第 七 章 『直下直上』
高さ三〇〇メートル超過の建設途中の高層ビル。その五〇階階付近から、突如として岩石が夜空に飛び出す。
と、急激に勢いが収まり、猛スピードで落下を開始しようとする。
「おっはようっ、幼女ぉっ! 口閉じてぇ!」
「えっ、あ――!?」
アリスを庇うように抱き締めている綿貫。
その背には岩石との間にクッションとして展開した『影』があり、それがにわかに蠢動し始めると、一瞬にしてアリスを抱く綿貫を押し飛ばした。
身体が反り返るほどの衝撃に、綿貫は歯を食いしばって右目を眇める。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
「今、ボクをお姉ちゃんとぉ……? いやぁ、慧眼慧眼! あとでお肉食べさせてあげるからねぇ」
「う、うん、ありが……飛んでるよ!?」
「そぉだねぇ……さぁて、どうしよっか……」
地上までは目測で、二〇〇メートルはある。
しかし落下が始まってしまえば、空気抵抗を上手く利用したとしても、一〇秒も経たずに地面に衝突するだろう。
衝突のその瞬間――自分の『影』が地面に落ちたちょうどその時、果たして能力を使うことが出来るだろうか。
やれないこともないが、現実的ではない。
そう考えている間に推進力が低下し、ゆっくりと放物線を描いて、
「お姉ちゃん、落ちるっ!!」
「ペカーっ! って、閃いたんケドぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおう!?」
加速。
足元に広がる地上が、押し迫る。
……死んだ、幼女が。
どさり、という落下音を耳に入れる直前、綿貫は反射的に瞼を閉じた。
アリスを抱く腕に、ぷつぷつと鳥肌が立ったのが解る。
「あっれぇ……?」
肉が弾ける音がない、意識が途切れない、痛みがない。
「――チビ共が、俺を煩わせんじゃねぇよ」
「か、彼方ぁ……」
「鳥さんっ!!」
体長三メートルはあるであろう白色の怪鳥――高城彼方のその背に、綿貫とアリスはいた。
綿貫は、涙目になりながら脱力してアリスを抱く腕を解く。
「ボ、ボクは褒められて伸びる子なんだいっ! ほらほらぁ!」
「突き飛ばせばよかっただろうが。お前一人ならミンチにでもならねぇ限り死なねぇんだからよ」
「ミンチになっても死なないケド……辛辣すぎるよぉ……」
肩を落とし、倒れるようにして寝転がり、唇を尖らせた綿貫が指先で羽毛を弄り始める。
その横でアリスは怪鳥の頭の方へぼんやりと視線を向けていた。
「……ん? どぉしたの、幼女?」
「……タカジョー?」
「そぉだよ。彼方の能力は十三人の中でも、ちょぉ〜っと特殊だからねぇ。この『変身能力』はおまけたいなもんだケド、すごいでしょ?」
「うん……タカジョー……」
怪鳥の頭の方へ目を向けたままアリスは質量を感じさせない羽毛を小さな右手で撫で、
「ありがとう……」
と、しなやかに頬を緩めた。
そんな言葉と笑顔を向けられた高城からの返事はない。ただただ夜空を滑空していく。
「ねぇねぇ、ボクにはぁー?」
「お姉ちゃんもありがとう!」
「ふへへ……お姉ちゃんかぁ……。ボクは綿貫月下って言うんだ。よろしくね、幼女」
「幼女じゃないよ、私はアリスっていうの」
「幼女は幼女さ」
「違うもん! ねねっ、タカジョー! ゲッカがイジワルする!」
「呼び捨てぇ!? それは許さぁん! お姉ちゃんと呼ぶがいいっ!」
「黙れよ、クソガキ共……」
ゆっくりと純白の翼を羽ばたせ、姦しい二人を乗せた怪鳥は着陸行動に移った。
* * *
発光。
白色の光を放ち、怪鳥は人の姿へと変わる。
