序章~1章
この作品は23回富士見ファンタジア大賞、二次選考落ちした作品です。
日の目を見る事がなくなったのでここに掲載します。
誤字脱字はご愛嬌という事でお願いします。
この作品を楽しんで頂けたら光栄です。
どんな些細な言葉でもいいので是非感想をお聞かせください!
願わくば、この作品が皆様にとって有意義な物になればと祈っています。
序章
――降神歴824年
轟き。
闇夜の静寂、それを一筋の真紅の流星が切り裂く。
灼熱を纏い、黒煙を引き、大気を焦がし、空を翔るそれが狙うのは整然と並び前進する騎士の一団。彼らは迫り来る摂氏数千度の死神を見るや狂乱に陥る。騎士の矜持を奪ったのは死の恐怖。彼らはそれまで繕っていた秩序をかなぐり捨て、生き残るために千差の行動に移る。ある者は無謀にも盾を構えて防ぎ切る腹を決め、ある者は崩れ落ちた建物の陰へと飛び込み、ある者は恐怖の根源から背を向けて逃げ出し、またある者は蛮勇に狂い剣を引き抜き走り出す。
しかし彼らの迎える結末は一様。即ち、着弾、爆震、爆風、爆炎。死の咆哮と供に荒れ狂う紅熱はあらゆる物質を嘗め融かし、一人の例外も逃さず黄泉路へと誘う。
盾都アイネスフィート。聖都メイテルフィートへと到る四本の道、それを守護する四盾都市の一柱として栄華を極めたこの都は、数多の命がその生を誇り、謳歌していた。
しかし、その栄光は一日の内に幻想へと果て、未だ方々で立ち昇る黒煙がこの都を蹂躙した炎の猛々しさを物語り、また諸処で燻る炎がいかに数多の騎士たちが灰に帰したかを証明する。
今や栄光の都は名も無き英雄たちの墓標、否、現世の地獄へと化したのである。
そして、灼熱の砲弾が飛来した闇の彼方より、唯の一体でこの地獄を創造した存在が姿を現す。膨大な熱を帯びているが故に生じる陽炎を纏いしその巨躯は紅き狼。されどその足は人と同じく二本で大地を踏み締め直立し、頭からは一対の角が槍さながらに突き出し、その隻眼は己の力の自負を湛えた金色の色彩。......そう、その姿はまさに化生、古き世界の伝説に謳われし炎の魔獣。魔獣は自らが薙ぎ払った都の大路を悠々と闊歩する。その様は征服者が己の力を誇示するかのようである。
「......こりゃマズいねぇ。わざわざかち合わないように遠回りしたってのに。神様は俺たちの命をご所望ってか? 泣けてくるねぇ。どうするよ相棒?」
魔獣の眼前、狭い脇道の出口辺りで積み重なった瓦礫の影。そこに嵐が過ぎ去るのを待つ小動物さながらに、気配を消し、身を縮める二人の青年の姿があった。
この灼熱の地獄を長時間這いずり回ったのであろう、全身は灰でくすみ、頬は煤で汚れ、二人の気配は絶望の色が濃い。
「......ウィル、よく聞け。奴は俺が引き付ける。お前はいま来た道を戻り聖都へと向かえ」
そう告げた黒髪の青年の手は恐怖で震えている。しかし、その瞳は確固たる決意の炎が静かに揺れる。
「馬鹿か、お前? 冗談は酔っ払ってヘベレケになった時だけにしろよなぁ。お前のキャラじゃないだわ、そういうの」
ウィルと呼ばれた青年は、灰まみれの金髪をかき上げ、煤で汚れていなければ女性が心奪われそうな快活な笑みを浮かべ、相棒の案を一笑した。一方、文字通り決死の覚悟を軽く一蹴された青年は、そのあまりに軽い相棒の態度に、怒りで硬く握った拳を細かく震えさせる。
それでも尚、何とか説得を試みようと口を開こうとするが。
「ジャンよぉ、お前、そんなんだから未だに飯屋のかわい娘ちゃんを落せないんだぜぇ」
ブチッ! ジャンと呼ばれた黒髪の青年は脳の血管が切れる音を聞いた気がした。怒髪天をつく、怒りで白熱していく視界、そして間近に迫る死神の存在を忘れ怒声を放つ。
「アイナのことは今はどうでもいいだろうが! 分かっているのか? お前はもうすぐ子供が生まれるんだぞ! こんなところで死んでいい訳がないだろうが!」
怒りで顔を真紅に染め、肩を震わせる相棒の姿をウィルは嬉しそうに眺める。
「それこそだ。俺のために命を張ろうっていう親友を置いて帰ったらイルに殺されちまう。そもそも、そんなことはおれ自身が許せねぇ。帰るときは一緒だ。死ぬときだってな。相棒!」
「お前という奴は......」
ウィルの言葉で落ち着きを取り戻したジャンは、数秒目を閉じ、そして厚い雲で覆われ、一片の月光も注さない夜空を見上げる。彼の腹も決まった。
「ウィルよ。俺は行くぞ。逃がしてくれた隊長には申し訳ないが、それでも奴をこのままにはしておけん。それに、例え無駄死になろうとも奴に一泡吹かせないと気がすまん」
「騎士の誇りってかぁ? くだらねぇなぁ。まぁ、その下らない誇りは俺も負けてねぇよ。二人して雁首そろえてあの世にいったら隊長にぶん殴られそうだけど......。いっちょう死神に中指立ててやりますか」
二人は互いに笑いあう。童子のような無邪気さで。自分たちの愚かさを、自分たちの下らない誇りを、何より自分たちの生き様を。
「愛してるぜぇ、相棒」
「気持ち悪いことを言うな馬鹿が」
そして王者の如き魔獣と対峙する。両者の距離はおよそ二百米、しかしその間を置いて尚、彼の魔獣は巨大さを保つのだから、二人にとってまさに天を衝く存在である。
「ふむ小物が、鼠のように瓦礫に紛れていたら見逃してやったものを......」
化生の口から紡がれたのは流暢な人語。壮年の男性と思われる重農な声音は確固たる威厳を保ち二人の行動を嘲笑する。
「おいおい、まだ剣も交えてないのに三下扱いするなよなぁ」
圧倒的な死の気配を前にしてもウィルはいつもの軽い調子を崩さず戯けてみせる。
「ほぉ、我が人語を喋るのを不思議に思わんうえに、恐れもせんか」
よほど意外だったのか魔獣は自身の驚きを隠そうともしない。相対するジャンもまた恐怖を見せぬ剛毅さで答える。
「当然だ。我らは辺境の出、中央の都会人ならばともかく、俺たちは魔人という存在がどのようなものか知っている」
「ふむ、最近は人のことを化物扱いする愚か者がほとんどだったからな。辺境から此処まで生き残った者に会うのは今日だけで二回、良き日だ。しかし、それならば幾度か戦ったかもしれんな?」
「いやいや、運が良かった悪かったか、かち合わせたことないんだわ。まっ、ここに入ってからは一度あんだけど、隊長がアンタのやばさを理解して俺たちを逃がしてくれたのさ」
「しかし、それでは我らの誇りが許さん! 辺境無敵と謳われた我ら三騎士の武、貴様の命で証明せん!」
「なるほど、あの女騎士の部下か......。何を隠そう、我の左目はあの女に取られた。心躍る良き戦であったわ。クハハハ、それならば貴様らとも良き戦いができそうだ」
魔獣はこの時はじめて相対する二人の騎士を注視する。
二人は対峙した者の瞳が、表情が何を思っているかは分からない。しかし、感じるものは有る。眼前の巨大なる獣は自分たちを騎士と認めていると。
わずかな沈黙の後、魔獣は咆哮する。それは宣誓、正当なる戦いの号令。
「ならば名乗らん! 我が名はフリード、リスアメスの覇王なり!」
魔獣の咆哮は恐怖の権化、聞けば万人の心を折るだろう、しかし、二人は意識が遠のきそうな圧倒的な気配を前にしても尚、己の得物を構え宣誓に応じる。
「我が名はジャン! ソニウムの葬雷、自由なる騎士なり!」
「我が名はウィル! ソニウムの葬風、自由なる騎士なり!」
『我が信を以て進を成す! 振り向きし時は唯死あるのみ』
三者の宣誓が重なる。古来より伝わる決闘の儀、この瞬間両者の間に築かれたのは尊き戦士たちの決闘場。その場において天を衝く魔狼も、非力なる鼠も意味を成さない。勝者は己の道を往き、敗者はただ大地に臥すのみ。
機先を制したのはフリード、拳を引き、渾身のストレートを放つ。しかし、その攻撃はニ百米の距離の前では無意味な行動である。そう、その一撃と供に放たれた灼熱の砲弾こそが滅殺の理。黒煙を引き飛翔するのは騎士たちの一団を消し去った滅びの流星。
『我乞うは風の神 我欲するは暴龍の風壁 凶風の断崖』
二人が言葉を紡ぐと同時に両者の右手の甲に紋章が浮き上がり淡く輝く。すると、彼らを中心にして緑色に発光する風が渦を巻き始め、遂には二人を完全に内部に収めた風の半球が出来上がり、二人を守護する暴風の鎧と化す。
直後、流星は風の半球に直撃、爆炎が空間を焼き払い、爆煙が死地を覆い隠す。
フリードは己の一撃の戦果を見極めんと、朦朦と立ち込める闇夜より濃い黒煙の先を目を細めて注視する。
すると、黒煙の向こうより数十の氷槍が風を切り、フリードを穿たんと殺到する。
その速さは雨の如し、気を抜けば瞬く間に針鼠が出来上がるだろう。だが、騎士の対する相手はその巨躯に似合わず俊敏。悠々と回避する。だが、魔獣は己の迂闊さを悔いることとなる。
氷槍が打ち出された元より強大な力のうねりが高まっていくのを感じる。氷槍は回避させるのが狙い。必殺を期するための偽装でしかない。
そして、ジャンとウィルの切り札が今放たれる。
「秘技、葬雷絶断」「秘技、瞬風突貫」
二人は同時に鞘に収めていた剣を引き抜く。雄たけびと共に引き抜かれたジャンの横薙ぎの一閃は紫電を纏い空を駆け抜ける。
囁きと共に引き抜かれたウィルの横薙ぎの一閃は横に走る竜巻となり空を突き進む。
しかし、驚嘆に値するのはここからである。二人が同時に繰り出した技が互いに交じり合い、高め合い、新たなる秘技となる。
『そして見よ! 双技、葬瞬雷風!』
紫電を帯びた螺旋の風槍はまさに疾風迅雷。その威力は単純に互いを足したものを遥かにしのぐ。回避のために体勢を崩している上に、刹那にして眼前に迫った一撃を流石のフリードも回避することは叶わない。ならば、咄嗟の反応で左腕を差し出し防御に移る。鮮やかに咲き乱れる紫電の火花、全てを削らんと荒れ狂う暴風。二重の嵐を前に魔獣の左腕はもぎ取られる。
されどそこまで。二人の放った最高の一撃はそれを超える一撃が無いことの証左。彼の一撃を以てしても命を刈り取れなかった以上、二人の命運は削れていくのみ。
魔獣は左腕を失いながらも揺らぐことの無い闘気を放ち、敬意を表するに値する騎士たちを静かに見据える。
「クハハハ、少々勇み足ではあったが肝が冷えたわ。良き戦であった。惜しいな、実に惜しい。もしも貴様らが三人揃って我に挑んでくれば、あるいわ我の死地になっていたかもしれんな」
その意味をジャンたちはより深く理解していた。聖都への伝令などというが、実の所それが自分たちを地獄から逃すための隊長の口上であることぐらい瞬時に理解できた。しかし、それに唯々諾々と従ったのは単純に死ぬことに対する恐怖からである。彼らは自分たちの命惜しさに隊長を見捨てたともいえるだろう。それは責められるべき罪ではない。眼前の化生は避けて通れるならこしたことのない言わば天災。誰も止められなかった故に人類の要たる聖都まで王手をかけられたのだ。だが同時に隊長を見捨てた瞬間に二人がことこの魔獣との戦いにおいて決着がついていたというのも事実だろう。
このとき奇しくも敵味方の区別が掻き消え両者違う場面ながらも同じ人間を想った。
あるいわ夜空に咲く花火の如き鮮やかな戦いの記憶。あるいは共に駆け抜けた嵐の如き日々。
しかしそれは刹那の幻。針が一刻みすれば現実へと還り、そこは命を貼る鉄火場となる。
「せめてもの手向け、手加減はなしだ。苦しむ間もなく天へと昇れ」
