表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第二章 実朝
19/46

嵐の前(二)

「さあさあ姫様、殿様が困っておいでですよ。それにお話があるのでしょう?」


 そううながされて、清子はようやく腕をほどいた。何事かと膝に乗せたまま顔をのぞくと、清子は嬉しそうな、恥ずかしそうな、くすぐったい笑みを見せた。しばらくもったいぶったあと、実朝の耳に口を寄せて、お嫁に行くことになりました、と耳打ちした。


「すぐにお輿入れするわけではございませんが」


 頬を赤くして口をつぐんでしまった清子のあとを引き取って、侍女が言った。話はまとまったものの、実際に輿入れするのは、清子が初潮を迎えるのを待ってからになるという。相手は川勾の豪族の息子で、清子より四才年上だと侍女は語った。


「少々早いようだが」


「でも坊門の姫様も殿様のもとにお輿入れしたときは確か、十二ではありませんでしたか。姫様も十一でございますから」


「そうか。もうそのような年頃か」


 抱き寄せてやわらかい額に頬ずりしてやると、清子はひげが痛いと言いながら、口を変な形に結んで笑いをこらえていた。


 驟雨はいつしか止み、静かな小糠雨が川勾を包んでいた。ひさしから雨粒がこぼれ、敷石の上にしきりと不規則な打音を立てた。実朝は清子の酌で杯を重ねていたが、そのうちに二人は、雨だれの落ちる場所を当てっこするという、子供じみた遊びに熱中しだした。


「次はどこだろう」


「あそこ」


「そこはついさっき落ちたばかりだ。多分そちら側に落ちるよ」


 耳を澄ましていると、果たして清子の言ったとおりの位置に、雨だれの音がした。十のうち七は清子が言い当て、鎌倉から来た将軍を打ち負かした清子はご機嫌であった。実朝は笑いながら目の前の少女をつくづくと眺めた。信子との間に子のいない実朝には、清子は自分の娘のような心持ちがする。体も心もまだ子犬のように(いとけな)いのに、もう遠からず輿入れするような年頃になったのだと思うと、感慨深いと同時に、何かいたたまれない気がしないでもなかった。ただ、昨年侍女が可笑しそうに耳打ちしたところでは、清子がこのように子供っぽく振舞うのは、実朝の前だけであるらしかったが。


 二人して雨の音にじっと耳を澄ませているうちに、実朝はふと、先程から時折、離れのある方へ人が行き来している気配があることに気がついた。雨音とは不思議なもので、激しく降る時は音をかき消してしまうが、静かに降る雨はかえって外の音を際立たせ、人の耳を鋭敏にする。


 尋ねてみると清子は思ったとおりはいと頷いて、


「少し前から生き神様がお泊りになっておられます」


 と、不思議なことを言った。何でもこのところ、この川勾を含む一帯の土地では、病が流行ったり、春に咲くはずの桜が秋に咲いたりと、良くないことが立て続けに起こった。そのため災厄を払う祭が行われることになったのだという。その祭というのは、まず見目の美しい少年を一人選び、寄り代(よりしろ)として神を降ろす。少年はそのまま生き神としてかしずかれながら村々を回り、人々は即席の神を伏し拝んで災厄の去ることを祈るのである。そして祭りの前の数日は、少年はこの屋敷の離れで精進潔斎をするのがならわしなのだった。


『他愛のないものだな』


 八幡宮で自分が祭司を務めて執り行われるさまざまな神事、仏事の壮麗さと比べると、その祭はいかにも素朴で、ひなびていた。実朝は生き神となるべく離れに閉じこもっているというその顔も知らぬ少年に、どことなく親しみを覚えた。


 翌日、実朝は川勾を発ち、箱根、伊豆と参詣をとどこおりなく済ませた。伊豆の湯治場などにも寄り、数日後、帰路の途中再び川勾神社に逗留した。実朝は部屋に来た清子に、件の祭りは無事済んだかと尋ねた。


「はい。お発ちになった次の次の日がお祭だったのですけれど、とどこおりなく終わりました。お弔いも済んで、これで穢れは去ったと皆安堵しております」


「弔い?」


「生き神様のお弔いです」


 いきなり飛び出した物騒な言葉に驚く実朝を尻目に、清子はあっけらかんと答えた。


 美童を神に仕立てて村々を周り災厄を払うことは既に述べた。しかし少年の役割はそれだけではない。彼は神の降りる寄り代であると同時に、土地に満ちた病や災いを移す寄り代でもあるのである。そのため人々は、木や紙の寄り代を焚き上げるのとちょうど同じように、祭りのあと神として祀った少年を殺し、災厄の穢れを清めるのだった。


