黒猫と狐
-side 名の無き黒猫-
ドクン
次の瞬間、どこからか鼻の奥をつく匂いがした。
嫌な匂いのようでいて、体の奥底を奮い立たせるような匂いだ。野生の勘からか、これが獲物の匂いだということはわかった。
すると、先ほどもう尽きたと思われた力が体にみなぎる。いや、先ほどとは違う。それは全身を駆け巡り、僕の体を無理矢理にでも立ち上がらせる。
右前脚を立てて、ようやくの思いで体を起こす。
匂いのする方へ、また一歩、もう一歩と歩き始める。
左後ろ足、左前足、右後足、右前足の順で足を前へと進める。
何度もよろめき、倒れそうになったが一刻も早く空腹を満たそうと、本能で匂いのする方へ千鳥足で進む。
睡魔は吹っ切れた。寒さも、痛みも、疲労も、まだあるはずだが今はどうでも良い。
(あの、茂みの向こう…)
茂みを抜け、開けている場所に辿り着いた。
そこには、腹部が赤く染まって横たわる白いウサギがいた。どうやら匂いの元はそのウサギのようだ。
ようやく食べれる、ようやく、ようやく……
よだれが口の中をいっぱいに満たし、目が血走る。まさにその姿は獣だ。
鼻がその匂いをもっと嗅ごうと、体が鼻にウサギの方へと引っ張られる。
そのウサギにゆっくり近づこうとすると……
(貴様、何者だ)
その言葉と同時にピタッと足をとめ、そこでようやくその存在に気付いた。
ウサギの前には、尻尾が三つあり、赤みがかった茶色のキツネがいた。口元が血だらけで真っ赤だ。
心臓は激しく鳴り続け、恐怖と緊張で動けない。だが今体は空腹で限界……奪ってでもウサギを食うしかない。
前脚を出し、腰を引いて、毛を立たせる。狐を睨みつけて牙を剥き出しにする。
キツネを威嚇するが、狐に怯む様子はない。
力の差は歴然と言えるし、状況は完全に不利。
相手はどう見ても大人のキツネだし体も彼方の方が一回り大きい。さらにいえば、ウサギのような素早い奴を捉えた猛者だ。
一方こちらは、空腹で倒れそうな痩せこけた愛らしい子猫。そして痛みをアドレナリンで抑えて、なんとか立っているようなものだ。
勝ち目はない。
相手の餌になって、腹のたしにされるのがオチであろう。
が、そんなことを考える余裕もなく、キツネの首元を狙おうと集中する。
(貴様、吾輩と同じ魔獣かね)
今にも飛び掛かろうとした時、また脳内に声が響く。
なんだこれ?
(貴様、随分と痩せこけているではないか。こっちへ来い、少し分けてやろう。)
そこでようやくこのキツネがこの声を発していることに気づいた。
耳で聞こえているわけでもないようだし……どういう仕組みだ?
というか「分けてやろう」って……
正直…怪しさしかない。
わざわざ獲った獲物を分けることがあるだろうか。
否、ない。
ではなぜ?
僕をも食おうとしているのであろう。
流石に僕もそこまであからさまな罠に引っ掛かるような馬鹿ではない。
子猫だからって舐めているのだろうか。
(安心せよ、取って食おうなど思ってはいない。吾輩はもう腹を満たしたのだ。)
くっ……落ち着け……甘い誘惑だ。
判断を誤るな、僕。
自分から喰われにいくようなものだぞ。
が、空腹でそんな判断はできなくなっていく。
よだれはとうに口から溢れ出し、腹がとてつもなく苦しい。
腹を空かせた赤子が目の前の食べ物を見て食べるのを我慢できるはずがない。というか僕はできない。
恐る恐るゆっくりと近づいて、ウサギとキツネの目の前まで近づき、ウサギを見下ろす。
腹が食いちぎられ、真っ赤になっていて、無残な姿だ。
そっと鼻を近づけてウサギの匂いを嗅ぐ。匂いはより強く僕の鼻の奥を刺激する。
僕は「ゴクリ」と喉を鳴らした。
いつの間にかウサギに涎が垂れていて……
気づけばウサギの腹わたを貪っていた。
う、うまい……うまい……
涙を流し、鼻水を垂らしながら、ひたすらに貪る。肉を引きちぎり、内臓を抉る。生暖かい血が喉を潤し、肉が腹を満たす。
美味しいとか美味しくないとかはともかく、じんわりと体に力が広がっていくことがわかる。
この幸せな感覚はわからないが「うまい」、この一言でしか言い表せなかった。
その光景をキツネはただ眺めるだけであった。
※ ※ ※
腹を満たし、体が温まり、体力が戻った。
仰向けで雪の上に寝そべり、腹を二度叩いた。実に「無防備」とデカデカと腹に書かれたような格好だ。
ここで初めて満腹という感覚を知った。
ウサギがいた場所には赤い血が染み込んだ雪と骨の残骸がある。
何か視線を感じ、足先の方を見てみると、一匹のキツネがこちらをじっとみている。
そして自分の今の無様な姿に気付き、すぐに飛び上がって体勢を直して少し距離を取った。
完全に油断した。完全に無防備だった。
しっかりしろ!僕!
