渡宋計画(三)
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なにゆえ実朝は無理を押して渡宋計画を進めるのか、信子に理解が及ばないのも無理はなかった。実朝を駆り立てていたものは、信子が想像したような情動よりもむしろ、精神に生じたひずみであったのだから。
和田合戦が終わってからこんにちまでの三年余というもの、実朝の体には深い倦怠が巣食い続けていた。胸の真ん中に虚ろな洞が開いてしまい、種々の出来事も、四季の景物も、目の前のことごとくが、色も手ざわりも実感もないままに、無機物のように味気なく胸の洞を通り抜けて消えていくような心持ちがした。
実朝は相変わらず熱心に作歌に取り組んではいたが、それとて以前と同じではなかった。若葉が野を覆う景色を見、ふと降り出した雨の音を聞き、技量で歌を整えることは出来る。だがそうして書き出した歌詞に、自分の心がついて行かない。しょせんそれは、心が揺さぶられるままに自然に溢れ出た歌詞ではないのである。
以前は、つぼみの先にわずかに紅のにじむさまにすら、目くるめく陶酔を感じたはずであった。あの心はいずこへ消えたのか、実朝自身にすら分からなかった。月雪花、香り、移ろい、何もかもが心を上滑りして過ぎてしまい、水をまいても乾いてしまう砂地のような虚ろな感覚ばかりが残った。もともと芸術家肌の実朝にとってこれ程苦痛なことはなかった。
しかしそんな日々の中で一度だけ、実朝の心が強く動かされたことがある。和田合戦から二年半ばかりが過ぎた、建保二年(一二一五)の暮れであった。和田一族の残党が、頼家の遺児、千寿丸を擁し、謀反を画策したのである。千寿丸は和田合戦の発端となった泉親衡の乱に巻き込まれたあと、京に上っていた。和田の残党は栄実と名を変え出家していた千寿丸を再び擁立し、兵を集め京の六波羅を襲撃しようとしたのである。しかし計画は事前に露見し、幕府軍に旅亭を急襲された残党は、皆その場で討たれた。栄実もまた、共に自害して果てた。
血生臭い事件の顛末は、実朝の体に鮮烈に沁み、心をうるおした。以前あれ程愛した景物がことごとく背を向ける中、あれ程忌み嫌った血の匂いだけが実朝を受け入れ、ある種の鮮やかな感動を与えてくれたのである。流れに浸した手のひらから花も紅葉も逃れ、しかし血の色だけが親しげに紅を残したようであった。
これこそが、あの和田合戦が実朝に残した傷だった。二日の間、激烈な血の色と激しい苦痛にさらされたあと、実朝の心は、若木の香りや雲の移ろいや、そうしたささやかな美しさを感受することが出来なくなっていたのである。それはちょうど、糖の塊を含んだあとの口中が、仄かな甘みを感じることが出来ないのに似ていた。
自分自身では決して認めなかったが、乾ききった実朝の心が欲したものは、まさに合戦の色と匂いだったのである。
ただしそれは、決して人の死や殺し合いを見ることを求めたのではない。体を引き裂くほどの鮮烈な感動を求めたと言った方が正確である。心を強く突き動かしてくれるならば、それは、歓喜でも痛嘆でもかまわなかった。
つまり、今動いている渡宋計画とは、実朝にとって合戦と同じ意味を持っていたといってよい。大勢の人間によってもたらされる喧騒と高揚は、確かに戦に似ていなくもない。いわば流血のない合戦であった。
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「まったく、かようなことになろうとは」
浜での仕事を終え、与えられた屋敷に戻ると、老仏師は毎日のようにそうつぶやいてため息を洩らした。夕げのしたくを整えて運んで来た女は、そんな陳和卿の様子を心配そうに見やった。
彼女は陳和卿の娘である。といっても実の娘ではなく、大和のとある村で買った女であった。女は生まれつきの唖で、そのため年頃になっても嫁の貰い手もなかった。飯の仕度やすすぎものをする手が欲しいと思っていた陳和卿は、その話を聞き、銭を払って親元から引き取ったのである。
娘は椀に粥をよそって老父の手に持たせると、その手を慰めるようにさすった。
「仏像の仕事をもらおうとはるばる来て、よもや船を造らされることになろうとは思わなんだ」
椀を持ったまま陳和卿はこぼした。丸めた肩に、肉体の疲労だけではない疲れがにじんださまは痛々しかったが、しかし、そもそもこのような珍妙な事態に至ったのには、陳和卿本人にほとんど全ての原因があった。
