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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
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渡宋計画(一)

 建保四年(一二一六)。冬を迎えた由比ヶ浜に、大勢の人が集まっている。この一帯はもともと、漁民が小舟を引き上げて修繕したり、獲った魚や貝を筵に並べて干したり、そのようなのんびりとした光景が繰り返されて来た浜であったのだが、少し前から、そんな穏やかな浜の様子は一変していた。


 海岸の一部が人の手で大きくえぐられ掘り起こされて、いわば人工の入り江が作られていた。しかし入り江といっても水はない。出口は土砂でふさがれ、入り江全体がすっかり干上がっていた。そこに大勢の男どもが入り込み、何やら地ならしをしている。向こうでは番匠たちが手に手に斧やちょうなを振るい、丸太から次々と木材を切り出していた。


「一体、何をしておるのかねえ」


 先程から少し離れた所に立って男たちの仕事ぶりを見物していた娘が、連れの娘に向かって首をかしげた。朋輩の娘もまた、首をかしげて見せた。二人の周りには他にもぽつぽつと人が立ち、皆それぞれに浜の様子を見守り、そしてそれぞれに不思議がっている。


「聞いて来たが、どうやら船を作るらしいぞ」


 後ろから一人の老人が声をかけて来た。

「船? それならば何もわざわざ浜を掘り返さずともよいではありませんか」


「何、わしらが漁に出るようなものとはわけが違う。そうとう大きな代物らしい。何というても海を渡って宋まで行くらしいからな」

「へえ――」


 と二人の娘は驚いて見せたが、正直なところ、宋へ行く船と聞いても一体何のことか、まるで分からなかった。やがて足元の背負子を拾い上げて浜を出、市に着く頃には、娘たちの心からは既に宋のことも船のこともきれいに忘れ去られていた。


 話は半年ほど前にさかのぼる。

 鎌倉に不思議な客人が訪れた。陳和卿(ちんなけい)。その名に大江広元は覚えがあった。宋より渡来した仏師である。大和の僧、俊乗房重源しゅんじょうぼうちょうげんが、源平の合戦で消失した奈良東大寺の再建に尽力していた折に、陳和卿は乞われて大仏殿の盧舎那仏(るしゃなぶつ)の復元作業に加わった。戦火で熔け落ち、失われていた大仏の頭部の鋳造は彼の手によるものである。修復の終わった大仏の開眼供養に参列した頼朝は仏師の噂を聞き、面会を願ったが、結局叶わなかった。頼朝が、先の戦で殺生を重ねているという理由で、陳和卿が承諾しなかったのである。


「会おう」


 頼朝との一件を以前に聞いていた実朝は、取り次いだ広元に向かって即答した。


 数日後、陳和卿は御所に招かれ、謁見の間に姿を見せた。肌は、しみが浮いているものの歳に似合わぬ象牙色をしており、そのためか何となく面持ち穏やかな印象を見る者に与える。額や口元の深いしわも、白絹を畳み込んだようであった。


 謁見の場に姿を見せた初老の仏師は、実朝を一目見るなり、床に額をつけて実朝を伏し拝んだ。お懐かしうございます。一言述べると袖を顔にあてて泣き出した。人々が驚いて顔を見合わせていると、陳和卿はようやく袖から顔を上げた。


「貴方様は、前世において医王山の座主でございました。そしてその時わたくしもまた、医王山で修行の身であり、貴方様の弟子の列に連なっていたのでございます。長い時を経て師に再びこうしてまみえることが出来たことは、無上の喜びでございます」


 医王山とは、宋の寧波(ねいは)にある医王山阿育王寺(あしょかおうじ)を指す。中華五山の一つに数えられ、奈良時代の高僧、鑑真和上や、前述の重源もここを訪れたことがある、名刹であった。


 にわかには信じがたい話に、皆は驚きあきれたが、さらに信じがたいことが起こった。じっと耳を傾けていた実朝が顔を上げ、


「そのことならば、存じておる」


 そう言ったのだった。五年程以前になるが、実朝は人々に向かって言った。


「わたしの夢枕に尊い仏僧が立ったことがあった。その僧は、まさにその者が今しがた申したとおり、わたしが前の世で阿育王寺を開いた始祖であると告げたのだよ」


「初めて耳に致しますな」


 大江広元が困惑したように言うと、実朝は微笑して見せた。


「当然だ。この夢のことは今まで誰にも語ったことがなかったのだから」


 あまりに不思議な話に、居並んだ重臣たちは誰一人言葉もなかった。人々の驚きを尻目に、実朝は感激して再び涙にむせび出した陳和卿に、しばらく鎌倉に逗留するようにと言い渡し、座を立った。


     * * * * *


 それ以来、実朝は、宋や、または前世を過ごした阿育王寺の話を聞きたいと、陳和卿をしばしば御所に召し出すようになった。そのようにして半年ばかりが過ぎた、十一月のことである。実朝は突如信じがたいことを言い出した。件の阿育王寺へ詣で、かつ仏法を学びたい。そのために宋に渡るというのである。


 最初、実朝の計画を真に受ける者はなかった。話があまりに突拍子もないためでもあったが、実朝の日頃の様子にも理由があった。この二年ばかり、実朝は心も体も優れず、特に精神的な衰弱と不安定さが目についた。例えば酒宴の席で、何が気に入らぬのか眉を寄せてむっつりと黙り込んでいるかと思うと、急に身振りを交えて楽しげに話を始める。気分の高下は誰にでもあるが、近頃の実朝はその落差があまりにも激しかった。


