鍛錬と陰
朝の空気は、張りつめていた。
庭の奥、
人の通らない場所で、私は一人、
体を動かしている。
走る。
止まる。
息を整える。
(……前より、動ける)
それだけで、少し嬉しい。
理由は、まだ言葉にできないけれど、
体を鍛える時間は、
頭を空っぽにしてくれた。
考えすぎなくていい。
仮面も噂のことも。
ただ、呼吸だけ。
「……無理は、していないか」
背後から声がして、
心臓が跳ねた。
兄だ。
「……見てたんですか」
「ああ」
隠す気もない返事。
兄は、腕を組み、私の動きを見る。
「型がないな」
「……我流です」
「それが悪いわけじゃない」
そう言って、
一歩、距離を取る。
「だが、守るなら――」
言いかけて、
兄は口を閉ざした。
その沈黙が、
なぜか重い。
(……守る)
その言葉が、
最近、よく胸に引っかかる。
兄が去ったあと。
私は、もう一度、走り出そうとして――
止まった。
(……いる)
視線。
はっきりと、感じる。
木々の向こう。
影の中。
「……誰?」
問いかけても、
返事はない。
ただ。
影が、動いた。
黒い外套。
顔は見えない。
でも、
こちらを“見ている”のは分かる。
恐怖より先に、
ぞくりとした感覚が走った。
(……逃げない)
なぜか、そう思った。
影は、
一瞬だけ、立ち止まり。
次の瞬間、
音もなく消えた。
まるで、
最初からいなかったみたいに。
その場に、
しばらく立ち尽くす。
(……見間違い?)
そう思おうとして、
やめた。
胸の奥が、
否定している。
あれは、
偶然じゃない。
風が吹く。
木々が、ざわめく。
私は、
無意識に拳を握っていた。
(……強くならなきゃ)
理由は、まだ分からない。
でも、
それだけは、はっきりしていた。
それは、
ほんの一言だった。
「……大丈夫です」
誰かに向けた、
何気ない返事。
それだけ。
なのに。
次の日から、
屋敷の空気が、少し変わった。
廊下を歩くと、
声が止まる。
視線が、逸れる。
(……気のせい)
そう思おうとしても、
同じことが、何度も起きる。
ミアは、まだ変わらない。
「お姉様、あとで一緒に――」
言いかけて、
周囲を見て、声を落とす。
「……あとでね」
その仕草が、
胸に刺さる。
午後、
応接室でお茶をしていると、
兄がぽつりと言った。
「……街での言葉が、切り取られている」
「切り取られる?」
「前後を、だ」
それだけで、
十分だった。
理解してしまう。
誰かが、
都合のいい部分だけを拾っている。
私の言葉を。
私の態度を。
(……そんな)
怒りより先に、
困惑が来る。
何を、どう言えばよかったのか。
今さら、分からない。
その夜。
窓の外で、
使用人たちの小さな声が聞こえた。
「……冷たい方よね」
「でも、前からああだった?」
「さあ……」
最後までは、聞かない。
聞かなくても、分かる。
言葉は、
もう一人歩きしている。
鏡の前に立つ。
昼に選んだ服。
落ち着いた色。
(……仮面)
昨日より、
少しだけ、馴染んでいる。
「……いい」
そう思ってしまった自分に、
少し驚く。
でも。
全部を正すより、
誤解されたままの方が、楽な気がした。
それが、
“芽”だと気づかないまま。
夜更け。
庭の奥で、
また、気配を感じた。
同じ影。
同じ視線。
仮面の男は、
何もせず、ただ見ている。
まるで、
育つのを待っているみたいに。
――噂も、
私自身も。




