第 六 章 『爆弾を愛する女』
彼女は、まるで人形のようだ。
背中の辺りまで垂れた艶のあるブロンドの髪が、精巧に造り込まれた愛らしい容貌を引き立てている。
自然と女の口元が綻ぶ。が、だらしない、と頬を叩いて首を振った。
そんな自分を彼女は唇に人差し指を添えて不思議そうに見上げているではないか。ぽうっと頬が染まっていくのが解る。
女は、それを咳払いでをごまかしつつ、屈んで彼女と目線の高さを合わせた。
「私は零崎沙希です。あなたのお名前は?」
「……?」
彼女は首を小さく傾ぐ。
しまった、と零崎ははっとして、困ったようにように苦笑した。
ヨーロッパ圏内の出身ということだが、英語は通じるのだろうか。
しばし唸り続けて思案するも、結局零崎は自分を指差して、
「私は、沙希。沙希、です」
「サ……、サキ……?」
「そう! そうです、沙希! あなたの、お名前は?」
彼女の顔を指差して、首を大きく傾げて見せる。
すると、彼女はその場で飛び跳ねて自分の存在をアピールしつつ、
「アリス!」
と、可愛らしい声で名乗った。
その名を復唱すると、アリスは零崎の名を呼び返す。
なんだかそれがとても嬉しくて、零崎もまた彼女の名を呼び返した。
* * *
ブルーシートに包まれた資材の上で腰を下ろしている橘は、左耳を欹てた。
こ、というブーツの底が地を叩く音。
安堵の溜息を洩らし、緊張の糸を解く。
当然だ、と橘は鼻を鳴らして笑う。
自分や嶺川はともかく、零崎が研究特区の偽物ごときに敗北を喫することなど万が一にもあり得ない。
『三貴神』と呼ばれる異能者の一人である彼女を、最強といっても過言ではないだろう。
「零崎、嶺川は死んだ、の……」
「――嶺川とかいう奴は絶叫して落ちてったぜ。零崎は今頃コンクリートでも舐めてんじゃねぇかぁ?」
声とともに闇の中で白色のTシャツが浮かび、ややあって悪人面の男――高城が姿を現す。
アリエナイ。
橘の頭の中に、その言葉だけがじわりと浮かび上がった。
「黄泉……彼方……!?」
「だからなんだそりゃ……」
慌てて資材の上から降り立ち、柏手を打って構える。
高城の足元に目を向けてみると、丈の違いはあれど零崎と同様に黒色のブーツを履いていた。
「はぁん……なるほどねぇ……」
一歩、また一歩と高城が近付いてくる。
……どうする? どうすればいい?
右耳がずきずきと痛み始め、即座に攻撃に移ることを橘に躊躇わせた。
橘には、足を停めることなくこちらへ向かってくる高城が、まるで恐怖を具現化したモノのように思えた――いや、橘にとって恐怖そのものだった。
ようやく恐れを自覚した時、橘の横を高城がすっと通り過ぎる。
「なぁっ……」
「……橘ぁ、あのチビはどうした?」
立ち止まり、背を向けたまま高城は問うた。
橘は、ほっと胸を撫で下ろす。
冷や冷やさせてくれる、と内心で呟き、この状況を打開すべく慎重に回答を選んで口を開く。
「少し遅かったな。アリスはもうここにはいないよ」
「くひッ、違ぇよ。綿貫はどこだって訊いてんだ」
「……さぁ? この研究特区のゴミ処理施設で燃やされてしまったんじゃないかな?」
「嘯くんじゃねぇよ」
振り返った高城の鋭い視線が、橘を貫く。
「何焦ってんだよ? 怖じ気付いちまって、テメェ特有の回りくどさが消えちまってるぜ」
「ははっ、面白いことを言うな……そもそも俺は回りくどくはないよ……」
「アイツはよぉ、手足を千切られようが、頭をブッ飛ばされようが死なねぇんだよなぁ……」
「そう、みたいだな……まったく、骨が折れたよ……」
「往生際が悪ぃことこの上ねぇなぁ。ここまでいくと楽しくなってくるねぇ」
「こっちは不愉快だ」
「そうだ、面白ぇこと教えてるよ。あのチビガキが、テメェのことをなんて言ってるか知ってっか?」
「チビカキ……? ああ、俺はアリスとあまり関わりを持ってないからな。知らないよ」
「――アリスを『閉じ込める』悪い人、だとよ」
吹き出すような勢いで冷や汗が背中に広がっていく。
それがどうした、と言い返そうとするが橘は声が出せなかった。
「まさに、その通りだな。空間が切り離されちまってんだ、念話だって通じねぇ。だが、それも完全に『隔絶』とまではいかねぇようだ」
高城が、踏み出す。
「テメェは空間を物質化して綿貫にぶつけてやがったな。だから『隔離』ってところか?」
「待て――!」
か、とガラスを叩いたような甲高い音が響く。
同時に、蹴り出すように踏み込んでいた高城の足が停まった。
「大正解……!」
「そ……それが解ったところでどうすることも出来ない! 簡単に壊せるようなモノじゃない!」
……何故それだけで解った――!?