だが、そうして現れた凶悪な相好の少年の姿は人のそれとは思えないほど怪奇的なものだった。
「タカジョー!?」
悲鳴に近い呼びかけとともにアリスが高城に駆け寄り、ゼリーのようにぷるぷると震えながら、恐る恐る見上げる。
黒目は色素を失い翠玉のような輝きを見せ、毛髪は黒毛混じりの白髪。元々色白の肌に至っては、『中身』透けて見えるほど白々としていた。
「た、タカジョー……」
「チィッ……!」
青々とした血管。蜘蛛の糸のように筋の走った筋肉。
なんと言葉をかけていいのか解らず狼狽えるアリスを意に介さず、高城はそんなグロテスクな自分の右手をまじまじと見つめる。
「この、バ彼方ぁ! ドMもほどほどにしろぉ! 明らかに能力が安定してない、ってか制御できてないじゃんかぁ!」
「うっせぇな……」
「タカジョー死んじゃうの……?」
「……、あんな雑魚共にどんだけ能力使ったの!? いくら『無敵』でも今のアンタなら、ボクでも殺せるよ!!」
「見縊ってんじゃねぇよ……」
「ダルマにしてむちゃ出来ないようにしてあげよっか……?」
「かっ、カカヒッ! オモシレェ! ハンバーグにして喰ってやるよぉおッ!」
「……ゲッカ! タカジョーね、指いっぱいパッチンってしてた!」
「指……?」
アリスから移ってきた綿貫の視線から逃れるように、高城は目を逸らす。
そんな高城に綿貫は思案顔で詰め寄り、
「……ツンデレかよぉ! 時代遅れもいいとこだねぇ!」
「ッ……!」
照れ臭そうに笑みを浮かべて、持ち上げた肘で彼の脇腹をつつく。
「お前の頭ん中は呆れちまうほど愉快なことになってんだな。俺はアイツらと殺り合うために動いたに過ぎねぇっつぅのによ」
「いやぁ、ボクは嬉しいよ! あの戦闘狂がロリコンになったかと思えば、真人間になっていたなんてねぇ……」
「二人とも仲直りしたの……?」
「うんっ! ありがとねぇ、幼女。キミは頭がいいんだねぇ」
「ったく、余計なこと吐かしやがって……」
綿貫に頭を撫でられて心地よさそうにするアリスを横目に、高城は徐に額へ右手を持っていきつつ思案を巡らす。
――『形態』。
――『老化』。
――『存在』。
「とりあえずそのグロい姿どうにかしてよぉ。とてもじゃないケド、幼女が見ていいもんじゃないしねぇ」
「今やろうとしてるところだ。黙ってろ、ドチビ……」
「おーこわっ!」
「――は?」
手で額を覆った高城が目を丸くした。
……どうなってやがる?
手を離し、もう一度。
「どうしたの、タカジョー?」
不審に思ったのか、アリスが高城の空いている左手を握った。
構わず、額に手を添えては離すを繰り返す。
そのうち段々と高城の顔に焦燥が露わになっていく。
「……使えねぇ」
「ボクは使える女だよぉっ!!」
「使えねぇんだよ!」
「……まさか、能力が消失したの……!?」
「クソが……こんなところで終いかよ……」
歯噛み、頭を掻き毟った。
自分の中にはまだ超能力の存在を感じる。が、何故かそれが使えない、思うように実現出来ない。
これが能力を失うという感覚なのだろうか。
この虚無感は能力を失ったことだけのものではなく、それによって『目的』を失ったのが原因だった。
「しっかりしなよぉっ! 調子が悪いだけかもしれないじゃんか!」
「……アレ、なに?」
綿貫の声で我に返り、ぐっと手を引いて問うたアリスの視線を辿る。
上空。
夜明けには程遠い暗い空に大きな影がひとつ。その影は徐々に広がっていき、辺り一帯を闇に包む。
「石……? やっ!?」
「――綿貫! ガキを!」
「ちょ、何これぇ!? またぁ!?」
アリスを綿貫の下へと突き飛ばした時には、既に岩石は周囲の建物を押し潰し、高城の頭の寸前にまで到達していた。
*―*―*
