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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第一章 公暁
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祈願成就(二)

「乱を望まれるのは、やはり父君の仇として鎌倉殿を討つためでございますか」


「それは違う」


 駒若丸の推測は至極まっとうなものであったが、しかし公暁は、意外にも首を振ってそれをしりぞけた。


「わしは戦を望んでいる。そして戦となれば叔父上を討つつもりでいる。だがそれは仇討ちではない。わしとて父上の死について思うことがないではないが、だがそもそも叔父上に恨みなど抱いてはおらぬ」


 言いながら、公暁は天を仰いだ。月は荒涼と研ぎ澄まされ、明るい切り口からは今にも鮮やかな血が滴るように見える。風に秋の匂いが立ち始めた頃であった。御所を訪ねた公暁は、実朝とあれこれ語らううち、ふと、かつて大津宮の遺構を求めて粟津へ赴いたことを語って聞かせた。何故そのような話をする気になったのかは覚えていない。だが実朝は万葉歌に深く傾倒しており、あの日も作歌について語っていた。恐らくそれを聞くうちに、興を覚え話してみたくなったのだろう。


「さようか。時の流れとはむごいものだな。大津宮はたいそう栄えた都であったと聞くが」


 黄色く立ち枯れた葦の覆う荒れ野の光景に、実朝は強く心を動かされた様子であった。そして


「戦に敗れるとはそういうことだ」


 奇しくも、あの時粟津の沼に立って公暁が感じたのと同じことをつぶやいた。


「壬申の内乱で、天武帝が刃で皇位を簒奪(さんだつ)したことに変わりはない。王権を揺るぎないものにするためには、近江朝も、朝廷を治めた大友皇子も、全てを葬り去ってしまわなければならなかったのだよ。一介の武人は死んで名を残すこともあろう。だが上に立つものは、敗れれば全てが虚空に消えてしまわねばならぬ。帝しかり、将軍もまた、しかりだ」


 そう言って、実朝は薄く微笑し、薄闇が下り始めた庭に視線を流した。静まり返った中、手にした扇が一度きり、鼓を打つように鳴ったのを公暁の耳は覚えている。


 公暁の心はいまだに、少年の頃に抱いた父への冷淡な侮蔑を拭い去れずにいた。母とは心がかよい合わなくなって久しかった。幼少の頃から変わらぬ愛情を向けてくれる政子の心はありがたかったが、しかし時に赤子に頬をすり寄せるようなその情愛は息苦しかった。肉親と呼ぶべき者の中で、公暁が最も愛していたのは、叔父の実朝であった。いや、もしかしたら、公暁が強く愛したのは実朝その人ではなく、実朝の体を支配している虚ろな孤独と闇であったのかもしれなかったが。


「駒若、そなた、命が惜しいか」


 急に、公暁が訊いた。いいえ、と間髪を入れず駒若丸が首を振ると、公暁は好もしげな視線を向けて笑みを浮かべた。


「わしも命は惜しくない。駒若、わしは仇討ちも、叔父上を追い落として将軍に就くことも望んでおらぬ。わしの望みは、この命が戦に呑まれ、劫火の中に鮮やかに燃え落ちることだ。生まれてから今まで、わしはずっと生きることに耐えて来た。人がつむぐ日々の暮らしというもの、命の営みというもの、そうしたものどもと、手をたずさえることが出来たと思うた時もあった。だが、やはり、生きることにおもね、折り合いをつけることはわしには出来ぬ。

 かつて、わが師、公胤は、将軍家の血は乱を引き寄せると言うた。そして備中阿闍梨もまた、わしが戻ったために乱が起きるもしれぬと言うた。それを聞いた時、わしは、この地に乱を呼ぼうと思い定めた。祖父が作り上げた東の都を血の中に沈めようと決した。こうして人を斬っているのは、それはあずまの神への供物だ。誰のためでもない。全ては、ただわし自身のためだ。闇へ投身する手立てに、戦乱ほど望ましいものがあろうか」


 ひと息に言い切ると、公暁は激した心を静めるように、少しの間黙り込んだ。そして再び口を開くと、今度は頬を撫でるようなやわらかな声音で、言葉を継いだ。


「――駒若、この公暁という人間は、死へ向かって駆け上がるより他に生きるすべがないのだよ。参籠に入った時、神仏の前に捧げた供物がもう一つある。わしと叔父上の命だ。乱が起きた暁には、この手で叔父上の命を頂戴すると誓うた。あずまの神は血と残酷を好む。情を抱いている者の命を捧げれば必ずや、願いを聞き届けよう」


