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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第一章 公暁
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祈願成就(三)

      * * * * *


 三月、実朝は、左近衛大将に叙任された。京へ使わした使者の働きかけが功を奏し、朝廷の廟議は、実朝に左近衛大将と左馬寮御監(さめりょうごげん)の官職を与えることを定めた。馬寮はもともとは諸国から朝廷に献じられた軍馬の飼育や調教を行う官職であったが、今は治安警備の職となっている。長い間、近衛大将と兼任する慣例であったため、実朝にも回って来たのである。


 使者の波多野朝定が朝廷の除目(じもく)をたずさえて鎌倉に戻ったのは廟議から十日が経った十六日である。実朝は大いに喜び、朝定に褒美の太刀を一振り与えた。


 上宮での公暁の読経が熱をおび始めたのは、この知らせを耳にしてからである。


 公暁は奥の一室に据えた祭壇に護摩壇を組み、そこに籠もることが多くなった。護摩を焚きながら昼も夜もなく咽を震わせ、力尽きると糸が切れるようにその場に倒れ伏した。


「――公暁様」


 朦朧とした五感に声が触れた。うっすらと目を明けると視界の隅に、のぞき込む駒若丸の顔が灯火に照らされて映った。久し振りに会うたな、公暁はかすかに笑った。戯れ言で言ったのではない。肉体の極限まで読経を続け昏睡したあとは、公暁の精神はあたかも、何百年もの時をかけて生と死の世界を行き来したような、尋常でない感覚に襲われるのが、常であった。


 身じろぎした公暁に急いで手を差し伸べて、駒若丸は起き上がるのを手伝った。体にかけられていた夜具が軽やかなすれ音を立ててずり落ちた。夜具の中には汗の臭いがこもっていた。真夜中を過ぎているのか、上宮は息をつめたように静まり返っている。駒若丸が部屋の戸や明かり障子を開け放って風を入れた。夜風が汗と脂にまみれた体を心地よく撫でた。夜風が快いような季節になったのだなと、まだはっきりしない意識で、公暁はそんなことを思った。やがて駒若丸が温かな椀を持って戻って来た。乳白色の重湯(おもゆ)がとろりと沈んでいた。出来ればもう少し腹の足しになるものが欲しいところであったが


「丸一日以上も何も口にしておられなかったのです。急に粥を流し込んでは体に障りまするゆえ」


 といさめられて、公暁は素直に椀をすすった。


「何事かあったのか」


 ふと椀から顔を上げて、公暁は訊いた。自分を見守っている駒若丸の眉間に、いつもと違った翳りがある。駒若丸は躊躇したが、


「先日、御所に上がりました時に耳に入ったのでございますが」


 公暁にうながされて重い口を開いた。駒若丸は公暁と共に上宮に籠もりきりになっているわけではなく、時折御所に出仕している。その折にたまたま、人々の間で囁かれている噂を耳にしたのだという。


 それは公暁が実朝を呪詛しているのではないかというのだった。御所の人々は皆、公暁が園城寺で真面目に修行もせず、衆徒の童どもと木剣を振り回してばかりいたことを聞き知っている。そんな公暁がいきなり千日もの参籠を申し出、しかも八幡宮の供奉僧によれば近頃は人が変わったように勤行に没頭しているというその様子に、人々はかえって不審を抱いているのだった。


「はずれておらぬではないか」


 参籠もこの護摩壇での勤行も、鎌倉での戦乱を祈願してのものである。実朝を呪詛しているわけではないが、それほど異なってはおるまいと言って、公暁は笑った。


「ですが、妙な噂が広まれば何か咎めを受ける恐れもあるのでは」


「精進潔斎の間は叔父上であろうが右京兆(うけいちょう)(右京権大夫の唐名。義時のこと)であろうが邪魔立ては出来ぬ。案ずるな。それよりも水を持て。体を拭いたい」


 駒若丸はすぐに立って水を運んで来た。公暁の体を丹念に拭き清め、新しい下着を着けさせた。


「また勤行に入られるのですか」


「いや、その前にもう少し休むことにする。――駒若」


 と、公暁は駒若丸を呼び止めた。


「駒若、わしは明け方まで起きぬ。それゆえ、わしが起きるまでそなたも部屋で休め。よいか、命じたぞ」


 駒若丸は一礼して部屋を下がって行った。こうでも命じなければ、駒若丸は休もうとしないのである。公暁が奥の間での勤行を始めてからというもの、読経の声がしているうちは、駒若丸は隣の部屋につめている。そして疲れきった公暁が昏倒してしまうと、夜具をかけたり、目覚めた公暁の口元に水や食事を運んだりと、つききりで世話をしていた。


