渡宋計画(二)
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源仲章の方はしかし、義時のように放り出すわけにはいかなかった。
「なにゆえ、このような大事な時に。御所の改革はいかがなさるおつもりですか」
計画を聞いた仲章は色をなして憤った。というのは、これより少し前、彼は実朝の命で、しかし実際には仲章自身の進言によって、幕政を執り行う政所の人事改革を進めていたところなのである。
彼は長年鎌倉の御家人であるが、同時に朝廷にも官吏として仕えている。かつては後鳥羽上皇の近習を務めたという経歴から朝廷内に太い人脈があり、その人脈を利用して時折鎌倉と京を行き来しては、双方の意思疎通をはかるという役割を担っていた。
今回の政所の改革案についても、実は朝廷の意向が若干働いている。三年前、和田合戦によって鎌倉の有力御家人が全て淘汰され、執権の北条家が実質的に幕政を掌握したことに、朝廷は憂慮を抱いていた。源氏はそもそも清和帝の末裔であるから、その源氏が東国を押さえるのはまだよい。しかし伊豆国の豪族である北条が東国を統べるということになると、これは朝廷には不安があった。
仲章の目的は、幕政において北条家の影響力が強くなり過ぎないよう、将軍家との均衡を取ることである。現在政所の人事はほぼ整い、今まで義時ら四人で務めていた政所別当が九人に増員された。そこには無論、仲章も入っている。実朝に働きかけて、筆頭の大江広元に続く次席、つまり義時よりも上位の地位を確保していた。
自らのそうした立場を利用し実朝の肝いりで今後さまざまな改革を進めようと思っていたのに、肝心の実朝がいないでは、仲章の発言は政所の中で押し潰されてしまう恐れがある。仲章は人払いを願ったあと、自身の抱いている懸念をはっきりと実朝に伝え、朝廷の考えまでも打ち明けて見せたが、実朝は、急ぐ必要はない、と言って耳を貸さなかった。
「ならば、政所にはこれ以上手をつけずに凍結させておけばよい。わたしは何十年も宋に滞在しようというのではない。長くても二年ばかりで戻るつもりであるから、政をいじるのはそれからでも遅くはあるまい」
いや、それでは遅い。仲章は内心憮然とした。物事の流れを変えるには、頃おいというものがあるのである。やむなく彼は思考をめぐらせ、将軍が戻るまではおとなしく時を稼ぎ、政所別当の次席という職権だけは維持しておくより他はないと、密かに肩を落とした。
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三月二日に、実朝は予定通り二所詣から戻った。彼は由比ヶ浜の船造り場へ足を運んでみた。造船作業は思っていた以上に速く進んでいた。浜を掘り下げて作られた大きな船渠(造船ドックのこと)には巨船の骨組みがほとんど出来ており、船腹の一部には既に板が張られ始めている部分もある。
削り上げられたばかりの木は白く、組み合って船体を支えている様子は生物の白骨のように見えた。それは誤りではないだろうと実朝は思った。船はいまだ死骸のようなものである。それがこれから人々の手で肉が与えられ、皮をまとい、命を得て海に出るのである。
確かにこの浜に満ち満ちる騒がしさは、船を作るというよりも、船に命を与えていると言うにふさわしかった。大勢の番匠が骨に取り付き、せっせと槌を振るっている。丸太を切る者がある、板を削る者がある。大きな焚き火で板を炙り、数人がかりで曲げて加工している者がある。鉄が木を打ちつける音と、男どもが大声で叫び交わす声、面白がってしきりに悪戯に群がってくる童の声も混じって、浜は喧騒を煮立てた釜のようであった。
船の周囲には人々の汗と木の樹液のにおいとが入り混じり、濃く漂った。この生臭い生命のにおいが、船に魂を植えつけていくのかもしれない。これまで過ごした時間においておよそ命の実感の薄かった実朝にとっては、ふと浮かんだその観念はひどく新鮮であったが、生命というものの生々しい醜怪さもまた、どこかに感じずにはいられなかった。
「おや、あれを御覧なされませ」
供の近習が向こうを指差した。遠くに、汗臭い浜には似つかわしくない、色鮮やかな一団がいる。よく見ればやはり供回りを連れた信子であった。近習が声をかけてそちらへ走って行くと、信子もこちらに気づき、驚いた顔をこちらに向けた。
「来ておったのか」
「船の形が出来たと聞いたものですから、見物に参りましたの」
信子は白い顔に笑みを浮かべたが、微笑んだ両頬は少し赤かった。思いがけないところで夫とばったり顔を合わせたのが、信子には何となく照れくさく、くすぐったいのだった。
「あのような大きなものが水に浮かぶと思うと、何だか怖い気が致しますね」
番匠たちが群がる船の方へ視線を戻し、信子は言った。
「まだ半ばしか出来ておらぬからそう見えるのだよ。案ずることはない。今は多くの船が海を渡っているのだ。造船術も航海術も、鑑真和上が難儀して渡航した頃とは違うよ」
実朝はそう答えてさらりと流した。信子はこれまでも、渡宋について幾度か不安を打ち明けていただけに、船に対する彼女の感想は実朝にとって取り立てて気を配ることではなかった。
信子の方は少し不満そうな表情を浮かべた。実は彼女の不安は造船術や航海術にあるのではないのだったが、しかし実朝の返答でそれを口にするいとくちをなくしてしまい、仕方なく、納得した様子を見せて黙った。
