渡宋計画(四)
待つうちに何艘もの小舟が入り江に浮かんだ。唐船の舳先に縄がくくりつけられ、小舟とつないだ。もっと深いところまで船を引っ張ろうというのである。唐船の横腹から突き出た無数の櫓も、必死で水をかいた。しかし、いかんせん、船の体が大き過ぎた。浜を漂う不安げなざわめきに押されて、唐船は幾度かゆらゆらと前進したが、そのたびに歩みを滞らせた。
そのようなことを一刻以上も続けたあげく、とうとう、進水の指揮を取っていた二階堂行光が実朝のもとへ来た。義時の見立てどおり、船腹の一部が岩につかえてしまい、もはやどうにも動かせないと説明した。
「船の大きさ、重さに対し、入り江が浅すぎまする。しかし、たとえ入り江から引き出したとしても、ここは遠浅でございます。恐らくよほど沖まで引いて行かねば、とてもまともには浮かべ出すこと出来ぬと思われまする」
肩を落として報告した。義時が今一度振り返ると、実朝が憮然とした表情を見せて、床几から立ち上がるのが見えた。半年の期間をかけて造った美しい唐船は、わずか二刻ばかりの間入り江で水に揺られただけで、あとはその場で全くの木屑に成り果ててしまった。
どうなることかと固唾を呑んで見守っていた人々も事情を察したらしく、そそくさと浜を去って行った。御家人も人夫も見物人も散ってしまった浜には、ただ、どうしようもない白けた空気だけが残された。
一人とどまって、夢の残骸のように打ち捨てられた巨船の影を眺めながら、陳和卿は内心ほっと安堵の息をついた。長い間両肩に食い込んでいた重石が取れたような心持ちがした。始めこそどこか楽観的な気持ちで造船に取り組んでいた彼であったが、さすがに完成間近になってみると、とても海を越えることなど出来る代物ではないことが分かって来ていたのである。船が海に出る前にこのようなことになったのは幸いであったというのが、正直な思いだった。
* * * * *
実朝の渡宋計画はこうして頓挫したのであったが、しかし宋へ渡ることを実朝がどこまで本気で考えていたのか、それはいささか疑問に思われる。既に述べたように、この当時は筑前や攝津に対外貿易の港が開かれ、宋との間に商船の行き来があった。経験豊富な商人の手を借りるという方法もあったはずだが、実朝はそれをせず、自前の唐船を建造することに血道を上げた。信子が、理性的でないと案じたのも無理はない。
実朝の中に、渡宋への強い思いがあったことは間違いがない。しかし、むしろ実朝の心は現実に海を渡ることよりも、人と金銀を蕩尽して巨大な船を作ること、合戦にも似た大きな嵐を鎌倉に呼び込み、心を蝕んでいる倦怠を払拭する方に、重きが置かれていたのではあるまいか。もしかしたら心の奥底では、いっとき心の空虚が埋まるならば、計画自体は頓挫しても構わないとさえ考えていたかもしれない。
ともかくも、巨船が由比ヶ浜で座礁したために、将軍が御所を留守にするという事態は避けられた。信子は夫と離れずに済んだし、幕政の改革も滞らないこととなった。陳和卿だけではない、御所の人々はそれぞれ別の理由で、渡宋計画の頓挫に安堵を覚えたのだったが、ただ一人、義時だけは手放しで肩の荷を降ろしてはいなかった。
由比ヶ浜で進水が失敗してから数日経った夜、義時は自身の被官である金窪行親を屋敷に呼んだ。そして実朝の身辺から仏師、陳和卿を遠ざけるように命じた。政子と同様、義時もまた、今回の渡宋の件については、陳和卿が何事か要らぬことを吹き込んだと見ていたから、これ以上実朝のそばに置いては、いつまた、どのような厄介事を言い出して御所を混乱させるかも分からない、早々に除いた方がよいと、義時は判断したのである。
「かの仏師には、確か娘がおりましたが。そちらはいかが致しましょう」
「父娘共々でかまわぬだろう」
「しかし……」
金窪行親の口調が渋くなった。娘といっても陳和卿の実娘ではなく、しかも唖者と聞いている。鎌倉から放逐するだけで充分ではないかと行親は意見を言ったが、
「逆に言えば、わざわざ手間をかけて助けることもないということだ」
義時は落ち着き払って退けた。口がきけない以上、件の娘が何を知っているのか、何を考えているのか、こちらには知る術がない。そのような厄介なものに情をかけるよりも除いてしまった方が煩いがないと、義時は無機的な口調で続けた。
