鎌倉の祭司(一)
冬の晴れ空が、海に向かって伸びている。鎌倉の冬は乾いた風が吹く。そして雲が吹き払われたあとの空は、焼き固めたような玻璃質の青みを帯びた。
若宮大路を海へと歩く実朝の首元を風がひえびえとなめた。若宮大路は鶴岡八幡宮の参道として作られた路で、境内から由比ヶ浜まで糸を張ったようにまっすぐに伸びている。両脇を土塀が囲んでおり、そのために潮の香を含んだ海風は、由比ヶ浜から八幡宮めがけて参道をまっすぐに駆け上がるのである。
「近江の園城寺の付近が、この若宮大路によく似ておると申すのだよ」
寒風に頬が熱っぽく火照るのを覚えながら、実朝は肩ごしに声をかけた。後に付き従っていた二人の従者は、ほう、と声をそろえた。一人は肩のいかめしい老人であり、もう一人は濃い眉の切れ上がった若者である。侍所別当の和田義盛と、その孫で実朝の近習を務めている朝盛であった。
「公暁様から御文が届いたのですな」
義盛がしわの寄った目を細めた。
「昨日、母上の元に届いてな。何でも、園城寺の参道も境内から琵琶湖へ向かってまっすぐに伸びておるのだとか。道を下って行くとじきに湖面が見え、そこに舟が行き交っている。その様が鎌倉に似ていて驚いたと書かれてあった」
「御息災のようで何よりにございます。して、他にはどのようなことを」
「いや、それだけだよ」
「何と」
公暁が近江へ発ってから一年余が経つ。以来、政子はほとんど毎月のように文を書いていたが、公暁から返事が来たことはついぞなかった。菓子や衣類などを送った際はさすがに形式ばった礼状が来るには来たが、それとて、どうも周りの近侍が書いたもののようであった。
そうしたわけで、確実に公暁本人の意思によってしたためられたと思われる文が届いたのは、これが初めてなのである。それしきの文であればもっと早うに書けそうなものだと、義盛は少々あきれてしきりに首を振った。
「たったそれだけでは、尼御台所様はがっかりしておられたのではございませぬか」
朝盛が気づかわしげに訊いた。しかし実朝は首を振って微笑を向けて見せた。孫が可愛い政子には、公暁が文をよこしたということだけで大満足なのだった。どのみち、園城寺での公暁の様子ならば、近侍が時折書き送って来る書状で知っているのだから、中身はどうでもよいのである。幾度も開いては読み返し、字が上達したとか、筆の運びが力強くなったとか、そのようなことまでもいちいち周囲に語っては、喜んだ。
そんな母の様子を見るにつけ、もう少し頻繁に文をよこせばよいのにと、実朝も思わぬではない。だが以前尼寺を訪ねた折に話にのぼったところによると、公暁は生母の辻殿にすら文を書かないらしく、望みは薄かった。
まだ少年なのだ、無理もあるまいと実朝は思った。父が没し、法体になり、他国の寺に入りと、公暁の人生には大きな変化が起こったばかりなのである。目の前の新しい世界、新しい人生を次々と飲み込むのに心はあまりに忙しく、それまでいた世界を振り返るいとまなどないのだろう。
実朝の世界は鎌倉ただ一つである。父の頼朝のように上洛したこともなく、年に一度、二所詣のために箱根と伊豆に赴く以外には、東国どころか鎌倉を出る機会すら全くなかった。
実朝にはそれは苦痛ではない。しかし、近江という、行ったことも見たこともない土地が、鎌倉とよく似た景色を持っているという公暁の話は、実朝の中に珍しく、未知の土地への遠い憧憬をかき立てた。その心を慰めようと、八幡宮を園城寺に、由比ヶ浜を琵琶湖に見立てて、実朝は若宮大路を歩いているのである。
若宮大路には、八幡宮側からそれぞれ、三の鳥居、二の鳥居、一の鳥居と三つの鳥居がある。路を下って一の鳥居の脇を過ぎると、由比ヶ浜はもう間近い。既に潮の香りが鼻を打った。実朝は足を止め、来た路を振り返った。路が伸びたその果てに、鶴岡八幡宮のいらかが、木々に黒く囲まれて見える。道幅が十丈(三十m)もあるため、若宮大路に立てば何にもさえぎられずに、こうして神の鎮座する姿を目にすることが出来るのだった。広々とした路がまっすぐに社の森に吸い込まれて行く様は、荘厳と呼ぶにいかにもふさわしかった。