厳かに告げるとゆらりと右腕を天へと掲げ手を開く。するとそこに夜には無き輝きが生まれる。それは小さき太陽、燻る炎しか光源が存在しなかった現世の地獄に光が溢れる。だが、太陽はただ生命を祝福するだけのものではない。近づきすぎた愚者には炎の制裁を。つまりはそれである。いまや魔獣と同じばかりの尺となった炎球は鮮やかに闇を喰らい、噴出す紅炎は新たなるくべ木に手を伸ばしているように見える。
二人は理解した。あれの前では自分たちは如何なる術も持たず、焼き払われる有象無象であることを。そして腕は振り落とされ太陽は流れ行く。
「ここまでか......」
「わりいなイル、俺ここまでだわ」
諦観が口をついて漏れ出たが、彼らの体は、魂は諦めずに剣を構える。例えそれが無意味な行いであったとしても。
数瞬の後、悲鳴のような爆音が死した都に響き渡る。白光は闇を切り裂いた。業炎は周囲の建造物を飲み込んだ。熱波は廃墟を切り崩した。それは紛うことなき破壊。その一撃は無力なるモノを無へと帰す。
二人は溢れる光の中、己の終わりを感じていた。しかし、その光が収まったとき、彼らは自分の眼前に未だ魔獣が君臨していることに驚愕する。
「おいおい......。天国でも死神がウェルカムかよ」
「むしろ天国だから死神が居るのではないか? そもそも俺たちは助かったようだぞ。あれのおかげでな」
ジャンの指し示す先、太陽が迫り来る前には存在しなかった一振りの剣が大地に刺さっていた。十字を象った白銀の剣。柄に填め込まれ深い輝きを内在する翆緑石を除き、目立った意匠の施されていない質素な剣。しかしそれには見た者を跪かせる畏敬が宿っているように感じる。
その剣が刺さっている所より後方が灼熱の陵辱から守られていることより、この剣が二人の命を繋ぎとめたのは明白である。
「ちょっと、あなたたち! まだ生きてるかしら?」
ふと、甲高い少女の声が響く。二人は場違いなその声の主を探し周囲を見回す。
「上よ、上!」
その声に釣られ見上げると闇夜の空より何かが矢の如き速度で急降下してくるのが目に入り、二人は慌てて回避に移る。だが明らかに相手の速度が勝っている。ジャンたちは地に伏せ己が命運を天に任せる。
しかし彼らを襲ったのは衝撃ではなく強風であった。吹きすさぶ嵐、ジャンたちが恐る恐る顔を上げた時、そこには更なる驚愕が待ち受けていた。
龍が眼の前で滞空していたのである。
人とは殆ど見えることのない幻獣の中の幻獣......。その中でも最も位が高いとされる銀龍が手を伸ばせ触れられるという距離で滞空しているのである。
「あなたたち無事かしら?」
ありえない現実により忘我状態の二人に声が掛けられ、その伝説の銀龍の背に人が乗っているという事実が彼らに混乱という追い討ちをかける。
「ちょっと、そこどきなさい」
彼らが反応する間も無く、二つの影が大地に降り立つ。自分たちよりも頭ひとつ小さい者と、更に頭半分小さい者の二人。両者とも灰色のローブを纏いフードを目深に被って表情が読めない。ジャンたちは彼女らの井出立ちに銀龍との遭遇とは別の驚きを覚えた。
彼女らの纏っている灰色ローブ。そのローブは現在の人類と同義であるマグダリア教において最高位に位置する霊皇と九人の霊君しか着ることの許されないはずの最も尊き僧衣。
されど、その僧衣を着られる者が前線に居る訳が無い。ならば二人の思い至る選択肢は一つしか存在しない。即ち彼女らが救世の勇者、またはそれに連なる者であるということ。
――救世の勇者。いと尊き十聖神が罪人たる人間を計るために与えし大いなる試練、不浄なる存在である魔を根絶やしにし、神の土地の回復を目的とする神聖なる"贖罪の大戦"それは凡そ百年に一度"紅ノ塔"の出現により始まり一人の聖人によって納められる。大戦を終わらせるその者こそ救世の勇者である。
「しかし、あんたたち。近年稀に見る愚か者ね。奇跡を三回おこしてやっと勝てそうな化物に喧嘩を挑むもの? 意味あるかしら?」
背の高い方が自己主張するように半歩前に出、毒をたっぷり塗した嫌味を吐く。彼女の言葉、何より誇りと意地を賭けて戦いを喧嘩と評されたことに二人は憤怒した。
「俺たちは奴の左腕を奪い取った。それは無意味ではあるまい! それ以前に貴様の物言いは奴に挑み命を落した数多の騎士たちを貶めている。そのような暴言が許せるか!」
「そうだぜぇ、俺たちはともかく。大勢仲間が死んでんだ。その言い方はヒドイんじゃないかいお譲ちゃん?」
お譲ちゃん呼ばわりされたことが気に入らなかったのか、少女から怒気が滲む。しかし彼女は鼻を鳴らして魔獣を見据える。
「左腕一本? 数多の犠牲? ハッ、笑わせないでよ。あいつは生きててあんたたちは死にそうだった。それが結果よ。まぁ、時間稼ぎになったことだけは評価してあげようかしら」
彼女の言葉は辛辣ながらも一片の真実を帯びている。冷徹に言ってしまえば倒すべき敵を倒せなければ犠牲に意味など存在しない。否定の仕様もない事実に二人は押し黙る。彼らとて敗者なのだから。
「そこまでだ小娘。奴らは誇りに殉じたのである。それを何人たりとも汚すことは許さん!」
もしも彼女の表情が見られたのならば、さぞ目を丸くしていた違いない。魔獣が、しかもたった一体で人類の咽下まで剣を押し付けた魔王が人間を尊ぶなど有り得る筈がないからである。
「あーあ、がっかりだわ。一人で聖都を脅かす奴がいるって聞いてたから興味があったけど......。これはつまらない戦いになりそうね」
よほど落胆したのであろう。傍目からもその様がありありと分かる。
一方、フリードの反応は真逆。全身から憤怒の炎を撒き散らし激昂する。幾度の戦火を越えて無敗、その武は最高の誇りであると共に生の全て。それを一度も剣を交えていない少女に踏み躙られ、あまつ唾まで吐かれたとなれば彼の怒りも詮無いことである。
「我がつまらぬかどうかは剣を交えればわかること......。小娘、先制は貴様にくれてやる。さあ参れッ!」
フリードは気品を捨て去り獣の如く咆哮する。対する少女は何処吹く風。憤怒の咆哮を微風かと受け流す。
「そうね私が相手を務めてもいいけどやめておくわ。私がやると四分六って所かしら。あなたのお相手は楽しそうだけどこんな所で躓きたくないわ。どうしてもと言うのだったらそれなりにはやらせてもらおうかしら」
その不思議な物言いにフリードのみならずジャンたちも困惑する。あの少女は一体何を言っているのだと。彼女は自分の不利をあっさり認めたのである。
「......小娘、いったいどういう意味だ?」
全く要領を得ない少女の言葉に堪らず問いただす。
「ああ、そうね。確かにこれでは意味が分からないわね。個人的にはあなた自身はとても心踊る存在だわ。でも――」
「......クォーツ。彼が来ます」
冬の湖畔を連想させる静かな少女の声が遮る。それはこれまで一言も発せられなかったもう一人からのもの。それを聞いた彼女は何故か憮然とした声音で続きの科白を紡ぐ。
「――でも、あなたが相手にするのは、史上最も狂った御使いだからよ」
瞬間、二人の少女の前で光が弾け次第に眩さを増していく。そして遂に極彩が闇を染める。
光が収まった時、そこには一人の青年が立っていた。
灰色の髪に灰色の鎧。風に靡く真紅の腰布が見た者に炎の幻影を焼き付ける。眼を覆う仮面はそこから漏れる感情の一切を封じ込め、彼が紡ぐ気配は夜の静寂。
ジャンとウィルは救世に勇者という言葉から生じる想像と凡そ真逆の印象を持つこの男に恐怖すら感じた。
「ラピスラズリこれか?」
「ええ。そうです」
静の問いの応答もまた静。先ほどまでの闘争の灼熱、その空気すらも凍てつかせるかと思わせる二人の遣り取り。その中に、唯一人、フリードだけはその心を闘争で滾らせる。
従者の少女を以て自身の武をつまらないと言わしめる程の力、それを眼下の青年が宿しているというのだ、覇に生きる者としてはその力量を計らずにはいられない。
「勇者よ、剣を抜け! 我が名はフリード、汝の力を我に示せい!」
爆ぜる空気、裂帛の意気、軽く受け流してきクォーツすらもその覇気に一歩後ずさる。
「忠告する。この場を去り二度と表舞台に姿を現さぬというならば命は取らん」
炎と氷、猛と寂、?み合わぬ二つの歯車に拉致は無し。
名乗らぬばかりか、明らかに見下した勇者の振る舞い。愚か者に寛容さなど持ち合わせていない。フリードは己の全ての力を引き出し最後にして究極の技を放つ。
「必滅浄炎! 名乗らなかったことを涅槃で悔いるが良い!」
爪より吹き荒ぶ劫火、それは全てを焼き払う浄化の炎。
そして魔狼は遠吠えと共に陣風と化す。尾を引く蒼炎は触れぬ物すら溶解させ駆け抜けた後に真紅の線を残す。
対する勇者は圧倒的な滅びを前にしても泰然自若。――と、いつの間にか手にした蒼く透通る大剣を徐に構える。腰を落し、半身を反らし、剣を地面と平行に構えるそれは突き。
そして、わずか数瞬、魔狼は勇者に肉薄し、処刑宣告を振り落とす。
「葬龍・滅蒼」
ふと漏らした呟きと共に、己を覆い隠す現生の魔獣に構えた剣を突き出すは勇者。
「これは......」
しかして生み出された現象によってフリードは驚嘆の響きを吐き出す。
突き出した刀身から溢れ出す光は剣と同じ蒼き輝き、それは刹那にして闇を?き消し、洪流となりて魔を?み込み、それでも止まらず、光の流れは遂に天を覆い隠していた雲を突き破る。
そして光が消えた時、数十万もの騎士を消し去り、世界を震撼させた魔獣は体の半分を残して過去と果てた。
圧倒的、もはやこの者を形容するに相応しい言葉は有り得ないだろう。
一方、死地を脱したジャンとウィルは救われたという事実に反してその心には虚しさが巣くっていた。リスアメスの覇王フリード、八度繰り返された百年に一度の聖戦、その歴史において初めて魔の側から攻め込み、中枢たる聖都に後一手という処まで手を掛けた神の大敵。
その侵攻を止めるため死んでいった歴史に残らぬ騎士たち。自分たちを逃すために命を落とした隊長、そして自らもまた死神の顎が閉まる手前までいったのだ......。しかしこの全てには意味があった、人類共通の敵である魔王、それを滅するという義務、命を賭けるに値する命題であり、同時に騎士たちにとって誇りある宿願である。そして、結末はどうであれ、歴史の一帯に己の存在を刻みこめる最高の舞台でもあった。......そう、あった。自分たちを救った少女は騎士たちの誇りも夢も意味が無かったと言い放ち、勇者は唯の一撃で何十万の騎士たちが遣り遂げることの出来なかった偉業を成した。
ならば騎士たちの魂は何のために在ったのか? 隊長の死は何のために在ったのか? そして自分たちの想いは、血と汗は、恐怖と勇気は何のためにあったのか。そう自問せずにはいられなかった。
勇者の放った蒼き光が穿った雲の間隙、降り注ぐ月光は紅、その中で一人佇む勇者。二人にとって彼の方が、剣を交えた魔獣よりも余程得体の知れないモノに感じた。
「ねぇ、あなたたち。これから前線に向かうんでしょ? だったら私たちと一緒に行かないかしら? 雑用が欲しかったしね。どうかしら?」
突然予想外の申し出をされた二人は沈んだ感情と相俟って咄嗟の反応が出来ずにいた。
「これからは普通の旅だからね。多い方が楽しそうじゃない? 旅は道連れってね。それにあんたたち、知りたいんじゃない? 自分たちの存在意義をね」
クスクスと嗤う少女。二人は自分たちの悩みを見透かされ奥歯をかみ締める。......しかしそれも一瞬、彼らの意思は少女の最後の言葉を聞いた時に固まっていた。
かくして、史上最高と謳われる救世の勇者、灰被りの騎士の伝説は吐息も凍る冬の日、紅天の階段の逸話と共に幕を開けた。
――しかしそれも巡る歴史の一編に過ぎない
