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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第一章 公暁
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祈願成就(四)

      * * * * *


 秋を迎えた頃、公暁のもとに小さな事件がもたらされた。目覚めるとすぐに顔を見せるはずの駒若丸の姿がその日は見えなかった。そのまま一日が過ぎて夕刻になった頃、供奉僧の一人が部屋を訪れた。困惑気味に報告したところによれば駒若丸は三浦の屋敷に謹慎を命じられているという。


 公暁は知らなかったが、昨夜、八幡宮の宿直(とのい)の者が若い僧と寺稚児の数人が回廊を歩き回っているのを見咎めたところ、彼らと乱闘になり、稚児の一人が宿直を殴りつけるという事件が起こった。今日になって詳しく調べたところ、宿直の者に狼藉を働いた張本人というのは他ならぬ駒若丸であった。昨夜は御所の和歌会の最中だったことも手伝って駒若丸のふるまいは実朝の不興を買い、当分の間出仕を止められ謹慎することになったのだった。


「駒若がか」


 公暁は驚いて問い返した。あの、物静かで聡明な駒若丸がそのような無分別をするとは意外であった。しかし心当たりがないでもない。近頃の駒若丸の目には、得体の知れない、激しい血潮のうねりのようなものが、抑えがたく吹き上がることがある。公暁に従って夜歩きをするようになる前は、まるで見られなかった駒若丸の一面であった。思うに昨夜の乱闘も、結果的には公暁が辻斬りに連れ回したその結果であろう。


『わしのそばを離れるのは、駒若にとって良いことかもしれぬな』


 供奉僧が下がって一人になると、公暁は心の中でつぶやいた。


 公暁は駒若丸が可愛かった。血に導かれ闇に惹かれて行く少年の様子は、あたかも自分を見ているような心持ちがするのである。しかしその一方で、なすすべもなく落下する花弁のように、何の疑念も抱かず闇へ向かってひたすらに身を投じようとする姿は、見ていて痛ましくもあった。公暁には分かるのである。公暁の魂が黒一色の闇の中に沈む時、駒若丸はその裳裾に手をからめて共に沈むつもりでいる。それは忠義ではない、情愛ではない、恐らくは公暁と同様に、ただ精神の陶酔に殉じてのことである。しかしそれはどうしても哀れであった。


 枝から離れた花は散るより他に道はない。駒若丸の体は既に枝を離れた。だが、たとえ自分と駒若丸の魂がもつれ合って投身したとしても、最後には二人をつないでいた糸が絶ち切られ、駒若丸ひとりは明るい光の中へ戻って行けるようにしてやりたい。そんなことを、再び護摩壇に火を点じながら、公暁は考えるともなく考えた。


 駒若丸が身辺からいなくなってからというもの、公暁は辻斬りをぷつりとやめ、護摩壇の前にほとんど座りづめになった。死と滅びに取り憑かれたこの青年にとって、駒若丸は人の世に向かって開かれた唯一の窓であり、そして皮肉なことに真夜中の殺戮は人の世とかろうじて残されていた唯一の縁であったのかもしれない。駒若丸と共に、公暁の中からは人も命も情も、世界の一切が去ったのだった。


 奥の間に閉じこもり、公暁はひたすらに戦乱を祈願する勤行を続けた。半日、一昼夜と声を絞り続けるうちに、五感が感じるものはただ、己の読経の声だけとなる。蓮華坐を組んだ足が消え、空腹を覚え始めた腹が消え、ものをあれこれと考えていた頭が消える。しっかりと合わされた両の手と、経文を絞り続ける喉だけが世界には残される。そうして、祭壇に積み上げられた護摩木が全て灰になると共に公暁の肉体もまた虚空に失われ、そのまま死んだように祭壇の前に眠った。


 しかし戦乱の雲をこれ程までに切望しながら、公暁は密かに兵を募ることにも、また御所を転覆するべく根回しするようなことにも、まるで心を向けようとしなかった。兵力も持たず御家人の間に人脈も持たない公暁には無理もなかったが、しかしそれ以上に、戦乱であれ、滅びであれ、公暁にとってそれらはただ観念の中に結晶したものにすぎなかったためであろう。


