第19話 全てを内包して
僕とサドリは、寝室に入った。明かりはついていない。部屋の中は少しだけ埃っぽく暖かかった。ベッドに腰かけたサドリは、その隣を手でたたく。
「座って」
僕は隣ではなく、その下の床に座り、ベッドを背もたれにした。脱力する。
「サドリ、僕は……」
「知っている。倒れているお前の父親を見つけて救急車を呼んだのは私だ」
斜め後ろを見る。彼女の顔は暗くて見えない。
「私が行った時には、全てが終わった後だった。死んでしまったものを生き返らせることはできない」
「サドリ」
「私はいずれお前が鏡の向こうに行くということは分かっていた。何故なら、私は十年前、既に今のお前と会っていたのだから」
淡々とした口調だった。
「じゃあ、あれは現実に起こったことなんだね。本当に……」
「お前もよく分かっている筈だ。あの鏡は時を映し、時を移すものなのだよ」
僕の頭は、ゆっくりとある可能性に向かって回転する。あるかもしれない希望へ。
「僕は、もう一度あの鏡を使って過去に行く。だって、だって僕のせいだ。僕が過去に行かなければ父さんは死ななかった。僕は父さんを今度こそ救う」
「駄目だ。結果は変わらない」
断固とした口調だった。僕はその絶望的な言葉に苛立つ。
「どうして分かるの」
「私もやったことがあるから」
黒い彼女の影は暗闇の中で身じろぎした。
「滝肇の話はお前も覚えていると思う。あいつは死ななくてもよかった。単に『魔術師殺し』の自爆に巻き込まれただけだったのだから。私はあいつを生き残らせるために鏡を使うことにした」
寝室にある小さな窓から少しひやりとした風が入ってくる。
「そのために必要なタイミングを鏡が映し出すまで十年待った。ついにその時がやって来て、私は鏡の中に入った。滝肇が『魔術師殺し』を召喚する夜だ。そこでは、その時代の私と『魔術師殺し』が戦っていた。私は肇を逃がすためにその場に近付いていった。しかし、肇は『魔術師殺し』が自爆する前に、自分から逃げ出そうとしていた」
彼女は微かに呻く。
「彼は逃げ出す途中、ありうべからざるものを見て足を止めた。すなわち、二人目の私だ。直後『魔術師殺し』の爆風が彼を襲った。馬鹿な話だ、馬鹿な……」
暗闇の中の彼女のシルエットが変化した。彼女は両手で顔を覆っているらしい。泣いてはいない。けれども彼女の悲しみは十分に伝わって来た。僕はほんの少しだけ首を彼女の方に傾けた。肩などは抱けない、その代わりに。
「何回も試したがやはり駄目だった。私達が何をしようとも、時は全てを内包して動く。結果は変わらない。どのように干渉しようとも、肇は死に……お前の父親も死ぬ」
僕は長い長いため息をついた。彼女の言葉は受け入れがたかった。しかし、理性は恐らく彼女の言うことが正しいのだろうと言っていた。でなければ、タイムパラドックスが起きる。僕が過去でやった諸々のことは、全て世界にとって折り込み済みだったのだ。
風が涼しい。
「サドリ、僕は父さんを置いて逃げ出してしまった。多分あの後父さんは死ぬんだと分かっていたのに」
うん、とサドリは小さく相槌を打って、僕の言葉を促してくれる。
「僕が無力だったせいだ。何も、できることが無かったせいだ」
両手を握りしめる。
「僕はもう嫌だ。自分の無力で助けるべき人を助けられないのも、自分の状況をどうすることもできないのも。サドリ、僕に魔術を教えて。僕が魔術を勉強したところで、無力なことに変わりはないかもしれない。でも、何もしなければ、僕はこの世界でまた何もできずに大切なものを失くすんだ」
僕は生涯魔術の世界から逃れることはできないだろう。それは生まれた時に決まっている。けれど、その与えられた条件の中であがくことはできるのだ。
部屋が少しだけ明るくなった。小さな窓から西に傾く満月の光が差し込んでいた。
「いいよ」
微かに彼女はそう言った。
僕は黙って頷いた。しばらく二人とも何も言わなかった。その後、僕は彼女に聞くべきことを聞いた。
「サドリは、どうして僕にこの家にいて欲しいの。前も聞いたけれど、ちゃんとは教えてくれなかった。自分の魔術に役立てたい? ……それとも、失くした名前を見つけて欲しい?」
「二つとも合っている。でも、もう一つ。肇に似ているから」
それは意外な答だった。
「どうしてだろう、全然違うタイプなのに。でも、二人ともすごく真面目で、それで一層自分の問題をもてあましている。見ていられない。私は一度どうしようもなく失敗した。もう二度とそんなことはできない」
それで分かった。サドリは僕に関して、少し過保護になってしまうのだ。僕は彼女を安心させないといけない。そして僕の願いを伝えなければ。
「僕は、僕もサドリも二人ともそれでいいと思える選択をしたい。僕はサドリの本当の名前を見つけられるか自信が無いし、多分サドリよりも先に死ぬ。でも君をなるべく悲しませないようにしたいと思うんだ」
傷ついた不老の魔術師は少し驚いたようにしている。彼女の顔がよく見える。僕は微笑んだ。
「そのために少し僕を助けてくれるかい」
西の空が白み始めた。朝が来る。