闇がさやさやと鳴った。細々とした灯火に照らされた面輪は頬が高く、目元に影が黒くたまり、太古の昔、目に隈取をし、神の言葉を民草に伝えた呪術師を思わせた。


「聞こう」


 言葉よりもその姿に惹きつけられて、実朝は頷いた。


「お話し致したきこととは、源氏と草薙の剣の縁にまつわることでございます」


 老臣の声は夜の中にくっきりと輪郭を描いた。


「草薙の剣がどのようなものであるか、これはあらためて申し上げる必要はございませぬな」


 唐突な話に驚いている実朝にも構わず、広元は言葉を重ねた。


 草薙の剣とは、皇家に代々伝えられて来た神剣であり、アマテラスの命でニニギ神が人々を治めるために高千穂に天降った際、八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共にたずさえたと伝承は伝えている。一説には、鏡は「知」、勾玉は「仁」、剣は「武」を示し、大王がそなえるべき三つの徳の象徴を示しているとされ、やがてはこの、剣、鏡、玉の三つの宝物の継承が、すなわち皇位の正統性を示すものとなった。いわゆる、三種の神器である。


 しかし今、神剣は皇家の手にはなかった。源平最後の合戦となった壇ノ浦の海戦で、三つの神器は時の幼帝安徳帝の御座船にあった。いよいよ平家の敗北が決まった時、平清盛の室、時子は、孫である安徳帝と神器とを抱き、海中に身を投じた。その後、後鳥羽帝と頼朝の命で必死の捜索が行われ、鏡と勾玉は奇跡的に引き上げられたものの、神剣だけはどうしても見つけることが出来なかった。


 それは実朝も聞き知っている。だが、その神剣と源氏の縁とは、実朝には見当もつかなかった。


 実朝の当惑はそのままに、広元の話は続いている。


「ご存知のように、三種の神器は帝が備えるべき三つの徳を表しております。その一つが失われたことは、朝廷が三徳の一を失ったことと同様にございます。

 これは、有職を重んじる朝廷、何よりも時の帝、後鳥羽帝にとって、非常な痛手となりました。神器の継承がないということは、正統な権利のないままに皇位に就くに等しい。それは帝のお立場を脆くさせまする。しかしそれ以上に危惧されましたのは、朝廷が神仏の加護を失うことでございました」


 実朝は頷いた。草薙の剣はもともと、ヤマタノオロチの体から生まれ出た。出雲に流れ着いたスサノオの手で化物が退治され、切り刻まれた際に尾の先から現れたという血生臭い縁起を持つ。そのためか、剣は皇家を守護する剣であると同時に、時に災いをもたらす剣でもあった。


 有名なのは、古代史の英雄、ヤマトタケルの逸話である。東征に赴くにあたり、彼は伊勢神宮の巫女であった叔母から、守り刀として草薙の剣を与えられた。剣の加護によりタケルは勝利を重ね、東の平定を成し遂げたが、伊服岐山(いぶきやま)の悪神を平らげに赴いた際、妻となったミヤズヒメの手に剣を残したばかりに、邪気に倒れ、命を落とした。


 天武帝の逸話もある。帝が病に倒れた時、呪術師は卜占を行い、草薙の剣の祟りであると見立てた。剣は、天智帝の御世に一度盗難に遭ったことがあり、以来、祀られていた熱田神宮から宮中に移されていたのだが、熱田の社から離したための障りが帝の身の上に出ていると、呪術師は言った。進言に従い剣は熱田に戻されたものの、天武帝は快癒することなく、そのまま薨去している。


 朝廷では、神剣が海中に遺失したことを重く見、熱田神宮の神庫に保存されていた別の剣を草薙の剣の形代とし、神宮に安置していたが、


「しかし、それはしょせん形だけのこと。朝廷には、もっと確かな守り刀が要りようでございました」


 語っているうちに口中が乾いたのか、広元は言葉を切り、口元を袖で覆って幾度か咽の奥で空咳をした。


 それゆえ、朝廷が思いついたことがございます。咽を落ち着かせたあと、広元は再び口を開いた。


「――それは、生き身の神剣を立てること。武門の血を形代としてその身に神剣の魂を降ろし、生きた草薙の剣として朝廷の守護剣とすること。神器を失った朝廷の、苦肉の策でございました」


 しん、と、辺りが静まった。


 実朝はじっと広元に視線を注いでいた。いつもと変わらぬ静かな視線であったが、しかし今の一言に強い衝撃を受けたことは、夜目にも判る程に頬が高潮しているところからうかがえる。武門の血、草薙の剣、そして剣が祀られて来た、熱田神宮。実朝には思い当たるものがあった。


      * * * * *


 灯心の先で油が焼ける音がかすかにした。炎が広元の頬を小刻みに舐め、流れ去った。灯明が作る影は相変わらずこの老臣の表情の上に濃く、それは老いた男のおもてから思考も感情も消し去っていた。遥か遠くに、絹の糸を引くように夜鳥の鳴き音が流れた。


「――父上」


 長い沈黙のあと、ようやく、実朝は声を絞った。


「その生き身の神剣とは、父上のことだな」


「お察しのとおりにございます」


 広元は深く頷いた。


「佐殿の母君、由良御前は熱田神宮の大宮司、藤原季範(すえのり)殿の御息女にございます。そして申すまでもなく、熱田神宮は、ヤマトタケルの妻、ミヤズヒメが、夫の形見となった草薙の剣を祀るために建立した社にござりますれば。

 ――神剣の守護宮である熱田神宮の血を受けた、武門の名家の御曹司。神剣の形代とするのに、これ程あつらえの方はおりますまい。

 まことに、奇縁と申すより他、ございませぬ。朝廷が平家打倒の旗頭として白羽の矢を立てた者が、熱田神宮の血を受け継いでいたこと、そして神器のうち、なにゆえか神剣だけが失われたこと、全ては、人智を越えた何がしかの力が取り持ったとしか思われませぬ……」


 源氏の棟梁、源頼朝を草薙の剣と位置づけるという考えがそもそも誰から出たのかはもはや分からないが、太政大臣、九条兼実の弟であり、歌人としても後鳥羽帝から愛された、慈円という僧がいる。彼の書き残した「愚管抄」の中に、一つの記述がある。


(そも)この宝剣失せ果てぬる事こそ、王法には心憂ことにて侍れ。これをも心得べき道理定めてあるらんど案を巡らするに、これは(ひと)えに、今は色に現れて、武士の君の御守りとなりたる世になれば、それに、代えて失せたるにやと覚ゆる也。」


 要するに、神剣の遺失を憂慮し案をめぐらせた結果、今は武家が帝を守る世になっているのだから、武家の棟梁を失われた宝剣とみなしてもよかろうというのである。このあと彼は仏法や儒道を引きつつ、全てはこの世の自然な移ろいの一つに過ぎないのだから、その流れにゆだねるのがよいという意味のことを述べている。発案者ではないにせよ、思想的な後押しをしたのは彼であったのだろう。

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