和田合戦(四)
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その頃、実朝は法華堂の書院から、ぼんやりと空を仰いでいた。書院は周りを木々に濃く囲まれ、こうして濡れ縁に出ても見ることが出来るのは梢の狭間からのぞく一握りの空だけである。その狭い空は薄赤く染まっている。御所を焼く火の色であろう。実朝の目は戦の様子を見ることは出来ない。ただ空の色だけで、その有様を窺うのみであった。
室内に灯された灯明の光が背にふれ、足元を流れた。実朝の張りつめた精神には、灯明の薄明かりですら、背を焼くように感じられる。
炎を揺らす灯明のかたわらには文机があり、その上には下知状が仄白く光っているはずだった。和田一族を謀反人として討つようにとの下知状である。討伐の命を下すことに対して、実朝は、鎌倉中の御家人が敵味方に分かれて戦をすることにもなりかねないと最後まで躊躇した。しかし義時はほとんど威圧的ともいえる厳しさで実朝に署名を迫り、下知状を手に押し付けた。
書院を包む闇は冷たく深まり、あたかも森羅万象を永遠に呑み込むように思われた。ふと指先を上げ、実朝は闇の冷たさにふれてみた。このような感覚は、彼にはなじみがある。兄の殺害の時、重臣畠山重忠が謀反の疑いで討たれた時、そして祖父にあたる初代執権、北条時政が政子と義時の手で伊豆へ追放された時、つまり粛清が行われるそのたびごとに、実朝の肌は今と同じ感覚を舐めた。
それは、この世の全てが自分を置き去りにして流れて行くという感覚である。粛清はいつも実朝への忠義の名の下に行われた。実朝は常に血の粛清の中心にいた。しかしそうでありながら、実朝が出来事の当事者であったことは一度もなかった。全ては実朝から遥か遠く離れた未知の土地で行われ、何も見ずふれることもないままに流れて過ぎて消えて行った。自分を害そうとした者の目にも、自分を守ろうとした者の目にも、誰の目にも実朝という人間の姿は映っていないのだという、形の定まらない寂寥が、肉体を通り過ぎた。
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その日戦いは一晩中続いた。御所を焼いたあと、和田勢は一旦は法華堂を攻めようとしたが、山の傾斜と夜闇とに阻まれて思うようにならなかった。囲まれるのを避けるため、義盛は御所を出て敵を迎え討つ戦術を取り、幕府の軍勢との間に大小の小競り合いが鎌倉の町の各所で繰り広げられた。明け方近く、小雨が降り始めた。和田勢はようやく兵を引き、本陣のある由比ヶ浜まで撤退した。疲労が濃かったこともあるし、この日の朝に来るはずの横山時兼と合流し、軍を整える必要があったためである。
法華堂の義時は和田方の軍が退いたと聞くとすぐさま防御を固めるべく兵を出した。鎌倉の町には鶴岡八幡宮を要として、中央に若宮大路、その西に今大路、東に小町大路と、三本の路が平行しながら南北に貫く格好になっている。義時は命じてそれらの大路をすべて固めた。最も重要な防御拠点である若宮大路は、息子の泰時に命じて中程に陣を張らせた。
「新兵衛尉殿」
本陣に退いたあと、雨で体が冷えぬよう、馬の背に毛皮をかけてやっていた朝盛に、土屋義清が声をかけた。これは、と朝盛が頭を下げると、義清は微笑んで、朝盛が三浦義村の袖を射た腕を褒めた。
「お恥ずかしい限りです。若輩の身でありながら、血が上って出過ぎた真似を致しました」
「何、戦に大切なのは仕掛け時を逃さぬこと。時には短慮も必要じゃ」
義清は笑ったが、朝盛はその言葉に逆に不吉を感じた。和田方は、三浦勢と横山党という、二つの主力を欠いた状態での出陣を余儀なくされた。戦の大事は仕掛け時を逃さぬことと言うならば、それは既に仕掛け時を逸したということにならないだろうか――。
「勝敗を気に病んだり策に心を砕いたりはわしのような年寄り連中に任せればよい。戦は強い者、優れた者が勝つのではないのだから、そなたのように若いうちは、ただ目の前の敵との戦いを愉しめばよいのだ」
朝盛の不安をどこかで察したのか、五十を過ぎるこの年まで鎌倉の盛衰を見て来た武人は、そう言ってからりと笑った。
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寅の刻(午前四時頃)、小雨の降り続く中、一千人の軍勢を引き連れ、横山時兼が到着した。義盛は千の駿馬を得たも同じだと言って参陣を喜んだ。大軍を得て勢いづいた和田勢はすぐさま進軍を開始した。
西は甘縄から東は名越まで、和田勢は由比ヶ浜に広く軍を展開し、そしてそれぞれが幕府軍の防御を破るべく激しい戦いを繰り広げた。一番の要所である若宮大路は、朝比奈義秀と土屋義清とが兵を率いてのり込んだ。
「ここを守っておるのは相模殿の嫡男か。お手並みを拝見しよう」
土屋義清はそう言って、あぶみを蹴り真っ先に斬り込んで行った。敵の鎧武者を見つけるや馬を寄せ、斬り結んだと思うと、敵は額をしたたかに打たれ鞍上でよろめいた。義清の腕が体を捕らえ、鎧の引き合わせからずぶりと刃が貫いた。
「首取れ」
布切れのように馬から落下した敵を見下ろして義清が叫んだ。郎党どもが駆け寄り、押さえつけて首を落とした。
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「こちらも相模の兵が到着する頃おいではないのか。何故誰も参陣の挨拶に姿を見せぬ」