……
とはいえ、このキツネは僕の命の恩人だ。
何か礼がなければ失礼ではないだろうか?
「ニャ、ニャオ……」(あ、ありがとう、ご、ございました)
なんとか声を振り絞って第一声が出た。
カミカミではっきり言えなかった。
というか、猫語がキツネに通用するだろうか?
(ん?貴様、念話が使えるのかね?)
念話?なんだそれ?
(そうか……無意識か……)
キツネは少し顔を顰めた。
何か気の障ることをしたのだろうか。
ぼ、僕は感謝の言葉を言っただけだから!
そう思い、逃げる体制になり、ゆっくり右後足を後退させる。
(おい、貴様、なぜここにいる?)
狐は僕をまっすぐ僕を見てこう聞いた。
突然の質問で驚いて、ドキッとする。
えっと、なんでここに?
それはお腹が空いて、寒くて、眠くて……
いや、何か食べ物を探して……
(貴様、親はどうした?一人なのかね?)
頭を縦に何度も激しく振る。
(そうか……)
キツネの目つきが緩んだのは気のせいだろうか……いいや、気のせいだろう。
そんなことよりも、ここからは何か応答を間違えれば食われるかもしれない。
慎重に行こう。
もう一度逃げれる体勢になってキツネの顔色を伺う。
(よし、ついてきなさい)
少し間が空いた後、キツネはそう言って森の方へと歩いていった。
言う通りにしなければ食われるかもと思い、ついていくことにした。
もしかしたらもっと食べ物をくれるのではないかという淡い期待も持ちながら……
いや、そんな期待は無意味だが。
※ ※ ※
とはいえ、キツネと子猫である僕の歩幅はどう考えても違う。
まぁ、当たり前だ。
その上さっきまでの足の痛みと疲労がなくなったわけではない。
見失わないように後ろをついていくも、どうも距離が縮まらない。それどころか少しずつ離れていく。
すると急にキツネは止まって、振り返った。
(このままでは日が暮れるな……もっと早く歩けないものだろうか?)
僕は激しく首を横に振った。
無茶なことを言う。
はいはいができるようになった赤子に大人の歩くスピードに合わせろと言っているようなものだ。と言うか正にそうだ。
まだ歩き方を覚えたばかりの子猫にとっては無理難題だ。
(そうか……)
キツネは少し難しい顔をした。
僕はキツネの顔色を伺いつつ、キツネの指示が来るまで少し立ち止まって休憩をした。
疲れた。ずっと歩きっぱなしだったからな。
するとキツネはゆっくり僕の方に近づいてきた。
遅い僕に痺れを切らしたのだろうか。
僕に緊張が走る。
逃げなければと思うが、恐怖と疲労で足が動かない。
キツネは僕の前まで来て僕を見下ろした。
今更だが、再度目の前までくると、キツネとの体格差がよくわかる。その差はまさに、強さの差を表しているようだった。
見上げてやっとキツネのいかつい顔が見える。そしてその顔の口元から牙がチラッと見える。
もうダメだと覚悟を決め、目を閉じると……
(少し我慢せよ)
こう言うと僕の首根っこを咥えて持ち上げた。
「ニャッ?」
次の瞬間猛ダッシュで走り出した。
そして、キツネはジャンプして木の枝に飛び乗り、そこから木という木の枝に楽々と飛び移っていく。
咥えられた僕というと、わけもわからず混乱し、とんでもなく目が回る。さっきまで食べていたこともあって吐きそう。
キツネはそれに気づいていないようで、どんどん飛んでいった。
※ ※ ※
キツネはスタッと地面に着地した。
(着いたぞ)
キツネはそう言うと僕をおろした。
僕はなんとか立ち上がるもとてつもなく気持ちが悪い。さっき食べたばかりのウサギをリバースしそうだ。
フラフラしてろくに歩けた者じゃない。
とにかく一回深呼吸して前を見ると、そこには洞穴がある。
(吾輩の住処だ)
このキツネの住処?なぜ僕を連れてきたのだろうか?