 公暁は戦を知らなかった。鎌倉に住んでいた幼い頃にも、比企一族の討伐をはじめ幾つもの内訌を鎌倉は経験したはずだが、幼さゆえの無知と幼さゆえの精神の柔軟さ、そして母や祖母の袖に守られて、血のにおいを公暁の五感が感じないままに、戦は頭上を通り過ぎた。優れた武技を持ち、人を殺戮した経験はあっても、戦の生々しいありようというものを、公暁は全くといっていいほど、知らなかったのである。


 だから公暁にとっての乱であり、戦とは、大津宮を焼き近江朝を滅ぼした、いにしえの戦であった。長い時によって血のりも殺し合いの残虐さも漉しのぞかれ、匂やかな悲劇に昇華されたところの、美しい詩としての戦でしかなかった。しかしそうであればこそ、戦を憧憬し乱を求める公暁の思いは純真無垢であり得たともいえる。そこには何の穢れも邪念もなかった。鎌倉の滅亡と人々の死を神仏に対して祈ることに、何の迷いもなかった。救世を願う菩薩と変わらぬ敬虔さで、公暁は神仏の前に勤行を続けた。


 公暁という青年は世の中の一切に対して、こうした、観念の中で自己完結するような精神的傾向を持っていたと思われる。それは生まれついたものというよりは、恐らく公暁の孤独がはぐくんだものであった。年月と共に体の中に深く巣食った鬱屈を、彼にはぶつけるすべがなかった。また受け止める相手もなかった。彼は草食獣の反芻のように、鬱々とした思いを吐き出しては、それを再び自ら飲み込むしかなかった。そんなことが繰り返されるうちに、胸中を去来するさまざまの思いからはアクがすくい取られ、澱が漉され、純化されて、公暁の中で透明な一つの観念となって結晶して行ったのである。


 情欲という最も生臭いものに関してすらそうであった。公暁は稚児に対しても、そして女性に対しても、肉の交わりを持つことを本能的に忌避して来たが、それは精神の潔癖さゆえではなく、単に精神の持つこの傾向のためであった。多くの人間にとって、欲望というものが体を生温かくめぐる、ちょうど体液のようなものであるとすれば、公暁のそれはまさしく水晶のごときものだった。すなわち精神の中に固く結晶し、肉体には決して溶け出して来ない性質のものであった。


      * * * * *


 十月、朝廷の使者が鎌倉に到着し、実朝は内大臣に昇った。しかしそれも束の間、十二月に入ると朝廷の使者は再び、鎌倉を訪れた。左大臣であった九条良輔が疱瘡で急死したのである。それに伴って太政官の再編が行われ、実朝は内大臣になってからわずかふた月で、右大臣に任じられることとなったのだった。


「そうか」


 御所に何事か動きがあれば逐一知らせるようにと命じられていた供奉僧が、奥の間に顔を出して実朝の昇進を伝えると、公暁は肩越しに振り返って頷いた。このふた月剃刀をあてることを怠っていたために、髪は不恰好に伸び、その下に削げ落ちた頬がのぞいていた。


 公暁は膝に力をこめて立ち上がった。振り返った眼光の凄まじさに言葉を失っている供奉僧の目の前をよろめくように通り過ぎ、表に出た。夕暮れが近かった。澄んだ冬空には藍や紅紫の色がもつれ、地面には冷気が沈み始めていた。公暁は水を汲み、頭からひと思いにかぶった。見えない刃が一斉に肌を撫でた。


「わしはこれより、七日間の断食行に入る」


 全身から清水を滴らせながら言った。供奉僧は驚き、体を案じて荒行を止めたが、公暁は耳を貸そうともせず、水を含んでまとわりつく僧衣を脱ぎ捨て、そのまま奥の間に姿を消した。


 素裸のまま、公暁は祭壇に座った。護摩壇を組み、火を点じた。天上の花が開くように赤い火の色がほとび、やがてちろちろと小躍りを始めた。火の色は錐となって目を刺し貫き、魂までも焼き尽くすように思われる。


 両の手をしかと合わせ、公暁は憑かれたように喉を絞り始めた。


 七日間が過ぎ、時折聞こえていた勤行の声がやんだ。供奉僧らが恐る恐る奥の間を開けると、公暁は投げ出されたように床に転がっていた。皆は急いで口に重湯を流し込み、寝間へ運び込んで介抱した。