「左衛門尉、この路は、母上が兄上を身籠られた時に、普請されたのであったな」
しばし立ち止まって景色を眺めたあと、再びくびすを返し歩き出しながら、実朝は言った。さようでごさいます。背後から義盛が答えた。
「尼御台所様が御懐妊なされた時の佐殿のお喜びは大変なものにござった。安産と男子の誕生を神仏に祈願して、参道を普請しようとおおせられましてな。そののち、満願成就の御礼に道幅を広げて整え、今のような姿になり申した。佐殿が皆と共に自ら土を運んでおられたのを、よく覚えておりまする。勿論この左衛門尉も老骨を励まし、誰よりも働きましたぞ」
義盛は得意そうに語った。ふと、それまでおとなしく聞いていた朝盛が、御爺様、と首をかしげた。
「鎌倉殿の兄君がお生まれになったのは三十年も昔でございます」
「む、それがいかがした」
「であれば、御爺様はその頃四十前ではありませんか。老骨じゃありませんよ」
大真面目に間違いを指摘した。話の腰を折られた義盛は、そういう心構えでやったということだ、と苦しい言い訳をしながら、目を剥いて朝盛をにらみつけた。見守っていた実朝が声を上げて笑った。この愛すべき二人の重臣のやり取りは時に滑稽劇のようで、憂いがちな実朝の心をしばしば浮き立たせた。
若宮大路は人や荷の行き来のための道ではないから、主従連れ立って歩く路には、実朝と義盛、そして朝盛の他、人の姿はなかった。見ようによっては重苦しい土塀に護られてそぞろ歩く、のどかな、そして孤独な影の頭上を、トビが翔けた。
「三郎、あの高さを射ることが出来るか」
実朝が声をかけた。朝盛は弓の名手である。手を上げ弓をひくような仕種をしたあと、
「出来ます」
朝盛は明朗に答えた。小さな影になって飛び去って行く翼が、青い空の中に孤独に映えた。
由比の砂浜に降りると、潮風は冷たく、肌を刺すほどであった。壮健ではない実朝の体を気づかって、朝盛が、たずさえて来た単衣を肩にかけた。
海原を眺めながら、実朝の心はまだ、若宮大路を追っていた。父が兄の頼家をどれほど愛したか、それはあの壮麗な大路に全て表れている。そして兄もまた父に愛されるにふさわしい人であった。幼い頃から病弱で心も鬱屈しがちだった実朝にひきかえ、頼家は壮健な体と、快活な人となりとを持っていた。
頼家が妻を娶ってからは疎遠にならざるを得なかったが、それまでは十才年下の実朝を可愛がって、相撲をとったり、武技のまねごとをしてよく遊んでくれた。庭での草相撲は実朝が転がされてばかりいたが、玩具の木剣での斬り合いとなると、頼家は最後には必ず、実朝の剣に斬られて座敷に屍を晒した。一度、頼家があまり巧みに死んだふりをしたので、実朝は兄が本当に死んだと思って狼狽し、熱を出して寝込んだということもあった。
あの頃、兄の額にはまばゆく明るい光しか射さぬのだと実朝は信じていた。事実、壮健な肉体に恵まれ、武技に優れ、跡継ぎとして皆の祝福の下に生まれ、父の愛情を一身に受けた兄の背には、暗い影など射しようがなかったはずだった。
実朝は、政子をはじめとする身内の者によって将軍を追われ、命を奪われた頼家の運命を、いまだに受け止めきれずにいた。側室の若狭局が後継を生み、将軍家の外戚となった比企氏と、執権家である北条氏との間に権力争いが生じたという、政をめぐるからくりは、無論実朝は理解している。しかしそうした俗世の事情は、かつて実朝の魂が感知した兄のあるべき姿と、この世で兄が実際にたどった暗い運命との落差を埋めるものには何らなり得なかった。
何故に天は、光の下に生まれた者に、あれ程暗い死の形を与えたのか。そして、薄暗い闇を負って生まれた自分には、兄よりも長い命を与えているのか。実朝は繰り返し問わずにはいられなかった。
風を受けて今日も波が高い。このような荒ぶる波を、琵琶湖のみなもは恐らく知らぬであろう。由比ヶ浜を洗う波は、いまだ安寧を知らぬ鎌倉を暗示しているようであった。