第15話 眼鏡、ピアス、そして鏡
「座って」
サドリはすごくだるそうに椅子に腰かけながら、向かいの椅子を指差す。僕はおとなしく席に着いた
「まったくもう少しで眠れるところだったのに、お前は何をしているんだ。今一人で外に出たら捕まるということが分からないわけじゃあるまい」
彼女はそう言いながらこめかみに手をあて、本当に眠そうにしている。もう瞳は紫に戻っていた。
「それでいいんだ」
「何?」
僕はしばらくためらった後、考えたことを言った。
「僕がここにいる限り、研究所の人は僕を諦めないだろ。サドリや一沙や千沙ちゃんを危ない目にあわせるかもしれない」
「ははん」
サドリは仰向いた。
「なるほど。ならば早く研究所に戻った方がいいということか。その理屈はわからないではない。しかし、私はともかく一沙や千沙は大丈夫なんじゃないか。単に一緒にいたからと言って一般人を捕まえてもしょうがない気がするが」
「いや、例えば人質にして僕と交換とか」
「あまりそれはしない気がする。感覚的に」
あまり? 感覚的に?
「駄目だ。そんなあやふやなんじゃ。二人に何かあってからじゃ遅いじゃないか」
ざああと音がして、外からリビングの中に風が入って来た。
「しかし、お前研究所に戻ったら十中八九また記憶をいじられて研究されるぞ。研究所はここから結構距離があるから、私もちょっとやそっとでは助けに行けないし、また何年も見つけられなくなるかもしれない」
「分かってるよ。僕はそれでもいいと言っているんだ」
「いや、駄目だな」
サドリは話しているうちに完全に目が覚めたようだ。断固とした口調だった。
「私が許さない。お前はもう客人としてこの家に招いた。もうこちらに帰って来ないかもしれないと分かっていて、みすみす行かせられるか」
「サドリ、でも一沙や千沙ちゃんは今日いつか家に帰らないといけないだろ」
「お前がそんなに心配なら、私が二人を家まで送っていこう。なに、そこまで遠くはない。送り迎えつきなら文句はあるまい」
「いや、でも」
「駄目だ、駄目。この話は無し。分かったな」
彼女は椅子から立ち上がり、またリビングから去っていった。僕はまた一人取り残された。椅子に座ったまま頭を抱える。また外に出ようとしたところで、ここに送り返されるに決まっている。しかし、僕の懸念が全くの的外れだとも思えない。一体どうすれば。
僕がしばらく悩んでいると、千沙ちゃんがちょこちょこ歩いてきて僕の向かいに座った。
「悠理くん外に出ようとしたの? 危ないから駄目だよ」
レトロな丸い眼鏡の奥から真面目そうな瞳が僕を見つめてくる。いつの間にか千沙ちゃんのですます調は外れていた。僕に慣れてくれたのかもしれない。絶対にこの子を危険にさらすわけにはいかない。
「それはそうだけど、千沙ちゃん達だって危ないかもしれないんだ」
「でもさっきのお話聞こえてたよ。サドリが送ってくれるんでしょ。だったら大丈夫だよ」
「ここから帰る分にはそうかもしれない。でもいつものお出かけは? ここに来る時以外もサドリが付いていてくれる訳じゃないだろ」
「うーん……」
千沙ちゃんは身体を斜めに傾ける。困っているみたいだ。
「でもサドリが悠理くんに出て行っちゃ駄目って言うなら駄目なんじゃない? ぐいってお家に返されるやつ悠理くんもなったんでしょ」
そうそれが問題だ。しかしその前に、
「悠理くんもって、千沙ちゃんもなったことあるの?」
彼女はなぜかちょっと誇らしげに元気よく頷いた。
「うん。夏にお兄ちゃんとここで喧嘩して街の方に飛び出そうとしたの。そうしたら坂道からここに戻されて、サドリが一人で出て行っちゃ駄目って」
当然と言えば当然なのだ。千沙ちゃんと一沙はサドリに名前を知られていて、この家に出入りしているのだから。彼らは既に青い目をしたサドリと交渉を済ませているはずで、僕にかかっているのと同じ呪いが彼らにもかけられていてもおかしくはない。
「名前を教える時サドリのこと怖くなかった?」
千沙ちゃんはおかっぱ頭をぶんぶん振る。
「ううん、全然。だって優しい声だったの。それにわたしの目を見えるようにしてくれるって言ったから」
「目?」
僕が訊くと、千沙ちゃんは、あっ……と言って真円の眼鏡を指で軽く触った。
「私ね、すごくすごく目が悪くて、この眼鏡が無いとほとんど何も見えないの。サドリは目が悪いんじゃなくて、魔術に関係したものが見えすぎるからだって言ってたけど。それで、サドリの家に初めて来た日にこの眼鏡を貰ったの。かけてみたら世界がパーッて明るくなった。目がちゃんと見えるってこういうことなんだって初めて分かった。
この眼鏡はドイツにいるサドリの知り合いのおじさんが作ったんだって。今は眼鏡が無いと駄目だけど、サドリの所でお勉強していたらいつか自分の力で目を調整して、何も無くても今みたいに見えるようになるって」
「そうだったんだ……」
林堂兄妹がここにいる理由にはよく分からない部分があったけど、これでようやく話が分かった。サドリは千沙ちゃんを助け、千沙ちゃんは目が見えるようになった。これは幸福な結果なのだろう。けれど、何か少し引っ掛かる。見方を変えればサドリは人の切実な願望につけこんで、二人をこの家に縛っているんじゃないか?
