第18話 叫び
会計を済ませた僕らは路上に出た。都合の悪いことに僕達がいた焼鳥屋は、路地の奥まった所にあって、すぐにはタクシーが捕まりそうもない。僕は焦りの余り叫び出しそうだった。
「一旦大通りに出て、タクシーを捕まえよう」
「だけど、悠理、どうして」
「いいから!」
僕は父さんの手を引き歩く。三本ほど道を越えれば大通りに出るはずだ。だけど、本当にタクシーでいいのか? 救急車を呼んだ方が。いや、父さんはまだ倒れていないのだ。外見上元気そのもの。救急車は使えない。
父さんはおとなしく付いて来てくれる。さすがに状況が普通ではないということを分かってくれているみたいだ。
もう一本道を越えれば大通りというところで、僕達の行く先に一人の男が立っていた。金髪碧眼、フロックコートに中折れ帽。記憶より幾分若い。けれど僕はこの男に会ったことがある。
男は整った歯並びを見せてニッと笑った。
「お待ちしておりました」
男が指を鳴らす。すると急に周囲の音が遠ざかった。僕はこの感覚に覚えがある。四人で川に出かけた時に味わった――
「結界」
「ああさすがにご存知ですか」
男は流暢な日本語でそう言うと、中折れ帽を取って慇懃に礼をした。
「イギリス魔術機関ガーディアン日本駐在員のアラン・スミシーです。以後お見知りおきを」
父さんが片手で僕を後ろにやり、自分も一歩後退る。
「そんな人間が俺達に何の用だ」
アラン・スミシーはきょとんとした顔をして、その後困った表情をしてみせた。
「俺達? いえいえ、用があるのは、そちらのお子さんだけです。あなたはお帰り頂いて構わない」
「何だと」
スミシーは白い手袋をはめた手を僕に向ける。
「遠くからでも分かりました。そのお子さんは稀代の才能をお持ちだ。名前を知る才能など我々には望外の代物です。早速本国に連絡し、研究・保存の準備を始めます」
「研究・保存?」
父さんの反応に対しスミシーはさも意外だと言わんばかりの素振りをする。
「おや、その魔力、あなたも一応は魔術師なのではないのですか。ご存知ない? 稀代の才能を持った魔術師は、国を挙げて研究するのが鉄則です。それに加えてわが国では更に魔術理論の構築が進み、よりよい研究ができるようになる時まで特別な溶液に漬けて魔術師の身体を保存する」
父さんは絶句する。
「何を驚いていらっしゃるんです。魔術の発展のためには、当たり前の手続きではありませんか」
僕はいつかのサドリの言葉を思い出していた。かの国では魔術師を瓶詰にすると。今スミシーが言っているのはそれなのだ。
「そんなこと許されるものか」
「許されますよ。大いなる神秘に近づく道なのですから。とりわけそのお子さんへの研究は世界の本質を知るうえで、この上なく重要になるでしょう」
「…………」
しばしの沈黙の後、父さんは僕に向かって低い声で言った。
「逃げろ、悠理」
「! 駄目だ父さん」
「いいから、俺一人ならば何もされまい。危害を加える合理的な理由が無いのだから」
「いやだ! 父さんを置いて――」
「足手まといだ!」
パン、パン。スミシーは白い手袋の両手を二度打ち合わせた。
「私を放って親子で相談するのはそこまでにしていただきたい。何ですか、逃げるだの逃げないだの。そもそもできるとお思いで?」
その言葉が終わるや否や、スミシーの足元から吸盤のついた太い触手が現れ、僕の足に絡みついた。そのまま僕の身体は上下逆さまにぶら下げられる。逆さまになった視界に巨大なタコのようなものが映った。
「悠理ー!」
父さんは僕に向かって叫ぶと、次に何を思ったのか拳を握りしめ、タコ本体に向かって突進した。
「父さん!」
「愚かな」
父さんは巨大なタコに向かって、あまりにも小さな一撃を加えた。無理無謀にも思えるそれ。しかし、一拍置いて空気を切り裂く大きな静電気が発生したような音がした。タコが身もだえし、触手がゆるんだ。僕は路上に放り出される。
「私と使い魔との契約を打ち消したのですか」
タコの触手が暴れる中、僅かな焦りをにじませてスミシーが呟く。アスファルトの上から起き上がると父さんの叫び声が聞こえた。
「逃げろ悠理ッ!」
父さんはタコの触手に薙ぎ払われ、民家の壁にぶつかっていた。
「父さん!!」
父さんは僕に向かってまた叫ぶ。
「お前が来ても変わらん! 行けー!!」
残酷なことに。
間違いなく父さんの言う通りなのだ。
「―――――――――!!」
僕は全力で走り始めた。父さんとスミシーとは逆方向に。
「それでいい」と小さな声が聞こえた気がした。
僕は走り続ける。悔恨の念にさいなまれながら。僕は確かに父さんの運命を変えてしまったのだ。逆方向に。父さんは今日突然の心臓麻痺で死ぬ。それが、このスミシーの一件と無関係な訳がない。僕は、僕は、
それでも父さんを置いてきてしまった。
「クッソォオオオオオオオオ!!!!」
『お前が来ても変わらん』それがまさしくその通りなのは、あの状況でも分かってしまって。あまりにも無力。僕は何一つできることがない。
雪は僕達の状況と関係なく降り続ける。やがてこの雪はこの街を覆う大雪になるのだ。
道の僅かな段差に僕はつんのめってこけた。アスファルトの小さな突起が手に刺さる。手がじくりと痛んだ。僕はそこで大粒の涙をこぼした。
「父さん……!」
乾いた冷たい冬の匂いと、口中に広がる鉄の味。
「おい」
僕は顔を上げた。少しだけ低いその声。
「お前何しているの」
彼女がそこに立っていた。銀髪紫瞳の魔術師が。
「サドリ! 父さんを、父さんを助けて!!」
僕が彼女に取りすがろうとした瞬間、視界が歪み、僕はアスファルトに頭を打ちつけた。
目を開けると僕は鏡の前に倒れていた。サドリの家のお宝部屋だ。もう明らかにさっきまでいた場所と空気が違う。戻ってきてしまった。
「う、くっ……」
嗚咽が漏れた。僕は床に転がったまま涙を流し続けた。
どれほど泣いただろうか。涙も枯れ果てたころ、サドリが部屋に入って来た。
「悠理、私の部屋においで」