 公暁の言葉は駒若丸の胸を突き刺し、美しい楽音のように揺さぶった。絶望や破滅といった感覚は、年若い少年にはあまりなじみのないものである。それだけに、闇に彩られた言葉は媚薬のように強烈に耳を貫き、心に妖しく沁みとおった。不意に目元を濡らした感涙を隠そうと、駒若丸は頷くふりをして顔を伏せた。木々に見え隠れしながら目のふちに射す月の光がまぶしかった。時折ゆるやかな蛇行を表しながら伸びる路には、あいかわらず月の白砂がいっぱいに敷きつめられ、草の影がちらちらと揺れた。先程までと何も変わらぬ景物が目の前を過ぎて行く。だが駒若丸の目には何もかもが、今までとはまるで異なった彩を持って映るように感じられた。


 海へ向かって下るうちに滑川が近づいた。冬のことで水は減り、川音はごくささやかであった。流水のせせらぐ音よりも、冷たく引き絞られた水の匂いが川の近いことを伝えた。枯草の乾いたざわめきにまじった細い川音が、道を行く二つの影を弔い人のように取り囲んだ。


 その時、公暁が手を伸ばし、駒若丸の腕を捕らえてそばに引き寄せた。跡をつけている者がおる、と囁いた。駒若丸も耳をそばだてた。距離があるため不明瞭だが、確かに数人の足音がばらばらとこちらへめがけて駆け迫って来る。


「何者でしょう」


「野盗か、凶賊のたぐいであろう」


 駒若丸にはわざわざ告げなかったが、何か殺気のようなものも背に感じる。公暁が辻斬りを繰り返して世を騒がせたために、それに乗じて鎌倉の町では、道行く者を捕えては手当たりしだいに手にかける凶徒が、夜ごと跋扈(ばっこ)するありさまになっていた。追って来る男どももその手合いであろう、どのみちろくな輩ではあるまいと、公暁は自分のことを棚に上げて男たちを断罪した。


「ちょうどよい、彼奴らを退治するとしよう。駒若、そなたはあのやぶへ身を隠し、そこから見ておれ。よいか、出て来てはならぬぞ」


 笑った口元に月影が射し、歯が銀のようにつるりと光った。公暁が手を離すと駒若丸は脱兎のごとく走ってやぶに滑り込んだ。丸い小葉をつけた細い枝が入り乱れて繁茂し、刺激の強いにおいが濃く立ち込めていた。青くよどんだ影の中に身を沈め、駒若丸は息を呑んで目を凝らした。彼は公暁がゆっくりと視線をめぐらせ、何かを脱ぎ捨てるようにするりと鞘を払うのを見た。鞘の背金の輝きを残して体が躍動するのを見た。だが、そのあとのことは明確には覚えていない。覚えているのは、公暁の太刀が月明かりを従えて細流のように鮮やかに走ったこと、そして木の葉のにおいを押しのけて鼻腔に流れ込んだ、血の臭いであった。


 そして、物音は絶えた。


 地面に転がった凶徒どもの息を確かめると、公暁は袖で顔の血を拭った。全身に滴るばかりに血を浴び、狩衣の真綿はずしりと重かった。唇をゆがめて、公暁は口に流れ込んだ血を唾と共に吐き出した。


 向こうに駒若丸の顔がのぞいた。やぶから滑り出て、転がるように走って来た。


「大事ございませぬか」


 息をはずませながら訊いた。公暁は斬りつけられた背に手を触れてみた。鈍い痛みがある。綿がさえぎったために刃は肉には達していなかったが、打ち身になったようだった。


「公暁様、もしも貴方様がこの者たちの手にかかるようなことがございましたら、わたくしもこの場で自害するつもりでございました」


 熱に浮かされたような目を上げて駒若丸は言った。唇が微笑した。やわらかな曲線を作った口元には、法悦の色がある。あるいは駒若丸は、そのような美しい悲劇を心のどこかで望んでいたのかもしれなかった。急にこの少年が愛おしく思われ、公暁は血に濡れた手を伸べて弟子の髪を撫でた。駒若丸は驚いたように少し息を呑んだ。


 戻ろうと言って、公暁は歩き出した。駒若丸もすぐに従った。どこかふわふわした足取りで公暁のかたわらを歩いている。月で色あせた水干の袖が微風をはらみ、夢幻の中に棲む大きな胡蝶のようであった。事実、駒若丸は夢の中を歩いているような心地がした。肉体から魂が恍惚と遊離し、夜を漂って行くように思われた。目の前の道も草木も全て月の光の中に溶けてにじみ、一つの青い色に混濁して流れて行く。その中で師の姿と、漂う香りだけが明瞭である。それは血の臭いと、そしてかぐわしい香木の香りであった。勤行の時、公暁はいつも香を焚く。肌に深く染みついたその香りが血に濡れてほとび、闇に裳裾のように長く尾を引くのだった。


「夢の中を歩いておるようでございます」


 駒若丸は陶然としてつぶやいた。


「死者の夢の中であろう」


 くすりと笑う公暁の声が聞こえた。

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