史的な夜話 其の十六
今回は斎藤道三とその周辺、特に道三のこと言われている日饒、日覚についてちょっとだけ書いています。
よ:あのぉ……
戸:はいっ!はいっ!はいっ!
よ:どないしたんですか、いつもと違てえらいハイのテンのショ~ンやないですか!
戸:そないな言い方もあるんですね。
よ:確かYouTubeやったかな、誰かが言うとったような気ぃしまして、恥ずかしながら真似をしてみました。恥ずかしいので、二度は言いませんが……
戸:自分で言うとって恥ずかしかったんですね。
よ:うん……
戸:ちょっと喋りたくなりまして、呼び出しましたが、宜しいでしょうか?
よ:珍しいですね。あんたが喋りたい、とか。もしかして中国大返しの続きですか。
戸:それは次の機会と言うことで、今回は斎藤道三について喋りたいんですが、宜しいかね?
よ:停めても喋るんでしょ?
戸:そのつもり満々です!
よ:ほな、停めずに喋って下さい。適当に相づち打ちますんで。
戸:ほな、喋りますね。
よ:どうぞどうぞ。
二十年以上も前の話ですが、ある時、ふと斎藤道三が気になりました。
ご存じのように斎藤道三と言えば一人で美濃一国を乗っ取り、蝮やら梟雄やら色々言われていますが、その時まで興味すら抱いたことが無かったので簡単に調べてみることにしました。
図書館にある人物事典、歴史事典などを数冊ひっくり返して斎藤道三について調べてみました。どの事典も似たり寄ったりの記事でしたが、一つだけ気になる箇所が有りました。
道三は若い頃、京都の妙覚寺へ入って修行します。その時に仲が良かった僧がおり、その僧は岐阜県岐阜市の常在寺へ住職として赴任します。
その後、道三は何があったのか妙覚寺での修行をやめて大山崎の油屋さんに就職、行商か何かで岐阜へ行った折、出世した旧友を訪ねてそこから道三は斎藤家と美濃国の政治へ関わっていくとか、そのような感じなのですが、この妙覚寺時代の仲良し、兄弟弟子というのが日護と日運の二人に分かれていました。誤記にしては不自然ですし、いずれが正しいのか、その時はわからないままに終わってしまいました。
一方で実は道三一人では無く、父親と二代で美濃国を乗っ取ったとか、それを知ったのもこの頃でした。昭和五十一年に新しい史料が発見されたそうですが、その情報が反映されていない、昭和五十一年よりも前に編纂、出版されていたらこの事実は記されていなくて当然でしょう。
それから数年を経たある日、県立図書館へ行きましたら「日蓮宗事典」を見付けまして物は試しと「日蓮宗事典」を広げてみることとしました。
幸いにして日護と日運を見付けることはできましたが、二人とも若い頃の道三と同期だったと記事にありました。日護は常在寺の三代目住職、日運は同じく常在寺の四代目住職を務めており、妙覚寺で二人とも若き道三の同期だったとも考えてみましたが、日運の生年がこの時点ではわかりませんでした。
まず日護は一四三六年生まれ、一五三二年に亡くなっています。
次に斎藤道三の生年ですが、明応三年説、永正元年説があって今の処、定まっては居ません。ちなみに明応三年は西暦一四九四年、永正元年は一五〇四年です。
日護と道三の生年を見ただけでも両者が若い頃、妙覚寺で出会うという話に無理があることはわかります。道三の父親である松波庄五郎の生没年月日はわかりませんが、日護と妙覚寺で同期、兄弟弟子というのは庄五郎ならば辻褄が合うかもしれません。
日運ですが、文明十六年に生まれ、明応五年に妙覚寺へ行き、永正十三年に常在寺の住職となり、一五三〇年に入寂しているようです。
ここで美濃国守護代の斎藤家について少し解説しておこうと思います。
まず斎藤宗円という人が居まして美濃国守護の土岐氏の家臣でしたが、守護代に就任したいという野心があったようで守護代だった富島さんを殺し、守護代へと就任します。
宗円の子には利永、妙椿が居り、利永が守護代の職を継ぎました。
妙椿は幼い頃に出家、僧として過ごしていましたが、兄の利長が亡くなって跡を継いだ利藤を助けるため、寺を出ます。丁度、応仁の乱も始まったので軍を率いて活躍します。