轟、という長く響く重低音とともビルが揺れる。
膝をついて、先ほど綿貫とアリスを攫った岩石が空けた穴から、零崎は再び外の様子を窺う。
「これは……」
それは、信じられほどのサイズだった。
こんなにも巨大な岩石を目にするのは初めてだ。そもそも、本来地球上に存在するのかも解らない。
まるで、小惑星が衝突してきたかのように錯覚してしまう。
「――アリス!!」
「待て! 零崎!」
橘の制止を振り解き、物怖じすることなく零崎は飛び出す。
と、彼女は残像を残して瞬く間に地上へ降り立った。
顔を上げると、視界には凄惨な光景が入り込む。
周囲に散乱した大小様々な瓦礫。それによって破損した道路。
……宮城県沖地震の爪痕を彷彿とさせますね、十年前の。
と言っても、零崎本人は東北の出身ではなく、その様子はテレビで中継されたものを観たに過ぎないのだが。
「そんなことより、アリスを……危険が迫れば……」
余計な思考を追い払い、ついと眼前の岩石に目を向ける。
ここからでは見上げることも、出来ないほど巨大だ。
この中から、どうやってアリスを救い出せというのか。
自分の能力では、どの位置にいるか解らない彼女を傷付けてしまう可能性があるのだ。
「く……ッ!」
歯を軋ませ、額を強く押さえた。
こうなるといつも留まって、無力さを嘆くことしか出来ない自分が嫌だ。
だがしかし、今は違う。自分にはこの正された『信念』がある。
「救う、アリスを……!」
岩石に向けて、指差すように人差し指を立てた。
瞑目し、心を落ち着けてから目を見開く。
「……ん?」
不意に、視界が揺れた。
いや、岩石が僅かに揺れ動いたように見えたのだ。
岩石の下部に目線を落とし、目を凝らす。
「浮いて……いる……?」
球体という形状の上に辺りが暗いということもあって気付かなかったが、一メートルあるかないかの隙間があった。
瓦礫でも挟まってそうなっているのだろう、という結論に至りかけるが、
「――ギャハヒャアッ!!」
岩石が、すうっと持ち上がっていく。
そこから響く狂った笑い声は、高笑いへと移行したところでぴたりと停まった。
「もう言い訳は出来ねぇよなぁ。二度もチビガキごと俺らをブッ潰そうとしたんだからよぉ……嶺川くん、だっけぇ?」
零崎の脳裏に、自分を易々と地へ伏せさせた少年の顔が過ぎる。はしなくも首の裏が粟立った。
「仮にこの状況でチビガキの異能とやらが発動するとして、それをテメェが知っていたとしても、ちょいと可笑しくねぇか? いや、可笑しいのはあの二人なのかもしんねぇけどよ」
緒戦で火炎を腕に纏わせ、先ほど怪鳥へと変身して翔ていった男――
「クルースニク……!?」
岩石を両手で持ち上げている高城を、零崎の視線が捉えた。
相変わらず、肌とTシャツ以外は黒色が支配している。
彼の足元に見れば、地面から伸び出た『影』が甲羅のような形を作って、その下に伏せる綿貫とアリスを庇っていた。
……そうです、こんなことをやれるとしたら嶺川以外にはいません。
アリスのことで加熱していた零崎が、一気に平静を取り戻す。
たしかに高城が述べた通りで、嶺川のこの行動は零崎にとっても不可解だった。
嶺川は、知らないのだ。
アリスの異能かけられた『規制』は完全なものではなく、危機的状況に陥った時には一時的に解除されてしまうものだということを。
その上で、アリスと共にいた綿貫を狙い、なんとか無事に地上へと降りた三人を狙って追撃を行った。
可笑しい。
まるで、アリスがどうなっても構わないとでもいうような振る舞いだ。
「しっかし、面白ぇことしてくれるよなぁ。嶺川くんはチビガキと遊びたかったのかねぇ? お手玉って言うんだろ、これ?」