 駒若丸の様子は八幡宮の供奉僧らの目を引いた。彼らは密かに、この少年が別当にこれほど献身的に接するのは、稚児灌頂を受けた証拠であろうと勝手な憶測を立てていた。


 修行者が悟りに達すると諸仏が頭上に水を注いで祝福を与えることを灌頂(かんじょう)といい、転じて受戒の際に師が弟子の頭に水を注いで師弟の契りを結ぶ儀式の名称ともなった。しかし稚児灌頂(ちごかんじょう)というと、これはかなり意味が異なる。ありていにいえば稚児灌頂とは、僧侶が稚児と性的な交わりを持つために受けさせる灌頂のことであった。


 灌頂の儀式を受けることで、稚児は生身ではなく菩薩の化身になったとみなされる。そして僧侶は、宗教的崇拝という名目で、菩薩となった少年と交わりを持ったのである。古代からこの国には神霊は幼子の体に降りるという信仰があり、やがてそこから、少年を神霊の化身とみなす風習が生まれた。僧侶が稚児に伽をさせる習慣は奈良時代にまでさかのぼるともいわれるが、その背景にはこうした信仰があったかと思われる。


 公暁が少年時代を過ごした園城寺にも多くの稚児がいた。長い髪を稚児髷に結い上げ、鮮やかな水干をまとっているのは駒若丸と同じだが、園城寺の稚児たちは紅おしろいや、人によってはお歯黒までさして美しく装った。美しいのは見た目ばかりではない。歩を運ぶ身のこなし、戸を繰る指先のわずかな動きに至るまでが匂うようにたおやかで、女装した少年なのか、男装した少女なのか惑うほどであった。これは僧侶がつききりで、化粧から行儀作法まで厳しくしつけるのである。境内を虹色の陽炎のようにそぞろ歩いて行くその姿を、公暁も驚きと感心をもって眺めたものだったが、しかしやがて、その美しさがあまりにもはかないことに気づいて、公暁は言いようのないやるせなさを感じずにはいられなかった。


 女性の色香も年頃を過ぎればたちまち失われてしまうものではあるが、とはいえ、供をつれて市などを歩く高貴な老婦人の姿などを眺めると、たとえ老いても、そこには男には理解しがたい、手の届かない摩訶不思議な女性の美は残っているように思われた。しかしひるがえって稚児の少年たちはどうであろうか。稚児を務めるのは長くても十八か十九までで、成人したあとは還俗して寺を去るのが常であった。少年そのものはこの世から消えるわけではないが、美しく着飾り雅やかな風姿をまとって時を過ごしていた人間は、脱ぎ捨てた水干と共にいずこかへ溶け消えてしまうのである。


 しかし稚児という人格が、寺院の中で女性的な役割を担うために創造され、僧侶の目と欲望を愉しませるためだけに極度に人工的に蒸留されたものであることを思えば、その命がはかないのは道理であった。稚児とは、この世にもあの世にも存在しない人間なのである。咲いては散る花、現れては掻き消える雲のように、夢の中につかの間現れては余韻だけを引いてたちまち消えゆく者なのだと公暁は思った。


 そうしたはかない姿に心惹かれるのは公暁にも分かるのである。実際彼も、稚児たちの寄る辺のない美しさに、いたたまれなさと共に深い情感も抱いた。しかし、この世とあの世の狭間に浮かんだ夢と生々しい肉の交わりを持つとなると、これは公暁の理解を超えていた。


 稚児を用いることに対する公暁の価値観はそのようであった。だから、これより少しあと、ふとした折に、供奉僧らが駒若丸をどのように見ているかを知って、彼は苦笑するしかなかった。


「そなたとは、肉ではなく血の契りで結ばれておるのだ」


 供奉僧らに向かって稚児灌頂云々という話を笑い飛ばしたあと、公暁は物陰で駒若丸に意味ありげに耳打ちした。血の契りとは無論、血縁ではない。あのあとも、公暁は駒若丸を伴って幾度となく辻斬りに出かけた。二人を密かに結んでいるのは、公暁の太刀に斬り刻まれた者たちの血である。そして、いずれ戦乱の波の中にほとばしるであろう、公暁の血でもあった。


 公暁は文机の上から小刀を取り上げ、おもむろに指先に当てた。血が紅玉のように艶やかに膨らみ、それはたちまち壊れて指を筋になってつたった。


「今やこの血は、ただ鎌倉に乱を呼ぶためだけにある。わしの血はもはやこの世の誰ともつながっておらぬ。父母とも、御祖母様とも叔父上ともつながっておらぬ。だがそなたとだけはつながっておる。なぜなら、この血の意味を存じておるのは、そなたのみだ。これにまさる契りはあるまい」


 駒若丸は頬を赤らめ、それから黙って微笑んだ。公暁はふと指を上げ、微笑んでいる唇の間に赤く染まった指先を挿し入れた。駒若丸は乳を飲む赤子のように、公暁の指を口に含み血を吸った。

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