横山党の軍勢が到着し、由比ヶ浜の周辺で激しい交戦が繰り広げられているとの知らせを受けた義時はかたわらの近習に問うた。
語気に苛立ちがある。昨日からの戦の様相に、義時は焦りを覚えていた。自らの所領である相模、そして将軍の膝元である鎌倉からこれほどの数が義盛に与するとは、さすがに義時の想定を超えていたのである。
声を荒げているところへ人が走って来て、戦場の様子を伝えた。下知状を送った御家人たちは既に鎌倉に入っているものの、しかし誰も彼も戦場を遠巻きにして陣を張り、日和見に徹しているという。
義時の顔色が変わった。それは実朝がいずれの陣にいるのか判別出来ないためではなく、和田勢の勢いが勝っているためであろう。事実、先程走って来た伝令は、若宮大路では朝比奈義秀が泰時の軍勢を圧倒していると伝えて来た。
――これは、まずい。
義時は戦場の集団心理というものを熟知していた。もしも今、御家人たちの見ている前で陣が破られ泰時が敗走するようなことがあれば、官も賊もそこで吹き飛んでしまう。皆はそれこそ見えない水に押し流されるように、勢いづいた和田方へなだれを打って就く恐れがあった。
「ご署名はまだか」
烏帽子が吹き飛びそうな剣幕で義時はわめいた。今が戦の潮目であった。戦場に動きがある前に一刻も早く和田討伐の下知状を出さねばならぬ。将軍の名の下に出された下知状の権威は、戦場で振るわれるどんな太刀よりも強い。東国中のもののふの動向も、そして戦の勝敗も、実朝の署名ひとつにかかっていた。
足音が走って、ようやく実朝のもとから下知状が届いた。義時は急ぎ使いを立て、御家人たちのもとへ和田一族を謀反人として討伐せよとの下知を発した。
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戦況が動いたことに最初に気づいたのは、由比ヶ浜西端の甘縄付近で交戦していた和田常盛であった。常盛は横山時兼と共に今大路の陣に穴を開けようと、幕府軍を攻め立てていたが、そこへ、この先の稲村ヶ崎の浜に布陣していた軍勢がこちらへ進軍を開始したと、物見が伝えて来た。
「そちらにも兵を割かねばなりませぬな」
腕に受けた矢傷を縛り上げさせながら、時兼はやや無念そうに言った。今大路では横山と和田の軍勢が幕府軍を押しつつあった。戦況は和田優位の流れが見えているというのに、稲村ヶ崎の方へ兵力を割くとなると、みすみすその流れを手放すことになりかねない。あと半刻、時があればと時兼は歯噛みした。常盛も同じ思いであった。が、もはや悔しがっている余裕はない。
「三郎を呼べ」
視線をめぐらせ常盛は命じた。じきに汗とほこりにまみれて朝盛が駆け戻って来た。常盛は状況を手短に伝え、手勢を率いて稲村ヶ崎へ向かうよう指示した。
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常盛の使いから、実朝が和田一族討伐の命を下したらしいと伝えられた義盛は表情を変えた。これまではあくまで和田と北条の戦いであった。しかし実朝が下知状を出した以上、もはや和田と将軍実朝との戦いにならざるを得ない。
「まだ時はある」
義盛は郎党を呼び寄せた。
「余計な深追いはするなと皆に伝えよ。今は何よりも法華堂へ到達することを第一に考えよとな」
和田は全ての御家人を敵にまわして戦わなければならなくなった。しかし幕府方の軍勢が膨れ上がるまでには、まだわずかに時がかかる。その間に自軍が勝機をつかむことを義盛は祈った。郎党が馬に打ち乗って駆け去ると、義盛は床几からゆっくりと立ち上がった。潮風にまじって遠く近く、鬨の声が絶え間なく響いて来る。
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若宮大路の朝比奈義秀は、既に交戦の手ごたえで戦況の変化を感じ取っていた。和田勢の猛攻に前線の幕府軍はじりじりと後退し、そして後方から入れ代わりに新手が前進して来たが、その数が異様に多い。敵方の圧力に今度は和田の兵が押し返される番だった。
「退くな」
矢をつがえて叫ぶ義秀の周りにも敵兵が群がった。鞍から引きずり落とそうと熊手を伸ばす雑兵どもを弓で殴りつけ、蹴り放しているところへ、下がっていた土屋義清が郎党を連れて加勢に駆けつけた。荒々しいひづめに急襲されて敵兵は浮き足立ち、追い散らされた。義秀と義清は荒い息をつきながら目を見交わし笑った。そこへ義盛から伝令が駆けつけて来た。
「これは、苦しくなりますな」
義清が眉を寄せた。若宮大路は幕府にとって防御の要である。これから先は際限もなく兵力を投入し、和田勢を潰しにかかるに違いなかった。しかし義秀は
「何、ここにとどまり、来た敵を全て片付けるまでのこと」
快活に袖を振って見せた。彼は自分の名声をよく知っていたし、昨日の高井重茂との一騎打ちでさらに名が高まったであろうことも知っていた。猛将朝比奈義秀が退いたと聞こえれば味方全体の士気にかかわる。そしてまた、自分の首を狙って敵が若宮大路に集中すれば、甘縄の常盛や、小町大路の義直らが勝機をつかみやすくなるかもしれぬと言った。
「ほう、頼もしいことじゃ」
義清は目を細め好もしげに義秀を見たが、ふと真顔になった。自分に少々策があると言い、道に詳しい者を一人貸してもらえないかと言った。