かつてこの世に災い在り
天を覆いし紅の光は一夜にして人の定めを二つに分け
魔なるモノを地上に放った
絶望は世を蝕み、魔なるモノは人の終焉を欲した
そこに一筋の光明が現れり
一人の聖女は神と共に魔なるモノを薙ぎ払い
人々に生きる術を分け与え、穏やかなる世を取り戻した
されど、げに愚かしきは人の罪
魔の甘言に乗せられし人々は聖女を磔刑に処した
神は嘆き天へと還り、世の闇もまた息を吹き返す
そして神は人に罪と試練を与えた
百年に一度、人は魔を討つ宿業を背負う
身命を賭して神命を全うせんとするも魔は深き
神は慈悲を与えん
即ち神の代行者、終結の福音、救世の勇者なり
繰り返されること八度
人は再び魔の深淵に震え絶望する
しかし等しく希望在り
朽ちた盾、彼の者は閃光と共に降りたたん
纏いし神気は金剛の如し あらゆる邪悪は触れること叶わず
翳す蒼剣は光 あらゆる暗黒は暁に消える
瞳を覆いし仮面はその者の悲哀を隠し
身に付けし灰色は嘆きの一切を荷う
闇の昏さと光の眩さは等しきもの
故にこの者 真の勇者なり
「ウィリアム・グラスハープ 白灰騎士物語」序章より
第1章 Girl Meets Legend
――降神暦924年
「皆さん今日は! あたしの名前はイングリット・アスター。只今、非常にピンチです!」
空から優しく陽射しが降り注ぐ明るい午後。左右を深く、一度入り込めば妖精の世界に辿り着きそうな森に阻まれた、ひたすら直線に延びる街道。一人の少女が石畳を高らかに踏鳴らし、純白のローブを風になびかせ駆け抜ける。年の頃十六、七歳、血色の良さそうな頬は紅く染まり、大粒の汗が肌をつたう。ショートポニーの金髪は風に煽られボサボサに乱れ、鮮やかな翠色の瞳は酸欠で濁り気味である。
――なるほど、訳が分らない科白を吐くのも納得のいく状態である。
では、何故そうまでして走らねばならないのか? その理由は単純明快、明々白々。彼女の後方、斧を振り上げ"俺たちゃ盗賊"と激しく自己主張している三人組が、つかず離れず追い掛けてきているのである。その三人組というのがまた奇妙にバランスが取れている。まずは小、激しく縦方向に挑戦している矮躯、その姿は緑小悪鬼と見間違えられそうな程である。 次に中、がりがりに痩せた姿はそのカクカクとした動きと相俟ってデッサン人形を連想させる。
最後に大、この三人の中において明らかに雰囲気が違う。鍛え上げられた肉体は石膏の彫刻並みに硬質であり、堀の深い顔は眉間に刻まれたしわにより強面を引き立たせている。......とはいえ前を行く二人同様に斧を振り上げ少女を追いかけているのだから同じ穴のムジナなのだろうか。
入り口も出口も見えぬ一本道、走れど走れど同じ景色。地元民に曲がり角のない迷路と称され、通るのを忌避されていることをイングリットは知る由もない。どれ程走ったのだろうか、彼女の体力はすでに尽きかけていた。もはやここまで......、我らが神は迷える子羊をお見捨てになられたのか? そう思い始めていた時。
「よう、あんた。ひょっとしてお困りかい?」
この森に入ってから今まで、後ろから追いかけられても横を誰かが並走したことはない。前からなら認識できるので左右の森から出てきたというのだろうか? 平常なら訝しむところだが現状が彼女の判断力を奪い、問いの主に普通に返答する。
「見てわからないわけ? ピンチよ、ピンチ! うら若き乙女の人生存亡の危機よ!」
「いやいや悪いね。一応確認しとこうと思ってな。俺はこういうモンだ」
そう言って差し出された名刺を受け取るため、初めて青年の姿を見る。ただ手で撫でただけのようなボサボサの長髪は墨で描いたかと思う漆黒。長身痩躯ながら風が吹けば折れそうな感じではく大木然としている。見た目は二十歳前後、若干目つきは悪いものの、その顔貌は端正。
一見すると女性にも見えるかもしれない。但しその顔には人を小馬鹿にしたような嫌味な笑みが浮かんでいる。そして一際特異なのが彼の服装。黒のシャツに黒のネクタイをだらしなく締め、上から黒のロングコートを着ている。加えて、パンツにブーツ、填めている指輪まで真っ黒である。イングリットは彼の瞳、この世において最も忌むべき色――真紅、それも相俟って彼を死神のようだと感じた。
「もしもし? 聞いてるかい?」
彼の問い掛けで我に返り名刺に目を落す。
「なになに? 何でも屋"天狼の双牙(ファングス オブ フェンリル)"フェルス・ブルームーン?」
「その通り! 飯を二人に奢るのと引き換えにあんたを助けてやるぜ。良い話だろ?」
「何でも屋? ガルムってこと?」
ガルム、それは報酬さえ支払えば如何なる仕事も引き受ける傭兵のことであり、彼らはガルムになることによってそれまで所属していた国家から脱却し、国家から受けていた保護、即ち権利を失う代わりにあらゆる義務から解放され完全に自由な身分となるのである。
魔獣が跋扈する現代社会において、彼らは騎士団だけでは守りきれない都市防衛において大きな存在意味を持つと同時に法によって束縛されない危険分子でもあるという側面を持つ。
しかし、彼らの存在なくして平和を保つことは儘ならないと言っても過言ではない。
「まぁ、そんな所だ。あんな三兄弟、一瞬にして屠ってやるぜ」
未だ追ってくる後ろの三人の顔が熱した鉄のように真っ赤になっている。おそらくはいい感じに頭に血が上っているだろう。もし捕まってしまえば自分の運命がどうなるのか? あまりに想像しやすい自分の末路に彼女は頭をぶんぶんと振ってその絵図を?き消す。
「三兄弟? まぁ、いいか。わかったわ、契約してあげる! その代わり負けたらあの世に逝っても付き纏ってやるんだから!」
「オーケー。契約成立だ。喜べアリス、久々にまともな飯にありつけるぞ!」
「最高だね!」
イングリットは誰も居なかったはずの左隣から鈴の音の様に透通った声がし驚き見る。
そして彼女の思考が停止する。そこには天使という形容が相応しい美少女がいたのである。
自分より頭半分小さい少女は年の頃十四、五歳だろうか。本物かと紛う銀糸の長髪、肌は初雪の如く白く透通っていると同時に柔らかそうである。服装はフリルのついたワンピースにブーツ、フェルス同様に填めている指輪すら黒色である。しかしその服飾の黒が雪肌と目映い銀髪をより引き立てる。その佇まいはさながら生きた白陶人形といったところか。
だが、イングリットが最も惹かれたのは彼女の瞳、まるで本物の青金石を填め込んだような深い蒼色は見たものを妖しく誘う煌きを秘める。
......ふと、少女はイングリトに正に天使の笑みを浮かべる。
「初対面の人の顔をじろじろ見るのは失礼だと思うよ?」
アリスの美貌に見入っていたイングリットは少女の言葉で正気に戻り赤面する。
「ふっ、可愛いは正義だ」
「脳ミソの腐ったようなこと言ってないでさ、僕はオナカが空いたよ。ここから一時間くらいで町に着くからさ、さっさと片付けてお昼にしようよ」
アリスはフェルスの半ば本気の言葉を一蹴、余程空腹なのか昼食に執着する。そして彼らは急遽反転、コートとスカートをそれぞれ翻し追ってくる三兄弟(仮)と対峙、遅れてイングリットも向き合う。
「やいやい、テメーラ。一体何処から湧いて出た? まぁ、得物が増えたからいいか」
「待て、兄者。明らかに奴らはおかしいぞ。いきなり現れたように見える」
「じゃかましい。細かいことは気にするな! おい男、女と有り金を差し出せば命だけは助けてやるぜ?」
「お待ちになってお兄様。女はいらないからあのイケメンと有り金でいいじゃない?」
「それも待て、兄者たち。人身売買は外道のすることぞ。そのようなことに手を出すのなら俺は抜けさせてもらう」
やけに甲高い声の緑小悪鬼が長男、オカマ言葉のデッサン人形が次男、見た目通りのごつい声で意外にも真面なことを言うのが三男。彼らはフェルスたちをそっちのけで口論を始める。
「えっ? あれ本当に兄弟なの? なんで分ったのよ!」
「第六感だ」
イングリットの至極真っ当な疑問は、フェルスの適当な返答で終了する。その間三兄弟の方も結論に至ったようで、再び殺気を?き出しにして睨め付けてくる。
「やいやい、微笑する十神も泣き出すジェミス街道の悪魔、ザミーマ三兄弟とは我らのことよ。命が惜しければ有り金置いて立ち去りやがれ」
長男は精一杯胸をそらし、睨みを利かせ威圧する。......が、逆に滑稽な空気を醸し出していることに気づいていないのは当の本人だけである。
「そうかいザマース三兄弟。だが生憎と俺たちも忙しい。命が惜しければ金になりそうなものは全て置いて俺の目の前から消えろ! はっはっはっ!」
自分の科白をそのまま返された上に嫌味な笑みを浮かべるフェルスに、長男は顔を茹で蛸のように顔を赤くして怒り、次男は何故か頬を染め、三男は無表情と三者なんとも協調性のない反応を示す。
「誰がザマースだ、ザミーマだろうが! やいやい、テメーラ、大分嘗めたことを言うじゃねぇか? 命は助けてやろうと思ったがやめだ。お前ら全員地獄をみせてやるよ。文句はないな兄弟たち?」
「異論ないわ」「仕方あるまい」
他の二人の同意を得て更にヤル気を漲らせる長男。一方、イングリットはフェルスの胸倉を掴み非難する。
「ちょっと、あなた! 殺る気にさせてどうするのよ!」
「まぁ、落ち着けって。こう見えても俺たち凄腕よ? あんな四下に負けねぇって」
フェルスは掴んでいる手を解きながらイングリットを諭す。しかしその発言が再び三兄弟の怒りに油を注ぐ。
「誰がカスだって? マジ許さねぇ。 本気と書いてマジ許さねぇ......」
「はっ。許さなくて結構だ。こっちも四下と書いてカスだ。ザマーみろ」
何が様を見ろなのかは取り合えず、フェルスは不適な笑みを崩すことなく更に挑発を続ける。
だが、三兄弟は反応を見せずただ殺気を滾らせて己の得物を構える。いよいよ戦いが始まるのか? 緊張が高まる中フェルスは三兄弟に向かって勢いよく指を刺して叫ぶ。
「よし、行けアリス! こんな雑魚どもは一掃だ!」
『って、ちょっと待てい!』
奇しくもこの瞬間、敵味方の垣根を越えてイングリットと三兄弟の意見が一致した。
「普通、あれだけ吐いたんだから、あなたが戦うところでしょう!」
「テメーさてはヘタレか?」
「ヘタレでもいいわ、イケメンだから!」
「正にくずだな」
敵味方、方々から散々な言われようである。しかし当の本人は全く意に介していない。
「ったく。これだから素人は困るんだよ。そんなんじゃ、男女平等参画社会の波に乗遅れるんじゃねぇの? 俺があんたらを相手にしない理由が三つある」
フェルスは肩を竦めてから三本の指をビシりと三兄弟に向かって立てる。
「まず一つ、俺は腹が減ってこれ以上動きたくない。二つ、アリスが俺より弱いとは限らない。そして三つ、どっちが相手にしてもあんたらが四下であることに変わりない」
フェルスは笑みを深めて言い放った。彼の瞳には圧倒的優位者の持つ憐憫の光が映し出されていた。それに気付いた長男は赤色を越えて噴火寸前、他の二人も遂に険悪な空気を放つ。
「漫才終わった? ......フェル、おなか減ったっていたよね?」
それまで静観していたアリスがフェルスに声を掛ける。いい加減シビレを切らしたのか浮かべる笑みに怒りのオーラが混じっている。
「いやー悪い悪い。あんなおもしろい三人組はそうそういないからさ」
「そうやって雑魚で遊ぶのはフェルの悪い癖だよ。治さないと冥府に送っちゃうぞ」
