将来の夢
見慣れた電車。見慣れた道。
見慣れた街頭。見慣れたマンション。
立ち並ぶマンションの隙間から太陽が沈んで、もう2時間はたっただろう。
街頭の光が微かに道を照らし出す、会社からの帰り道はいつもと変わらない。
それでも私はこの時間が嫌いではなかった。
仕事が終わった事への解放感からもあるだろう。
それでも家に帰ると待っていてくれる人がいる。私にとってはそれが一番大きい。
見慣れたマンションの扉。
二人で何度も相談し、何件も見て回って購入したこのマンションも、当時のような胸躍る感情はどこにもなくなっている。
それでもこの扉を開ける時はいまだに心が躍った。
「ただいま。」
私の声に反応して小走りで駆け寄ってくる足音。
「お父さん!おかえりなさい!」
「ただいま!」
一番初めに聞こえるのは決まって愛する娘の声だ。
今年で小学校2年生になった娘の小さな手が私の腰を押して、リビングへ案内していく。
「あのね!今日もね!学校楽しかったよ!」
「そぉか!今日はどんなことしたの?」
「うんとねぇ!」
そんな他愛もない会話と手の感触が仕事のストレスを忘れさせてくれる。
私は元々、子供が得意な方ではなかった。
しかし、自分の子供となった途端どうだろう。
今では自他共に認める程、溺愛している。
リビングへ近付くにつれて私分の夜ごはんを準備してくれている嫁の姿が見えてくる。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
「今日も遅くまでお疲れ様。ご飯は出来てるよ。」
「おぉ!今日は生姜焼きか!」
私はこの瞬間が一番幸せだ。
家に帰ると愛する妻と娘が家に居てくれて、私を帰りを待っていてくれる。
二人の笑顔を見る為に仕事しているんだと思わざるを得ない瞬間だった。
私はそんないい気分ままリビングで生姜焼きを食べ始めると、
向かい側に座った嫁が娘に問いかける。
「ほら。小学校の宿題でなんかお父さんに聞くことあるんじゃなかったの?」
「あぁあ!そうだった!」
そういうと、娘は自分のランドセルの方へ向かってバタバタとワザとらしく音を立てながら走り出し、
ゴソゴソと中を漁ったかと思ったら、徐に一枚の紙と鉛筆を持って戻ってきた。
「はい!お父さんに質問です!」
「はい!」
私は生姜焼きを食べながら娘の問いかけに元気よく答えた。
「今、おいくつですか!」
「35歳です!」
質問と質問の合間に箸を進めていく。
それにしても私もいつの間にか30代になったな。
改めて言葉にすると考え深いものだ。
「つぎの質問です!職業はなんですか!」
「おもちゃメーカーの営業マンです!」
娘は私の回答を持ってきた紙に書いていく。
ひらがなで書かれたその文字は、自慢じゃないが去年より大分うまくなっている。
私の娘は頭がいいのかもしれない。
「次で終わりです!」
「はい!」
妻は変わらず私の向かいの席で娘とのやり取りを、少し笑みを浮かべながら聞き続けている。
最近はいつもこんな感じだった。
私が仕事から帰るのが遅めなこともあり、娘と話せる時間が少なかった。
だからこそ私と娘との時間を大事にする為に、妻は見つめる事に終始してくれるのだ。
「お父さんの将来の夢はなんですか!」
「おぉ!お父さんの将来の夢か!そうだなぁ。お父さんより先に娘ちゃんの将来の夢聞きたいな。」
いままでの質問とは違い少し考えさせられる質問内容に私は少し驚いた。
改めて言われるとパッと答えられないものだ。
回答を考える時間を作る為に、娘へ逆に質問し間を取り繕ってみる。
「うんとねぇ!いちごのケーキ屋さんがいい!」
「ハハハっ!娘ちゃんはホントにケーキが好きだね!」
「うん!大好き!」
無邪気に答えるその笑顔を見ていると質問の答えが思いついた。
「次はお父さんの番だな!お父さんの将来の夢は娘ちゃんとお母さんを幸せにすることです!」
「良かったね!娘ちゃん!お父さんがこれからも幸せにしてくれるって!」
「うん!お父さんも大好き!」
娘の笑顔。妻の笑顔。その二つを同時に見た時、私は私の回答が正しいと確認できた。
やはりこの二人の笑顔。それが今の私にとっての生きがいだった。
