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第1話 葬儀と雪

 その冬、京都では珍しいほどの大雪が続いて、父さんの葬儀の日には窓から積雪がよく見えた。お昼にはもう親戚が集まって来ていて、僕達は葬儀場の一室で昼食をとっていた。僕が六歳の時の話だ。和室にしつらえられた長机の前に座っている人達は沈痛を顔に浮かべて、けれど賑やかに父さんの話をしていて、それが僕にとってはどこか不思議であり、胸がざわついた。そのざわつきが悲しみであったのか、苛立ちであったのかは今となってはよく分からないし、知る必要も無いだろう。僕がやったことと、起きたことに変わりはない。


「ゆうちゃん、おいで」


 少し離れた長机から伯母さんが手招きしていた。隣にいた母さんを振り返ると、「行っておいで」と優しく囁かれた。今思えば伯母さんは母さんに気を遣っていたのだろう。何しろ母さんは次々と挨拶をしに来る親戚たちの相手をするので忙しかったのだから。伯母さんの所に行くと、伯父さんが新しく座布団を出して、伯父さんと伯母さんの間に僕が座る場所を作った。僕が座布団の上に落ち着くと、伯母さんが小さな祭壇の方を指差した。


「ゆうちゃん、あのお父さんのお写真、いつの?」


 その祭壇の上にある黒い額縁に入った大きな写真には、日に焼けて笑っている父さんが写っていた。背景は消してあったけれども、いつのものかは分かった。


「あれはね、ことしの夏、公園に虫とりに行ったときの」


 そう、その年の夏、僕と父さんと母さんの三人で少し遠くの大きな公園まで車で遊びに行ったのだ。本当はあの写真には僕と父さんの二人が写っているはずだった。けれども、僕の姿も消されていて、それはやはり不思議なことだった。


「ぼく、大きなクワガタとったんだよ。でもお父さんがちゃんと虫かごを閉めていなかったから逃げちゃったの。だからおこった」

「そう」


 伯母さんは少し目を潤ませて僕を抱き締めた。僕はそれまで伯母さんとはほとんど会ったことが無かったのに、いきなりそんなことをされたので驚いた。


「ゆうくん」


 後ろから伯父さんの声がした。


「こっちに唐揚げがあるぞ。お父さん好きだったろう。ゆうくんも好きか」

「……」


 それなりに好きだった。けれども僕は伯父さんに促されるまま飛びつく気にはなれなかった。「好きだった」と、そう父さんのことを過去形で語られたことにどうしても違和感があったので。もちろん、なぜ父さんが過去形で語られるかということは知っていた。僕は六歳だったが、その数日で何が起こったか分からないほど幼くはなかった。


 クリスマスイブの夜、母さんと僕はご馳走を作って、父さんが仕事から帰って来るのを待っていた。けれど父さんは帰って来なかった。普段と比べてさすがに遅いので心配していたら、道で倒れていたところを発見されて、病院へ搬送されたと電話があった。あまりにも突然な心臓麻痺。


 しかし、父さんの死には実感が無かったし、それどころか実感を持たせようとしてくるものを幼いながら拒絶しようとしていたのだと思う。しかし、耳をすませば、その親戚が集まる部屋はやはり父さんの話ばかりで、そして伯父さんも父さんはもういないものとして話をしてくる。ひどく、居心地が悪かった。


 僕は伯父さんに答えず、そのまま立ち上がった。出口がどこにあるかは分かっていた。伯母さんが不思議そうに僕を見ていたのを覚えている。僕は畳を踏みしめ、廊下と部屋を仕切る襖まで歩いて行った。


「ゆうちゃんどこ行くの」

「トイレ!」


 嘘だった。



 葬儀会館の外に出ると、本来駐車場であったはずの場所一面に雪が降り積もっていた。その数日の雪は勢いを弱め、ただ静かに降り続いていた。玄関から一歩踏み出すと、僕の足は膝まで埋まった。そのまま歩き出し、やがて僕のズボンには黒いシミが広がっていったが気にはしなかった。駐車場には随分前から停めてあったのだろう、一台の黒い車があった。僕は葬儀会館から見えないようにその車の陰まで歩いて行って、雪の上に座った。


 一人だった。


 別に何をするでもない。ただ座っているだけだった。雪は冷たく、ズボンはぐしょぐしょに濡れていきつつあったが、それは心地よいことだった。水分を含んだ凍りつくような冬の匂い。それでやっと、こうやって僕みたいに雪の中を座れないなんて、父さんはかわいそうだと、そう思った。


 雪は深々と降り続いた。


「お前何しているの」


 少し低いけれども紛れもなく少女――当時の僕にとってはかなり年上の女の子の声。突然投げかけられたその問い掛けに僕は驚いて顔を上げた。瞬間くらついた。目の前には年の頃で言えば高校生くらいだろうか、背の低い、けれど大人びた少女が立っていた。誓って言う。僕は今に至るまであんな綺麗な人を見たことが無い。


