帰郷 (三)
* * * * *
真夜中、眠っていた駒若丸は胸騒ぎを感じてはっと目を覚ました。枕から頭を上げ耳をそばだてていると、押し殺した足音と衣ずれとが部屋の前を通り過ぎ、闇の中へと消えていった。足音が消えると、上宮は再び押し固めた沈黙と闇の空間に戻った。
『公暁様は一体、いずこへ参られているのだろう』
元のように夜具にくるまりながら、駒若丸は眉をひそめた。
かねてより思い定めた宿願があるとして公暁が参籠を願い出、鶴岡八幡宮の上宮に入ったのは、帰国から三月ばかりが過ぎた、十月のことであった。参籠とは、定められた期間、世間との交わりを絶ち、読経や苦行をしつつ精進潔斎に努めることをいう。参籠の日数には一昼夜、七日、百日、千日などがあるが、公暁が現在行っているのは千日参籠である。そして公暁が参籠に入るのに合わせて、寺稚児である駒若丸も上宮に入り、身辺の世話をしていたのだった。
駒若丸が、真夜中に上宮を抜け出して行く公暁に気がついたのは、参籠に入ってからひと月ほどが過ぎたある晩のことであった。ちょうど今と同じように、部屋の前を行き過ぎる音に目を覚まされたのである。聞き慣れた公暁の足音であることはすぐに分かったものの、しかしそれはいつもとは様子がひどく違っていた。足袋でも履いているのかくぐもった音で、しかもごくゆっくりと過ぎて行く。明らかにあたりをはばかって忍ばせている足音であった。そして足音は、厠ではなく出入り口に通じる廊下の方へ吸い込まれて行った。
そののちも、駒若丸は幾度となく、上宮を抜け出して行く、または戻って来る公暁の足音に目を覚まされた。
『滝行をなさっておられるのかもしれない』
始め、駒若丸はそのように思った。いや、思おうとした。八幡宮を囲む山林の中には幾本かの滝があった。園城寺の開祖、円珍は修験道を交えた教義を説いた人であるから、公暁も役小角行者のように山に入って何らかの修行をしているのだろうと推測してみたが、しかしそれならば、何も秘密裏に行う必要はないはずだった。あのように人目を避け、足音をはばからねばならない理由が駒若丸にはどうしても解せず、その異様さと不可解さのゆえに、日増しに不安を募らせていたさなかだったのである。
先程からしきりに吹きつけていた風がにわかに激しさを増した。重い風音と共に木々がどっと恐ろしげな咆哮をあげ、駒若丸は思わず、床の上に起き上がっていた。緊張した首筋に痛いような冷気が沁みた。先日鎌倉では霜が降った。夜の寒さは既に冬と変わらない。風は弱まるそぶりも見せず、木々の唸りは聞く者を地の底へと引きずりこむようであった。公暁が部屋を抜け出してからゆうに一刻は経っている。凍りつくような嵐の夜をさまよっている師の身の上が案じられてならなかった。心配と、吹きすさぶ風音への恐ろしさとがないまぜになり、体がしめつけられるようであった。
その時、風音にまじって音がした。間違いなく、公暁の足音である。足早に廊下を行き過ぎ、やがて遠くで自室の戸が閉まる音がした。駒若丸は夢中で廊下に出た。それまで抱え込んでいた不安が大き過ぎて、公暁の安否を自分の目で確認しなければ気が済まなかった。ほとんど小走りに公暁の部屋まで行くと、戸の隙間からかすかな明かりの糸が、廊下に伸びていた。
「公暁様」
「――駒若?」
驚いた声がした。声音には変わったところはなかったが、ただ戸の向こうに乱れた衣ずれの音がした。わずかな沈黙があり、
「体を拭うゆえ、水を持って参れ」
戸板越しに、公暁は言った。駒若丸は急いで水を汲んで戻った。しかし、戸を開けて中をのぞき込んだ駒若丸は息を呑んでその場に立ちすくんだ。下帯一つで床に座り込んだ公暁の右の半身が、肩から腕、脇腹に至るまで、塗りつけたように血に染まっていたのである。
「案ずるな。手傷ではない」
