屋敷へ
湖から離れるにつれて、
足の裏に伝わる感触が、少しずつ変わっていった。
濡れた草。
柔らかい土。
踏み固められた小道。
(……ちゃんと、地面だ)
変な確認だけど、
それを何度も確かめないと、
全部が夢なのか現実なのか混乱思想だった。
服は、重い。
水を含んで、肌に張り付いている。
歩くたびに、
小さな水音がするのが気になった。
(……誰かに、見られたら)
そう思ってから、
はっとする。
(……見られたら、何?)
分からない。
恥ずかしいのか。
怒られるのか。
それとも――助けて、もらえるのか。
どれも、しっくりこなかった。
なのに、
屋敷だけは、はっきり見える。
湖の向こう、
木々の隙間に立つ、大きな建物。
不思議と、
怖いとは思わなかった。
行かなきゃいけない、
という感覚だけが、静かに背中を押してくる。
(……帰る、場所?)
その言葉が浮かんで、
すぐに消える。
帰る、って何だろう。
私は、どこから来たんだろう。
考えようとすると、
頭の奥が、じんと痛む。
(……今は、いいや)
無理に思い出そうとしても、
何も出てこない。
だったら。
今、目の前にあるものだけを、
一つずつ確かめよう。
そう決めて、
私は歩き続けた。
屋敷は、近くで見ると、
想像よりもずっと大きかった。
白い外壁。
高い窓。
整えられた庭。
どれも綺麗なのに、
人の気配が、少ない。
(……静か)
嫌な静けさじゃない。
でも、安心できる静けさでもない。
門は、開いていた。
誰かが、
出入りしているはずなのに。
躊躇して、
足が止まる。
(……私、入っていいのかな)
ここが自分の家だなんて、
言い切れる自信はない。
でも、
他に行く場所もない。
少しだけ、深呼吸して、
門をくぐった。
庭は、手入れが行き届いていた。
踏み慣らされた道。
剪定された木々。
その中で、
自分だけが、ひどく場違いに感じる。
濡れた服。
乱れた髪。
泥だらけの手。
(……怒られそう)
理由も分からないのに、
そんな予感だけがする。
玄関まで、あと少し。
そのとき。
「――お嬢様?」
声がした。
低くて、落ち着いた声。
びくっと、肩が跳ねる。
振り返ると、
そこには、一人の男性が立っていた。灰色 と黒が混じったような髪をしていて見た目的 に若そうだった。
年齢は……分からない。
でも、背筋がまっすぐで、
服装はきちんとしている。
使用人?――
たぶん、執事。
その人は、私を見て、
一瞬だけ目を見開いて、
驚いた。
次に浮かんだのは、
困惑と、確認。
そして、
ほんのわずかな――安堵。
「……よろしゅうございました」
その言葉の意味は、
すぐには分からなかった。
でも、
声の震えで、少しだけ伝わる。
この人は、
私を“知っている”。
私は、
言葉を探した。
「……えっと」
声を出してみると物凄く透き通っていて驚いた。 喉が、まだ少し痛い。
「……ここ、どこですか」
自分でも、
ひどい質問だと思った。
でも、
それしか出てこなかった。
執事は、
一瞬だけ目を伏せる。
それから、
何事もなかったように、頭を下げた。
「お帰りなさいませ。
玲お嬢様」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥が、きゅっと鳴った。
(……玲)
それが、
今の私の名前。
夢だと思いたいのに理由は分からないのに、
不思議と、否定できなかった。
「まずは、お着替えを。
……その後で、ゆっくりお話しいたしましょう」
ゆっくり。
その言葉に、
少しだけ救われる。
全部を、今すぐ理解しなくていい。
そう、言われた気がした。
私は、小さくうなずく。
「……はい」
短い返事。
でも、それで十分だった。
こうして、
私は屋敷の中へ足を踏み入れる。
まだ何も分からないまま。
――これが、
すべての始まりだとも知らずに……
用意された部屋は、広すぎた。
天蓋付きのベッド。
柔らかい絨毯。
磨かれた調度品。
どれも、私のものだと言われた。
けれど、
どこにも“私”の気配がない。
(……落ち着かない)
着替えを手伝われ、
髪を拭いてもらい、
温かい飲み物を渡される。
されるがまま。
拒む理由も、
受け入れる理由も分からない。
ただ、疲れていた。
体じゃない。
頭の方が。もうよく分からなくなっていた。夢なのか夢じゃないのか。まあ、明日になったらどっちか分かると思うし……まあ、夢であってほしいけどね。
「本日は、お休みください」
執事は、それ以上、何も聞かない。
名前を呼び、
必要なことだけを告げ、
静かに部屋を出ていく。
その背中を見て、
なぜか少しだけ、安心した。
一人になると、
急に、静かすぎて。
ベッドに腰掛け、
手のひらを見る。
小さい。
細い。
(……私、子どもだ)
その事実に、
今さら気づく。
戸惑うのも、
分からないのも、
当たり前だ。
そう思えた瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
窓の外には、
夜の庭が広がっている。
月明かりに照らされて、
昼間見た湖の方向が、ぼんやり分かる。
あそこから、
私は来た。
理由も、意味も、分からないまま。
でも。
「……生きて」
あの声だけは、
まだ、耳の奥に残っている。
(……分かった)
誰に向けた返事かも分からないのに、
心の中で、そう答えた。
今は、
全部を理解できなくていい。
怖くてもいい。
戸惑っていてもいい。
それでも――
生きる。
そう決めて、
私は目を閉じた。
この世界が、
どんな物語なのかも夢なのか現実なのか知らないまま。
それでも、
名前だけは、確かに残っている。
――玲。
―その夜
私は不思議な夢を見た、霧の中に包まれたような感じで綺麗だけど、どことなく悲しいような感じがした花畑だった。
私は何ぜか、その花畑が懐かしいような不思議な変な感じがした。
そっと、花畑に触れようと手を伸ばすとその花畑は触れる事なく、ふわっと霧のように消えてしまった……。
まるで何も無かったかのように……