イングリットはここにきて初めてアリスの天使の如き微笑が仮面で、その裏に悪魔の性が存在するのではないかと疑いをもった。
「しょうがないなー。僕が四下の皆さんの相手をするよ。ささっと終わらせてお昼を食べたいからね。本で良い所見つけたんだー」
アリスは相当その店を気に入っているようで目を輝かせる。一方、明らかに身体的に劣っている少女にすら虚仮にされ、長男の激情は火山の如く噴火する。
「おいガキ、もう許さん。おまえは血祭りだ。盾突いたことを地獄で後悔させてやる。くひひひ......。おい兄弟たちあれをやるぞ。いいな?」
切れた兄に何を言っても意味が無いことを知っている二人は無言で従う。それは、長男、次男、三男と敵に対して一直線に並ぶ陣形。
「......なにそれ? ホント時間の無駄だよ......、三人による連続攻撃が目的でしょ、それ? でも意味無いよ」
「......よく分ったなガキ。旧世界の動画情報から天恵を得た我らの陣。時間の無駄かどうかは受けてからかんがえやがれ。血達磨になれい! いくぜ、弾丸暴走特急!」
長男は叫ぶと同時に駆け出し、それに次男、三男と続く。その名の通り中々の勢いと圧力。彼らは瞬く間にアリスへと殺到する。
「ちょっと! あの子大丈夫なの?」
「大丈夫かって? お笑いにもならねぇよ」
顔を青くして心配するイングリットに対してフェルスはつまらなそうに肩を竦める。
それは迎え討つアリスも同じ。眠たげに目を擦り欠伸をし、緊張感の欠片もない。
「きょぇぇぇぇぇ!」
まずは長男、奇声を発して斧を構える彼が狙うのはその矮躯を活かして足。しかしアリスは払われた斧を軽いステップで跳躍し長男の顔面を踏みつけ、そのまま後方へ蹴り飛ばす。
続いて次男、間髪をいれずに斧を上段から振り落そうとするがその斧がアリスの頭部に届く直前、手首をアリスに掴まれ軽く引っ張られる。するとどうだ、彼の体は空中で車輪の様に回転。そのまま延びている長男の上に落下する。
そして三男。機動力こそないが前の二人によって絶妙のタイミングで到達し、自慢の豪腕を活かして横に一閃、薙ぎ払う。しかし、風を斬る小気味のよい音はするも肉を断つ手応えがない。それどころか目の前の少女の姿が消失している。そう、彼女は三男に肉薄すると同時に闘牛士よろしくヒラリ、一瞬にして彼の後方に廻ったのである。背後を取られたことに気付いた時には後の祭り。アリスはちょんと彼の背を軽く押し、それだけで勢いに乗った彼のバランスを崩す。そして三男は折り重なった兄弟たちの上へと倒れこむこととなる。
見事に三兄弟を制したアリス。しかしまだである。彼女が徐に手を開くと水面より浮かび上がる様にして、何もない空間よりある物体が滲み出る。それはか細い少女の繊手には違和感しか生じさせない硬質で無骨な黒き鋼の回転式連発拳銃。
「踊れ、クリムゾン・ウォルター」
彼女は銃を向けると同時に言霊を唱え引き金を引く。そこより放たれたのは弾丸ではなく小さき火花。だがその種火は三兄弟に直撃するや否や雷のような轟きを伴って見事な花火を咲かせる。三人は黒こげとなり漫画さながらに宙を舞い、何とも間抜けな格好で地面に突っ伏す。
ここまでくると彼らにも同情の余地があるかもしれない......。
「あれ生きてるの......?」
「大丈夫だろ。流石のアリスも手加減ぐらいしてるさ。多分......」
「多分ってあなた、そんな適当な......」
あまりに派手な爆発を目の当たりにしたイングリットは三人の生死を本気で心配する。一方、フェルスはそんなことを聊かも気にせず軽い歩調でアリスに歩み寄る。
「よっ、お疲れ」
「ハラペコだよ......。やることやって早く行こう」
彼はアリスの頭をポンポンと軽く叩き労をねぎらうと、二人して気絶(?)している三兄弟の体を徐に弄り始める。
「ちょっと! あなたたち何しんのよッ!」
「あんた、さっきから驚きすぎだぜ? 少し落ち着けよ。そんなんじゃ、脳の血管が切れちまうぜ」
しかしながらイングリットの疑問は当然のことだろう。普通の人間は悪漢を成敗したとはいえ、逆に彼らから金品を強奪するという行為には至らないだろう。
「うん? さっきフェルが言ったじゃないか。金になりそうな物を置いて去れってっね。僕たちがわざわざ相手をしたんだから、まっ、レクチャー料ってやつだよ」
二人は三兄弟から一通りの金目の物を回収すると一箇所に集める。フェルスがそれに手を翳すと空間が歪み、次の瞬間には綺麗に掻き消える。予想外に収穫が多かったのかフェルスたちはホクホクと満足げである。そして仕上げとばかりにいつの間にか手にしている縄で三兄弟をグルグル巻きにし、蓑虫の如く木に吊るす。もちろん頭は下向きで。
「ふっ。悪の栄えた試しなし。良いことをした後は気持ちがいいねぇ」
「何が悪よ! あなたたちの方がよっぽど邪悪じゃない! 何盗賊から金巻き上げてるのよ!」
「おいおい、アリスも言っただろ? レクチャー料だってな。こいつら相手が俺たちで幸せだぜ。もし正規の騎士団とかだったら間違いなく殺されてるな。こいつら戦闘経験があるみたいだが、おそらく下級の魔獣止まり。あの陣形には致命的な欠陥があったしな」
「致命的な欠陥?」
「あの人たち神秘術を使わなかったから普通の人間だろうからね。警備隊なら普通の人間でも銃は所持してるし、騎士なら言わずものがな、そもそも神秘術を使える一般人にあったらいつか狩られてたよ」
「つまりトーシローが気取って陣形を組んだところで、個人の力が追い付かなければ意味が無いってこった。そのことに気付かせてやって命も取らない。レクチャー料を取ったってバチはあたらねぇだろう。はっはっはっ!」
「命はとらないって......」
三兄弟は若干焦げている上に逆さにされて顔面がいい色に染まっている。
(これほっといたら死ぬんじゃ......)
イングリットの杞憂を察しもせず、フェルスは大口を開けてゲラゲラと、アリスも口元を押さえクスクスと笑う。釈然としないイングリットは良識を持ち合わせているのだろう。
「さて、そんじゃ契約通り俺たち二人に飯を奢ってもらおうか」
「最高だね!」
天も翔け出しそうな愉快な歩みで遠ざかって行く背中。イングリットは宙吊りになった盗賊たちと前を行く二人を見比べ一つの結論に至る。そして、森の木々で休んでいた鳥たちも一斉に飛び立つくらいの声量で高らかに宣言する!
「決めたわ! 人格的にはちょっとアレだけどあなたたちにするッ! どう? 望む金額を払ってあげるから私の護衛してくれない?」
突如背後から大音量を浴びせられた上に突然の提案。振り返ったフェルスらの表情は怪訝を形作り、意味が分らないと眉をひそめる。
「何よ! 不満なの?」
全肯定的な反応が返ってくるとは期待していなかったが、もう少しまともなそれが返ってくると思っていただけに彼女の口調には刺が混じる。
「そんなことよりもご飯が先だよ」
「そうだな、飯が先だ」
先の大財よりも目先の小財。二人にとって最優先事項はあくまでも風船のように空になった腹を久々の食事で満たすこと。そのことに気付いたイングリットは脅迫じみた行動に出る。
「それならいいわ! あなたたちが首を縦に振るまで梃子でも動かないんだからっ!」
二人は顔を見合わせて溜息をつく。
「やれやれ。フェル、この手の人物に心当たりがあるのは気のせいかな?」
「いや、激しくあるな。一度決めたら頑なな我侭お嬢様......、仕方ねぇな」
「しかたないねー」
二人し先程より大きな溜息をこれ見よがしに再びつく。
「わかりましたよ。お嬢様。あなた様の申し出、謹んでお受けしましょう」
「初めからそう言えばいいのよ。さっ、行こう」
したり顔をしズンズンと歩き出す少女に二人は肩を竦めて付き従う。
秋も中頃、麗かに天が歌い、涼しい秋風が森をまにまに吹き抜ける心地よいある日の午後の一幕。少女はいつかの伝説に出会い、この出会いもまたいつの日に語られるかもしれない。されどそれは未だ来ざるもの。今ここに居る誰もが踏み出された一歩に気付くことはない。神話の終わりの物語が今始まったのだ。
「まったく、がっかりだよ......。予定では一時間でついて少し遅めの昼食になるはずだったのに、どこかの誰かさんが足を引っ張ったおかげで少し早めの夕食になっちゃったよ」
特別メニューでもあったのだろうか。時間が遅れたことを未練がましく、明確な嫌味を込めてその原因に向かって発砲する。その対象は頬の筋肉を痙攣させつつも耐え抜いている。時刻は四時も中頃。
三人は街に到着するとアリスおすすめの食事処へと向かった。時間が食事をするには中途半端だからか、人影こそまばらだが、木を基調にした暖かく落ち着いた雰囲気をもった感じのいい店である。
アリスは嫌味に耐えている彼女を気にも留めずに食べ終えた皿を重ねる。そう、重ねる。だが、その量は半端ではない。アリスの前に置かれた皿の高さは腰掛けた彼女の背を越え、その列は小柄な彼女を覆い隠す。彼女の小躯のどこにこの量を収められたというのだ。天使の如き少女が凄まじい量を食べているというギャップから、周りの客はちらちらとこちらを伺い見る。
「まぁ。そう言ってやるなよ。よくよく考えて見れば俺たちがそれなりに飛ばして一時間だぜ。一般人がついてこられるわけねぇよ」
「でも、フェルはともかく、僕が運んであげるっていう提案も突っぱねたんだよ」
「いいじゃねぇか、こうやって飯にはありつけたんだし。可哀相だからもう許してやれよ。あっ、お姉さん、新しい注文いいかい?」
......可哀相? 彼の科白には大いに疑問が残る。何故ならば彼はアリス以上に飯を平らげているからである。しかもまだ食べようとしている。遠慮なんて言葉は彼らの辞書にはないようだ。
四人がけの丸テーブルの上、彼らの創出した皿は摩天楼さながらに天井へと伸び、その建造物は群れを成し、縮尺された大都市を作り出す。そして、その一角。都会の潤い、自然公園のようにそこだけ皿が少ない。ここの料金を払うイングリット・アスターさんその人の前である。
彼女は雇用者二人の暴挙を可能な限り視野に入れないように、一人、ゆっくりとスパゲッティーを口に運ぶ。......しかし。
「......ん? そういや、いまさらだけどあんたの名前何だっけ?」
ブチッ! 彼らと出会ってそこそこ時間が経過したが、その間一度たりとも名を聞かれなかったばかりか彼女の存在をなおざりにし、黙々と皿を積み上げた二人。加えて一般人の範囲で可能な限り走ったにも関わらず足手まとい呼ばわり。たしかに運んであげると言われたがどう見てもえずらがわるい。挙句どうでもいいけどという雰囲気で名前をきかれた日には誰だって気分を害するのも無理からぬことだろし、イングリットはそもそも短気である。
今まで耐えてきた激情が遂に理性の堤防を流し去り激流となりて放出される。彼女は想いのまま強烈にテーブルを叩く。すると、高くそびえ立っていた皿の高層群が陶器のすれる小気味のよい音を立てた後、無残にも倒壊する。そして響く崩壊の大合唱。
「おいおい、ご乱心かよ。嫌だねぇ、最近の若者はすぐ切れる」
「こわいねー、お皿だって只じゃないのに」
突如勃発した事態にも慌てることなく、自分たちが食べていた料理を保護する辺りやはり彼らはある種の兵に違いない。我関せずと再び食事を始める二人。ウェイトレスが手際よく破砕した皿を片付けイングリットの前に素晴しい職業微笑と請求書を置いてにこやかに去っていく。
その額5万ユニ、割った数に対して割り引いてくれたのかもしれない。すこし安い。まぁ、それが皿一枚の値段から考えて見ればかなりの金額ではある。
