祈願成就(一)
公暁が上宮に籠もっているうちに年が明け、実朝は権中納言から権大納言に叙任された。京からの知らせに喜んだ実朝であったが、使者が京へ戻ると、大江広元を呼び、近衛大将の官職に推挙してくれるよう、朝廷に使者を出すことを命じた。実朝は現在近衛中将である。かつて実朝の父、頼朝は、短い期間ではあるが権大納言と右近衛大将を兼任していたことがある。ぜひ、父と同じ官職を得たいからというのがその理由であったが、
「嘘とは申しませぬが、方便でございましょう」
久し振りに上宮を訪れた備中阿闍梨は言った。参籠の間は世俗との交わりは絶つことになっているが、阿闍梨は僧侶であるため出入りしても構わないのである。
「鎌倉殿の本心は恐らく、父君と同じ右近衛大将ではなく、左近衛大将の方でごさいましょうな」
左近衛大将は近衛府の長官である。近衛府は主に大内裏の警護をにない、他には皇族や朝廷の高官の警護や、帝の行幸の際には随員して警備に当たる。大将の官職は左大将と右大将があるが、文官にならい、左大将を最高職とし、右大将をその次位と定めている。以前は右大将から左大将へ遷任するのが一般的であったが、かの藤原道長が右大将を経ずに左大将に任じられてからは、摂関家の嫡流から左大将に直任され、そして左大将から大臣へと昇るのがほぼ慣例となっていた。
つまり、右大将と左大将では、右左の違いどころではなく、天と地ほどの違いがある。右大将に就いた者はそれ以上の出世は望めない。しかし左大将にはその上の大臣の席が半ば約束されているのである。
「やはり御坊が以前申したように、叔父上は太政官を望んでおるのか。だが、何故そうまでして大臣を望まれるのであろうな」
太政官ともなれば、鎌倉に座っているわけにも行くまい。京の御所で朝政を執らねばならないのではないか。実朝は将軍の身でありながら鎌倉を捨て、京に行くつもりなのだろうか。
「鎌倉殿のお心は、わたくしにもはかりかねまする。十二で将軍職に就かれてから、鎌倉殿は自らのお心をずっと隠したまま、今日まで過ごしておられますゆえ。そのような方の胸の内を探るのは難しうございます」
「御祖母様は何と申されておる」
阿闍梨が看破しているくらいであるから、太政官を望んでいる実朝の真意は当然、政子も感づいているに違いない。さぞ騒いでいるかと思いきや、
「いや、尼御台所様は姫君の輿入れに忙しうしておられるためか、取り立てては何も申してはおられぬようでございますが」
姫君とは政子の猶子であった。父は、頼朝の挙兵直後から付き従った重臣、稲毛重成で、政子にも妹婿にあたる。重成は鎌倉での一連の内紛で命を落とし、一族も滅びたのだが、重成の娘が綾小路師季に嫁いで生んだ件の姫君だけは、政子が哀れんで引き取り、養育していたのである。十六才になった姪孫を、政子は縁組みのために京に伴おうとしていたのだった。
「縁談にかかりきりとはいえ、少々気味が悪いな」
「嵐の前の静けさでなければ良いのですが。――ところで、若」
阿闍梨はふと、公暁へ向かって視線を上げた。
「この部屋には、何やら血の臭いが致しまするな」
ちょうど、阿闍梨の身を温めるための薬湯を椀に入れて運んで来た駒若丸は、ぎくりとして、手が震えそうになった。思わず公暁の方へ視線を走らせると、公暁は何のことか分からぬといった面持ちで、目をしばたかせた。
「いきなり何のことだ。案ずるな。肉食などしておらぬよ」
そう言って阿闍梨の言葉をからりと笑い飛ばしたが、しかし阿闍梨は笑わなかった。椀をおしいただいて薬湯をゆっくり飲み干すと、もうおいとま仕りましょうと言って立ち上がった。駒若丸が見送りに立った。上宮から出たところで、阿闍梨は振り返った。
「――駒若丸よ、若に何か、変わったことはあらなんだか」
また一瞬、身の内がひやりとしたが、駒若丸はそれを押し込め、きっぱりとした口調で偽りを言った。
「何も。何もございません」
阿闍梨はしばらく駒若丸のおもてを見つめたが、そうか、と一言言って、くびすを返した。手のひらに冷たい汗がにじんだ。だが阿闍梨の後ろ姿を見送りながら、駒若丸の胸にはある種の勝利感があった。それは、尊敬する師をかばったという、子供っぽい満足感であった。しかしそれ以上に胸を覆ったのは、公暁が夜な夜な繰り返している血染めの凶行の共犯者になったという、妖しい歓喜であった。