「だいたい毎年、どこかでお祭がありますよ」


 慣れっこになっているせいか、清子はその残酷さに気づくふうもなく、けろりとしていた。


 その夜、実朝は寝付けなかった。部屋の薄暗がりに、神の役割を負わされた挙句殺されたという、少年の影が行き来した。その影は時に実朝自身の仮面をかぶった。兄や、父の面がよぎることもあった。ようやく落ちた眠りの中にも少年の魂はついて来た。足元にたたずみ、実朝の顔をじっと見上げたが、しかし見上げる顔の位置がひどく低い。何事かと、思わず実朝は夢の中で少年の顔に手を伸べた。少年は何かしきりと語りかけて来るが、その言葉は聞き取れなかった。そして気がつけば喋り続ける顔には体がなかった。少年が膝の上で首だけになっていると気づいた時、喉に綿をつめられたような叫び声と共に実朝は床の上に跳ね起きていた。


      * * * * *


 ――何か大事が起こる時、わたしのもとには常に予兆があった。たとえば兄の時がそうであった。あの数日前、わたしはにわかに痢病を病んだ。幼い頃から床についてばかりいたものだが、苦しさのあまり意識を失ったのは、後にも先にもこの時限りであった。そしてわたしの魂がこの世から離れている間に、刺客は修善寺に走ったのだ。


 川勾での夢も、和田の窮地を暗示した凶夢であったのかもしれぬ。だが予兆が訪れた時、既に全ては起こってしまっている。わたしの手では如何ともしがたいところまで、全ては遠ざかっているのだ――。


 義時と広元を前にしながら、実朝はそんなことを考えずにはいられなかった。二人の重臣を見やる眉に重い翳りがある。心労のためかこめかみの辺りには薄い静脈が、時折脈打っていた。


 御所に対する謀反が発覚したのである。


 実朝が二所詣から戻って間もない、二月十五日、阿静房安念という僧侶が、御家人千葉成胤の屋敷で捕らえられ御所に送られて来た。義時の命で検非違使の金窪行親(かなくぼゆきちか)が詮議したところ、懐の書状から、この僧侶は信濃国の御家人、泉親衡(いずみちかひら)の家臣青栗七郎の弟にあたる者で、頼家の遺児、千寿丸を擁した謀反の与同者を募るべく、画策していたことが分かった。


 厳しい詮議に阿静房は謀反に与した者の名を次々に白状した。それは、首謀者だけでも信濃、越後、下総などの有力御家人百三十名、その伴類も含めると総勢二百名にものぼった。そしてあろうことかその中には、和田義盛の息子義直(よしなお)義重(よししげ)、そして甥の胤長(たねなが)が加わっていたのである。


 これがひと月程前のことであった。そののち義盛の必死の嘆願で息子ふたりは赦されたが、胤長だけはいまだ金窪行親の屋敷に囚人(めしうど)として預かりの身になっている。義盛はそれを不服とし、一族の者九十八名を引き連れて今日御所に参上し、今まさに甥の助命を願うべく、南庭に打ちそろい下知を待っているところであった。


「できませぬ。平太胤長は謀反の張本にございますぞ」


 知らせを受けて急ぎ実朝の前に参上した義時は、義盛の嘆願の内容を聞くや、苦く首を振った。実朝はこの件を取り次いだ広元の方へ目をやったが、広元は政の席でしばしば見せる読み取りづらい表情を作ったきりであった。


 阿静房安念は泉親衡の命で与同者を募っていたのだが、しかしこの謀反を発案し計画を練って親衡を焚きつけたのは、そもそも和田胤長であったのだと申し立てていた。つまり胤長は謀反の一番の首謀者ということになっているのである。その胤長の赦免などとても受け入れられるものではない。おまけに義盛は、呼ばれてもいないのに御所に一族引き連れ大挙して押しかけた。謀反と取られても致し方ない暴挙であり、それをもってしても胤長を罰するに足りると義時は続けた。


 実朝には義時の言は受け入れがたかった。胤長は無骨一辺倒の若者である。信濃から手を回し密かに謀反の与同を募るなど、胤長の人となりとどうにも整合しなかった。しかももっとも大事な証人であるはずの泉親衡を追っ手は取り逃がしており、阿静房の話には裏づけが取れないのである。胤長は無実ではあるまいかというのが、実朝の中にある本心であった。無論そこには、義盛や朝盛はじめとする和田一族への個人的なひいきもある。思わず不承服の色が顔に滲み上がったのに気づいて、実朝は急いでそれを引っ込めた。


「どうであろう。胤長に参籠起証を命じては」


 実朝は思いついてそう提案した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