この妙椿には男子が居なかったので利藤の弟を迎えて妙純を名乗らせて継いで貰ったのですが、守護代の利藤と兄弟喧嘩が始まってしまいます。結局、兄の利藤が敗れて近江、さらには京都へと落ち延びることとなります。
その後、兄弟は仲直りして利藤は京都から戻ってきて再び守護代の職に就きますが、実権に関しては妙純が握るという状態になります。そしてまた兄弟は争うことになり、利藤は負けて隠居させられます。利藤の長男と孫は亡くなっており、利藤の子で十三歳の毘沙童は妙覚寺へ送られ、僧となることを条件に助命されることとなります。この毘沙童が後の日運です。
利藤一家を追い払った妙純一家ですが、その妙純も長男の利親と一緒に戦地で殺されてしまい、この辺りから斎藤家の家運が傾いていくこととなります。
妙純、利親が亡くなった後、斎藤家は利親の弟である又四郎、彦四郎が相次いで跡を継ぎ、それから利親の子である利良が家を継ぎますが、この頃には松波庄五郎も斎藤家と関わりを持ち始めており、実権が移っていきます。
ここまで宗円以来の斎藤家について書いてきましたが、実を言うと斎藤家の家系図にはまだまだ不確かな部分があり、生没年が不明な人も多いですし、親子関係が不明瞭な人も居ます。
戦国時代のことですから戦禍で当時の文書類、家系図などが失われたことでしょう。系図を書くよりも今日を生きるのに必死だったかもしれません。
今回はWikipediaを中心に調べてきましたが、系図などは今後変わっていく可能性はあります。
また本能寺の変で明智光秀の陣営で活躍した斎藤利三は道三では無く、宗円の血筋なのは確かですが、今もその父親や兄弟については不明なままです。
源頼朝、足利尊氏のようにしっかりと家系図が残っているのは良いことだと改めて思います。
松波庄五郎に関しても京都で朝廷に仕える人が親ではないか、そのように言われていますが、まだまだはっきりしていません。京都の下級武士に松波家が四家有りますからその中の一つが出身かもしれません。
妙覚寺へ入ったのも先祖代々日蓮宗の信者だったからか、本人が改宗して妙覚寺へ飛びこんだのか、この辺りの事情はわかりません。若い頃に油の商人というのも庄五郎自身が語っているわけではないので妙覚寺を出た後、実際にどこで何をしていたのか、直接美濃国へ行った可能性もあります。今後、新しい史料が出てくることをまちましょう。
斎藤道三が一人ではなく、少なくとも親の庄五郎と二人で斎藤家と美濃国を乗っ取ったと言えるでしょうか。しかし、捻くれている私としては他に協力者がいたのではないか、その様に思っています。
単純に現代と比較するのは駄目かもしれませんが、他所者が引っ越してきていきなり県議会議員選挙へ立候補して当選するような感じでしょうか。「舌先三寸」なんていう言葉もありますが、それが乱世に通用するのか、そう思う一方で戦国大名はどこも人手不足、松波庄五郎が有能であったから採用されて重用されたかもしれません。
斎藤道三には義龍、孫四郎、喜平次、利堯、利治の他に日饒、日覚と男子は七人、女子も織田信長へ嫁いだ濃姫の他に十人ほどいるようです。
義龍はご存じのように道三を滅ぼした本人、しかもその直前に弟の孫四郎、喜平次を殺しています。残った利堯、利治は織田信長の下へ逃げた後、利治は本能寺の変で犠牲になり、利堯は没年不明ですが、本能寺の変の後も織田家に仕えていたようです。
今回、問題にしたいのは日饒、日覚の二人です。
この二人、生年は不明ですが、早い時期に出家して常在寺で日運の弟子となり、日運の跡を継いで日饒は五代目の住職、日覚は六代目の住職となったそうです。また日饒は妙覚寺の十九代目の貫主となっています。
ここで問題なのは義龍の生年が一五二九年で日運の入寂が一五三〇年という点です。
日饒と日覚が義龍の弟であれば一五三〇年より後に生まれていることになり、常在寺で日運から教えを受けることはできません。日運の入寂した年が間違っているのか、それとも日饒、日覚が義龍の弟ではなくて兄であるとか、または道三の弟である可能性も考えてしまいます。
