第16話 父
そこは粉雪の降る路上だった。僕はつんのめって冷たいアスファルトに手をつく。手がじくりと痛かった。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。さっきまで鏡の前にいたはずなのに。ここはどこだ。僕は状況の把握に努める。頭は完全に冴えていた。
「おい、お前何なんだ。どこから出てきた」
いつも通りの彼女の声。振り返ると紫の目を丸くした少女が立っている。サドリ。僕は真後ろにいた彼女の姿を見て全てを悟った。
「サドリ、ごめん! 今それどころじゃないんだ!」
僕はそう言い捨てて、彼女とは反対側、前方へ走り始める。何がどうなったか分からないが、僕はきっと今鏡の中の世界にいるのだ。ならば僕が追いかけるべき人もこちらにいるはず。
一分ばかり走っただろうか。僕は小さな交差点に入る所で目当ての人影に追い付いた。その人はなぜかこちらを向いて立ち止まっていて、そして、それでも横まで走ってきて膝に手をつき肩で息をしている僕に、少しびっくりしているようだった。
「高井……周造さんですね……?」
息も切れ切れにそう言うと、「は、はい」という少し素っ頓狂な声が頭上からして、僕は涙が零れそうになった。懐かしい十年振りに聞く声だった。
「信じてもらえないかもしれないですが」
僕は顔を上げて彼の顔を見た。
「高井、悠理です。あなたの息子です」
言って、とても信じてはもらえまいと思った。父さんは六歳までの僕しか知らない。こんないきなり育った高校生男子が名乗り上げても、そうですかとは絶対にならないだろう。案の定父さんは呆気にとられた顔をしている。当たり前だ。しかし、そこからの彼の反応は予想外だった。
彼の顔から笑みがこぼれた。
「ああ、今日はなんて日だ。悠理お前大きくなったな」
今度は僕が呆気にとられた。
「信じて、くれるの?」
父さんはボンと僕の肩を叩いた。
「当たり前じゃないか。自分の息子だもの。いくら大きくなっても分かるよ。それに、俺は少しばかり不思議なことには耐性があるんだ。さあ、顔をよく見せてくれ」
街明かりの中、顔をまじまじと見られる。
「お前、なんだか少しやつれていないか? ついて来い、何か食べさせてやる」
「えっ」
「折角会ったんだ。話したいことも色々ある。さあ、行こう」
ははは、と笑いながら僕の手を引く父さんの顔は、薄っすらと紅潮していて本当に楽しそうだった。この人は、生きているのだ。
僕は父さんに近くにあった焼鳥屋へ連れ込まれた。小さなテーブル席に通される。
「まだ酒は飲めないのか? 今いくつだ」
「十六」
「そうか、じゃあとにかく食べろ、すみません注文お願いします」
父さんは自分用の生ビールと共に焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。夜中まで悩んでお腹が空いていたので生唾を飲みこんでいると、父さんは上機嫌に聞いてきた。
「どうだ、やっぱり十六ともなると俺と喧嘩したりなんかするか」
絶句した。そうだ、高校生くらいだったら父親が生きていてもおかしくない年だ。父さんは本当に何の気もなく聞いたのだろう。けれど僕は答えられなかった。まさか父さんはその頃生きていないだなんて言えない。
「どうした、やっぱりそうか? まあ俺も親父と喧嘩したけどな」
丁度生ビールが届いたので、父さんはそれをうまそうに飲んだ。
「で、学校の方はどうだ、順調か」
「ん、ぼちぼち」
はっきり言って今の僕は学校どころではないのだが、親からすれば順当な話題だろう。
「まあ、ぼちぼちでいいさ。にしても元気ないな。大丈夫か? 焼き鳥まだかな……」
そこで僕は父さんに気を遣わせていることに気が付いた。いけない。僕は何をやっているのだろう。折角父さんに会えたのだから、楽しく喋ろう。
「ねえ、父さん」
「なんだ? お、焼き鳥来たぞ、食え食え」
「泉鏡花好き?」
父さんはねぎまの串を持ちながら眉を開いた。
「ああ! 大好きだ。お前くらいの年から読んでいたよ。『春昼・春昼後刻』が好きでなあ。お前も読んでいるのか?」
「うん、父さんの本を借りてね」
僕も焼き鳥に手を伸ばすことにした。
「そうか、泉鏡花もいいが、蒲松齢もいいぞ。『聊斎志異』は読んだか?」
「ううん、まだ。あのさ父さん。泉鏡花の短編集に紫色の栞が入っていたんだ。押し花をラミネートしたやつ。あれは父さんが作ったの?」
打消しの魔術がこめられた魔術道具だ。父さんがあれを作ったのならば、父さんは魔術師で確定になる。僕の質問を聞いて父さんはねぎまの串を置いた。ぐいと僕に向かって身を乗り出し、声の音量をしぼる。
「……どこまで知っている……?」