「それでいいのか、サドリ」
「それでいいのかって、いいに決まっているじゃねえか」
肩をどつかれたので振り返ると一沙が立っていた。
「お前すげー面倒くさいこと考えてないか?」
一沙の銀のピアスが窓からの光を反射して白く光った。彼はほんの少しだけ優しい目をしているように見えた。
「ぐるぐる考えてんじゃねーよ。サドリにも事情があって、俺らにも事情があって、お前にも事情がある。それをうまい具合に何とか出来たらそれでいいんだよ」
一沙が一体どこまで僕の話を分かってそう言っているのか、それは分からない。けれどこの茶髪ピアス一見不良風の兄貴は、時折僕よりずっと大人に見える。
「一沙、年いくつ」
「あ? 十八だけど」
二つしか違わなかった。
夕方になり、林堂兄妹はサドリに送られて帰っていった。家を出る時に一沙の方が激しく渋っていて何事かと思っていたけど、彼らを送って帰って来たサドリの姿を見てそれが何故だか分かった。
「サドリ吐いたんだね」
「ん? いや、全く?」
「嘘だ」
僕は彼女の胸元を指差す。セーターにはごく僅かに新しい赤い飛沫がついていた。サドリは露骨にしまったという顔をする。
「そこまで遠くないだなんて嘘だったんだ」
頭痛がしてきた。こめかみを手で押さえる。元から送り迎えの効果なんてたかが知れているけれど、これはいよいよいけない。どうすれば、どうすれば。僕はこの二日間でもう数百回は頭の中で唱えた言葉をリピートした。
結局そんなこんなで夜になってリビングに布団を敷いたものの、悩むことが多過ぎて眠れる気配さえなかった。もう頭が一杯一杯になっている上に、疲れているので、これ以上悩んだところで何かいい考えが思いつくとは思えなかった。眠った方がいいに違いないが眠れない。次第に頭痛が激しくなってきた。駄目だ。何かで気をそらさなければ。
僕はのそのそと青い布をくぐって、お宝部屋へ行った。明かりをつけて、湾曲した鏡にかかっている布を取り払う。その鏡に映った僕が明らかにやつれているので、僕は小さくショックを受けたが、やがて鏡には昨日と同じように水紋のようなものが広がり、遠い過去の景色を映し出した。
僕はぼーっとその鏡を何時間も見ていた。現状をどうすればいいのかということは頭の片隅で考え続けてはいるけれど、やはり気をそらすものがあるだけましだった。どこの国とも知れない華やかな酒場の様子が映るかと思えば、人を拒むかのような峻厳な山々が映る。鏡の中の風景はあまりにも鮮やかで、何の悩みもない状態でこれを好きなだけ見ることができたらよかったのにと思った。
鏡が映すものはクルクル変わる。鏡が山の次に映し出した風景に僕は強烈な既視感を覚えた。なんのことはない。商店街からこの家まで来る所の路地だった。サドリは百年以上もここにいるのだから、鏡が映す風景にそれが混じるのも当然だった。どうも、鏡の中も冬の夜らしい。街灯の明かりに照らされて粉雪が舞っているのが見えた。僕はさすがに自分自身見たことのある景色だったので、少しつまらなく思いながらそれを眺めていた。
が、ある瞬間僕は腰を浮かせた。そのまま鏡に向かってにじり寄る。街灯の下を歩いている人に見覚えがあるのだ。その人は不自然に膨らんだ通勤かばんを片手に楽しそうに歩いていた。
嘘だろ、嘘。……いや! 嘘なものか。よく考えろ。サドリがあの人と一回くらいすれ違っていても全くおかしくはない。何故ならサドリも僕たちもこの街に住んでいたのだから。
僕は記憶の中の顔と鏡の中のその人を照合する。間違いない。
鏡の中の人はにこにこしながら遠くへ去って行く。駄目だ。行かないでくれ。やっと会えたのに。
「父さん!!」
僕は鏡に向かって手を伸ばし、鏡面に触れた。