2章
第二章 Misunderstood
解る。これは夢だ。いつもの悪夢。何度見ても気が狂いそうになる。それは罪。紅月に照らし出された十字架。紅い、アカイ。
磔刑にされているのは彼女。雪のように白い肌には無数の裂傷が刻まれている。瞳を隠す白い布と、衣服と形容しにくいボロ布は赤黒く染まっている。
きっと惨い仕打ちを受けたに違いない。十字架に彼女を打ち付けている杭から彼女の血が滴る。紅い、アカイ。
俺たちは確かに数知れぬ屍を生み出した。だがそれは望まぬこと、生きるために必要だった。
俺は知っている。彼女はそんなことを望んでいなかった。なのに何故だ。お前らが望んだから戦った。なのにお前らは彼女に呪いを吐き、彼女の苦しむ姿を見て観笑する。紅い、アカイ。
そして、狂気の声が上がる。彼女の腹に一本の槍が刺された。それで終わりじゃない。一本また一本と刺されていく。その度にあいつらが喜ぶ。その度に彼女の喘ぎが漏れる。ああ、彼女が死に逝く。何故俺は地面に這いつくばるしかできないのか。紅い、アカイ。
「だったら全てを塗りつぶせばいい、漆黒に。そして彼女の魂を喰らえばいい。そうすれば彼女は君(俺)と永遠になる」
誰かの囁き。とても甘美な提案だ。夢のようだ。そうしよう。醜い声などいらない。彼女の声だけが聞きたい。塗りつぶそう真っ黒に。そして彼女と永遠になる。紅い、アカイ。
解る。これは過去だ。いつもの悪夢。あの日の夢。これは罰だ。
「......っは」
酸素を求める喘ぎ声と共にフェルスは目を覚ました。まだ定まらぬ彼の視野が初めに捉えたのは自分に降り注ぐ無数の銀光。
(ああ、綺麗だ)
しかし世界が像を結ぶと同時にその光の正体を認知する。それは銀の髪、自分に覆い被さり顔を覗き込む少女、アリスのもの。そして、彼はもう一つの状況に気付く。自分の腕が彼女の首へと伸び、自分の手が彼女の首を絞めているという事実に。
「わ、わりぃ」
フェルスが手を離すとアリスは咳き込み蹲る。そして呼吸を整えると彼女はフェルスの瞳を真っ直ぐに見据える。交錯する紅と蒼。
「......鳥篭を壊せば鳥は自由となり、無限に広がる空を得ることが出来る」
紡がれた言葉は冬の情景に似た静謐さを湛える。それに応じるフェルスの声音もまた穏やか。
「されど鳥は空の広さの果て無き恐怖と孤独を知る。何度繰り返しても俺の答えは変わらない。出会ったあの日から、俺はただお前を想う。それだけだ」
「......今のあなたに恥ずかしい科白は似合わない」
「ハッ、よく言うぜ。そういうお前こそ無理ある仮面なんか外せばどうだ?」
アリスは夜空に輝く銀月をぼんやりと見上げる。
「......それでいい。これは私の罪」
憂いを帯びた彼女の横顔、フェルスは柔らかな彼女の頬を愛しげに撫でる。彼女もまた猫の様に気持ちよさそうに目を閉じる
「それでも俺は言う。俺の想いを押し付ける。お前は悪くない、あの子も憎んでいない。だから許せ......」
アリスは暖かい手の温もりが離れたのを感じて目を開く。すると彼女が部屋に入ったときの苦痛に歪む寝顔とは違い安らかものに変わり寝息を立てている。
「......似たもの同士」
小さく漏らすと暖かさを求めるように彼女もまた彼の隣で眠りにつく。
「全く、信じられない! 不潔よ! 風紀の乱れよ! インモラルよ!」
「まあまあ、落ち着いてよ。それに君にだって責任があるんだよ?」
「......何よ?」
「歯軋りがうるさかった」
「なんですってぇぇぇ!」
日が昇ってまだ二時間。一行は街の入り口、神障壁の門の前にいた。神障壁とは有る程度の規模の街ならば何処でも存在する街と外界を区切る巨大な壁のことであり、それは町を囲い、その主な目的は魔獣の進入を防ぐことである。そして、出入りには必ず門を通らなければならないのである。