さらに料理を頼む痴れ者たちを見てイングリットの表情は麻痺しているかのように痙攣を起す。だがここで怒っては無意味な上に、堂々巡りで話も進まない。彼女は大きく深呼吸をして怒りを制御。今出来る最高の笑み(若干引き攣ってはいるが)を二人に向ける。
「ところで皆さん。そろそろ仕事の内容について話をしたいんですけど?」
怪しげな笑顔にいままで聞いたことの無い敬語、フェルトとアリスは本気で切れていることに気付き渋々食事を中断する。イングリットは満足げに頷くと話し始める。
「名乗り遅れたけど、私の名前はイングリット・アスター。よろしくね。依頼内容は私の仕事が終わるまでの間の護衛よ。そうね、長くて三日ってところかしら」
「んで、あんたの仕事内容って何よ?」
「最近このジェミニの町の付近で魔人の目撃例が相次いでいるのよ。何度かの捜索の結果、彼らの居住地が見つかったらしいんだけど、そこの偵察が私の仕事内容」
――魔人、それはかつて一日にして人類の半分を消し去った災禍、"紅ノ一夜"、その後より現れた闇の眷属たちのことである。そして同時期に現れた、かつて神話に謳われたであろう禍々しき獣たちを魔獣と呼称する。
話しは戻り、イングリットの答えにアリスは首を傾げる。何か思うところがあるのだろう。
「ちょっと待ってよ。つまり君ってガルムなの?」
「......そっ、そうよ。まだ駈出しだけどね」
「じゃあ、あんた神秘術が使えるのか?」
「説明しよう! 神秘術とは人、いや万物が有する魂、そこより生み出さる創造のエネルギー"マキナ"を用いることによって因果を無視した奇跡を創出する術のことである。神秘術は三つの系統が存在する。一つ目は、通常、肉体内でごく少量しか使用されていないマキナを様々な方法で増幅させ、体外までの放出を可能にし、マキナを術者の想像で以て現象に変換する"秘法"。二つ目は、マグダリア教の預言者の一人、ソフィア・アイオーンによって記されたソロモンの書。そこには、森羅万象全てを創造・支配する術が記されていたのである。この世全ての現象を記すことの出来る文字"素源文字"、それを用い、言葉を作り、文を成り立たせ、その式に動力となるマキナを注ぎ現象を具現化する。これを"付加法"と呼ぶ。一度成立した式はマキナさえ与えれば誰でも使用できるため重宝されているが、その式の作成には莫大な知識と緻密な技術が必要とされるため、職人でなければ手が出せないのが現状である。そして三つ目が"神法"。これは聖女マグダリアの死後、魔と戦うために神より賜りし術で、手の甲に信仰の証を刻み、神へと祈り、マキナを神に献上することによって神よりそのお力の一端をお借りするという奇跡なのである! 以上が神秘術の体系である!」
「......ねぇ。大丈夫......? その頭とか」
「アリスよ言ってやるな......。きっとあいつにも悲しいトラウマがあるんだろう......」
二人とは言わず周りの人間から何だか可哀相な人を見る様な視線を送られ、イングリットは冷静に今の自分を観察する。一人席から立ち上がり右の一指し指をピンと立て、得意げに神秘術の講釈をしている自分......。
(......うん、完全におかしい人だ、あたし)
「......ゴホンッ! 神があたしに向かって神秘術の解説をせよと言っていたような気がしたのよッ! まぁ、今まで知らなかった人もあたしの話を聞いて理解したはずよ! この件は忘れて! ......そうそう、神秘術の話だったわね? あたしは肉体強化が少々と無神の攻性神法が多少使えるわよ。しかも低位なら無詠唱で撃てるんだから!」
イングリットは態とらしく咳払いをし、恥ずかしさのあまり捲し立てる様に喋り続けた。二人はそんな彼女を生暖かい目で見守る。流石の二人も可哀相な少女の空気を呼んであげたのである。
「ん、なんだ? つまりあんたは無詠唱で神法を撃てるのにわざわざ盗賊に追われてたのか? 意味わかんねぇな」
フェルスの疑問も尤もである。危機に瀕している状態でそれを打開できる術を持っているのに使わないというのはどれ程の愚者か? 返答しだいでは彼女との契約も見直さなければならない。彼らの眼光は専門家の鋭さを宿す。
「カノン(カノン宿)に曰く、"神の御技は魔を払い人を癒す術である"盗賊とはいえ人間だからね、使わないのは当然じゃない?」
しかしアリスの目が泳いでいることを見逃さない。
「それ嘘だね? 略奪は聖典を犯す行為。それを行った時点で彼らは咎人となって裁かれる立場となる。それにその件は今となっては有名無実、余程の狂信者でもない限り守ってないよ」
そんな世間の常識すら思い至れなかった自分をイングリットは内心で激しく詰る。
「わかったわよ......。私が無詠唱で撃てるのは本当よ。けど力加減ができないのよ。そんなの普通の人間に撃ったら殺しちゃうじゃない。それに逃げ切れる気だったし、いざとなれば肉弾戦でどうにかするつもりだったし」
彼女の答えが余程気に入らなかったのかアリスはかつて無い冷笑と蔑視を以て返す。
「つまり君は殺す覚悟も持ってないのにガルムをやれると思ってるんだ? 正気の沙汰じゃないね」
イングリットはその言葉に過敏に反応し、牙を剥いてアリスに噛み付く。
「あたしはもっと多くの人を助けるためにガルムになったの! 人を殺すためじゃないのよ!」
「甘いね......、自分の身を守れない奴が誰かを助けられるわけないじゃないか! そんなんじゃ――」
「そこまでだ、アリス」
先程までとは違う明確に分るほどの険悪な空気を漂わせる二人、このまま続けていたらどうなるかは火を見るよりも明らかである。最悪の展開になる前にフェルスは二人を止めに入った。
「落ち着けよアリス。いつものお前らしくないぜ。それとあんた、こいつの言っていることも一理ある。自分の身も守れないようじゃ半人前以下だ。もっとも、自分が死んでも絶対に誰かを傷つけたくないっていう強い誓いでもあるなら別だけどな。ガルムの世界ってのは完全なる自由だ。そこに自分を律するルールを持ってる奴がいても他人は口出しする権利はねぇ。組むかどうかは別としてな」
「......別に、自分の命より悪人の命の方が大事とはいってないでしょ......」
「それを聞いて安心したぜ。俺たちは狂信者って奴が何よりも大嫌いだからな。綺麗事を言う人間ほど胡散臭い奴はいねぇ。あんたも気をつけな。それはそうと、ここまで食わせてもらったんだ、契約はするぜ。報酬は仕事の後に出来高払いだ。それと契約書に眼を通しといてくれ。文句はないなアリス?」
「別にいいよ。蓄えられるときに蓄えないとね」
不承不承といった感じだがアリスからの了承も取り付け、どこからともなく取り出した契約書をイングリットに渡す。しかしその契約書を見た瞬間彼女は唖然とする。普通契約書というのは薄紙数枚程度だろう。しかしこれは違う、厚いのだ、かなり。人の頭めがけて振り降ろせば撲殺できるかもしれない。もはやこんな物は契約書とは言わない、辞書である。
「何よ......、これ......」
受け取ったイングリットは言葉少なく呆然としているが、渡した張本人はあっけらかんと契約書の表紙、同意文のところにサインを求める。
「そこ、そこに名前を書いて、親指で判子な! なんでこんなに厚いかって? この業界もイロイロあるんだよ。内容は契約した後にじっくり読めばいいさ。何、大したことは書いてないぜ」
まるで詐欺師のような論調だが上手い具合にイングリットは丸め込まれ印を捺そうとしている、と、その寸前、何かを思い出したようにその手がピタリと止まる。
「そういえば、そっちの子が強いのは見たけど、あなたはどうなのよ?」
彼女はジト眼でフェルスを睨み付ける。しかし、その視線を受けるフェルスは涼しげな笑みを浮かべる。
「ははーん。その目は俺を疑ってやがるな? いいぜ、見せてやるよ! 俺の実力ってやつをよ! そこのお姉さんオーダーよろしく!」
とフェルスは態々少し離れたところにいた美人のウェイトレスを呼び寄せる。やけに自身有り気な彼の表情にイングリットは出会ってから今まで抱けなかった期待を抱く。
(まさか、あのウェイトレス、魔人が化けていてそれに気付いていたというの!)
イングリットが勝手な妄想で盛り上がっている内に件のウェイトレスがやって来る。
――すると、フェルスはウェイトレスの腕を掴み、吐息がかかる距離まで顔を引き寄せ囁く。
「よぅ、あんた。どうだい今晩俺と食事をしないか?」
確かにフェルスという男の外見は大半の人間がイイ男と認めるだろう。しかし女性を口説くのに必要なものはそれだけではないのも確か。ウェイトレスはそんな状態であっても完璧な笑顔を作り鉄壁の言葉を紡ぐ。
「お客様、ご注文は何でしょうか?」
「......それじゃあ、ティラミスを三人前」
非の打ち所ない仕事ぶりに釣られて注文をしてしまう。背筋を伸ばし威風を漂わせ去って行くその後ろ姿をフェルスは見送ることしかできなかった。そして漸く泰山鳴動鼠一匹、自分が見事な職業技術を以てかわされたという事実に気付いた。
「ははは......、おかしいな。いつもだったら上手くいくんだぜ」
フェルスが同伴者二人に視線を戻した時、そこには二柱の修羅が降臨していた。
「......よく分ったわ。あなたがどうしようもない節操なしの女たらしだっていうことがねッ! っていうかあなたの実力なにも関係ないじゃないッ! ......どうしてくれようかしら」
確かに見えた。彼女の背後に炎が燃え立ち憤激の表情をし、巨大化していく修羅のイメージが!
「ちょっと待て。まぁ、落ち着け」
彼は出来うる限り最上の愛想笑いを浮かべ宥める。
「フェール」
そこに響く猫撫で声。フェルスの前身に悪寒が走り、アラートが脳内でけたたましく金切り声をあげる。反射的に頭を伏せると今しがた頭部が存在した位置を何かが走り抜けた。そしてそれは幸せの絶頂にあった一組のカップルに災禍をもたらす。フェルスの真後ろの席、初々しく食事をする若者の男女。青年がカルボナーラを口に運ぼうとしたその時、フェルスが回避した何かが彼の後頭部に直撃。彼の頭は不可視の巨人に押さえつけられた様に皿にダイブ。料理を四散させそのまま気絶する。彼女の方は突如発生した異常事態に悲鳴をあげて慌てふためくのみ。
一人良識を持ち合わせイングリットはこの事態に驚愕する。アリスの手には例の銃、おそらくは彼女がこれを撃ったのだろう。
「やるじゃねぇか。今のは危なかったぜ。でもまだま――ぐはぁ!」
フェルスの言葉を遮り何の躊躇もなく次弾を発砲。これをかわすこと叶わず、吹き飛ばされ主に後方で気絶している青年を巻き込みながら床を転げまわる。
「......お、お前......、普通一発撃ったら次は撃たないのがお約束だろうが!」
「関係ないね。いつも言ってるけど、僕の前で女の人を口説くと冥府に送るよ」
「......成程、お前の言い分は分った。でもな、やりすぎだろ! 見ろよ、俺の一張羅が料理で汚れちまっただろうが! いつもバカスカ撃ちやがって......。今日という今日は我慢できねぇ。
お前をキャンキャン泣き喚かせてやる」
ニコニコと明るい笑顔のアリスとニヤニヤと嫌味な笑みのフェルス。両者の表情とは裏腹に放たれる殺気が吹雪となりて店内の客を切り裂く。店内の人間全員が彼らの殺気にあてられ動くことも儘ならない。その中、イングリットは渾身の力で席から立ち上がると息を大きく吸い込み、最大限の音量で叫ぶ!
