4.避暑地①
マルマローのコテージへ到着すると、セリーが真っ先にはじめたのは料理を習うことだ。
「マディ、私に料理を教えて欲しいの」
「突然どうしたのですか?」
「散歩や読書ばかりだと退屈なのよ」
クッキーやスコーンは今までも作ったことがあったが、キッチンメイドとマディに食事の手伝いをさせてもらえるように頼んだ。
料理以外も自分の身のまわりのことは自分でできるようにしたかった。
これも将来自分が家を出た時のためだ。
エクトルと友人達は初日はコテージ周辺を案内してくれたが、翌日から男同士で釣りや狩りに夢中になっている。
彼らと顔を合わせるのは午後のお茶の時間と夕食の時ぐらいだ。
セリーにはこれぐらいの距離感が丁度良かった。
従姉妹のアレットはエクトルの友人の男爵令嬢ベレニスと意気投合し、犬を連れてマルマロー湖畔を散策している。
眺めの良いコテージは朝晩は涼しく、日中も汗ばむ程ではない気温が心地良い。
セリーは手漕ぎボートの漕ぎ方を習得し、日傘をしてボートの上で一人で読書をするのが目下のお気に入りだ。
陽に煌めく湖上の心地よい風に吹かれながら、読書の途中でついうとうとしてしまった。
足元の冷ややかな感触で目が覚めた。
ボートが浸水していたのだ。
両手で水を必死にかき出そうとしたが、間に合いそうにない。
靴が水で濡れて重くなり、セリーは恐怖で震えた。
船底の水抜き用の栓を見ると、コテージのキッチンにあった円柱型の棒状岩塩と同じものが水抜き口に刺さっている。
一見木製の栓に見えるその周りから浸水しているのだ。
このままでは更に溶けてしまうだろう。
既にくるぶしまで浸かり、少しでも浸水を減らそうと、持っていたハンカチと髪を結んでいたリボンを素早く解いて栓の隙間に押し込もうとした。
棒状の岩塩はセリーが触れると根元から折れた。
とぷんと音を立てて水が入り込んで来る。
「······そんな、嫌よ!」
セリーはありったけの大声で叫んだ。
「助けて!!」
オールを必死に漕いでもなかなか進まない。
ボートが傾き、バランスを崩したセリーは湖に放り出された。
読みかけの詩集が水の中に静かに消えた。
日傘は柄を上にして湖面に浮かんでいたが、すぐに濡れて半分ほどが沈んでいる。
「······いやぁ···!誰か来て······!」
セリーが辛うじて掴まっているボートが徐々に沈んでゆく。
──私、まだ死にたくない。
その時、目に眩しいほどのオレンジ色の浮き輪がセリーの方へ投げ込まれた。
「今行くから、待っていて!」
セリーは手を伸ばして浮き輪をたぐり寄せた。
大型のボートが、あり得ない速さでこちらに近づいて来ている。
さっきまではそんなボートの姿などなかったのに。
忽然と現れたボートはセリーの近くで止まった。
「怖いのはわかるけど、とにかく落ち着いて。ちゃんと助けるから」
低く穏やかな声がした。
「ゆっくりね。そうしないとこのボートも転覆するから」
「は···い」
セリーはか細い声で返事をした。
「うん、いい返事だ」
黒髪の青年はセリーを落ち着かせると、がっちり掴んでいる浮き輪を手放してボートに掴まりながら乗るように誘導した。
セリーが引き揚げられてボートにどっと身を委ねると、ボートが激しく揺れた。
「立ち上がらないで」
セリーは転覆するかもしれないと恐れたが、身体を動かす気力がもうそれ以上なかった。 ボートに身をかがめて揺れるに任せた。
揺れが収まると、紺碧の瞳の青年は朗らかに笑った。
「今日は大漁みたいだな」
岸にたどり着くと、彼の従者がタオルを即座に手渡した。
セリーはタオルで身を覆った。
「レディ、失礼致します」
従者が乾燥魔法で服と濡れた髪を乾かしてくれた。
「······ありがとうございます」
もしかしたら、異様な速さのボートも魔法のせいだったのだろうか。
「滞在先へ送って行くよ」
「······ご面倒をおかけして申し訳ありません」
青年は彼の従者と共に馬でエクトルのコテージまで送り届けてくれた。
身なりの良い青年は恐らく高位の貴族のようだ。
「······助けていただきまして本当にありがとうございました」
「俺はヴィルジェールだ。ヴィルと呼んでくれ」
「セリー·ロランスです」
ブランケットに包まれ、見知らぬ青年に抱き抱えられながらこちらへ向かっているセリーを見つけて、マディが慌てて駆けてきた。
「お嬢様!」
エクトルとアレット達はまだ戻っていないようだ。
「ご令嬢は湖に落ちた。急ぎ風呂に入れてやって欲しい。それと念のため医者も」
「かっ······畏まりました」
マディは蒼白になりながら返答した。
「一人でボートは危ないよ」
部屋の長椅子にセリーを運ぶと、エクトルよりも年長に見える青年は諌めるような語気で言った。
「今回はたまたま運が良かっただけで、いつも誰かに助けてもらえると甘く見てはいけないよ」
「······もう、しません。約束します」
「絶対に?」
紺碧の瞳が確認するようにセリーを凝視した。
「はい、絶対です」
セリーは彼らがコテージを去るまで何度もお礼を伝えた。