「手伝おっか……? って、軽ぅうっ!?」
甲羅の『影』がうねうねと揺れ動いて四本に分離し、今度は人の手を形作って岩石を支えようとすると、まるで紙風船のようにふわりと浮かび上がった。
岩石は舞い落ちるようにして、再度高城の両手に収まる。
「お手玉なんだから、『投げて』遊ばねぇとな」
「『投げつける』のは間違ってるとは思うケド……」
「チビガキの代わりに俺が遊んでやるよ――」
高城が、やおらに身体を反り返らせていく。
さながら指を離した張り詰めた弓弦のように、ぴんと上体を起こして岩石が放たれた――――
* * *
建設途中の高層ビルの最上部は、鉄骨が剥き出しの状態で、仮設の枠組み足場が組まれてあった。
そこに、パーカーを目深に被った嶺川は立っている。
右手の中でじゃらじゃらと小石を遊ばせ、今し方落下した超巨大岩石に目を落とす。
「ははははははっ! 流石にこの質量は弾けなかったか……」
薄ら笑いを顔に貼りつけ、右手にある小石を投げ捨てる。
「これは手筈通りにアリスを回収しなかった『奴ら』が招いた結果だ。まぁ、輸送分とこのあとかたづけで、もらえるもんはもらえるでしょ」
うんうん、と二度頷いて溜息を吐き、
「それにしても研究特区ってところは恐ろしいね。噂が本当ならアレ以上のバケモノが十三人もいるって話だし……いや、意外にあの二人がその内に含まれていたりして」
そしたらちょっと不味いかな、と呟いて苦笑した嶺川の表情が――凍った。
唐突に違和感に襲われ、頭をもたげる。
岩石を投下した時に訪れた震動が、弱くなかっただろうか。
このサイズと重量の岩石がこの高さから落下した時の震動など計り知れない。が、膝をついてやり過ごせる程度だった、ということがどうにも不審に思えた。
……嫌な予感がする。
背筋を撫でられるような感覚が嶺川に踵を返させようとするが、
《――ギャハヒャアッ!!》
「は……?」
ぷつり、と出し抜けにと小さな衝撃が鼓膜を打ったかと思えば、奇っ怪な笑い声が耳に届く。
《もう言い訳は出来ねぇよなぁ。二度もチビガキごと俺らをブッ潰そうとしたんだからよぉ……嶺川くん、だっけぇ?》
振り返る。きょろきょろと辺りを探る。
見渡せど見渡せど、ここには嶺川以外の姿はなかった。
《仮にこの状況でチビガキの異能とやらが発動するとして、それをテメェが知っていたとしても、ちょいと可笑しくねぇか? いや、可笑しいのはあの二人なのかもしんねぇけどよ》
まるで、いや、確実に耳元で声が響いていた。
《しっかし、面白ぇことしてくれるよなぁ。嶺川くんはチビガキと遊びたかったのかねぇ? お手玉って言うんだろ、これ?》
「やめ……ろ……」
嶺川の脳裏に高城との戦闘の記憶が蘇る。
《お手玉なんだから、『投げて』遊ばねぇとな》
「やめてくれ! きっ、聞こえているんだろッ!?」
足場に跪き、眼下の岩石に向かって喉を振り絞って叫ぶ。
嶺川は全力で叫び上げているつもりであったが、その声は非常に弱々しく、震えていた。
《チビガキの代わりに俺が遊んでやるよ――》
音のない爆発が、大気を震わせる。
斜線を描いて、真っ直ぐ岩石がこちらへ向かってくる。
慌てふためく嶺川は、何か投擲できるものはないかと全身をまさぐった。
……無い、無い、無い、無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い、あった、あった!!
嶺川の指先が眼球に触れたその時、その瞳が映し出していたものは、鼻先まで迫った視界を軽々と覆うほどの巨大な岩石。
そして岩石は、暴風のような風切り音を撒き散らし、ビルの上部一〇〇メートルほどを飲み込むと、夜空の彼方へと消えていった。