「いい加減にしなさーい!」
響き渡る超音波、爆心地に居た二人は流石に堪らず顔を歪め耳を塞ぐ。乱れた息を整えたイングリットは、肩下げ鞄から札束(食事代、修理代もろもろを含めても十分すぎる額)を叩きつける様に置くと未だ聴覚障害の治らない二人の手を引き颯爽と店から出て行く。突如発生した局所吹雪に曝された客たちは三人の鮮やかな撤退にただただ呆然とするのみであった。
イングットたちが店を出た時、既に日は傾き始め、太陽が地平線に帰る直前の輝きで街をオレンジ色に染め上げていた。されど、相も変わらない風景画が目の前で展開され、イングリットは深い......深い溜息をつくしかなかった。やっとの思いで店から連れ出したものの、二人は激しい口論を続けて動こうとしないのである。イングリットの眼には対峙する龍と虎の姿がまざまざと浮かび、今話しかけると自分も巻き込まれそうで如何ともしがたい。とは言え、さっきから通り過ぎていく人々が何とも不思議そうに視線を投げかけてくるのは関係者とし苦痛でしかない。ここが小道なのが不幸中の幸いではあるものの、このままではいけない。
「ちょっと、あなたたち! これを見なさい!」
関係のない人間の言ならば無視するところだが、彼女は一応暫定雇用主である。二人は渋々視線だけをそちらに向ける。そこには先程の分厚い契約書があり、イングリットが捺印した痕がある。
「これで正式にあなたたちの雇用主よ。すぐに喧嘩をやめなければ即刻契約を破棄して、天狼の双牙(ファングス オブ フェンリル)は口喧嘩をやめなかったことで契約を破棄されたヘボ二人組みだって言いふらしてやるんだから!」
二人は一瞬視線を交わし恭しく返答する。
『分かりました、お嬢様』
彼らはプロであることを自覚している。ガルムにとって偉業と達成率こそがブランド・イメージであり、当然これが悪いと仕事が取れなくなる。ガルムの世界ではイングリットとフェルスのように偶然出くわした同士が契約を結ぶことはあまり多くはない。基本的に協会を通して契約を結ぶ。当然そういった所に依頼する人物は業界の内情を知っており、危険な人間には依頼をまかせない。謂われない悪評ならばともかく、明確な証拠を伴った証言ならば被害は甚大である。二人は大人しく従った方が吉と判断した。しかしイングリットは勝利を確信した笑みを浮かべ、彼らの最後の抵抗すら許さない。
「お嬢様って言わないでね。リットでいいわ。よろしくね」
『オーケー、リット』
「こっちからもプレゼントだ」
フェルスが差し出したのは彼らがしているのとお揃いの漆黒の指輪。
「これ何?」
「捜索の付加法が刻まれた魔導機だよ。急に行方不明になってもすぐわかるようにね。他にも色々付加されてるけど気にしなくていいよ」
先程の確執など気にせず説明するアリス。彼女に倣いリットも気にしない。しかし指輪の件は別である。得体の知れない物であることに加えこの色である。誰でも着けるのに難色を示すだろう。リットは文句をつけようと口を開くが――。
「おっと、クレームは無しな。契約書にも記してあるだろう?」
そう言って、分厚い契約書をめくり一文を指差す。確かに"雇用主は提供された指輪を装着"と書いてある。それを確認してかリットは観念して指輪を左手の人差し指に填める。フェルスは満足げに頷くと左手を差し出す。
「そんじゃ、契約の握手だ。よろしく――ぐはぁ!」
握手をしようと一歩踏み出したその時、何かがフェルスのボディに直撃、二人はもんどりを打って石畳を七転八倒。
「イテテテ......、俺のレバーがピンチだぜ。何なんだ?」
「フェル、それそれ」
「ん?」
フェルスがアリスの指差した方に眼を向けると、彼の下半身に覆いかぶさるように一人の少年が倒れていた。まだ幼さを残す少年は一瞬気絶していたようで、目を覚ましゆっくりと体を起こす。
「おい、大丈夫か?」
「はい大丈夫です......。はっ、すみません!」
初めこそぼんやりとしていたが自分が人を下敷きにしていることに気付き慌てて飛退く。保護欲をそそる弱々しい表情でペコペコと平謝りをする少年。当然それだけですませるフェルスではない。ニタリと邪悪な笑みを浮かべると何処からともなく一枚の紙切れを取り出す。
「......少年。本当に、真心から、心の底から俺に許しを請うているか? ならばここに印を捺すのだ。なに、親指でいいさ。そしたら万時解決だ」
「ちょっと!」「やっと見つけたぞガキィ!」
何やら不当な空気を感じたリットが止めに入ろうとした時、何やら下っ端が吐きそうな科白を叫び一人の青年が走ってきた。茶髪のオールバック、サングラスをし首には金のネックレス。
まださほど寒くないとはいえこの季節には合わない、素肌に前を全開した真っ赤なシャツを着、全体的に軟派な感じを放っている。彼は少年の前までいくと胸倉を掴み怒声を上げる。
「テメェ! さっきはよくもやってくれたな! この落とし前はキッチリとつけさせてもらうからなッ!」
凄い剣幕で詰め寄られた少年は凍りついたように硬直する。
「そこのあなた! 怖がってるじゃない! その手を離しなさいよ!」
「ああ? テメェ、こいつの姉ちゃんか? へぇ、こいつの落とし前はアンタにつけてもらおうか」
「はぁ? 何言ってんのよ!」
見かねたリットは二人の間に割り入ったがそれが誤解を生み、事態がややこしくなる。フェルスは肩を竦めると頭に血の上った青年の肩を叩く。
「おいおい、あんた。こんなガキにムキになるなよ」
突然肩を叩かれ不機嫌にフェルスを睨み付ける青年。彼は値踏みする様にフェルスを見たあとに嘲りの笑みを浮かべる。
「おい兄ちゃん。いいもん着てるじゃねぇか。さてはアンタがガキの保護者か? いったいどんな教育してるんデスカー」
「保護者ではないが何があったんだ?」
「ああ? そのガキが万引きで追われてた時に俺にぶつかったんだけどよ。そいつその時に俺の前にブツを落としてそのまま逃げたんだよ。しかもそのせいで俺が仲間と疑われたわけ」
フェルスが少年を顧みると、彼と視線が合い気まずそうに俯く。
「疑いは晴れたんだろ? 別にいいじゃねぇの」
「ああッ! ふざけんじゃねぇ! 落し前をつけさせねぇと気がおさまらねぇ!」
再び激昂した青年は感情のままにフェルスの胸倉を掴みあげる。
「おい、あんた。あんたの汚い手で触ったから俺の服が汚れただろうが。今なら財布を置いて目の前から消え失せたら許してやるぞ」
「ああッ? ふざけんじゃねぇぞ!」
自分の方が正しいと確信している青年は、逆に金を要求され先程よりもヒートアップ、懐からナイフを取り出し凄む。
「テメェら、さっきから舐め腐りやがって......、おい葬儀屋。俺はここいらでもちっとは名の通ったガルムよ。痛い目を見たくなけりゃテメェが財布を置いて去りやがれ」
「葬儀屋ねぇ......、言い得て妙だな」
とフェルスが変なところに感心しているとアリスが声をかける。
「フェル......。さっきも言ったけど時間をかけすぎだよ」
いつまでもくっちゃべるフェルスをアリスが耐えかねて諌める。彼女の存在に漸く気付いた青年はフェルスとアリスをじっと見詰める。リットは彼の様子が変わったことに気付いた。幽霊を見たかの如く顔からは血の気が失せ、前身が小刻みに震え、口は酸素を求める金魚のようにパクパクと開閉を繰り返す。
「......黒服の二人組み。銀髪に白い肌、蒼い瞳にゴスロリ。まさか! テメェ、いやアナタ様は"氷獄の妖精"アリス・クリスタルリバー!」
「ちまたじゃそう呼ばれてるらしいね」
あっさりと認め気にも留めないアリスとは対照的に、青年はその瞬間、前身を慄かせ数歩後ずさる。彼は全身を小刻みに震えさせながら幽鬼のようにユラリとフェルスを指差す。
「それでは......、アナタサマハ......"誘う魔光"フェルス・ブルームーン様でしょうか?」
彼の余りの脅えっぷりがさぞ楽しいのだろう。フェルスは表情を消し、酷薄な雰囲気を醸し出すと――。
「その通りだ。あんた消すぜ」
「ひぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
数秒、顔を青、紫、白、赤と点滅させた後、天にも届きそうな悲鳴を上げ、後ろに跳躍。滞空中に土下座の姿勢を作るとそのまま着地。その際に額を激しく強打したものの今の彼にとっては小事、額から流れる生命の赤を撒き散らしながらひたすら「命ばかりはご勘弁を」と念仏と土下座を繰り返す。まさに阿鼻叫喚、無関心に通り過ぎていた人々もあまりの惨状に立ち止る。しかし、原因たる二人は楽しそうに眺め、止める素振りすら見せない。リットは溜息をつくと自分の疑問を尋ねてみる。
「ねぇ、こいつらってそんなにヤバいの? あたしはそうは見えないんだけど。人違いじゃない?」
その問い掛けに青年はダラダラと血を流しながら顔を上げ、彼女を凝視する。
「アンタ、ガルムかい?」
「い......、一応ね」
その返答を聞くや、二人にとった態度とは打って変わり尊大に振舞う。
「おいおいテメェ、それでよくガルムやってられるな」
(うわぁ、コイツ絶対だめな奴だ......)
などとリットは評しているを露とも知らず、青年は得意げに話を進めている。
「気狂い狼と言えば、そこそこ腕の立つガルムですら関わるを拒む程のイカレた二人組みだぜ。
築きあげた悪名は数知れず。たった二人でガルバト商会を壊滅させ、乗っ取ったっていう噂まであるのさ」
「ガルバト商会? 何それ? 何の会社なの?」
リットの発言を彼は驚愕の表情で迎える。
「アンタ......、まじでガルムか? 正直心配しちゃうよ。ガルバト商会って言えば、大陸中に支部を持つ大マフィア、ガルバトファミリーの表の顔じゃねぇか。これ、一般人でも知ってるヨ」
余程の一般常識なのだろう。リットは恥ずかしさの余り顔を赤らめる。彼女は咳払いをして自分を落ち着かせると次の質問をする。
「他にもコイツらの悪行を聞かせてよ」
その問いに青年は自分の迂闊さを呪った。目の前に悪魔の所業を行った張本人たちがいるのだ。調子をこいて自分の命を投げ捨てたことにたった今思い至った。
「いいわよね、お二人さん!」
『OKボス』
彼の恐怖を察したリットは、二人に許可を取り付けて青年に先を促す。一方、彼女と二人の関係を知らない青年はこの少女が悪魔たちを従えている事実に驚きを隠せない。
「それじゃあ、お願い」
「OKボス」
「はぁ?」
――曰く「口論の末、喧嘩を始め町を半壊させた」
――曰く「肩がぶつかったチンピラの所属するマフィアを壊滅させた」
――曰く「善政で名の知れた知事宅を盗賊団を率いて壊滅させた」
――曰く「一都市を守る騎士団を壊滅させた」
――曰く「聖女と称された少女を攫っていった」
等、聞けば聞くほど悪辣さを増していく所行。質が悪いのは二人は否定するどころか、郷愁を慈しむように語られた悪行について談義しているところだ。リットは真剣に人選を誤ったのではないかと自問自答する。
「......それじゃ、私はこれで」
リットが押し黙ったのを好機と捉え青年はそそくさと撤退を試みる。しかしフェルスが見逃す訳がないのもまた然り。青年の肩をガッチリと掴み逃さない。
「よう、あんた。ここまで暴露話をしといて無事に帰れるとか考えてないよなぁ......」
「か......、勘弁してください! 宿に幼い娘が腹を空かして待ってるんです! 今日の稼ぎを持って帰らないと娘が!」
反泣きで訴える青年を解放してやると手を差し出す。
「......あの、なんでしょうか?」
「それ程愛しているなら娘の写真の一つも携帯してるだろ? 見せてみろよ」
「......これです」
意図が読みきれず困惑する青年。二人の悪行ばかりを聞いているためか娘に何かしらの危害が加わるのでないかと恐れる。しかしフェルスの瞳には別の感情が宿っていた。それは久遠と悔恨。
「成程、将来が楽しみだ。この娘に免じて今日は見逃してやるよ。だけどな、死神は何処でも手招きしてるぜ。守りたいものがあるなら雑魚みたいなことをしてないで強くなりな」
「はぁ......。有難うございます」
突然フェルスから感じていた空気が変わり青年は困惑しながらも足早に去って行く。
「いいか? 気をつけな。さもなくば全てを失うぜ、ジャン・レイマン君」
意味深な忠告に加え、名乗ってもいないのに本名を呼ばれ、恐怖の余り脱兎の如く走り去って行く。
「ちょっと、あいつと知り合いだったの?」
彼の逃げ様に腹を抱えて笑っているフェルスにリットは胡乱げな眼差しを向ける。
「あいつは俺のことを覚えてねぇよ。あいつのじい様が俺たちにとって大切な友人ってだけさ。なっ、アリス?」
「でもあんなのが孫じゃ、彼もうかばれないね」
「そうでもねぇさ。あの小物臭さが抜けば化けるかもな。それに娘が可愛いしな」
「フェルはロリコンです」
「うぉい!」
日が完全に落ち街頭が灯っていく。しかし、リットの目には二人の横顔が何か目映い物を見るように目が細めているのが写った。何処か遠くを見つめぼんやりとする二人を眺め、リットは初めてこの二人が何者なのか興味が湧いた。
「......って、あいつのお爺さんと友人って、あなたたち、いったい何歳よ......」
「おいおい。そんなんだから馬鹿にされるんだぜ。手誰の神秘術使いなら一般人よりも長寿だし肉体操術もお手のもの。到達者は不老と称される。魔人に到っては、上位のナイトメア、唯一体を宿した奴や力を使いこなす奴はほとんど不老不死って噂じゃねぇか。つまりこの業界で見た目にだまされるようじゃまだまだぜ」