 そのため皆は、前世云々という老仏師の話に感激したあまり、実朝が子供じみた戯言を言って面白がっているのだと、始めは思ったのだった。しかし実朝が造船の段取りを整えるようにとの指示を出し、宋へ共する者の人選を命じ、次々と物事を進め出したのを見て、人々はようやく慌て出した。


 義時や広元を始め、周囲は思いとどまるよう繰り返し実朝を諌めた。この頃、確かに日本と宋の間には商船の行き来が盛んになっていた。平清盛の時代に摂津の経が島や、九州大宰府の外港である袖の湊が整備され、宋からの大きな唐船が入ったり日本の船が大陸を目指して出て行く光景は珍しいものではなくなっていたが、しかしそうした状況と、実朝が宋に出かけることは別の話である。


 言うまでもなく、将軍は武家を統べる棟梁、政の要である。それが国を放り出して大陸まで出かけて行くなど前代未聞であった。御所に密かに叛意を抱いている者が将軍の留守を突こうと画策したらどうするのか。そして朝廷には何と言い訳するのか。この年、実朝は権中納言に叙任されたばかりなのである。勝手な振る舞いに朝廷の不興を買わないとも限らない。皆は入れ代わり立ち代り説いたが、実朝は(いわお)のように頑なであった。


「そなた、なにゆえ真心を尽くしてお諌めせぬ」


 政子は怒りをあらわにして義時に詰め寄った。数日前、実朝は恒例の二所詣に出立した。気持ちを向ける対象がいなくなったために、いら立ちが一層つのっているらしく、今にも頭を噛み砕かんばかりの剣幕だった。


「案ずる気持ちはないのかえ。そなたは執権である前に、殿の叔父御ですよ」


 怒りに憑かれている時の政子の声は、紙を引きちぎる音に似ていて、耳を刃物でぎりぎりとえぐられるようだった。その不快さから、では姉上は殿の母御でございましょうと思わず言い返しかけて、義時は慌ててそれを飲み込んだ。政子は昔から理性的な人となりを持ち、特に政の場で見せる洞察力、判断力の冷静さは義時もかなわぬところがあったが、その一方で、一旦激情の方に心身が傾くと、炎のように怒りを爆発させる二面性があった。今の姉に反駁(はんばく)したが最後、血の雨が降りかねない。義時は不快をこらえて淑女のようにしおらしく黙り込んだ。


 実は先程まで大江広元もいたらしいのである。しかし政子が御所に参上したと聞いた途端、広元は老獪な勘を働かせてすぐさま遁走し、難を逃れた。義時の方は雑用に気を取られて危険の接近を察知するのが遅れたのである。


「先月、殿と共に法華堂にお籠もりをした時のことですけれど」


 うなだれて、政子は今度は湿っぽく愚痴った。伏せた目元に浮き上がったしわが痛々しかったが、胸の中に満ちているのが悲嘆ではなく怒りであることは、手にした数珠玉を爪先が神経質にまさぐっている様子が示している。義時はその虫を思わせる爪の動きを横目ではらはらしながら見守った。


 頼朝の命日である毎月の十三日に、実朝と政子はそろって法華堂に参籠するのが慣例であった。先月もいつもどおり参籠が行われたのだが、その折、政子は籠もり堂の中で頼朝の夢を見たのだった。これは頼朝が息子の愚行を憂いているのだと判断した政子は、参籠明けを待って実朝に夢のことを話し、亡き父の諌めに耳を貸すようにと、とくとくと説いた。しかし、


「父も含めた祖霊を祀るのが自分の役目であると。その役目を全うするために宋で御仏の教えを学びたいのだから、父上も分かってくださるはずだと、にべもなく……」


「成程、それは正論でございますな。しかしだからこそ、こちらとしても諫止しづらいのですよ。遊山とでも申して下されば扱いやすいのですが」


「扱いやすい、やすくないという話ではない。そなたが腰に帯びているものは、何のためですか」


 義時がうっかり反応を間違ったために、とうとう政子の怒りが爆発した。


「殿の御前で腹を斬ってお諌めするのが臣下たるものの務めではないか」


「む、無茶を申されまするな」


 実朝が宋へ渡るなどという世迷いごとを言い出したのは、陳和卿に何事か吹き込まれたせいに違いないと政子は思い込んでいた。人も物も膨大に浪費する馬鹿げた計画への怒りもさることながら、陳和卿その人、そして一介の仏師の甘言に乗せられて治世を危うくしかねない愚行を続ける実朝の愚かしさへの怒りが、政子の中には層を成してはうず高く積み上がっている。


 理不尽な激高の嵐からようやく義時が解放されたのは、四半刻もあとのことであった。


 この一件のせいで、義時はどんな形であれ、渡宋計画に関わるのにすっかり嫌気がさした。渡宋を思いとどまるよう時と言葉を尽くすよりも、義時にはもっとやらねばならぬことがあった。つまり、将軍が本当に宋へ出かけるということになれば、そのあとの政務について今からこまごまと考えておかねばならない。


『本当に宋へ参られたら、お帰りは何年先になるか分からぬからな』


 実朝のいない鎌倉、というものを、義時が初めて具体的に思い描くきっかけになったのは、あるいは皮肉であったかもしれなかった。

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