 それは非現実的な美しさだった。肌の色は僕たちと変わらない。けれど髪は人間離れして輝く銀。それが肩の下まで真直ぐに伸びていた。瞳は光を受けたアメジストのような紫。僅かにあどけなさを残した非常に整った顔立ちで、傲岸にこちらを見下ろしていた。深緑のセーター、黒いスカートとヒール付きのブーツ、そしてやはり黒い、彼女には不釣り合いに大きなコート。僕たちは真正面に向き合っていた。


「座ってるの」


 僕の答に彼女は片眉を上げた。


「そう。でも風邪をひくじゃないか。手を貸しなさい」


 彼女は雪の中に跪いて僕の手を取った。彼女の手は暖かく、次の瞬間には僕の身体はズボンを含めて乾いていた。


「お前は次に建物へ入るまで水に濡れることはない」


 僕は全身が乾いたことがいっそ何かの間違いであってほしいような、信じられない気分になった。雪が僕に触れても、それで濡れることはなかった。何がどうなっていたのか今でも分からない。


「どうやったの」

「それは秘密さ」


 僕は彼女に手を握られたまま、彼女をただ呆然と眺めていた。雪の一片が彼女の頬に触れ、体温で溶けて、つ、と流れ落ちた。その感覚を楽しむように彼女は紫の目を細めて、この人は別に濡れても構わないのだと僕は気付いた。彼女の口許が笑みを作った。


「この間から散歩してたんだ。珍しく雪だからね。そうしたらお前に出会って、すぐ見失って、そして今日また見つけた」

「え?」

「今のお前に分かりはしないだろう。とにかく、私はお前に私と共にいてほしいと思った」


 訳が分からなかった。それまで()()()()()()()()彼女が僕にそこまでの感情を持つ理由など無い筈だった。


「なあ、私の家に遊びに来ないか。綺麗なもの、不思議なものが沢山あるんだ。この世の誰も見せてはくれないものをお前に見せてやろう」

「このよのだれも見せてはくれないもの」


 それはとても魅力的な響きだった。僕は心底それを見たいと思った。けれど、


「今日? 今日はだめだよ」


 彼女は頷く。全て分かっているかのように。


「えらいな。今日でなくても構わない。名前を教えて。そうすれば今度迎えに行くから」

「名前? いいよ、ぼくの名前はね――」


 その時彼女の瞳がらんと青く光った。僕はハッとして彼女の手から自分の手を引き抜いた。


「どうした」


 彼女は首を傾げた。その時、僕たちの周りには誰もいなかった。彼女と二人きりだった。僕は急に恐ろしくなった。恐々と彼女の顔を見れば瞳は紫で、もしかしたら青く見えたのは気のせいだったのかもしれない。それに何がそんなに怖かったのだろう。瞳が青かったくらいで。しかし、僕はあの瞬間、明らかに致命的なものを感じ取っていた。


「どうした」


 彼女はもう一度聞く。一回目よりも優しい声音で。しかし僕はもうすっかり怖気づいてしまっていた。


「やっぱりだめ。お母さんが言ったんだ。知らない人に名前を教えちゃだめだよって」


 彼女は息を呑み、そして皮肉げに口の端を吊り上げた。


「賢いことだ」


 強い風が吹いて地面に積もっていた雪が舞い上がった。立ち上がった彼女の大きな黒いコートが風にはためいた。


「今度また会おうじゃないか。その時までにもう一度考えてはくれないか。私の家に遊びに来るかどうか」


 僕は彼女を仰ぎ見た。出会った時と同じ構図だった。銀髪の美しい少女と、六歳の僕。僕は勇気を出して尋ねた。


「おねえさんだれなの、どこから来たの」


 彼女はにっこりした。


「ここから十五分くらいの所にある家から来た。ほら近いだろう? 生まれは随分西の方だがな」


 風が強かった。彼女の銀の髪が風になびいた。


「誰、か。私はね、お前の大先輩なんだよ」


 その時葬礼会館の方から僕を探して呼ぶ声がして、僕は思わず車の陰から飛び出して会館の方を見た。母さんが会館の入口にいて、すぐに僕を見つけて手を振った。行かなければならなかった。僕は最後に彼女を見ようとして振り返り、そしてもう彼女の姿が無いことに気付いた。


 あの日から十年が過ぎた。あれ以来僕は彼女に会っていない。今度また会おうじゃないかと言った彼女が僕のもとに来ることはなかった。あの一日きりのこと。だからあれは何かの夢だったのかもしれない。けれど、あの日母さんに散々怒られた僕が、長い間外にいたにもかかわらず、全く雪に濡れていなかったのも確かだった。


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