見慣れぬ世界
よろしくお願いします。
目が覚める。
周りが騒がしい。
眩しい日差しが目に痛い。
何時間気を失ってしまっていたのだろうか。辺りを見回すと街角の路地に座り込んでいるようだ。
脳が理解を拒んでいる。自分は工場跡にいたはずだ。
何より、自分は死んだはずだ。
万が一生きのびることができたのだとしても、こんなところに放置されているのではなく、病院のベッドで目覚めるはずだ。
何よりおかしいのは、あれだけボロボロの状態だったはずの体が、全くの健康体に戻っていることだ。
ただ、一昨日の喧嘩でできた字は残っているので、治っているのはあの拉致でできた傷だけらしい。
あの出来事が夢なのかもしれないとも思ったが、そうではなさそうだ。証拠に、服がズタボロになっている。
鉄パイプで滅多撃ちにでもされない限り、ここまで無惨な姿になることはそうない。
通行人がちらちらと向けてくる視線は胡乱げなものだが、この服ではそれも仕方ないだろう。
所持品は帰宅時に身につけていた財布と携帯だけだ。しかも携帯は壊れてしまっている。
財布の中には数千円が入っているが、これだけでは心もとない。
とにかく、家に帰って着替え、職場に連絡しないといけない。
だが、ここはどこなのだろうか。全く見覚えがない。
とりあえず人に道を尋ねるしかないだろうか。
道ゆく人々に声をかけようとするが、服装のせいか何人かに無視されてしまう。
やっと立ち止まって話を聞いてくれたのは散歩をしていたお爺さんだった。
「はい、どうしましたか?」
「あの、ここはどこなんでしょう?」
「ん?どこというのは・・・」
「あー、ここは横浜ですよね?」
お爺さんの困惑も当然だ。漠然とここはどこかと尋ねられても答えようがないだろう。
横浜は、俺が生まれ育ち、そして死んだはずの街だ。
横浜に関しては大抵知り尽くしていると思ってはいたが、こんな街角に見覚えはない。
だが、あの工場跡からそう離れているとは考えにくい。
「ああ、あってる。ここは横浜だよ。」
「○○区ですよね?」
「うん、そうそう」
「××区は・・・」
「あっちの方向だよ」
○○区は工場跡がある区。××区は実家のある区で、○○区の真隣だ。
その後もいくつかの質問をし、礼を言っておじいさんと別れた。
お爺さんと話せたのは幸運だった。自分のいる位置も大体把握することができた。
だが、ここでまた新たな問題が現れる。お爺さんの言葉と、自分の記憶が一致しない。
お爺さんの言葉が正しければ、もう見覚えのある場所に出ててもおかしくないはずだ。
お爺さんの受け答えははっきりしていたので認知症ということはないと思うし、見ず知らずの俺を騙す理由もないだろう。それならお爺さんが教えてくれたことは正しいはずだ。
お爺さんの言葉が正しいと思う理由は他にもある。この状況でも、一つだけ見覚えのあるものがあるのだ。
それは横浜ランドマークタワー。
小さな頃から見慣れたその巨大なビルが、今の俺に唯一理解できるものだ。
記憶にあるその姿から考えても、お爺さんの言葉に間違いはない。
それなら、おかしいのは自分ということになる。
漠然とした不安が湧き上がる。
襲われたショックで頭がおかしくなってしまったのだろうか。
いや、そもそも襲われたというのも本当にあったことなのだろうか。
何とか記憶の感覚を頼りに家の近くまで辿り着く。
正確にいうと、辿り着いたと思う、というのが正しい。ここまできても、その街並みに依然見覚えはない。
何度も何度もぐるぐると歩き回り、家を、見慣れた風景を探し続ける。
いつまでも歩き続け、足が棒になって、ようやく事実を認めた。
いや、認めるしかなかった。ここに、俺の家はない。
ここは俺の知っている場所じゃない。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