「面貌はわしも見たことがあるが、愛嬌も何もない。情が移る心配なぞないから、明日にでも屋敷を訪うて参れ」
執政がからむと、義時は魂が入れ替わったかような冷淡さを見せた。確かに陳和卿の娘を助命して得るものがあるわけではない。そもそも父を手にかけるのだから、むしろ生半可な温情は後々災厄となって返って来ることもあり得る。義時の主張は成程理にかなっていた。
行親はあきらめて下がったが、重苦しい不快感は拭いようがなかった。行親は比企氏との内紛で功を立てて以来、義時の側近として、御所や北条家の反対勢力の捕縛や尋問といった仕事をこなして来た。頼家が追放された時に比企一族の残党の掃討を行ったのも彼であるし、三年前、和田合戦の発端となった泉親衡の謀反が発覚した際には、与同者の名を吐かせるべく、使者の安念法師に厳しい尋問を行ったことも記憶に新しい。
そのように、義時の命を忠実に遂行して来た男だが、暗殺となると同じようには行かなかった。怒りや憎悪といった感情的な点火が要る。陳和卿については、義時と同じように、将軍をたぶらかしたという点において、怒りがある。しかし娘に対してはどういった感情を太刀の後押しにすればよいのか分からなかった。
次の夜、行親は意を決して陳和卿の屋敷に赴いた。慰労のためにと持参した酒や肴を囲み、とりとめない話を交わした。
「実は近々鎌倉を去ろうかと」
酒で口がほぐれたのか、陳和卿はふとそのようなことを言った。あれだけの大仕事が不首尾に終わったとあっては、実朝に対しても面目が立たない。奥州のある寺で、仏像を頼みたいと言って来ていたこともあり、奥州路を下ろうと考えていると語った。
「奥州にござるか」
行親は驚いて見せた。
「しかしそのお歳では難儀でございましょう。いかがかな、よろしければ道中を守る者を二、三人お貸し致しますが」
「何、何、さようなお気遣いは」
言いながら、陳和卿は床に置かれた酒器に手を伸ばした。指先がふれた時、ふっと、言葉が途切れた。部屋にいきなり、幕を切り落としたような沈黙が落ちて来た。不自然な静寂の中、とん、と雨だれのような音が響いた。もう一度、さらにもう一度、水滴の音がしたと思うと、床に赤いものが筋を引いた。床にかがみ込んだ時、目にも止まらぬ速さで一閃した行親の太刀が、その背を真上から貫いたのである。
行親が柄から手を離しても、陳和卿は半ば平伏したような格好のまま、床に座っていた。体を貫いた太刀が支柱になって、支えているのである。それは、モズに捕らえられて木の枝に串刺しになった蛙にそっくりだった。
そこへ、行親の下人が陳和卿の娘を引き立てて来た。座ったまま太刀に縫い止められ、無言で血を流し続ける父親の死骸を見て、娘はその場にへたり込んだ。たとえ声が出せたとしても叫び声などは上げられなかったかもしれない。
太刀を引き抜くと、死骸はしぼんだように崩折れた。娘は床に座り込んだまま、ぼんやりとその様を目で追った。行親は血まみれの刃を娘の目の前に突きつけた。
「お主、命が惜しいか」
娘は行親を見上げた。義時が言ったとおり、確かに愛嬌も何もない容姿であった。やがて、娘はゆっくりと頷いた。動作はしっかりしていたが、目は放心したように泳ぎ、焦点が定まらなかった。行親は太刀を収めた。娘の長い髪を鷲づかみにし、小刀を抜くと肩の辺りでぶつりと断ち切った。
「わしの一族の尼が三浦で庵を結んでおる。そこで父親の菩提を弔って暮らせ」
このあと、この女がどのような人生をたどるかなど行親にはどうでもよい。ただただ、後味の悪い思いをしたくないがための策であった。そしてこれ程の恐怖を与えておけばもはや俗世には出て来るまい。下人に引きずられるようにして娘が出て行くと、行親は初めてほっと息をついた。
陳和卿の死骸はその夜のうちに筵にくるまれて運び出され、あの唐船の船底に捨てられた。無用の長物になり果てたとはいえ将軍の御座船であり、領民は誰もうかつには近づかない。死骸の捨て場にはもってこいであった。宋から来た仏師、陳和卿には、鎌倉はひとえに、災いの地であった。
(第四話・了)