半ば混乱した頭で橘が思考を始めようとすると、何もあるはずのないそこに高城が右手を伸ばす。
と、その指先を何かが阻む。視認することが出来ない壁のようなものに、ぺたりと手が触れる。
その瞬間、橘は信じられない光景を目にした。
高城の右手を中心として、まるで渦を巻くように空間が捻れたのだ。
「……チビガキだけか」
そして、先ほどまで何も映していなかった高城の瞳には、小さく丸まって安らかな寝息を立てているアリス姿が映っている。
橘は、信じられない、というよりは信じたくなかった。
『コレ』をいとも簡単に破られたとなると、自分がどう足掻こうが高城には適わないということになる。
「そんな……わけが……」
「いくら空間が切り離されていたとしても、それは実際にそこにあって、中身は通常の空間だ」
「発信機を付けていたところで意味が……」
「発信機ぃ? どこにぃ? 胃袋の中にでも放り込んだってかぁ? ……ねぇよ」
振り向き、高城は橘が腰掛けていた資材の裏へと回る。
「そのガキの『存在』をちょいと弄らせてもらった。ソイツを俺が観測出来たとしたら……どうだぁ?」
「最初から見えて、いや、解っていた……?」
「くくッ、テメェとのくっだんねぇ応酬もなかなか面白かった、ぜ」
か、とガラスを叩いたような甲高い音。
再び響いたその音に、蹴り出すように踏み込んでいた高城の足が後ろへ高く引かれ、
「なぁにぃやってんだ、綿貫ぃい――ッ!!」
蹴った。瞬く間に空間が捻れ、
「すぴぃー……かぁー……」
『影』の寝袋を纏って呑気に眠っている綿貫が、突如として高城の視界に現れた。
黒色の不可思議な物質から顔だけを晒した彼女の姿は、まるで蓑虫のそれだ。
「おら、さっさと起きやがれ」
「かぁー……すぴぃー……」
「起きろって言ってんだろ、ドチビッ!」
そんな彼女を足蹴にして、額に青筋を浮かばせた高城は怒鳴る。
「なんだよも次いで欠伸したところでやっとこさ起立する。
「なんで抜け出さなかったんだよ」
「あっ、恐ぁい恐ぁい年増がいてさぁ! 何度殺されたことか……もう面倒になったから寝てたよぉ……」
「そりゃあご愁傷様様。因みに上に報告してねぇから、自分で抜け出す以外の選択肢はなかったんだぜ」
次いで欠伸したところでやっとこさ起立する。
「なんで抜け出さなかったんだよ」
「あっ、恐ぁい恐ぁい年増がいてさぁ! 何度殺されたことか……もう面倒になったから寝てたよぉ……」
「そりゃあご愁傷様様。因みに上に報告してねぇから、自分で抜け出す以外の選択肢はなかったんだぜ」
「……ボクはそこの幼女のついで!? そりゃさぁ、いざとなったら『全力』でいくつもりだったケド。あ、なんか頭痛い」
「脱水症状だろ、そのままくたばっちまえよ」
「今のボクは機嫌がいいから許す! それよりちょぉ〜お腹も空いてるし、幼女も連れて焼肉でも食べにいこうよぉ! もっちろん奢るからさぁ」
「オイ、チビガキ。帰んぞ、起きろ」
「かっ、完っ全スルぅー!?」
「お前、あのガキ運べ」
「今まで捕らわれの身だったボクを働かせる気かよぉ! この鬼畜! ロリコン!」
「俺がマジでロリコンなら、お前はとっくにミンチにになってるだろうな」
「とんでもないサディストがここにいた……! 逃げてっ、幼女ぉ!」
「だから違ぇって言ってんだろぉおがぁッ!」
高城の怒号から逃れるように、綿貫がアリスの下に駆け寄る。
蚊帳の外――完全に空気と化している橘は、石像のように直立不動だった。
震えはない。ただただ足が竦んで動けなかったのだ。
『全力』を出していなかったという綿貫に、自分の『隔離』を解いた高城。
こんな偽物を、いや、バケモノを相手に生きていられるはずがない。
橘は、脱力する。
抗う意志がないことを示すように、すうっと瞼を降ろしていく。
――閃光。
反射的に橘の瞼がぐっと持ち上がった。
* * *
――『爆弾ちゃん』。
アリスをここに連れてきたロシア人の男は、彼女をそう呼んだ。