それにしても、朝から繰り返された光景に流石のフェルスも辟易していた。遡ることまだ薄暗い夜明け前のこと、リットが目を覚ました時、隣で眠っているはずのアリスの姿がないことに気付いた。トイレかと思ったが結構待っても戻ってこない。彼女の頭の中では前日の会話と自身の桃色妄想が融合し爆発を起こしていた。
遂に待ちかねたリットはフェルスの部屋へと駆け込む。そこで彼女が目撃したのは、乱れた寝巻きのアリスが死体のごとくピクリとも動かないフェルスを抱き枕にしているという彼女にとって史上初めての衝撃的光景であった。......そして、一叫び。
「イヤァァァァァァ! フケツよぉぉぉ!」
因みに彼女の叫び声は後に、彼氏を寝取られた少女の霊の悲痛な叫び、通称マンドラゴラの怪と呼ばれ、このホテル・ナカジマを心霊スポットとして一躍有名にしたというのはまた別のお話。
この朝の出来事のため、リットは朝食の最中も、ここまで来る道中も延々と不平を漏らし、その都度アリスにからかわれ、リットが切れるというのを繰り返したのである。
(俺たちを攻略したと自慢げだった頃が幻のようだぜ......)
それは深い溜息をつくと真剣な表情を作りリットに向き合う。
「おい。外に出ると魔獣との遭遇が考えられる。奴らは集団で襲ってくるのが常だ。戦わなくてもいい。生き残れ。状況に気を配り詰みにならないようにしろ。いいな?」
「......わかったわよ」
「OK。それじゃ出発だ」
ジェミニを出発してから一時間弱、彼らは分岐点へと到着していた。木々が鬱々と茂り、陽が斑にしか降り注がない、暗く不気味な森。その先に旧街道が延びていた。
「ここだね?」
「んじゃ行くか」
何の躊躇いもなく歩みを進める二人。一方、素人のリットは森の持つ昏い雰囲気に呑まれ足を竦める。
「あれぇ? ひょっとして怖いのかなぁ? 夢があるっ! なんて啖呵を切った割には大したことないね」
「な......、なにをぉぉぉ!」
しかし彼女の短期を逆手に取った作戦は見事に功をなし、恐怖など感じなかったようにズンズンと森に入っていく。
「ホント、単純で猪突猛進だね」
「ああ、だが、ああいう一直線な奴は意外に必要なのかもな」
「その前に死ななきゃいいけど」
既に彼方まで駆けて行ったリットを見送りながら二人はしみじみと語らう。
そうして、予想外に保存状態の良い歩道を進んで如何程か。先の見えない森を歩き続ける。
「そういえば、昨日の魔人との戦い。あれの解説をしてよ」
迷い込んだような錯覚と長時間の沈黙に耐えられなくなったリットが気を紛らわそうと質問する。
「俺が爆発に耐えたり、目にも止まらない高速移動したことか?」
「そうよ!」
「セツメイメンドイ」
「......はぁぁぁ?」
実のところ相当気になっていたリットは、フェルスのぞんざいな拒否に地団太を踏んで憤慨する。
「そもそも、あんた。ガルムに憧れてたんだろ? なら基礎知識ぐらい知ってろよ」
「しょうがないじゃない! うちの学校は戦闘技術なんて初歩しか教えてないし。麓の町でもそんな本は売ってなかったし。ガルムになる方法だって町の支部で聞いて初めて知ったんだから」
「あんた......。予想以上に無謀な奴だな」
「煩いわねぇ。いいから教えなさいよ」
「分りましたよ。ったく。アリス頼んだ」
面倒くさい説明を押し付けられたアリスは嫌そうな表情をしながらも、何処より取り出し伊達眼鏡を装着し準備をする辺り満更でもないようだ。
「いい? まずは何故炎弾を受けて無事だったか? それは"戒戦"を起動したからだよ。ちなみにこれはマキナを用いた戦闘の基礎部分だよ。通常肉体内で僅かしか消費されていないマキナ。それは殆どが眠ってるだけなんだ。それを活性化させることよって、様々な効果を得られるんだね。君の使ってる肉体強化だって戒戦の一部だよ? まあ、完全に活性化してないみたいだけど。マキナを用いて肉体の強化及び体外に作用を与えることを纏めて戒戦とよぶんだよ」