 公暁の声に応えたのは何者であったのだろうか。父頼家か、あずまの神々か、それともかつて、少年であった公暁に青白い頬を寄せて滅びの美しさを説いた、いにしえの皇子の御霊であったのだろうか。


 悪夢とも幻影ともつかぬ闇の中を木の葉のように漂ううち、公暁は自分を呼ぶ声を聞いた。


「――お目覚めになりましたか」


 薄く開いた目に、髷を結い、烏帽子を乗せた初老の顔が映った


 何事だ、公暁はかすれた声で言った。のぞき込んでいる頬骨の高い顔が、慣れ親しんだものであることは分かったが、混濁した公暁の意識は、その顔が乳母夫の三浦義村であることを、容易に認識しなかった。公暁の頭がまっさきに考えたのは禁忌のことであった。参籠の間、上宮には世俗の者は誰一人立ち入ることが許されないはずである。そうであるにもかかわらず、この老人は禁忌を破って平然とかたわらに座している。その不可解を思った。


「若、わたくしの話をお聞き下され」


 しかし義村は、清浄な参籠の場を穢していることをまるで意に介していないようであった。彼は首を伸ばし、仰臥する公暁に顔を近づけた。


「我らは若を、新たな将軍に戴きまする」


 言葉が白いもやとなり、口元に漂うのを公暁は見た。白く吐き出された息は一瞬、菩薩の慈悲深い面輪を形作ったように見えたが、その幻はたちまち髪を赤く逆立てた羅刹天の姿となった。大きく開いた羅刹のその口が、ゆらゆらと揺れて言葉を発した。


「鎌倉殿を廃するため、若、なにとぞお力をお貸し下され」


     * * * * *


 ――雪はやむ気配がなかった。再び備中阿闍梨にうながされて、公暁はようやく房に入った。戸が開いた音に中にいた者がはっと目を上げた。鶴岡八幡宮の僧兵どもである。今宵、実朝を討つために、公暁が腕の立つ者を密かに募ったのだった。人数は六人、皆、既に胴丸や籠手をつけ、身じまいを整えていた。公暁がおもてに出たきりまるで戻らないのを案じていたのだろう。不安と安堵の色が、向けられた視線の中に入り混じった。


「思ったよりも雪が深くなりそうだ」


 火桶のそばに座り込んで、公暁は言った。


「これでは足元が滑って難儀する。ここを出る前に足に荒縄を巻いておけ。縄はあるか」


 誰かがすぐに立ち上がり、やがて縄を手に戻って来た。皆はさっそく、めいめい縄を取って足元をこしらえ出した。僧兵の一人が公暁のそばに来た。足元にうずくまって雪を払い、草履の上から縄をしっかりと巻きつけた。公暁は立ち上がってみた。少々縄が太過ぎる気もするが、深い雪の中を歩くならば問題はないかもしれぬ。


 風がまた、重々しい咆哮を率いて空を通り過ぎた。公暁は突き上げ窓を開けおもてをのぞいた。降る雪は密度を増し、先程までは雪にあらがって黒々と屹立していた叢林も、今はただ、朦朧とした灰色の影である。


 急に顔が火照るのを感じて、公暁は頭を包んでいた五条袈裟を脱いだ。今朝方剃刀をあてた肌に、刺すような冷気が生々しくふれた。太刀を引きつけ、鯉口を切った。命じて研がせた刃のおもてには、もはや血脂の曇りはない。深山の湖面のごとく澄み切り、見つめる公暁の目を明瞭に映し出した。風が吹き込み、雪の細かな粒が静謐(せいひつ)な刃の上に散りかかった。


 無数の雪片が舞い飛ぶ荒涼とした音が、御谷の山中をどこまでも覆って行く。降り込める雪に押し流されて、あたかもこの世の一切衆生はいずこかへ消え失せたようであった。ともすれば、この雪の向こうに八幡宮があることや、そこできらびやかな右大臣拝賀の儀が執り行われていることすらも、遠い夢ではないかと思われる。


 そして雪が吹き荒れると共に、辺りは明るさを増していくようであった。


「――雪とは、明るいものだな」


 雪を肌に感じながら、公暁はもう一度、夢寐(むび)のようにつぶやいた。

(第四話・了 / 第一章・完結)

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