その呼称の意味を知ったのは、アリスと出会ってから約三年の月日が経ったある日のことだった。
独房のように狭く、しかし閉塞感を与えぬよう白色で塗り潰された空間。
そこには生活する上で最低限必要とされるものが置かれていたのだが、それらは悉く粉砕され、壁や床や天井にはおびただしい数の『穴』。
その中で、アリスはすやすやと眠っていた。つまり無意識のうちに異能を発動させてしまったのだ。
「僕の『規制』を突き破るなんて。どうやらおチビちゃんの成長に伴ってその身に宿す異能の力も増してきているようだね」
「いつか僕の異能も通用しなくなるだろう。そうなる前にどうにかしないと、ね」
「それは当然、始末をつけるってことさ。ああ、僕達の方でなんとかするから安心してよ」
「……君がどうにかするって? 無駄だと思うよ」
「『神の右手』と『神の左手』のことは知ってるかい?」
「彼女の方は、おチビちゃんの異能の消去を試みてくれたんだけれど、まったく効かなかったんだよね」
「彼の方は、おチビちゃんを早くから危険視していたみたいでね。とにかく破壊をしようとしてきたらしいんだけれど、逆に異能を損傷させられたみたいだよ」
「そんなおチビちゃんの異能に唯一効果のあった異能が、僕のちっぽけな能力さ」
「……それでも、探すのかい? ――救いを」
アリスに『規制』をかけ直した、ダークブロンドの短髪を揺らす黒色のスーツを着込んだロシア人の男の言葉。
彼の言うように、それでも零崎はアリスを救おうと決意する。
だがしかし、言われた通りの結果が零崎を待っていた。
奔走虚しく、全てが無駄に終わったのだ。
救いなどどこにもありはしなかった。
「ねぇ、サキ。どうしてアリスはここにいなきゃいけないの?」
「……あなたを狙う悪しき輩から守るためですよ、我慢してください」
「そっか。あ、この前ね、タチバナがね、サキを探しにいこうとしたらアリスをまた閉じ込めたの! ちょっとくらい許してくれてもいいのに!」
「ダメ……です、よ……」
「サキ……?」
「外は、危険で……我慢、して……」
「……泣いてるの、サキ? よしよし」
零崎は自分が情けなくてしかたがなかった、悔しくてしかたがなかった。
愛する者一人も救ってやれないという現実が、憎くて憎くてしかたない。然りとて、それを撥ね除けることも出来ず。
やがて、零崎の瞳から煌めきが失われた。
「……あなたを救える人がいるかもしれませんね、世界に一人くらいは」
「……?」
そうであって欲しい、と願いつつ零崎は小首を傾げたアリスの頭を優しく撫でた。
* * *
暗闇の中で、一筋の光が走った。
それは、高城の右肩を貫く。
焼け付くような激痛を無視して、高城は振り向いた。
「殺させません……アリスは……!」
高城を指差して告げたのは、肩で息をする零崎だ。
彼女の爛々と煌めく瞳に、高城はひどく胸を躍らせる。
「もう一度踊ってもらいますよ、嫌でも――!」
「くひはッ、大ッ歓迎だねぇッ! あのガキにくだんねぇこと吐かすようには思えねぇなぁ!」
「……あなた、なのでしょう?」
「いいや、ミスって正しちまっただけだ。まっ、これはこれで正解みてぇだけどなぁあッ!」
「狂人が」
零崎が妖しく微笑み、両腕を後方へ引いていく。
「げげぇっ! 年増ぁ!?」
「零崎! 援護する!」
綿貫が叫ぶと同時に、橘がバックステップで後退し、力強く手を合わせてた。
「ええとぉ、ボクはどうすれ――」
戦闘が開始されようとしたまさにその時。
ご、という凄まじい風切り音ともに綿貫とアリスがいた位置を岩石が高速で通過していった。
次いで破砕音を響かせ、岩石はコンクリートの壁とブルーシートを突き破り、宙に出たところで重力に従って落下していく。
その間、それを追っていち早く動いていた人影があった。
――高城だ。
彼が白色の発光を見せながら、岩石同様宙へ身を投げるその様を見て、零崎がぽつりと呟く。
「――クルースニク……」