そこへ、陳和卿が姿を見せた。実朝がわざわざ視察に訪れたと知らされて、慌てて挨拶に来たのである。陽をさえぎるものとてない浜辺に連日出ているうちに、彼の象牙色の肌もだいぶ赤銅色に染まって来たようだった。実朝は作業の進み具合などについてしきりと尋ねた。あまり興味のない信子は、二人から少し離れ、あらためて造船の様子を眺めた。御所に詰めるたくましい侍たちを見慣れた信子であったが、まだ肌に寒風の沁みる季節だというのに、下帯一つになり体から湯気まで上げて動き回る男どもの野卑な姿は、熊や猪が歩き回っているような恐ろしさがある。
『でも、殿はなぜ、このように遮二無二宋へ参ろうとなさるのかしら』
形を成して行く船を見ながら、信子はあらためて首をかしげた。その心情を全く推しはかれないわけではない。実朝はかねてより、宋という国に深い憧憬を抱いていた。宋の優れた学問、とりわけ仏学や哲学に興味を抱いていたし、わずかに手元にもたらされた書物を繰っては、これ程に優れた思想が育つ国にはどのような人々が暮らしているのか、訪ねてみたいなどと洩らしたこともある。しかしそうした憧憬と、今、無理に無理を重ねて巨大な唐船を造っている行為との間に、どうしても大きな隔たりがある気がしてならなかった。
信子に言わせれば、今回の計画は「実朝らしくない」のだった。このような思い切ったことをするからには、学問的憧憬などという理性的な動機ではなく、もっと俗な情動の後押しが要るように思われる。
あるいは父のことが関係しているのかもしれないと、信子は一応、そのように推察していた。昨年の三月、信子の父、坊門信清が病没した。坊門家自体は嫡男で信子には兄にあたる忠信が継いだため取り立てて変動はないが、やはり後鳥羽上皇の叔父として権勢をふるった信清という後ろ楯を失った痛手は大きい。身の危険を避けるためにも留学にかこつけて鎌倉から逃れたいと実朝が思っても不思議はなく、事実、閨の中で一度、そうした心情を匂わせたことも、あるにはあったのである。
『清子殿も嫁いでしまわれたし、引き止めるものはないのかもしれない』
二年程前に他家へ嫁いだ、川勾神社の娘のことを付け加えて、信子は自身を納得させた。
遠くから次々と白い波頭を運んで来る海原を眺めて、信子は小さく吐息を洩らした。信子は出来れば実朝に、渡宋をあきらめて欲しかった。ただしそれは、周囲のように将軍の職務云々ということでは無論ない。また既に述べたように海難を恐れてのことでもなかった。実朝が渡航に懸念を抱いていないように、彼女もまた、航海中に夫が難に遭うことをそれほど案じてはいなかった。あの陳和卿によれば、実朝は前世において医王山の座主であったという。そういう縁の糸をたどって海を渡るのであるから、海路に迷うことも嵐に妨げられることもなく、御仏が庇護し導いてくれるだろうと、自らも仏に帰依するところの篤い信子は思っているのだった。
信子はだから、実朝が難に遭うことを懸念しているのではない。実は彼女の憂悶は、実朝との間に子がいないところから出ていた。嫁いでから十七年にもなるというのに、信子にはこれまで身ごもる気配すら訪れたことがなかった。彼女は今年既に二十五になる。幸い、体を診た医師はまだ懐妊の可能性はあると言っていた。しかし実朝がこれから数年の間鎌倉を留守にするとなると、子を授かる機会は恐らく永遠に失われてしまう。
ただ、その思いを、信子は実朝には告げられなかった。実朝の渡宋への決意が堅いのと、半ばは身を守るための逃走という性格も含んでいることもあったが、それ以上に、実朝自身が子を授かることを恐れているためでもあった。
「子が欲しくないわけではないが、やはり生まれぬ方がよいのだ」
実朝はそのように語ったことがある。世継ぎならばもちろんのこと、たとえ姫であっても、将軍の血を引いて生れ落ちた子を、この鎌倉の中で守ってやる自信がないと実朝は苦くこぼした。
「貴種である源氏の血は如何様にも使えるのだ。生かしても殺しても使うことが出来る。わたしのように籠に込めて飼われるか、兄上のように命を奪われるか、いずれにしても幸せな人生とは思われない。親としてそのような目にわが子をわざわざ遭わせたくはないのだよ」
我が子をむごい目に遭わせたくないという思いは信子も変わりがない。しかし渡宋が現実味を帯びるにつれ、夫との情愛の拠り所として、懐妊への望みは抑えがたくなっていた。たとえ夫と離れても情がつながっていれば良いではないかというのは、それは女性の道理ではないのである。女は天におわす神ではなく、大地をめぐる自然に使える使徒である。天が結ぶ見えない絆の糸ではなく、土や木々が芽吹かせる確固とした命というものに、彼女はすがりたいのだった。
「潮風が沁みて来たな。そろそろ戻ろう」
浜を眺めてながらやるせない思いに駆られていた信子は、実朝の声に我に返った。いつの間にか陳和卿は仕事場へ戻っており、姿がなかった。実朝は腕を伸ばして信子の手を取り、歩き出した。警護の侍がすぐに周りを取り巻き、供の者があとに従った。童女のように手を引かれて歩きながら、信子は夫の心遣いが嬉しかった。背も高くなく体つきも華奢といってよい実朝であったが、その手はやはり信子なぞよりはよほどたくましく、力強い。砂に足を取られて時折信子は足元が危うくなったが、そのたびに実朝の手はしっかりと体を支えてくれた。
「――殿、宋に参るのであれば」
実朝の優しさにふれて、思わず、胸の思いが唇を突いてこぼれた。
「参るのであればその前に、わたくしは子が欲しゅうございます」
驚いて振り返った実朝の眼を、信子はうつむいて見ないようにした。見ないようにはしたが、実朝の当惑と、そしてためらいがちの拒絶は、手のひらから伝わって来た。そのまま実朝は何も答えなかった。一つに寄り添うようにして歩きながら、信子はそっと唇を噛んで涙をこらえた。




