鎌倉の祭司(二)
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年があらたまり、鎌倉は建保元年(一二一三)を迎えた。毎年正月一日は、鶴岡八幡宮にて実朝の手で修正会が行われる。旧年の穢れを祓い、国の安泰と五穀豊穣を祈願する、年始めの神事である。
執権の北条義時、長老の大江広元ら供の者を従え、実朝は若宮大路を牛車で、八幡宮へと向かった。この日も天は高く晴れ、若宮大路を吹く潮風は牛車の中にも漂った。
澄み切ったあらたまの空を背に、八幡宮の石段は天上までも伸びて行くように見える。刻限は昼を過ぎていたが、境内を囲む鎮守の森には鳥の声すらなく、冬枯れの木々も陽をまとって慎ましく静寂を守っていた。狩衣に似た真白い浄衣をまとった実朝は、裾をさばきつつ石段を踏んだ。そのあとを義時、広元、供の者が続いた。
石段を上って来た一行を、別当の定暁が待っていた。剃りこぼった頭が、寒風の中に取り残されて心許ない風情であった。簡単な挨拶を交わすうち、修正会の開始を告げる太鼓の音が、上宮の中から打たれた。白衣をまとった童子が二人、するすると屋根によじ登って清めの花を散らした。薄桃の蓮の花弁が無数に宙を漂い、そして次々と地面に降り落ちた。
花の雨が止むのを待って上宮に入ると、祭壇の前に既に座っていた大学法眼行慈が、僧侶たちを従えて、力強く法華経の読謡を始めた。今日の修正会は、この行慈を導師として執り行われることになっている。
読経の声は伸びやかに社殿に響き渡り、やわらかな流砂となって実朝の耳を洗った。菩提樹の数珠玉の冷たい手ざわりが心地良かった。献じられる香の匂いに俗界の穢れが祓われ、先程仰いだ天のように、身が冷たく澄んで行くのが感じられる。行慈のかたわらに座していた定暁がこちらを振り返り、頭を頷かせた。実朝は敷き物から立ち上がった。数珠をつまぐり経を唱えながら、神体の周りをゆっくりと歩き始めた。行道といって、神仏の敬礼供養の儀式である。
十二の年に将軍の職を継いでからこんにちまで、実朝の日々はほぼ全て、こうした宗教的儀式を執り行うことに費やされて来た。
実朝は武人ではなかった。彼が将軍職に就いたのちも、鎌倉は内訌や家臣の討伐などを含め、幾度もの戦を経験したが、いずれの時も実朝は、出陣はおろか、采配すら振るっていない。
そしてまた実朝は執政者でもなかった。政の場には必ず参与し、持ち込まれた訴えに実朝自身が裁断を下すこともあったが、しかし執政を主導するのはあくまでも執権の義時であり、重臣らの合議であり、政子であって、将軍の専断などはおよそ許されなかった。
武人でも執政者でもなく、ではこの若き将軍は何であったかといえば、祭司であった。日々、神仏を祀り、祖霊を祀り、そして時には雨乞いのような原始的な呪術を行うことすらあった。実朝は確かに鎌倉を治める者に違いはなかったが、それは武門の棟梁としてではなかった。あたかもいにしえの巫女のように、祈祷をもって混沌とした神の世界と人々を架け渡し、まじないをもって人々を精神的に支え治める、それが鎌倉御所の長としての実朝のありようだったのである。
実朝には自分に課せられたこの役割が不可解であった。しかしもっと不可解なことがある。将軍職を継いだばかりの少年の頃ならばまだしも、はたちを過ぎた今に至っても、政子や義時、広元といった大人たちが、実朝が執政を切り回したり、太刀を取って兵を率いることを、実は望んでいないように思われることであった。
実朝に続いて立った義時が、行道を終えて戻って来た。どこかせわしない歩き方でかたわらを通り抜け、座についた。義時が、裾や袖を整えて落ち着くのを待ち、大江広元が立った。灯明の炎を受けて銀髪が針のように光った。広元は数年前から、歩くと膝が痛むとしきりにこぼしていた。ことに寒さが募る時期はそれが著しい。行道を行う広元の歩みを、実朝は気づかわしげに目で追った。