「じゃあ宿題も終わったし、そろそろ娘ちゃんは寝ようね!お父さんも、お風呂入りたいだろうし。」
「はぁい。」
娘が紙に書き終えたのを確認した後、嫁は娘を布団へと連れて行く。
少し名残惜しさを感じながら二人の背中を見送った後、残りのご飯を食べ終えた私は妻に言われたように風呂を済ませるのだった。
風呂から上がると、先ほど私が夜ご飯を食べていたテーブルでコーヒーを飲む嫁の姿があった。
「もう寝た?」
「うん。今日はわがまま娘にならないでくれました。」
「暴れん坊になることもあるからな。」
娘と三人の時間も大好きだが、この夫婦水入らずの時間もかけがえのないものだと素直に感じられる。
妻とそんな会話をしながら、ポットで湯を沸かし、妻と同じようにコーヒーを作っていく。
最近私がはまっているキリマンジャロブレンドのコーヒーだ。
他人に侯爵をいえる程、知識があるわけではないのだが、最近飲んだ中で一番私の口に合っていた。
出来上がったコーヒーを片手に席へ着くと、ゆっくりとした口調で嫁が話だした。
「小学校の宿題どうだった?ちょっと悩んだでしょ。」
「そうだね。今の小学校はあんな宿題もあるんだね。」
「そうみたい。私の学校ではなかったと思う。」
「俺の時は、自分の名前を付けた時の由来を聞いてくる宿題があったな。」
「思い出せないだけで私もあったのかな。」
タイミングを合わせるように、二人共がマグカップに口をつける。
少しの沈黙の後、
「私もあの質問されたんだけどさ。あなたと同じ答えを言ってた。」
「なんだか改めて言われるとちょっと照れくさいな。」
「でもね、あなたが質問されてるの聞いてて思ったんだ。」
なんだか妻の口調から、これまでとは違った雰囲気が漂ってきた。
私は目線をコーヒーから嫁の目へと移していく。
「家族への夢じゃなくて、娘ちゃんみたいな私自身の今の夢ってなんだろうなって。」
「俺自身の夢か。」
確かに最近はそんな事を考えた事がなかった。
娘ができてから?いや違う。
結婚してから?それも違う。
社会人になってから?多分その頃からだろう。
初めのうちは仕事を覚えるのと先輩社員との関係作りに精一杯だった。
それでも出世してやろうとか、そのくらいの夢というか野望は持っていたような気がする。
「直ぐには思いつかないよね。」
「そうだな。でも一日考えてみても面白いかも!」
そんな感じでその夜は更けていった。
翌日、私は昨日と変わらず元気な娘の大きな声で目が覚め、
その大きな声で見送られながら、あの見慣れた道を通って見慣れた会社へと出勤して行ったのだった。
勤務中、私の頭の中は昨日嫁が言ってた事で一杯になっていた。
なぜかどうしようもない程、気になってしまう。
学生の頃までは、将来の夢なんて良く質問されてたから、時々考える時間があった。
でも今の私は30代も半ばだ。
今のところ転職も考えてはいないし、私生活に何不自由をしていない。
それどころか妻と娘と幸せな生活を送れている。
夢が叶ってしまったからだろうか。
もう叶えたい夢はないのだろうか。
もう叶えられる夢はないのだろうか。
嫁が幸せな生活を送れるようにする。
娘が将来幸せに過ごせるように成長を見守り手助けをする。
それが私の将来の夢。
それだけが私の望み
それが私の夢。
終業間際の私は、そんな形で疑問に結論付けていた。
昨日とほぼ同じくらいの時間だろうか。
私が家に着いた時、いつもの高い声が聞えてくる。
「お父さん!おかえりなさい!」
「ただいま!娘ちゃん!」
日中とは打って変わっていつもと変わらない日常がそこにはあった。
リビングでは私の夜ごはんを準備しながら私の帰りを待つ嫁の姿も見える。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
「今日はサバの塩焼きにしてみたよ。」
「おぉ!うまそうじゃん!」
そんな事を言いつつ席に座った私に娘が教えてくれた。
「今日はね!なんか不思議だったの!」
「何があったの?」
「うんとねぇ!昨日の宿題をね!先生、見ないで当てちゃったの!それにね!みんな同じ答えだったの!」
私と嫁は目を見合わせて、苦笑いするしかなかった。
そして私はそれから何日間か同じ質問の自分なりの答えを考えざるを得なかった。