一瞬にして哀愁は去り、フェルスは普段どおりの嫌味な笑みで以て詰り、赤面して癇癪を起こすリットの反応を楽しむ。
そこにおずおずと一応助けてもらったとい形となる少年が礼を言おうと話しかける。
「あのぅ、助けて頂いてありがとうございました」
「なぁに、良いってことよ。お前がここに印を捺しさえすれば――ぐはぁ!」
再び幼げな少年を毒牙にかけようするフェルスをリットは思い切り蹴り飛ばす。
「君ね。どんな理由があっても店の物を盗んでは駄目よ、わかった?」
「......本当にすみませんでした、もうしません。ありがとうございました」
少年は深々と礼をすると、俯いたまま走り去っていく。道に大の字で転がったままのフェルスは視線だけで遠のいていく少年の背中を追う。
「やれやれ。どんな理由があってもね。素晴しいことで」
起き上り、コートについたホコリを払いながらフェルスは零す。
「なによ? 間違ってないでしょ?」
「あぁ、間違ってないさ。物を盗られたらやっていけない店もあるしな。だが、あいつがどうかは知らないが、それをしないとやっていけない人間が居ることも覚えとけよ」
「どういう意味よ......」
「あんた、いいとこのお嬢さんだろ?」
「それが何だってのよ?」
「いやな、ガルムを本気でやっていく気ならある種の汚濁を飲み込まないとやっていけないぜ」
リットは厳しい視線を向け、緊張した面持ちになる。おそらくはまた自分の理想にけちをつけられると思ったのだろう。事の成り行きを静観していたアリスは溜息をつくと、リットの腕を取り務めて明るい口調で言い放つ。
「そういえば、日が落ちたら中央道でパレードがあるらしいよ。見に行かない?」
急に腕を引かれ、よろめくようにリットは引っ張られていく。
「こりゃ、後で小言をいわれるな」
フェルスは肩を竦めると、二人の後を追おうと一歩踏み出した。その時、不意に背後から不快な視線を感じて振り返る。
「さっそくお出ましかい。楽しいねぇ」
フェルスはポケットに手を入れ、もう姿の見えない二人を追いかける。
かつて、邪悪なる者たちが人間を蹂躙した時代が存在した。人々は絶望し、ただ消え逝く命の灯火を見守ることしかできなかった。そこに、十神の加護を受けた一人の少女が立ち上がる。
名はディアナ・マグダリア。彼女の言葉は絶望の底にあった人々に希望の光明を見出させ、彼女の掲げた剣は人々を飲み込まんとする闇を切り裂いた。彼女の死後、天命を受けた預言者たちは彼女の言葉と神の言葉を纏め聖典とし、広く人々に布教した。これがマグダリア教の始まりである。
統一大陸パンゲアの東大陸、人間の大陸と呼ばれるこの土地のほぼ全域を治めるファレト教国において、マグダリア教とは国の基礎である。このファレト教国は十神になぞらえ、十の地域に分割される。十神の中心格"メイテル"に因み中央の地域はメイテルパートと呼ばれ、その地域の中央に存在する聖都メイテルフィートはファレト教国の中枢であると同時にマグダリア教の聖地かつ総本山である。また、マグダリア教の最上位たる霊皇が君臨するのもこの都である。そして、メイテルパートを囲むようにして、ファレト教国の領土を九つの地方に分割しているのである。それぞれの地域の中央は霊都と呼ばれ、マグダリア教において第二位のヒエラルキーに位置する霊君が支配している。さらにそれぞれの地域は更に5分割され、5つの支柱都市を中心に霊君のもと5人の守護士によって治められている。
現在フェルス一行が訪れているのもそんな支柱都市の一つである柱都ジェミスであり、メイテルパートと霊都を結ぶ貿易の要所として、交通網、公共サービス等のインフラが整備された極めて栄えている都市である。
「流石は支柱都市ってところだな、栄えてやがるぜ。しかもこの古めかしい雰囲気はファレトの中でもそんなに多くで味わえないな」
道を歩きながらフェルスは興奮気味に辺りを見回す。煉瓦で組まれた建造物、石を整然と敷き詰めた歩道、並ぶ電灯の一つ一つも街の空気と調和させるように工夫されている。
「古書に記された、旧世界の欧州っていうのはこんな風景だったのかな」
そんな風にしみじみと呟くアリス。夜の持つ独特の空気か、足早に過ぎていく人々の浮ついた気分が伝染したのか、二人の気分は今が最高潮である。
「そんなに煉瓦造りが珍しいわけ?」
そんな彼らとは対照的にリットはいたって冷静である。
「まぁな、最近はこちら側にはめっきり縁がなかったからな」
「って、あなたたち何処の出身なのよ?」
「そうだなぁ、西の方とだけ答えとくぜ。それより今日は何の祭りなんだ?」
「何でも百年前の大戦で勇者が三魔王の一柱、ルカリムからこの都を奪還したお祝いらしいよ。
勇者が魔王を討ち取ったのが大体今の時間らしいから、パレードも日が落ちてからなんだってさ」
リットは明確な返答が得られなかったのと、解説をアリスの奪われたのとで悔しげに路傍の石を蹴り飛ばす。
「知ってる? この街には灰被りの騎士にまつわる多くの場所があるのよ。その中でも一番有名なのがルカリムに止めを刺した時に一緒に両断された大岩で、その岩の間でお祈りすれば願い叶うらしいわ。仕事が片付いたら行ってみない?」
名誉挽回とばかりに切り出した提案は二人の微妙な表情で一蹴される。
「勇者が両断した岩にそんなご利益があるとは思えねぇな。そもそも勇者ってのは百年に一度必ず現れるんだろ? 八人もいて、それにまつわる場所が多くあって、それで神の奇跡だ何だと言われてもいまいちだぜ」
フェルスは半眼で隣を歩くリットの表情を盗み見る。彼の考えでは神聖視している節がある勇者を貶せば我も忘れて怒るに違いないと踏んでいるのからである。しかし、その予想は意外にも裏切られる。彼女は清まし顔を一片も崩すことなく悠々と歩く。
「フフン、あなたたちと出会ってから早数時間、人となりを理解できないほど愚図じゃないわ。
あなたたちが人をからかって楽しむどうしようもない人種なのもお見通し。要はペースを崩されなければいいのよ。それにね、あたしにとって灰被りの騎士は理想そのものなのよ。だから他人にどういわれようが傷つくことはないわ」
胸を張り、理想と言い切った少女の瞳は未だ穢れを知らず、揺らぐことのない眼差はひたすらに前を見据える。その姿を見つめる二人は苦々しげに眉をひそめ沈黙する。それは自分たちが失った輝き。愚かにして純粋な瞬き。
そして、小道を抜け中央道に出た瞬間、彼らを出迎えたのはこの街に入ってから最も多い人、人、人の群れ。その数は広く整備された歩道を埋め尽くしていた。もちろん、衆人の目的は画一。古今東西様々な衣装を着て大路を後進する長い列、パレードである。中でも一際歓声を誘ったのが、灰色の髪に、灰色の鎧、顔には仮面、紅のようとう(ようとうし)を靡かせ颯爽と歩く騎士と、灰色のローブを着込み騎士の後を付き従う二人の従者、つまり勇者の一団が現れたときである。
「救世の勇者ねぇ......。しっかし、いつ見ても空中聖堂ってのは派手だねぇ」
パレードの行われている中央道の遥か後方。ちょうどこの街の中心に存在する巨大な泉、その上空を浮かぶ建物を眺めて呟く。主に支柱都市クラスの大都市の聖堂は神の恩寵たるマキナの神秘さを忘れさせないように空中に設けられているのである。空中聖堂と呼ばれる建造物は泉が発する虹彩に照らし出され見上げる者を幻想的な美しさで魅了する。
「流石、夜の空中聖堂は綺麗ね」
「ホント、神の奇跡さまさまだね」
三人が夜空に浮かぶ壮美に目を奪われていると、それまでの喧騒が止み人々は皆厳粛な空気に包まれていた。
「成程。これがパレードのおちってわけかい」
全身を鎧で固めた四人の騎士に四方を守られ、厳かに現れたのは群青で縁取られ、背には銀糸で刺繍された十字架を施された純白のローブを纏った壮年の男性。ファレト教会においてヒエラルキーの第三位に座し、このジェミニを治める守護士である。
彼が前を通りすぎようとすれば、人々は皆一様に恭しく頭を垂れ、握った右手を左手で重ねるファレト教の祈りの姿勢をとり、神への賛辞を述べる。
「なんつぅか、この街の連中は余程信心深いんだな」
「当然よ。さっきも話したけど、この街は百年前の大戦で魔王直々に占領されていたの。正に地獄だったでしょうね......。彼らは勇者に救われて以来、その感謝から信心深くあるように心掛け、ファレト有数の宗教都市になったのよ」
「義理堅くて結構なことだ」
滞りなく進む守護士の一行、だが事の始まりは遠くの民衆のざわめき、それは次第に伝播し、異変に気付いた騎士たちが守護士の守りを固める。
聖者の後進を妨げんと立ち塞がるのはぼろぼろの衣服を纏った痩身の男性。落ち窪んだ両の眼は血走り、他者にも感じられるほど殺気が満ちている。彼はユラリと右腕を上げると、断頭台の刃の如く振り下ろす。その動きに呼応し、虚空より刹那にして放たれる四個の炎の弾。尾を棚引かせるそれは矢。矢は瞬く間に守護する騎士たちに直撃、耳を劈く爆音を響かせ炸裂する。人々はここにきて始めて徒ならぬ事態であることに気付き逃げ惑う。我先にと急ぐ人々、彼方此方で上がる怒号と悲鳴。親とはぐれ泣き叫ぶ子供。ここは混乱の坩堝。
「今のは神法じゃないね。かといって秘法とは違う感じがする」
「ってことは残された選択肢は魔人か進展者だな」
その中であっても二人は今しがた起きた事態を冷静に分析する。民衆が押し寄せてくる恐怖にリットは堪らずフェルスにしがみつく。そして彼女は不可思議な現象に遭遇する。逃げる人々はフェルスたちの周りに不可視の壁があるように避けてゆくのである。
「どうやら両者とも一般人が退避するのを待ってるみたいだね」
「成程。なら話が通じるかもな」
晴れた煙より現れたのは五体満足の騎士たちの姿。彼らを守るようにして包み込んでいた光が薄れていく。どうやら神法で完全に凌いだようである。そして静止したまま向かい合う両者。
フェルスたちは人々が少なくなったのを見計らって渦中に歩みを進める。しがみついていたリットは自分の状態に気付くと可愛い悲鳴を上げて離れ、彼らの後を追う。
「ちょっと! あいつ何なのよ?」
「あの人が使った力は多分、ナイトメア。つまり魔人ってこと」
アリスの解説にリットは目を剥く。
「嘘おっしゃい! あれ人間じゃない! 魔人って化物じゃないの?」
「なら理解しな。魔人の姿形は人間と同じだってな」
魔人の男と守護士を守る騎士たち、両者は一歩も動かず緊張を保つ。そこに入って来た埒外の異端者に口を開いたのは思いがけず魔人の男だった。
「なんだお前らは? 巻き込まれたくなければ離れていろ」
魔人とは人間の葬るべき二つの邪悪の片割れ。そう教えられ続けてきたリットにとって彼の発した言葉は如何なる解釈を用いても理解できる事柄ではなかった。例えるならば人と獣の関係。こちら側がどんな言葉をかけようと意思疎通は取れるべくもなく、魔人と人間は互いを憎悪の対象としか認識できない、そう聞かされてきた。ならば目の前のコレはいったい何なのか。
この男は自分たちに何と言ったのか。その事実がリットの常識に問いを投げる。
「いやいや。偶然この場に出くわした一般だ。だが展開次第では立ち位置が変わる。よう、お偉いさん。どうだい報酬を払ってくれるなら。この場を治めてやるぜ」
傍らの少女の苦悩に気も掛けずフェルスはいつもの商談を持ちかける。乱入者のとった思いがけない行動に魔人も騎士たちも唖然とする。だが一人だけ、口元に手をやり、さも可笑しげに笑いを零すのは狙われている当の本人である守護士。
「ふふふ、すみませんね。この状況でしかも私に向かって商談を持ちかけてくる人が居るとは思いませんでしたので。その意気、気に入りました。ではお願いします」
「......了解」
行進中の厳守さとは打って変わって朗らかに笑う男。フェルスはこの状況に際しても余裕を見せる彼に何か思うところがあるのだろうか軽薄な表情を作りながらもその瞳は守護士に鋭い光を向けていた。
「フェル、僕がやろうか?」
「いや、俺が行こう。体を動かさないと鈍るからな、色々と。まぁ、正直それ程の相手でもないがな」
何が不安なのかフェルスを真っ直ぐに捉えた瞳は細やかな揺らめきを宿す。そんな少女にいつもの大胆不敵な笑みを見せる。
「おい、リット。散々ヘタレだ何だと罵りやがって。俺様の力の片鱗を見せてやんよ」
急にして不敵な宣言に釣られリットが顔を上げると、フェルスと魔人は距離を保ち対峙していた。
「お前も物好きな男だな。態々首を突っ込むとは......。俺の復讐の邪魔になる以上消えてもらう」
「ビジネスチャンスは見逃さない。これが成功する秘訣だからな。あとで金を払うなら手違いっぽく逃がしてやるぜ?」
「ほざけっ!」
彼の雄叫びに呼応して放たれる炎弾。しかしフェルスは悠然と佇み微動だにしない。ならば結末は見えている。リットは未だ何の行動も起こさないフェルスがあの炎弾を防ぐ光景を想像できない。来るべき残酷な未来を想像して目を瞑ろうとする。
「彼を信じて」
その瞬間、手を握られ静かな声が響く。ぎりぎり聞き取れるか否かの声量。しかしそれには不思議な力強さが籠っていた。その声の主がアリスだとは彼女は信じられなかった。
――と、刹那気を取られている間に爆発が巻き起こる。途端、忘却していた恐怖がリットの内に湧き上がる。
「いやはや微温いねぇ。こんなんじゃ風邪を引いちまうぜ」
リットは悲鳴が飛び出さんとする口をそのままに硬直する。
立ち込める煙が晴れ、以前と変わらぬ姿のフェルスが立っていたのだ。変わったのは爆発で地面が抉れている点ぐらいだろうか。
「だから言ったよね?」
今しがたの静淵とした雰囲気は幻の如く消え去り、いつもの偽天使の笑みがあった。