広元は幕府の重鎮である。若い折は朝廷に仕えたが、のちに頼朝に従った兄の縁を頼って鎌倉へ下向した。元暦元年(一一八四)のことで、以来、彼は頼朝の側近として幕府の組織を作り、そのかたわら朝廷との交渉事などもこなし、実務を一手に担って来た。御所にとっては政を切り回して来た長老であり、実朝にとっては薫陶を受けた師でもあった。
「知ることは、それすなわち力にございます」
実朝が将軍職に就いたばかりの頃、広元はそのように説いたことがある。
「例えば、一本の道のことしか知らねば、迷うた時に何の手立てもありませぬ。しかし周囲一帯の地理を知っておれば、自ら道を開くことが出来ます。学問は深さも大切ですが、広く学びなされませ。人生には実にさまざまな迷い道がございます。幅広い学問はそれに抗し得る、間違いのない武器になります」
成程、と実朝は感じ入った。広元はまさしくその深く広い知識を持って鎌倉の政を構築し、御所を支えて来た人である。そうした人の言には説得力があった。
それ以後、もともと学ぶことを好んでいた実朝の学問熱はさらに高じることになった。彼は和歌を非常に好んだが、その他にも漢詩、有職学といった教養から、仏学、神道、政治学から歴史学、およそあらゆる学識を、広元と、そして教育役として京から下向した源仲章の下で吸収した。周りの大人たちも実朝の学問嗜好には好意的であった。がしかし、実朝が何故、時に取り憑かれるほどの熱心さでものを学んでいるのかは、広元や仲章も含め誰も知らなかった。その訳をもしも知ったなら、皆は顔色を変えたに違いない。
実朝には、自らの人生が不可解であった。父が情愛を傾け跡継ぎと見込んだはずの兄が、将軍を追われ命を奪われたこと、そしていかに嫡流とはいえ、多病で虚弱な、およそ棟梁の器量ではない弟を、十年にも渡って皆が将軍に戴いていること、その将軍が武門の長ではなく祭司として東の地を治めていること、自らの人生を形作って来た出来事の全てが不可解であった。
つまり実朝は、神仏の教え、古の人々が通った歴史、そうした事々を先達にして、自分の人生、ひいては、いずれ自分に訪れる運命というものを、川の流れを鳥瞰するようにつまびらかにしようとしたのである。もっと端的にいうならば、兄の上に落ちた刃が、いつ、どのような形で自分の上にも落ちることになるのか、それを探っていたといってよい。
ただし、運命に抗するという考えは、不思議なほど実朝にはなかった。もともと事を好まぬ、素直な性格であったこともあるが、頼家の無残な死によって、生くるべき者が死に、死ぬべき者が生きているという思いが、ほとんど原初的な観念として心身を支配していたためでもある。だから実朝の自分に向ける目はおのずと冷淡であった。虫や小鳥をなぶり、どのように扱えば死ぬのかを観察する子供の目に、実朝の自分自身に対する視線は近かった。
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修正会の後は毎年、重臣らを集め御所で酒宴が開かれる。膳を整え皆に振舞うのは、今年は大江広元がその役にあたった。
「ほう、見事なアワビじゃな」
膳につくなり、和田義盛が声をはずませた。のしあわびといって、貝肉を乾燥させ平たく打ち伸ばした珍味である。伸ばし広げるのが「延年」につながるとされ、出陣前の酒宴や祝い事には決まって饗される食べものであった。義盛はこののしあわびが好物である。さっそく、するめのように裂き、口に入れた。
「陸奥国の外の浜から取り寄せたものにございます」