彼が御所に招かれて、実朝にさまざまな話を語り聞かせたことは既に述べた。自身が生まれ育った宋の話や東大寺の大仏を鋳た時の話、重源のこと、そして前世で修行していた阿育王寺のこと。将軍の前で知識を縷々と語る自身の姿が、彼には得意であったに違いない。この仏師は若い頃から自身の才覚を鼻にかける癖があり、そしてさらに言えば、才を少々かさ上げして吹聴する癖もあった。一見穏やかな面貌とは裏腹に、人となりは驕慢で一癖ある男なのである。東大寺の仕事をしていた頃から彼は他の職人とそりが合わなかった。しまいにはとうとう重源とも袂を分かつことになり、こうして鎌倉に流れて来たのだったが、それには彼のこうした性格が大きな原因を占めていた。
そんな陳和卿であったから、ある折に、実朝から、宋から渡航した時のことや、海を渡る船について尋ねられた時、得意が高じるあまり、ついつい、あたかも航海術や造船術に通じているかのようなことを匂わせたのは無理もなかった。しかし実朝が話をそのまま真に受けて、船を造るとまで言い出すとはよもや思わなかった。半年後、実朝が皆の前で渡宋計画を語り、陳和卿をその責任者に任じると言った時、彼は文字どおり腰が抜ける程に驚愕し狼狽した。だが実朝の前で造船に通暁しているようなことをちらつかせてしまった手前、事実を打ち明けるのは恐ろしかった。結局、仏像作りしか知らぬ陳和卿は大急ぎで急ごしらえの知識を仕入れ、鎌倉の浜で手探りで唐船を作る羽目に陥ったのである。
「飯はもうよいから、酒をくれんか」
さほど大きくもない椀をようやく空にすると、陳和卿は言った。心労が積もっているためか、近頃の彼は飯をあまり摂らず酒ばかり欲しがるのだった。娘は何とかなだめてもう少しだけ粥を食べさせ、それから酒を酌んだ。
背を丸めて酒をすする父親の様子を、娘は、曇りがちの表情で見守った。欲しがるわりにまるで美味そうに飲まないのも気がかりだった。
『前世の御縁などと申し上げなければよかったのに』
内心ため息をついた。将軍様と父とが阿育王寺の師弟であったという、あの縁が、全ての元凶であったと思われてならない。ただ陳和卿のために弁明しておくと、これは取り入るための方便などではなかった。己の前世については、陳和卿はずっと以前にある僧から聞かされたことがあったのだし、そして謁見の場で実朝を前世の師と言ったのは、実朝を一目見た時の、いわば宗教的霊感によるものであった。むしろ言葉巧みに語った作り事ではなく、感動のほとばしるままに訴えたことであったればこそ、実朝をあそこまで動かしたともいえる。
聞けば将軍様もまた夢で同じお告げを得たとのことで、それならば父との間には間違いなく宿命的な縁があるのだろうと娘は素直に思ったが、しかしその出会いが、結局このような災厄に落ち着いたところを見ると、あまり良い縁ではないのではないかと思われてならなかった。
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さまざまな人々の思惑を孕んで、唐船は半年後に完成した。進水が四月十七日に行われることとなり、その日、由比ヶ浜には、噂を聞きつけて御家人や近隣の領民など多くの人が押しかけた。もちろん実朝の顔もある。少し離れた高所に床几を据え、浜のにぎわいを見守っていた。信子は人出の多さを懸念して、そして政子は怒りが収まっていないという理由で、それぞれ欠席していた。
実朝のかたわらには義時が控えていた。ここからは完成した唐船の全容が一望出来、義時はあらためてその巨大さに驚いた。長さは恐らく三十丈(三十m)程。まだ帆が張られておらず、そのため波打ちぎわに大蛇がゆうゆうと寝そべっているようだった。しかし舳先と船尾がなめらかに首をもたげた流線型はなかなか美しかった。このような巨大なものをこのように美しく仕上げるのは難儀であったに違いない。そこに関しては、義時は内心、陳和卿の手腕に素直に感嘆した。
浜には大勢の人夫が動いている。進水の指揮を命じられた二階堂行光が、鞭を上げて大声で何やら指図していた。
堰が切られ、人工の入り江に潮が流れ込み始めた。海水は緩やかに渦巻いて唐船を取り囲み、ひたと身を寄せたと思うと見る間に船底を浸し始めた。浮力を受けて巨体がゆらりと浮いた。見守っていた人々の間から思わずどよめきが起こったが、歓声というよりはおののきのざわめきに近かった。確かに、初めて動いた船の姿は、どこか老いた巨獣が長い眠りから覚めて立ち上がったといった風情があった。
しかし、
「少々、妙な具合ですな」
額に手を当てるようにして様子をうかがっていた義時が、眉間を寄せて実朝の方を振り返った。実朝も不安げな視線を返した。見ればどことなく、船の揺れ方がぎこちない。どうも船腹のどこかが海底にこすれているようにも思われた。浜でも、困惑したように男たちがおちこち駆け回っている。