道三自身が若い頃に一度、妙覚寺へ修行に行ったとか、日饒と日覚が実は道三の弟で妙覚寺で修行した後、常在寺へ移って引き続き日運の下で修行を続けたとは考えられないでしょうか。残念ながら道三に兄弟がいたか否か、この点については今の処、知られていません。今後調査研究が進んで発見されるかもしれません。
改めて道三の生年が一四九四年、一五〇四年の両説があり、義龍の生年が一五二九年ですから仮に道三が一五〇四年生まれだとしても義龍は二十五歳の時に生まれたことになります。それ以前に道三が修行していたのか、義龍よりも前に男子は居たが、妙覚寺か常在寺へ修行に行ったら俗世には戻らず、僧として一生を過ごすことを選んだとも考えられます。
日饒は日運の跡を継いで常在寺の住職となりますが、一五八一年に妙覚寺の十八代目貫主である日顒が亡くなった後、十九代目として妙覚寺へ移っています。そして永禄四年に亡くなっています。
日覚は日饒の跡を継いで常在寺の住職へ就任、一五八五年に亡くなったそうです。
何回か名前が出てきた岐阜市の常在寺ですが、斎藤妙椿が建てた日蓮宗のお寺であり、京都市の妙覚寺から日範を招いて住職となって貰っています。
妙椿自身は浄土宗の善恵寺で出家して持是院という子院も建てています。妙椿から妙純へと続く一家は持是院家とも呼ばれます。
その妙椿のお墓は臨済宗の瑞龍寺にあります。妙椿は何故、日蓮宗の常在寺を建てたのか、ちょっと気になっています。その時期だけ日蓮宗へ改宗していたのか、それとも日蓮宗を誘致することで何らかの利益があったのでしょうか。
義龍も瑞龍寺との関係が深いように思われます。
一方で日運、松波庄五郎、道三、日饒と日覚と妙覚寺、常在寺を中心とした一つの派閥みたいな物が生じていたのではないか、その様にも思ってしまいます。
ちなみに妙覚寺は本能寺の変が起きた時、信忠が宿泊していた事で巻き込まれて焼かれています。
よ:ここまで長々とご苦労さんでした。
戸:疲れたよ。何よりも一人で喋るとなんか上手いことまとめられへんもんやな。 前に雪女を語った時も、なんか上手いこといかんなぁ、思てんけど、今回もおんなじやったよ。
よ:そないなもんかね、あんまし変わらんように思たし、何よりも聞いてるだけやから楽やったよ。
戸:あんたは楽やろうけど、こっちは途中、しんどかったよ。
よ:そない言うねやったら、諦めたら宜しかったのに。
戸:言われたらそないやなぁ。こないだの、雪女の時もそうやねんけど、あとあとも落ち着かへんし、ちょいやり直さなあかんなぁ、思てるんやな。
よ:そん時は逃げるし。
戸:あんたが逃げたらわしはどないしたらええねん?
よ:一人で、二役やったらええやん。
戸:それがでけるんやったら苦労はせんよ。
よ:それは、確かに、そうやなぁ……
戸:なんか、もう、疲れた……
よ:休んだ方がええんちゃう。
戸:まだまだ調べたいことが一杯ありすぎて、気ぃが休まらんよ。
よ:あんたも大変やなぁ。
戸:それにまとめるんが昔っから苦手やん、まとめるんが上手かったら、あんたと世間話せんと、きちんとまとめるんやけど、こればっかしはあかんわ。
よ:関西人やったら、あきまへんわぁ、って言わなあきまへんで。
戸:知るかいや。
よ:なんでも宜しいけど、それで、どないすんのよ、この始末。
戸:それも合わせて知らんがな。近い内にもう一回、斎藤道三について語る日が来るんやないやろうか。
よ:覚悟して、待っとるよ。
戸:なんにしても、日饒と日覚について、もうちょい誰か調べてくれんやろうか。
よ:他人に任せなや。
戸:わし、歴史の専門家やないもん!
どうにも自分の書き方が定まらず、落ち着きません。書く方が落ち着かないのですから読む人も落ち着かないと思いますが、見逃して下さい。
雪女について書いた回も含めて書き直しを検討しております。
主な参考図書
桑田忠親「斎藤道三」
横山住雄「斎藤道三」
日蓮宗事典刊行委員会「日蓮宗事典」
Wikipedia