師の背負っている血濡れの闇を、自分も共に背負ったのだという思いが、駒若丸の背を押した。
それから数日後、廊下を過ぎる足音に目を覚ました駒若丸は、そっと寝床から起き上がった。足音が完全に消えてしまうのを待ってかたわらの衣を手早く身に着け、上宮をこっそりと抜け出した。八幡宮の東側は御所を始め重臣の屋敷が集まっている。山を下りるならば西側の御谷を抜けて行くであろうと見当をつけ、駒若丸は駆け出した。
この夜は月夜であった。天に架かった銀板は鋭い明かりを容赦もなく地上に撒き、瑠璃のようにまばゆい光は夜を冒す者の身を貫くようであった。駒若丸は一心に山道を駆け下りた。月のせいか、夜闇のせいか、自分の身が驚くほど軽く感じられた。時折、駆ける足が速くなり過ぎて体が宙高く舞うようにすら思われた。そうして坂道が終わる頃、駒若丸はようやく、遠くに、音もなく歩を急がせる公暁の、青い後ろ影を見た。袖を絞った狩衣を身に着けて手には太刀を下げ、そして弓を背に負っている。夢中で追いすがると、駒若丸は公暁の足元にひれ伏した。
「公暁様。――お供させて下さいませ」
公暁は振り返って一瞬、呆気に取られたが、足元に平たくなっているのが駒若丸と気づくと、たちまち両目を鋭く怒らせた。這いつくばった肩を鷲づかみにつかみ、力任せに引きずり上げるや、突き飛ばした。
「たわけたことを申すな。今すぐ上宮へ戻れ」
「戻りませぬ。なにとぞ、なにとぞお供することをお許し下さいませ」
「駒若、月見に出かけるのとはわけが違う。わしの申すことが聞けぬなら、この場で指を斬り落としてくれるぞ」
「構いませぬ。わたくしは、公暁様が人を斬る様が見とうございます」
公暁が辻斬りを行っていると気づいたあの夜以来、駒若丸は以前よりも頻繁に、抜け出して行く足音に目を覚ますようになっていた。足音が廊下の向こうへ消えて行き、沈黙の中に取り残されると、風にざわめく葉音の底に身を横たえながら、駒若丸は夜陰に身を潜める公暁の姿を思った。そして太刀が閃き、あの、大木を野太刀で彫り上げたような体の上を血がつたう様がよぎるたび、心には、あがくような、あえぐような疼きが走った。
駒若丸の訴えに公暁はさすがに言葉を失った。瞬きも忘れて取りすがる駒若丸の目は磨き上げたように光った。翳りも迷いもない、突き上げる激情だけに支配された目であった。瞳の中に薄い炎が青く躍った。かつて比叡山の僧房を襲った時、自分もまさにこのような目をしていたのであろう――。公暁は抜きかけていた太刀を鞘に収めた。
「丸腰で参ったのか。仕方のない奴だ」
それだけ言うと背に負っていた弓とえびらを外して駒若丸の手に預けるなり、くびすを返した。供を許されたと知って駒若丸は勇んでえびらを負い、小走りに公暁の後を追った。
弓は驚くほど重かった。近江で作らせた弓だと公暁は言い、そなたの腕では引けぬ代物だと笑った。しかし振り回せば木剣の代わりになる。そしてこの重さであれば、なまなかの小太刀などよりも余程頼りになろう。公暁もそのつもりで持たせてくれたのだと思うと嬉しかった。
「さて、せっかくそなたを伴うのだ。良き獲物がおってくれればよいが」
八幡宮の脇を抜けながら、まるで弟を連れて夜釣りにでも出かけるような口ぶりで公暁はつぶやいた。
「公暁様。こうやって人を斬っておられるのは、武を練るためでございますか」
かたわらを歩きながら駒若丸が訊いた。公暁の歩む速さに合わせるため、飛び跳ねるようにしてついて来る。道は月の光がいっぱいに張りつめ、踏むたびにぱりぱりと薄く砕けるように思われた。公暁は首を振り、人を斬るのは祈願のためだと言った。
「祈願。何を祈願しておられます」
「鎌倉での戦乱を」
駒若丸は自分の耳を疑った。だが振り仰いでみても、月が強く隈取った公暁の横顔は、とても戯れているようには見えなかった。
「あの、では、今なさってる参籠というのは」
「そうだ。乱が起き、この鎌倉が滅びることを祈願しておるのだ」
そう言って公暁は微笑を向け、駒若丸は返す言葉がなかった。鶴岡八幡宮の上宮は、毎年正月に、実朝の手で国の安寧と五穀豊穣を祈る修正会が行われている場所である。その上宮で戦乱を呼ぶ呪詛を行っているとは。
「――公暁様。それは、仇討ちでございますか」
しばらく考えあぐねたのち、駒若丸はためらいがちに口を開いた。