怖い。
ここは横浜のはずなのに、慣れ親しんだ場所のはずなのに。
今までそばにあったものが急に牙を剥いてきたような恐怖を感じる。
頭がおかしくなったのか、知らない世界に迷い込んでしまったのか。どちらにせよ、そんなことが本当に起こってしまったのなら、耐えられそうもない。
堪えきれず、その場でうずくまる。目を強く瞑る。
耳を塞ぐ。
これは悪い夢だ。
外界を遮断し自分の殻の中に閉じこもる。
夢なら醒めろ。偽物の世界は消えろ。
俺は、そうひたすらに念じながらうずくまり続けたのだった。
どれぐらいそうしていただろうか。顔を上げると周りはもう既に薄暗くなり始めていた。
街並みは、うずくまる前の見覚えのないもののままだった。
ずっとここでうずくまっているわけにもいかない。
ゆっくりと立ちあがり、ノロノロと歩き始める。
この気持ちの悪い世界でこれ以上生きたいわけじゃないが、死ぬにも死にきれない。
今夜の寝床と飯を何とか見つけなければ。
財布には幾らかの金が入っているが、それが使えるかももはやわからない。
何時間も歩き回ったせいか、喉ももうカラカラだ。渇きに耐えきれず、自販機で水を購入しようとする。祈る気持ちで小銭を投入すると、ピという音とともにボタンのランプが灯った。
安堵と共に、最も安い水を購入する。一気飲みしたい衝動をおさえ、少しだけ口に含む。
一心地つくと、この世界の水にすら嫌悪感を感じた。
とはいえ飲まないという選択肢はない。諦めの気持ちを抱えながら片手にパットボトルを抱え、寝床を探し始めた。
少し歩いて、一晩を過ごすのにちょうど良さそうな公園を見つけられた。
途中の看板を見るに、先ほど見たランドマークタワーや横浜スタジアム、山下公園など、言葉通りランドマーク的施設は元いた世界と共通しているようだ。
そういったこの世界にもあるだろう大きな公園に行こうかとも考えたが、ホームレスに厳しい昨今だ。
怪しい人間が一夜の宿にしないよう対策が施されているだろう。
本当は途中で自動車の通る道に身を投げだそうかとも思ったのだが、一度助かったことで張り詰めていた糸が切れたのか、リンチにあったときに固めた死ぬ覚悟はもはや一欠片も残っていなかった。
なので、とりあえずしばらくはこの世界で生きていかなくてはならない。
いつか元の世界に帰れるのか、そもそも帰る意味があるのかも分からないが、とりあえず帰ることを目標としよう。ここ数日の激動で体も心も疲れ果ててしまった。
もう一口だけ水を飲むと、俺はベンチで横になり、眠りについたのだった。
次の日は、割と朝早くに目が覚めた。
ペットボトルと財布だけ持って足早に公園を立ち去る。
今の俺の見た目はどう考えてもホームレスだ。ここで屯っているところを近隣住民に見られて、警察に通報されたりしたらたまったものではない。無頼者への締め付けが厳しい今日この頃だ。せっかく見つけた安眠スポットから追い出されるのは困る。
公園を出て歩き始めたはいいものの、どこか目的地があるわけではない。
とりあえず生計を立てる手段を考えなければならないが、困ったことにどうにもいい案が浮かばない。
今の俺はボロボロの服を着て手持ちは数千円。携帯も壊れている。こんな状況でどうやって日銭を稼げばいいのか。これだけでの事情でも就職できない理由には十分だが、まだまだマイナスポイントは浮かんでくる。
住所不定。銀行口座なし。極め付けに、おそらくこの世界において俺には戸籍がない。
つまり、今の俺は現代社会の中で我々を日本人、いや文明人たらしめる要素を何一つ持ち合わせていないのだ。
ホームレスよろしく廃品回収などを行うというのも考えたが、どこで集めてどこで売れるのかすらさっぱりわからない。いっそ生活保護を求めに行こうとも考えたが、今の俺の状態を何と説明すればいいのか。