「先生! 秘法との違いが分りません!」
「うん、そうだね。実質曖昧な部分はあるんだよ。秘法は戒戦の延長線上にあると思ってくれればいいよ。秘法は体外に出たマキナが現象に変化したものの呼称だからね。じゃあ、戒戦とは何かを説明するね。戒戦とは体内のマキナを活性化させ肉体及び体外に効果を及ぼすこと。
第一段階が体内。筋力、五感、再生能力の強化など。この中でも肉体を構成している分子の結合を強化することが重要なんだ。物の破壊は分子同士の結合が壊れることによって生じるんだ。だからマキナでその結合を強化してやるんだね。そして第二段階が体外、物質の強化だね。
物質にマキナを流し先ほどの原理で強化するんだよ。マキナ伝導性が高い物質ほど効果は高くなるよ。因みにマキナの活性化もしていない一般人が魔導機、つまり付加法を使えるのはその微弱なマキナを引き寄せ増幅させてるからだよ。そして第三段階、これも体外だけど、物質にマキナを乗せるんじゃなくて、マキナ自体を体外で維持することだね。秘法もここに含まれるね。使用法はマキナを薄く張って五感の延長として使ったり、まあ、応用法は色々だね。この薄く張るってのは僕たちもしてるんだよ。マキナはそれの持つエネルギーを越えないと貫通されない上に、何を通すかは僕たちの意思次第。まあ、体外で現象に変えていない純粋なマキナを維持することは非常に大変だから、これは防御じゃなくて反射速度の向上として使ってるだよね。いきなりぶっ放されることだってあり得るからね」
「ちょっと、それだけ聞いてると世には超人が大量にいそうね......」
「マキナの活性化、門を開くと形容するんだけど。誰でも開くことはできるんだよ。けど、マキナが暴走して死ぬことも結構あるから危険を減らすために念入りな準備と熟練したマキナ使いが必要なんだ。結局多くの人は開けないでいるのはこのせいだね。それをしても本当に使い物になるのは才能のある一握りか、かなりの努力を積んだ人だけ。だから強力な戒戦を物にできた人の一部分は自分を"次世代者"と呼んで暴挙に出ることも少なくないけどね......」
嘆かわしいと額を押えるアリス。長い説明を延々と行ったわりには元気そうである。
「それじゃ次に、フェルスの行った高速移動について教えてよ」
「あれは簡単な話だよ、戒戦の第三段階の応用だね。様は足の裏でマキナを爆発させ加速しているだけ。"駆爆"というんだけど、扱いにくいから熟練者しか使えないんだ。素人が真似したら勢いのまま何かにぶつかって内臓破裂だよ? 応用で空中での移動とかにも使えるよ。君の疑問はこれくらいかな」
ちょっと試したいと思っていたリットはアリスの例えを聞いて顔が青ざめる。そして、リットは小さく深呼吸をし、息を整えると、果て無き説明を聞いて感じた強い願いを二人に頼む。
「お願い! 私の門を開いて!」
「......お前ねぇ。アリスの話をちゃんと聞いていたのか? 門を開くには入念な準備と覚悟が必要だ。そんな気軽なモンじゃねぇ」
「覚悟ならあるわ! あたしはガルムをやっていくと決めたの。なら遅かれ早かれ必要になるわ。道具が必要なら揃えるし、熟練者だったら目の前にいるしね。追加で報酬を払うからお願い!」
真剣なリットの表情。二人は彼女の意思が固いことを知っているし、彼女の言葉が正鵠を射ていることも理解している。フェルスは肩を竦めると観念する。
「死んでも知らねぇからな」
「ありがとっ!」
三人が戒戦について話し込んでいると、いつの間にか目映い光が差し込んでいた。森を抜けた先に広がっているのは永年風雨に曝され、所々床の抜け落ちた今にも崩壊しそうな吊り橋が一本、底も見えない深い谷に懸かっている光景。さらにその先には再び深き森が待ち構える。
谷から吹き上がる轟々と唸る風に揺られ橋はぎしぎしと音を立てて軋む。リットは生唾をゴクリと飲み込む。そしてある事に気付く。