謎が増えるばかりだ。
キツネは住処に歩いて行き、洞穴の前までいくと、僕の方を振り返った。
(入られよ)
ここで僕はようやく気づいた。
このキツネは僕をここで食おうという魂胆なのだろう。住処まで連れてきたのはコギツネの餌にでもするためだろうか。
ここで断って逃げても逃げ切ることは無理だ。潔く食べられるしかない。
僕はキツネの住処の前まで歩いて行き、唾を「ゴクリ」とのむ。
ええい、ままよ!
そうしてキツネの洞穴に入った。
洞穴の中には何やら四角いものがいくつかあり、僕がいた洞穴より広い。過ごしやすい洞穴だ。
しかし、コギツネは見当たらない。どう言うことだ?
(貴様にはこれからここで吾輩とすんでもらう)
ニャッ?(え?)
(実は吾輩は……)
頭が完全にフリーズして全く話が聞こえてこない。
このキツネは何を言っているのだろうか?
僕にキツネと住めと?
なんで?
(……と言うことだ。これから頼んだぞ。)
キツネの話が終わると、我に返った。
が、その次の瞬間何かがぷつりと切れた。
そして、僕はそのまま意識を失い、倒れた。
※ ※ ※
目覚めるとまた暗いところにいる。
しかし、最初の暗い洞穴にいた時と違って何だか暖かい。そして何やらふさふさしたものにくるまっているようだ。
大きく目を見開くとキツネの顔が目の前にある。
えっ……
出てきそうな言葉を飲み込んだ。
よし、落ち着くんだ…
状況を整理しよう…
確か僕は食べ物を探して、キツネにウサギをもらって、食べて、キツネの住処に連れてこされて…
そうだ、キツネに一緒に暮らせだとか言われたんだ。
どういうつもりなのだろうか。
食べるつもりだったのならとっくに僕は腹の中だ。
僕を食べるつもりはなさそうだ。
(ようやく目覚めたか)
キツネも目覚めたようだ。
(急に倒れたが、体は大丈夫かね?)
「ニャ、ニャーニャ」(お、おかげさまで)
(そうか、ならば良い)
「…」
(どうした?)
色々聞きたいことがある。が、まずはこれだろう。
「ニャニャーニャ、ニャーニャニャ」(なぜ助けてくれたの?なぜ僕にここで暮らせと?)
キツネはきょとんとした顔をした。
何か変なことを言っただろうか。
いや、変なことを言ったのはキツネだろうに。
(なんだ、聞いていなかったのか)
キツネは少しため息をついて、語り出した。
(吾輩はもう長くないのだ。獲物を獲るのも一苦労だ。そこで吾輩が老化で動けなくなったら、貴様に吾輩の代わりに吾輩に獲物を獲ってきて欲しいのだ)
全くそう見えなかったけど…木の上を余裕そうに飛び移っていたし。
(もちろん、ただとは言わない。代わりに貴様に獲物の狩り方や知識を教えよう。ある程度力をつけるまでは養い、守ってやる。貴様にとって悪くない話であろう)
要約すると、住み付きの介護をする代わりに生きる術を教えてくれ、命の保証までしてくれるというわけか。
確かに悪くない話だ。というかこちらに利がある話だ。
正直これからどうすればいいのか、どうしようか全く見当がつかなかった。
何より、生きる術を僕は知らない。獲物の借り方も常識も。それに今の自分が一人で生きていけるかも怪しい。
そしてこのキツネへの恩返しにもなるしね。
「ニャ、ニャア」(よ、よろしくお願いします)
こうして僕のキツネとの生活が始まった。