広元が微笑した。この当時、アワビの主な産地は隠岐であった。それをわざわざ陸奥から取り寄せたのは、陸奥では海の水が冷たいため、貝が成長するのに時がかかる。その分、肉厚で身のしまったアワビになるのだった。広元の講釈に、義盛は皆と共にあらためて感嘆の声を上げた。
「小太郎よ、お主さように感心しておるが、一体、その外の浜とやらがいずこにあるか、存じておるのか」
三浦義村がにやにやしながら横槍を入れた。義村は義盛とは従兄弟同士で、幼い頃から共に悪さを繰り返して来た仲であるから、どんな時でも義盛をこのように呼ぶ。
「何を。そういうお主はどうじゃ」
「わしは知らぬわい。だがお主がいかにも分かったようなつらつきで感心しておるゆえ、これは訊いてみねばと思うたのだ」
一口に陸奥国といっても、現在の地図では、秋田県と山形県をのぞいた東北全域が入るのだから、国土は広大なものになる。義村と義盛の掛け合いに触発されて、男たちはめいめいアワビの切れはしを噛みながら、白河の水の味ではないかだの、この面構えは誰それに似ているからどこそこの出ではないかだの、愚にもつかぬことを言い合って、座をにぎやかした。
「もうよかろう。わしは、陸奥のような遠国のことなどどうでもよいわ」
「たわけ。侍所別当がそれで済むか。さような様だから、遠国の戦場から兵を引き払うような心得違いをするのだ」
義村が大声で叱責した。居並んだ重臣たちは一瞬顔を見合わせ、それから一斉に笑い出した。義盛は身に充分覚えがあるだけに、渋面をつくろってただせっせとアワビを噛んだ。
かつて義盛は平家討伐のために西国に遠征した際、無断で陣を払って鎌倉へ引き上げようと画策し、大将の源範頼(頼朝の弟)を大いに困らせたことがあった。義盛という男には、こういう扱いづらい悪童のようなところがある。若い時分はもとより、侍所別当に任じられたのちですら、市中の争いごとに仲裁に出かけたものの、一方が和田の者と知るやそちらに肩入れしてしまい、かえって騒ぎを大きくするといった困った悪童振りを発揮し、それは老年に達した昨今ですらまるで変わっていなかった。
ただ義盛の名誉のために言っておくと、件の西国遠征の一件は、これは義盛の単なるわがままではなく、この時西国では飢饉の影響で兵糧の調達がままならず、とても長い戦の出来る状況ではなかったという事情がある。
重臣たちももちろんそれは知っている。しかし、大将の命令を蹴って勝手に陣払いしようとした義盛の振る舞いは、直情的で気難しく、気に入らないことがあれば主にも平気でそっぽを向く、坂東武者の気質を体現している。そして皆は、そんな、いかにも坂東の土から生い立った、荒馬のような義盛の武者振りを愛していた。三十年近くも昔の一件がいまだにこうやって酒の肴にされるのは、何よりも皆々がこの老将に抱く好意の表れでもあった。
「外の浜は陸奥国のさいはての地だよ」
笑いがおさまるのを待って、実朝が義盛に助け舟を出す格好で口を開いた。
「北のはずれゆえ、むしろ蝦夷に近い。西行法師がかの地を訪うて、歌を詠んでおられる。
みちのくの
奥ゆかしくぞ 思ほゆる
壷の石文 外の浜風」
西行は東大寺再建の勧進に奥州へ下る道すがら、この鎌倉に立ち寄り、御所で頼朝に謁見したことがある。もうずいぶん昔のことになるが、重臣の多くはその時のことをまだよく憶えていた。苦楽を共にした将軍の記憶を揺さぶる懐かしい名が出て、酒座には感慨深げなため息が流れた。
「やはり、鎌倉殿の申されることは一味違う」
義盛は感じ入ったように手を打った。そして
「人の揚げ足を取るしか能のない三浦某とは大違いじゃな」
と、逆に義村をやり込めた。皆の笑いの種になるのは今度は義村の方だった。