「ねぇ、あれ、昨日の少年じゃない?」
リットは指差す方向。木々に光が遮られ目視も儘ならないが、森の深くへ進んでいるのが僅かに見える。リットにはギリギリだが二人にはしかと見えた。確かに昨日助けた少年である。
「なんでこんな所に! ちょっと捕まえてくる!」
「おい! 待て!」
フェルスが静止するのも聞かず橋を走り抜けて行く。一人が漸く通れるかという幅にこの老朽具合。万が一に備え直ぐに追いかけることもできない。
「......恐れ知らずだな」
「だねぇ」
「しかし、まずいな」
「まずいねー」
彼らは気付いていたのだ。先刻よりこちらを伺う気配があることに。そして、その気配たちは橋の向こう側から感じるということに。
「感じは魔獣だね」
「だが、動きがおかしい。統率が取れすぎてるな」
「あっちも仕掛けてきたってことかな?」
その時、橋を渡りきったリットから耳を劈く悲鳴が上がる。彼女の周りを、大きさ二米弱の化物たちが囲んでいるのだ。化物、その姿は形こそ熊の様だが、全身を毛ではなくゴム質の皮が覆い、眼窩はから飛び出した血の如き紅い瞳がギョロリと得物を捉える。化物の名は"アンドロ"最下級にして人間にもっとも馴染のある魔獣である。耳元まで裂けた口を開き、舌をチロチロと動かす。奴らの鳴き声は赤子の泣き声に似、聞く者に不快感と恐怖を与える。
リットは突如現れたアンドロに恐慌状態に陥り、身動きが取れなくなる。
「おいおい! まさか、そんな雑魚にビビってんじゃないだろうなぁ!」
しかし、向かい側より響くわざとらしい嘲り、彼の言葉が放心した彼女に突き刺さり、憤怒と共に我を取り戻させる。
リットはフェルスを睨み付けるとアンドロたちの隙間を縫って包囲を脱出。そのまま森の闇へと消え去る。そして魔獣たちも奇声を上げながら逃げた獲物を追いかける。
「あいつ、本当におもしれぇな。肝が据わってやがる。鍛えりゃ使いものになるかもな」
「フェル......、遊びすぎ。あの子に何かあったら話にならないよ。それとも、そうなった方がいいと思ってるの?」
「おいおい、俺はそこまで極悪じゃないぜ」
「よく言うよ。僕が彼女を追いかけるからここに居て」
「いんや、俺は客人をもてなすぜ」
アリスは己の不安を隠すことなく表情に乗せる。
「大丈夫なの?」
「......多分な。まあ。最悪の場合は力づくで頼むわ」
「......分った」
両者が互いを見詰め合って数秒、その後彼らは各々の対象へと向かう。
「我請うは風の神 我欲するは風精の小靴 風精の舞」
アリスの詠唱と同時に右手の紋章が輝き、それに呼応して彼女の足が淡い緑色の光を纏う。
そして彼女が谷に跳躍すると不思議なことに谷底へと落下せず、まるで空中に舞台でもあるように虚空を踏み締める。
「それじゃ、お先」
「お前も気をつけろよ」
フェルスの言葉に笑みで返すと彼女は宙を跳ねて谷を越えると森へと姿を消す。フェルスはそれを見届けると再び来た道へと歩み出す。
「さて、鬼が出るか蛇がでるか」
そして彼の姿も森へと溶けた。
ハァハァハァ.........。リットは乱れた呼吸を整える暇もなく、何処に居るかも分らないアンドロに恐怖し、ただ逃げ惑うのみであった。吊橋から遠く、朽ちて所々の石が砕けているとはいえ、未だ状態を保つ歩道をリットはひたすらに走り続ける。背後ではじわりじわりと迫って来る奴らの気配。それが彼女の精神を恐怖で蝕み、判断力を奪う。
――そして、道の脇より突如現れた新手のアンドロが彼女から正気を完全にもぎ取り、ただ逃げるという選択肢を取らせたのである。
気がつけば四方に同じ景色が続く森の中に迷い込んでいた。自身が今どこに居るのかも分らない不安。奴らにいつ襲われるかという恐怖。更に移動に適しているとはいえない凹凸と障害物の多い地面が彼女から体力を奪う。
「ギヤァァァァァァ!」
(ッ奴らの鳴き声!)
