ミアの過去(ミア編)
――誰も知らない。
私が五歳だった頃のこと。
その頃の私は、街を歩いていた。
ずっと。
一人で。
両親はいたはずだった。
けれど。
ある日、家に帰ったら扉は開かなかった。
何度叩いても。
呼んでも。
誰も出てこなかった。
最初は泣いた。
次の日も。
その次の日も。
けれど。
誰も来なかった。
だから私は歩いた。
街を。
人はたくさんいた。
大人も。
子供も。
商人も。
笑い声も。
怒鳴り声も。
全部、そこにあった。
でも。
誰も私を見なかった。
ぶつかっても謝られない。
目を合わせても逸らされる。
声を出しても、通り過ぎられる。
まるで。
そこにいないみたいに。
私はだんだん理解した。
――ああ。
私はいないんだ。
この世界に。
お腹が空いた。
雨の中。
寒かった。
何日経ったか分からない。
それでも。
誰も見ない。
誰も助けてはくれない。
ある日。
私は路地に入った。
雨をしのぐために。
そこにいた。
大人の男たち。
酒の匂い。
汚れた服。
笑い声。
「おい、ガキ」
腕を掴まれた。
乱暴に引き寄せられる。
「どこのだ?」
答えられない。
殴られる。
地面に転がる。
蹴られる。
大きな拳が顔の前にくる。
小さな体は簡単に転がった。
痛い。
苦しい。
でも。
途中で。
ふっと思った。
――ああ。
そうか。
私は。
愛されていないんだ。
五歳の頭でも、それだけは分かった。
だから。
思った。
今日は雨が凄いから誰にも気づかれない。
――もういいや。
――楽になれるなら。
目を閉じた。
その瞬間。
声がした。
「何をしているの?」
静かなで透明で透き通る声だった。
怒鳴り声じゃない。
でも。
不思議とよく通る声。
男たちが動きを止め、振り向く。
私も、うっすらと目を開けた。
そこに立っていたのは。
一人の少女だった。
まだ幼い。
八歳くらい。
綺麗な服。
けれど。
その少女は迷いなく私の前に歩いてきた。
そして。
私の前に立った。
小さな背中で。
私を庇うように。
男たちを見上げて言う。
「その子から離れて」
男たちは一瞬、呆気に取られた。
それから笑う。
「なんだお前」
「貴族のガキか?」
少女は答えない。
ただ。
私の前に立ったまま。
動かない。
男の一人が言った。
「どけ」
少女は言う。
「嫌」
それだけ。
簡単な言葉だった。
でも。
まるで。
そこから一歩も動かないと決めている声だった。
私は地面からその背中を見る。
小さい。
自分より少し大きいだけ。
それなのに。
どうしてか。
すごく。
大きく見えた。
男が手を伸ばす。
少女を掴もうとする。
その瞬間。
後ろから怒鳴り声がした。
「何をしている!」
護衛だった。
護衛の人たちが駆け込んでくる。
男たちは慌てて逃げた。
路地は静かになる。
少女は振り向いた。
そして。
地面に倒れている私を見る。
少しだけ首を傾げて。
言った。
「大丈夫?」
私は答えられなかった。
ただ。
その顔を見て。
思った。
――ああ。
天使だ。
って。
太陽みたいで。
光みたいだった。
この暗い世界の中で。
初めて。
自分を見てくれた人だった。
少女はしゃがんだ。
私は地面に座ったままだった。
少女の名前は玲と言った。
少女――玲が、目の前でしゃがんでいる。
そして、あたり前のように。
「立てる?」
私は小さく首を振った。
体が痛い。
力も入らない。
玲は少し考える。
そして、振り返った。
そこには護衛がいた。
慌てた顔をしている。
「玲様! こんな場所に来ては…」
「それに雨が酷いので――」
「この子」
玲が言った。
「怪我してる」
護衛は私を見る。
汚れた服。
痩せた体。
事情はだいたい察した。
だが。
顔をしかめる。
「……孤児でしょう」
「そうだね」
玲はあっさり言う。
それから。
当たり前のように言った。
「この子も連れて帰る」
空気が止まった。
護衛が目を見開く。
「玲様」
「駄目です」
「身元も分かりません」
「汚れています」
玲は首を傾げた。
「だから?」
護衛は言葉に詰まる。
玲は私を見た。
その目は、ただ静かで綺麗だった。
「この子」
「一人だよ?」
その一言だった。
護衛は黙った。
玲は立ち上がる。
そして。
私に手を差し出した。
「行こう」
私はその手を見る。
小さな手だった。
自分とあまり変わらない。
でも。
どうしてか。
とても温かそうだった。
私は震える手で、その手を掴んだ。
玲は驚くほど簡単に私を引き上げた。
そして。
私の手を離さないまま歩き出す。
「玲様……」
護衛はまだ困った顔をしている。
けれど。
玲は振り返らない。
「大丈夫」
玲は言う。
「お兄様がなんとかする」
私はその言葉の意味が分からなかった。
でも。
その日。
私は初めて屋敷という場所に入った。
広かった。
綺麗だった。
怖かった。
使用人たちは足を止めた。
玲の後ろにいる私を見る。
汚れた子供。
誰も近づかない。
誰も触れない。
その時。
廊下の向こうから声がした。
「玲」
低い声。
少年だった。
玲より少し年上。
十歳くらい。
玲が振り向く。
「お兄様」
その人は鴻と言った。
鴻は歩いてくる。
そして。
玲の隣にいる私を見る。
汚れた服。
痩せた体。
震えている目。
しばらく黙っていた。
護衛が言う。
「鴻様、玲様が――」
「大体分かる」
鴻は言った。
そして。
玲を見る。
「拾ったのか」
玲は頷く。
「この子、一人だった」
「そうか」
鴻はもう一度私を見る。
その視線は冷たくない。
ただ。
少し考えている目だった。
それから。
小さく息を吐いた。
「風呂」
使用人に言う。
「医者も呼べ」
使用人たちは少し驚く。
だが、すぐ動いた。
鴻は言う。
「玲」
「はい」
「拾ったなら」
少しだけ目を細める。
「最後まで面倒を見るんだな」
玲は迷わなかった。
「うん」
それだけ。
その瞬間。
私は思った。
この場所は。
まだ怖い。
知らない人ばかり。
でも。
この人がいるなら。
――ここにいてもいいかもしれない。
そう思った。
その日から。
私の世界は変わった。
そして。
私の中で。
玲はずっと。
光であり太陽になった。
それは絶対に変わらない。