今までどう暮らしていたかなども調べられるだろうが、過去の経歴を探られても空白があるだけだ。
まるで突然この世界に現れたような過去をどうして信じてもらえるだろうか。(実際突然に現れているのだが。)
よしんば信じてもらえたとしても大騒ぎになることは間違いない。
飢え死にするとなれば仕方がないが、できればお上に頼るのも避けたいところだ。俺は、八方塞がりの現状を打開するため、歩きながら考えを巡らせることにした。
あれから昼過ぎぐらいまで歩き回りながら考えたが、何も妙案は浮かばなかった。
ここで俺が頼れるのは一つしかない。青春の多くを過ごした図書館だ。
ダメもとでなじみの図書館の場所まで行ってみると、そこには記憶とは少し異なるが、確かに図書館が存在した。
あの時の安堵感は筆舌に尽くし難い。
何もかもに違和感を覚えるこの世界に、初めて親しみを覚えた瞬間だったかもしれない。
見たことのない作家の見たことのない書籍に後ろ髪を引かれながら、生計を立てる手段を調べに向かう。
ここなら無料でインターネットが利用できる。現代人にあるまじくスマホすら持っていない俺にはありがたい。
そんなふうにいつもお世話になっている図書館のおかげで、今回も行動の目処を立てることができた。
今日も1日何も食べていなかったので空腹がひどい。道すがら見つけたスーパーでおにぎりを二つ買う。
一つで我慢しようかとも思ったが、昨日今日と結構な距離を歩いたせいかどうしても我慢できなかった。
あまり動きすぎも考えものだ、なんて考えながら寝床である昨日と同じ公園でおにぎりを食べている時、事件は起きた。
公園の入り口に柄の悪い集団が現れた時から嫌な予感はしていた。
その集団が明らかに俺に目をつけて向かってきているのを見た時、予感は確信に変わった。
「何の用だ?」
「お前、ホームレスだよな?」
否定したいところだが、現状俺はホームレスに間違いはない。
「だったら何だ。」
「ちょっと一緒に遊んでやろうと思ってな。」
ああ、なるほど。こいつら、ホームレス狩りか。そう理解すると同時に沸々と怒りが込み上げてきた。こいつらみたいなクズのせいで、俺はこの数日散々な目にあっている。
「そうか、遊んでくれんのか。」
「あ?」
「ちょうど暇だったしよ。イライラもしてんだよ。ちょっと付き合ってくれよ。」
八つ当たりだ。褒められたことじゃないのはわかっている。だが、先に敵意を見せたのは向こうだ。
「かかってこいや、クズ共。」
「死んだぞテメェ!」
三下らしい台詞を吐きながら向かってきたホームレス狩りどもをに蹴りを放つ。殴る。蹴る。殴る。
終わってみれば、呆気のない戦いだった。瞬殺と言っても過言ではない。
這う這うの体で逃げっていくのを横目で見ながら一息つく。
相手が弱いのもあるが、先ほどの喧嘩は、今までと比べてもよく体がよく動いていたような気がする。修羅場を乗り越えたからだろうか。
ピンチを超えて成長するなんて本当にあるんだな、なんて思いながらベンチに腰掛ける。
明日からは寝床を変えた方がいいかもしれない。
油断をしてはいけないのは、ここ数日の経験から痛いほど学んだ。
だがまあ今晩仕返しにくることはないだろう。その日の夜は少しスッキリしながら眠りにつくことができたのだった。
「おいおい、マジか」
俺は気づいていなかったが、その喧嘩を人知れず観察していた奴がいた。
「とんでもねえ強さだな・・・。下手すると中嶋さんより強いんじゃないか?いやでも流石に・・・。ともかく明日話してみるか。」
この喧嘩が見られていたことが、その後の俺の人生が大きく変わるきっかけとなることに、俺はまだ気づいていなかった。
ありがとうございます。