深閑とした木々の間を奴らの怖気が走る醜い声が木霊する。一瞬にしてリットの全身は恐怖で竦み上がり、冷たい汗が滴る。
(これが死に対する恐怖......)
彼女の脳裏を掠める幻影を振り払おうと必死に目を瞑る。そこで思い出したのがあの男の嫌味の数々。リットは自分の頬をはたくと目をしかと見開く。
(私の名前はイングリット・アスター! 雑魚に脅える生娘じゃないわッ!)
覚悟を決めたリットは森を注意深く見回す。
(いた)
こちらに気付いていないのか頭を忙しく振る六匹のアンドロ姿が木々の間から見て取れる。
彼女は一回大きく深呼吸すると、身を隠していた木から出、未だ気付かない一匹のアンドロに向けて手を翳す。
「我請うは無の神 我欲するは破壊の礫 嘆きの涙!」
詠唱とともに手の甲の紋章が光る。直後手の平から放たれたのは一発の光弾。それは目標に直撃。頭部を粉砕されたアンドロは黒い粒子となって消え失せる。
「まだまだ!」
一匹がやられたことによってリットの居場所を掴んだアンドロたちは、その巨体からは予想以上の素早さでリットに迫る。迫りくる魔獣たちに向かって、今度は無詠唱で嘆きの涙を連射する。狙いが定まらない上に、無詠書による威力減少が仇となり、八、九発程を放ち、葬ったのは2匹。残りの3匹が彼女を間合いに捕らえる。
「ウンギヤァァァ!」
大木の如き腕が風を切る音と共に振りぬかれる。発破を掛けた様に抉られたのは彼女が背にしていた木。リットは腕を振る方向を見極めるとしゃがんでやり過ごし、その隙をつき土手っ腹に嘆きの涙をぶちかます。腹に大穴の開いたアンドロはよろめき倒れると粒子と化して消える。リットが一息を吐く間もなく、二匹目が得物を仕留めんと腕を振り落とす。それを地面を転がって回避、葬ろうと手の平をそのアンドロに向ける。しかし、野生の本能が上回る。三匹目のアンドロが射撃体勢のリット目掛けて突進する。
(......あっ、やばい)
駒送りで刻まれるアンドロの動作、徐々に迫ってくる巨体がはっきりと目に焼きつく。その巨体でその速さ。良くて重症、恐らくは死ぬだろう。感覚に感情が追い付かず"死"を実感できずにただ光景が流れるのみ。
しかし奇跡は起きた。今まさに突っ込んできていたアンドロが鮮やかな爆炎と共に四散した。衝撃が体を吹き飛ばし、爆音が耳を叩き、熱が生を実感させる。
「やあ、お待たせ」
唄うような少女の声がし仰ぎ見ると、アリスが長い銀髪とスカートを靡かせながら舞い降りる。彼女の手には黒き銃。彼女は振り返りもせず後方のアンドロを打ち抜く。もんどりを打ちながら消え行くアンドロを気にもせずアリスはリットに微笑みかける。一方リットは警戒心を顕にしアリスを睨み付ける。リットは己の無様さをまざまざと理解している。とすれば、フェルスに負けず劣らずの辛辣な彼女が自分を責めるのは予想に難くない。
「悪かったわよ。勝手な行動して......」