「......なぜ生きている。初弾と違い本気で殺すつもりだった。何故だ」
口調こそ平坦だが深い絶望が隠しきれずに吐露される。フェルスはそんな彼を哀れむでもなくただ肩を竦めるのみ。
「あんたは確かに悲痛な覚悟があったかもしれない。だがな、それ以上に見えてない物がありすぎだ。んで、これで幕」
リットはこの戦いが如何にして決したか知覚することが出来なかった。フェルスが掻き消えたと認知した瞬間、魔人が地に伏しフェルスがその傍らに立っていたのだ。まるで瞬間移動したように。
「いったい何が起こったのよ......」
「フフ。君には見えなかっただろうね。でも恥じることはないよ。あれに反応できるのはそれなりの実力者だからね」
己の常識の範疇を彼方に越えた事象が立て続けに起きて混乱の極みに立つリットの姿をアリスは楽しげに見守る。
「いやいや、助かりました。世に聞こえる誘う魔光殿のお手並み、鮮やかでした」
「......あんた。俺のこと知ってたのかよ」
「ええ。仕事柄、ガルムの人々とは親交がありましてね」
「ふっ、名が売れすぎるってのも考えものだな」
フェルスは軽口を叩きながらも警戒を緩めようとはしない。そのことに気付いているのか、彼は微笑を深めると倒れた魔人の男の前に立つ。彼が見回すと、いつの間にか戻ってきた者、逃げ遅れた者、逃げなかった者、数多の者たちが自分を見つめていた。彼らの双眸が魔人を滅せよと熱烈に語っている。彼の顔から柔和な笑みが消え去り、神意の代行者としての威光を宿す。
「聞けこの場に居る者たちよ。この者は生まれながらにして邪悪。神の、そして我々の大敵である」
彼は一区切りを入れ、再度人々を見回す。
「されど神はこうも仰られている"我が普遍の愛は信ずる者に等しく降り注ぐ"と。ならばこの生まれながらにして邪まなる者も、己の闇を認め神の下で清めんとする機会があっても良いのではないだろうか?」
初めこそ水を打ったように静まりはしたものの、次第に彼の、そして神の慈悲を讃える声が強まり、いつしか誰もがその英断を賛美した。大衆の意思を聞き取った守護士は魔人に手をかざす。すると手の甲に紋章が光り、気絶していた魔人が目をさます。
「魔人よ、一度しか言わん。神の栄光を受け入れこの場を去れば命は助けよう」
この時、フェルスとアリスは分かっていた。この魔人が到底認めるはずがないことを。
「ふざけるなッ! 貴様らは妻を、娘を惨たらしい方法で処刑した! 何の力もなかったのに......、それを肯定する神に垂れる頭など持ち合わせておらん! 愚神を讃える愚者に地獄あれ」
僅かに残っていた正気は消え去り、呪詛を並べたてる。この場にいる人々は皆先ほどの慈悲を悔い、生きる価値も存在しない魔に向かって冷たき眼差しを送る。守護士は狂乱する魔人を臆することなく見据え、騎士の一人が手にした斧槍を振りぬく。赤黒い鮮血が噴出し、首のない体が地に崩れ落ちる。守護士は己の体が血に汚れたことも厭わず死者に祈りをささげる。
「馬鹿な奴だ。命有っての世界だってのに」
ファルスは運ばれて行く死体を遠目に無機質に独白する。リットは横目に彼の表情を盗み見て思う。
「あなた、まさかあの魔人を助けたかったの?」
「まさかぁ。本当に助けるつもりなら他にやり様があるさ」
内心、人間がそんな考えに到るとは信じられないながらも思わず訊ねてしまう。返ってきた返答が否定であって一先ずは安心できた。
「そうよね。所詮は魔人だものね。慈悲をかけてもあの様だし......」
「お見苦しい所を曝してしまいまして申し訳ございません。報酬のことを含めて晩餐に招待したいのですけど? ......うん?」
食事の誘いに寄って来た守護士はリットを見詰める。一方彼女は居心地が悪そうに俯く。
「これは、リーガルリリー家の御息女、イングリット様では御座いませんか。節の話では教会から抜け出されて行方不明でお父様がお探しになっているとか。まさかこの様な所でお会いになるとは。私とお父様は旧知の仲、あの方の憂いは手に取るように分かります。このレイム・アルザートに免じてお戻りになってくれませんか?」
恭しく頭を垂れる守護士に、白い目で睨み付けてくるフェルスとアリス。二方向からの圧力に阻まれ冷や汗が流れる。リットは深い深呼吸をし、レイムに向かい合う。
「頭をお上げなって下さい、レイム様。僭越ながら申し上げますと、私はすでに十七。成人の儀は一年も前に終えました。それでもあそこに残ったのは、学校は卒業するようにとの父からの厳命があったから。今まで養ってもらった恩があるため、飛び級で卒業するまで残りました。
しかし、私にも夢があります。国を越えて多くの人々を救いたいのです。なれば、いつまでもあの鳥篭に留まっておく必要は御座いません。父への恩は一人前になってから堂々と返します。その様にお伝えください。そもそも、生まれてから今まであの様なところに預けていた娘に何の愛がございましょうか」
リットはレイムに穏やかに己の思いの丈を打ち明ける。そこに込められた決意の硬度は容易く切り崩せない。そう感じさせるに足るものが彼女の言葉には宿っていた。
「......わかりました。私の言葉ではあなた様の決意を変えられそうにございませんね。ところで晩餐はどういたしますか?」
「悪いが遠慮させてもらう。これから我が依頼主とじっくりと話し合わないといけないみたいだからな。それと報酬もいいぜ、何か見逃してもらったみたいだからな」
顔を歪ませて苦笑いをするリットの首を掴んで、やって来た小道へと踵を返す。その後ろ姿にレイムは声をかける。
「イングリット様。最後に一つ忠告いたします。あなた様は如何なる理由でお父様が教会に置かれたか考えたことはありましたか? 父の愛を思ったことは? 己の悩みを打ち明けたことは? 心を開いたことはございましたか? しかしながら真実を知ることが正しいとは申し上げません。世には表裏が存在します。全てを知るということは相応の重荷を担うということです。無知とは世を平穏に生きる一つの術にございます。このことをどうかお忘れなき用に」
彼の忠告を耳にしたリットは意味が量れずに困惑する。問いただそうとするも彼らの姿は彼方、声を掛けるには聊か遠い。思考を切り替えて、それが意味するところを同業者二人に相談しようとする。そこで彼女は自分の身に降りかかかった不運を漸く思いだした。
二人はやたら明るい笑みを彼女に対して浮かべているのだ。半月に曲げられた口と細められた目からリットは仮面を連想した。しかも飛び切り不気味な物を。
「リット君、確か名字はアスターだったよな? ちがったかな? 俺の記憶と先ほどの会話とを照らし合わせたところ、リーガルリリーってのは、マグダリア教会第二位の霊君の一人だったと思うんだが?」
「......そうよ、私の父アーノルド・リーガルリリーは光神アキナスを奉り、このアキナスパートを治める霊君よ。でも私には何の関係もないし、今は母親姓のアスターを名乗ってるから問題ないはずよ!」
自分は正論を述べていると確信はしているものの後ろ暗さは残り口調が攻撃的になる。
「それが関係あるんだよね。健全な信頼は健全な関係から成り立つ。仕事に支障をきたしそうな情報は自己申請するようにって契約書にも書いてあるよね?」
「あんなの読めるわけないじゃない! そもそもあなたたちも勧告ぐらい出しなさいよ! こんなの横暴よ! 怠慢よ!」
「問答無用! えいっ!」
「......へっ? ぴぎゃぁぁぁぁぁ!」
リットの左手人差し指に填めた漆黒の指輪の表面に青に輝く文字が浮かびあがり、直後彼女の全身に電撃が流れる。一瞬のことだが全身から力が抜けへたり込む。
「つう事はなんだ。鉄道を乗ろうとしたけど張られてたから乗れず。ガルムを雇おうにも先に親父さんから自分に賞金が懸けてあって雇えず、結局一人で誰も使ってないような街道を行く羽目になり。挙句盗賊に追われてたってことか?」
「そふよ。何でそふなにくはしくわりゅのよ? ましゃか見へはの?」
喋ろうにも思うように下が回らず、変な言葉を喋って赤面する。
「いやいや、予想した状況を並べてみただけさ。鉄道があるってのに態々魔獣に襲われる危険性の高い街道を護衛も付けずに一人でいるなんてそんぐらいしかないぜ」
――魔獣。それは"紅ノ一夜"の後より現れた二つの邪悪の一つ。獣にして獣ならざるモノ。その姿は千差万別であり、およそ地球上の生物と類似した点を多く持つ。知能、能力によってランク付けされ、高位の個体は人語を解す。生まれながらにしてマキナを操り、社会構造を持ち纏まって生活する魔人と違い大陸全土に生息し、無差別に人を襲う為、魔獣の駆逐は人類にとって喫緊の大事である。
「それじゃあ、君がガルムの見習いってのも嘘だよね?」
「それは本当よ。この仕事で推薦を得たら証書をもらってリスト入りできるのよ。確かに国籍はまだ抜いていないけど......」
ガルムというものは正確には国籍がある状態でも名乗ることは出来る。だが、そういったガルムは協会から仕事を得ることはできない。協会から仕事や情報を得ることができるようになるにはまず何か一つ仕事を請けて既に協会の会員である者を随伴にし、成否に関わらず随伴員から推薦を得る、それによって協会の人名リストに登録され、証書を受け取りそして最後に国籍を抜くことが必要なのである。とはいえ、仲間同士などが集まって組織を作った場合は仕事の斡旋や情報収集を自分たちで行うところも存在する。協会とはあくまで駆出しや個人が使うところである。
「まぁ、諸々の話は宿を探してからにするか」
「そうだね。オナカ空いたよ」
二人は顔を見合わせると溜息をついて宿探しに向かう。
「ちょっと待ちなさいよ!」
口周りは治ったもののまだ足が痺れて動けないリットを置いて......。並ぶ家々の窓から光が漏れ、家族の団欒の声が何処からか流れてくる。そんな夜の街に一人の少女の切ない声が空しく響いた。
その後、動けないリットをフェルスが背負い宿を見つけ、夕食を食うこと山の如し、宿から近場にあるというジェミニ名物葡萄湯温泉で旅の疲れを癒し、現在は日付が変わる少し手前、三人は明日の打ち合わせをするため一つの部屋に集まっていた。
「流れを整理すると、卒業に必要な単位はそろえたが親父さんが許可しなかったからできず、うんざりしたあんたは自分の夢を叶えるために脱走したってことか?」
「僕たちを護衛に選んだのは協会の随伴員役と兼ねてだね?」
「まったくその通りでございます~」
二人の尋問に不貞腐れ気味に応じる。その様子に二人は嘆息する。
「おいおい。不貞腐れたいのはこっちだぜ。依頼人に深く関わらないのがガルムの基本だが同時に自分の立ち位置を把握しておくのも重要なんだぜ?」
「それにばれてよかったと思うよ。最後の最後で推薦をお願いって言われても、僕たち絶対断わってたもん。大事なのは信頼だよ」
「その点は悪いと思ってるわよ。でも、これ。なによこれ! この指輪電撃は出るは、外れないは、最悪じゃない!」
「色々あるんだよこの業界にもな」
「色々じゃないわよ! 外しなさいよ!」
「いいけど、その場合は契約破棄だよ? 一人で行くの? 死んじゃうよ?」
今にも決壊しそうな怒りの堤防がアリスの一言で留まる。得体の知れない指輪は気にはなるが、彼らの腕は確かであり、何よりも自分には夢がある。
「......わかったわよ。引き続きお願い......」
「しっかし、あんた。行動的なのはいいが計画が細部で破綻してるぜ。細かいのは割愛するとして、この依頼。どうよ? 素人なんだからもっと謙虚にいけよ」
「そう? 地図も予め用意されているし簡単じゃない? 要は道に迷わなければいいのよ。あとは魔人たちの様子をこのカメラで録画すればいいんだし」
「そう簡単にいけばいいんだけどな。肝心な地図を見せろよ」
リットは鞄を漁り、一枚の巻かれた紙切れを取り出す。
「成程ね。街道の途中から森の中に有る旧街道に入り、吊橋を渡った先ね。それにしても、ここまで分ってるんだったら騎士団を派遣すればいいのに」
「お前がそれを言うのか......。いいか、その下調べをガルムにさせようって魂胆さ。情報が少なければ事は上手く運ばねぇからな。何にせよ夜が明けてからだ。さっさと寝て英気を養うぞ」
そう言って部屋を出て行くフェルスとアリス。そこでリットは不思議に思う。
(部屋って二つしか頼んでなかったような......)
「ちょっとアリス、あなた何処行くのよ?」
「自分の部屋だよ。何か問題ある?」
「二部屋しかとってないじゃない?」
「当然フェルスと同室だよ」
確か、料金を節約するためにベッドもシングルだったはずである。フェルスとアリスが一緒のベッドで寝る様を想像して顔が熱くなるのを感じるリット。彼女は夜も遅くだということに思い到らず叫ぶ。
「は......破廉恥なぁぁぁ! 嫁入り前の子女が男性と寝所を共にするなんて! カタストロフよ! モラルハザードよぉぉぉ!」
「......いや、ほら、今までもそうだったから気にすることでもないよ」
「駄目よ! ダメダメ! そんなの許しません!」
彼女の未だかつてないエキセントリックな反応に本気で引いてしまうアリス。
「だってさフェル、どうする?」
「まあ、主が許可してるんだからそっちで寝れば? そんじゃお休み」
手をヒラヒラさせ部屋を出て行くフェルス。その背にアリスは念を押すように訊ねる。
「フェル、本当に大丈夫だね?」
「ああ、多分な」
彼女の表情は真剣なもので口調に厳しさが混じる。リットは魔人との戦いで見せた別人のような声音を思い出した。そして夜は闇に解けていく、静かに。