慌てふためいて医師を呼ぼうとする駒若丸をとどめ、公暁は血を拭うように命じた。かたわらには衣が丸めて放り出してあり、こちらも赤黒い染みでまだらに汚れていた。駒若丸は布を絞り、恐る恐る体の血を拭った。桶の水がたちまち赤く染まったが、しかし公暁の言うとおり、手傷ではないようだった。これほどの出血ならばかなりの深手を負っていなければならないはずだが、こうして眺めてみても深手どころか切り傷らしきものすら体には見当たらなかった。駒若丸はようやく胸をなでおろした。
「安堵致しました。傷を負われたのではなかったのですね」
「そう申したではないか」
公暁はおかしそうに笑った。背が震えた。小山が鳴動したかのようであった。袖から突き出ている自分の腕に、駒若丸は思わず目を走らせた。枯れ木のように細い腕である。彼は病弱でもなく、幼い頃から武技に励んでもいたが、体の成長が遅いのか十三を迎えた今も女童のように華奢であった。目の前の公暁の体とは比べるべくもない。盛り上がった胸の肉は生身の鎧のようであった。広くいかった背は、郡峰をかついだようだった。太い首筋から肩へ一筋伸びる隆起、つかみ上げたような厚い肩。脇腹には複雑に編んだ縄のような肉の連なりが斜めに走っていた。肌を染めた血は乾いて金属質の光沢を帯び、黄金の薄板を打ちつけたように輝いた。駒若丸は寺門を守る仁王の像を見たことがあった。仏を守護する十二神将の像を見たことがあった。しかし仏師が技をこめたそれらのどの像よりも、目の前の肉体は研ぎ澄まされてたくましい。見つめていると息がつまるようであった。
「――駒若」
急に公暁が振り向いた。襟を捕えて引き寄せ、驚いている駒若丸の目を間近にのぞき込んだ。
「よいか、このこと、他言するでないぞ」
駒若丸が夢中で頷くと、公暁は悪戯っぽく笑った。そして小さな童を扱うように、駒若丸の額を指先で軽く突いた。
部屋に戻ると、頭がぼうっと痺れた。夢と現の中天に浮かんでいるような、頼りない、朦朧とした心地がした。
爪の間に赤く残った血を見ながら、駒若丸には思いあたることがあった。以前より、鎌倉では時折おちこちに辻斬りが出没し、人々を恐れさせていたのだった。死骸は矢で射られているものもあり、太刀で斬り殺されているものもあったが、人々の目を引いたのは死骸に残った刀傷だった。紙でも切ったような鮮やかな切り口で、しかも周りの肉はほとんどつぶれていない。刃筋に狂いがない証拠であった。つまり太刀が相手に当たってから引き切るまでの間、刃が垂直に立ってぶれていないということであるが、闇の中、生きている人間相手に行うのは、口で言うほどたやすい技ではない。下手人はそうとうの腕だと、死骸をあらために来た侍所の者がしきりに感心していたのを、駒若丸は覚えている。
『あれは、公暁様であったのだ』
はっきりした記憶があるわけではないが、公暁が上宮を抜け出した日と、路傍に死骸が見つかった日とは、確かにしばしば重なっていたようであった。
唇の間から吐息が洩れた。駒若丸は以前より、公暁の鍛え上げられた体に憧憬の念をいだいていた。しかしそればかりではない、鎌倉のもののふどもが舌を巻くほどの武技の使い手であったのだと知り、身の内が熱く震える思いがした。侮蔑や恐怖といった感情はいささかも起こらなかった。駒若丸も武家に生まれた少年だけに、強さを求める気持ちは強かった。夜をさまよってはみさかいもなく人を斬り殺す、その暗さおぞましさを厭うよりも、命を一撃で絶つその武技、そして人を斬り殺しておきながら何事もなかったように快活に笑う乾いた冷酷さに、少年の心は激しく惹かれた。返り血をまとった肉体の鮮烈な美しさが目に灼きつくのと共に、公暁への強い崇敬の念が心に沁みとおったのは、この夜のことであった。
(第三話・了)