「いやいや、世間知らずの夢想少女にしては及第点だよ。ギリギリね」
「悪かったわね夢想少女で。それにしてもあなたが人を褒めるなんて怖いわね」
「ほめる? ギリギリの及第点で満足してるんだ?」
「前言撤回。やっぱり性格悪いわ」
「謙虚なのはいいことだよ。ホラ見て」
そう言ってアリスが指差した先、そこには数え切れないアンドロの群れが黒い塊と成りてこちらに向かっている。四匹を倒して心身ともに限界のリットは目の前に広がる悪夢に心折れてその場にへたり込む。
「お疲れさま、お嬢様。君はそこで見てなよ。自分の踏み入ろうとしている世界をね」
そう冷笑と嘲りを飛ばすと、手に持った銃で西部劇のガンマン宜しくガンスピンを行うと、押し寄せるアンドロに向けて構える。
彼女の顔には優しき笑み。しかし後に続くのは絶対優位者による一方的な殺戮。銃爪を引き、銃口が怒声を放つたびアンドロの群れが爆炎を上げて吹き飛ぶ。フェルスの言っていた言葉は正しかった。彼女は殆ど力を込めていなかったのである。轟き消し飛ぶアンドロの群れ。
恐怖を揺り起こしていたアンドロの叫びはもはや、赤子の泣き声という形容どおり殺戮に対する悲鳴に聞こえる。自分が命を賭けて戦った魔獣たちをアリスは道端のアリを踏みつぶすように殺し尽くす。自分と少女の距離は果たして埋められるものだろうか? そして彼女の心に芽吹いた闇は更なる疑心を生み出す。果たしてこの少女は自分と同じ人間なのかと......。何時しか轟く銃声は遠のき、リットは思考の底に落ちていった。
フェルスが気配を追い目的地に到着した時、その者は立ち尽くしていた。鳥の囀りすら聞こえず、時が止まったかの様な感覚を抱く静寂に包まれた森の中。その場だけは違っていた。木々は謙虚にも場を譲るように生えておらず、ほぼ円形に開いた枝の隙間から陽が差し込む。その陽光の下、色彩豊かな花々が咲き乱れる。薄暗い森の中、楽園と呼べるだろうその花園の中、一滴の異色が混じる。足元の花々と消して交じることのない真紅のローブを纏った一人佇む者。
フードを目深に被り表情は見えない。
「忌み色の真紅のローブ。あんた、処刑人だな?」
処刑人と呼ばれた者はフェルスの質問に答えることなく腕を上げる。
「召喚"ロード・アンドロ"!」
紡がれた声は自身に満ちた女性の声音。それと同時に彼女の指と指の間に挟んでいた翆緑石が輝き、それを中心に線と素源文字で描かれた円、魔導陣が展開する。
「この声、この術、テメェ!」
目映い光が視界を?き消し、それが収まった時、彼女の姿は蜃気楼のように消え去り代わりに一匹の魔獣が現れていた。
見た目こそアンドロと大差ないがその大きさは5米に達し、岩の様に隆起した四肢は彼の獣が持つ醜悪さを引き立て、延びた爪が彼の獣が持つ残虐性をより明確にする。
「うへ~。こりゃマズイわ」
ロード・アンドロはゆっくりとフェルに顔を向け......
