5.避暑地②
セリーはボートを台無しにしたことをエクトルに詫びた。
「······とにかく君が無事ならばいいよ。その代わりもう絶対に一人で乗らないでくれ」
「はい、本当にごめんなさい。ボートは弁償致します」
「手漕ぎボートなんか、弁償しなくてもいい」
面倒な婚約者だと思われてしまったら、それはそれでいい。
それで婚約破棄になるならありがたい。
「お騒がせしてすみません」
一週間外出禁止を皆に約束させられてしまい、時間をもて余したセリーは自分の髪を切ることにした。
気分転換もあったが、自邸に戻ったらまた肖像画の続きがあるので、カツラを被るにはこの方が楽だからだ。
父ヴィクトルが自分を金髪に描かせようとする意図が今ならばわかるから、自発的に金髪のカツラを被ろうと思ったのだ。
自分が家を出て行くまでは、家族ごっこをしないとならない。
「よし、これぐらいでいいかな」
後ろでひとつに纏めた髪を切ってみたら、想定した長さよりも短くなってしまったが、よりスッキリして満足した。
セリーがドレッサーの前で髪を整えていると、お茶を運んで来たマディが悲鳴をあげた。
「おっ、お嬢様、何をなさっているのです?」
「驚かせてばかりでごめんなさい。驚かすのは多分これで終わりよ」
「······」
「あっ、このレモンパイ美味しそう!これも今度教えてね」
「······」
マディは呆れて無言のままだ。
セリーはマディの信用をすっかり失っていることを察した。その気まずさから肩を竦めながら舌を出した。
晴れて謹慎が解け、湖畔へ散歩に出掛けることにしたセリーは、短くした髪に合わせて男装をした。ハンチング帽を被り、狩りをしに行く少年という風情だ。
「午後のお茶の時間までには戻るわ」
マディの寄せた眉間の皺の深さは無視してコテージを出た。
湖に近くなると、木陰でフルートとクラリネットの練習をしている少年達がいた。セリーはその近くのベンチに腰を下ろした。
当分は水辺には行かないようにしよう。
少年達のまだおぼつかない演奏が気になってしまい、集中できない。
頁が進まない本を読んでいると、まわり込んで顔を覗いて来た人がいた。
セリーがびくりとして顔を上げると、あの日自分を助けてくれたヴィルジェールだった。
「今度は男装かい?」
「えっ?」
「なかなか似合っているね。隣に掛けてもいいかな?」
「は、はい、構いません。先日はありがとうございました」
セリーは素早く立ち上がり会釈すると、ベンチの中央を避けて座り直した。
「家の人に叱られた?」
「一週間外出禁止でした」
「ははっ、それは災難だったね」
セリーは朗らかに笑う青年の顔から視線を反らした。何となく恥ずかしかったからだ。
「それで、ボートの転覆の原因は?」
「水抜栓がちゃんと締まっていなかったのです。そこから浸水しました」
岩塩の棒が溶けて浸水したことは伏せた。余計な詮索を受けるのを避けたかったからだ。
なぜなら、それを仕込んだのはセリー自身だったのだ。
偶然起きた事故ではなくて、 あの日、セリーは事故死に見えるような自殺を試みていた。
彼女が参考にしたのは、学友が貸してくれた推理小説。泳げない夫を妻がボートで沈める完全犯罪ものだ。
ただし、その小説では岩塩ではなく、棒状の砂糖が使用されていた。
セリーはキッチンにあった棒状岩塩を見つけて、衝動的に代用した。
けれど、ボートが浸水して行く中で、死ぬことが怖くなったのだ。
音もなく水中に沈んで見えなくなっていった本の、その沈む速さと湖の深さに戦き青ざめた。
海よりは波もなく、海よりも深くなくて怖くないかもしれない。 舟と一緒に沈めば一人で死ぬのも少しは怖くないのではと思っていた。
そんな浅はかな想像は呆気なく覆った。
ひたすら死が怖かった。
それで助けを求めてしまった。
こんな自分でもまだ生きていたい、死ぬのは嫌だ。
───死ぬのは、怖い。
そう思った。
「······そうか。管理ミスではなくて、殺意とまでは言わなくても、誰かの故意による悪戯とか、悪意でということは無いのかい?」
ヴィルジェールの指摘にセリーはドキリとした。
「······私を殺しても何の得にもなりません。私が死んだら喜ぶ人はいるのかもしれませんけど」
彼は驚いてセリーを見つめた。
「君が死んで喜ぶ人がいるのかい?」
「······私は性格が悪いので、私を嫌っている人は喜ぶと思います」
「君は今いくつなの?」
「十五歳です」
「十五にして性格が悪いの?」
「性格の悪さに年齢は関係ありません」
ヴィルジェールは吹き出した。少し離れた場所で待機している彼の従者エーブまで肩を震わせている。
令嬢なのに一人でボートに乗る向こう見ずな活発さ、歳よりも利発そうなセリーに、ヴィルジェールは興味をそそられた。
「君、婚約者はいるのかい?」
「はい、おります。滞在中のコテージは婚約者の家の所有物です。私が先日沈めてしまったボートもそうです」
「······それは残念。ではセリー、俺と友人になってくれないかな?」
「······性格が悪い友人が必要なのですか?」
「性格が悪い者同士なら、気が合いそうだからね」
ヴィルジェールはウインクをして見せた。
「?!」
セリーは榛色の目をしばたたかせた。
「だから、どうかな?」
「······わ、私で良いのでしたら······」
「ありがとう。性格が悪いのに善人ぶる人間よりも、自分は性格が悪いと自覚している人間の方が余程信用できるからね」
「私、自分の侍女にすら信用されていませんよ?」
今度は従者のエーブが吹き出した。
「お嬢様、それなら心配には及びません。私も主を信用しておりませんから」
「おい!」
「ふふふっ」
セリーは緊張が解れて、やっと微笑んだ。