「ギィヤァァァォォォ!」
静寂を切り裂く咆哮を放ち、フェルスに襲い掛かる。フェルスに肉薄すると同時に唸りを発して払われる剛腕。下位のアンドロと段違いの速度を持つそれを後方に跳ねて避ける。
腕の一振りによって巻き起こされた旋風で鮮やかに舞い散る花々。
ロード・アンドロは雪の様に漂う花弁を巻き込みながらフェルスに再接近。左右からの怒涛の連続攻撃が繰り出される。繰り出される腕が嵐ならば右に左にと軽やかに回避するフェルスは舞う花弁か。
しかし、このままでは埒が明かない。タイミングを計ると、刹那にして地面すれすれまで身を屈め地面を蹴って魔獣の脇をすり抜ける。それは魔人との戦いで見せた移動法、駆爆。
得物を見失い混乱する魔獣。背後の存在に気付いた時には既に遅し。空間の歪みから取り出したのは紅き刀身の小剣。それを携えたフェルスは駆爆により瞬間で間合いを詰め、更に地面を蹴って跳躍。すれ違い様にロード・アンドロの首を刎ね飛ばす。斬り飛ばされたロード・アンドロは首諸共黒き粒子へと還っていく。
「やれやれ、面倒なことになってきたぜ」
誰にともなくぼやいたフェルスは優しく照りつける太陽を仰ぐ。
一仕事を終え、アリスらと合流したフェルスが初めに気づいたことはリットの昏い表情だった。確かに今まで幾度となく彼女をからかい、その度に怒らせてはきたものの、彼女のあらゆる感情を削ぎ落とした無表情を見るのは初めてだった。
「......おい、何かあったのか?」
「アンドロショックさ。数頭の雑魚で苦戦したお嬢様に現実の厳しさを見せてあげたんだけど、衝撃が強すぎたみたいだね。まあ、何を考えてるかは想像がつくよ」
ぼんやりと視点が合わない彼女を横目に、これ見よがしな嘆息を漏らすが何の反応もない。
「まっ、この仕事の間だけの付き合いだ。大人しくしてくれるんだったら、こしたことはない。こっちは予定通りにやればいいさ」
「本当はつまらないクセに」
「ウ・ル・サ・イ。それよりもあいつに会ったぞ。アンドロを操ってたのも奴だ」
「......態々自分がきたんだ」
そう漏らすアリスの表情は悔恨と苦悩で歪んでいた。彼女の表情を見詰めるフェルスは徐にデコピンをかます。
「イタッ! 何するんだよ!」
「あいつは自分の欲望に忠実なだけだ。別に昔のことを気にしてるわけじゃねぇ」
そう言ってアリスの頭をポンポンと叩く。
「......そうだね」
それより三十分、リットの発する重たい空気と、光がほぼ差さない森の陰鬱さが交じり合い、一行に沈黙をもたらした。――ふと、リットが急に足を止め、先を歩いていた二人も気付き、振り返る。
「何? やっと話す気になった?」
アリスの問い掛けを無視して、二人を凝視する表情は相変わらず昏く固い。彼女の手は何かに脅えるように小刻みに震え、額から汗が流れる。
「......考えて見たら初めからおかしかったじゃない。あの道は一本道、あなたたちは何処にいたのよ! それと魔人と遭遇した時だってそう、普通なら平常で居られるわけないわよ! きわめつけはあなたたちの強さよ。あんなの普通の人間じゃない......。あなたたちひょっとして」
「魔人じゃないかって言いたいんだろ?」
意中を当てられて慄くリット。恐怖で湾曲された思考はあらゆる事象が負の方へと導く。
「初めに断っておくが俺たちは魔人じゃねぇぞ。今のあんたの状態は駈出しにはよくあるもんだ。そりゃあな、自分が長年培った常識を超えることが次々起きれば混乱もするだろな。だがな、これは現実だ。受け入れられねぇんだったら家に帰って親父さんと涙の再会でもしてな」
「君の夢が口先だけじゃないんだったら、飲み込んで見せてよ。じゃないとガッカリだね」
「......現実......常識......夢」
呆然と口ずさむ言葉のたどたどしさとは裏腹に、彼女の瞳には再び生気と輝きが蘇る。
「......悪かったわね。ちょっと混乱してたみたい。念のためもう一度聞くけど、本当に魔人じゃないわよね?」
「魔人じゃねぇよ。そうだな、強いて挙げるなら悪魔だな」
「それじゃあ僕は幽霊だね」
「はぁ? あなたたちねぇ」
いけしゃあしゃあと冗談を飛ばす二人に、リットは気を張っていた自分が途端に馬鹿らしくなり、脱力して座り込む。彼女の呆けた様子に二人は苦笑し、フェルスが手を差し伸べる。
「それじゃ行くか。目的地は近い」
リットは手を取り立ち上がると、しっかりとした足取りで前へ進む。その先に自分の目指す未来があると信じて。