君はそんなことも分からないのか?
これは、ざまぁされた真正悪役令嬢が自分を見つめ直すまでのお話。
※本作は『そんなことも分からないの?』における悪役令嬢、イザベルのスピンオフ作品となっています。前作を読んでなくても話が分かるように書いている(つもり)ですが、ぜひ前作とあわせてお楽しみください。
バルビリャン公爵家の長女、イザベルは才色兼備という言葉がピッタリなとても美しく優秀な女性だった。
プラチナシルバーのロングヘアーに宝石のような青い瞳、スラリとした長身に、理知的な顔だち。
三才の頃には三ヶ国語を流暢に話せるようになった上、五歳の頃には辞典を含めたあらゆる本を読み漁り、その知識量は学者にも劣らないと謳われたほどである。
この子は人の上に立つべくして生まれてきた女性だ! ――――そんなふうに考えた公爵は、彼女を王太子妃にすべく、手塩にかけて育て上げた。
その甲斐あって、イザベルが15歳のときに王太子との婚約が内定。18歳のときに国民の祝福を受けながら結婚をした。
彼女が夫である王太子エリックと初めて会ったのは、二人がまだ五才の頃のことだ。
その頃には既に神童との呼び声が高くなっていたイザベルは、エリックの遊び相手として王宮に集められた幾人もの子どもたちのなかで異質の存在だった。本人もまた、自分とは相容れない周りの子どもたちを疎ましく感じていた。
「イザベル様もこちらで一緒に遊びましょう? みんなでお姫様ごっこをしましょうってお話していて……」
「……わたくしは遠慮しておくわ」
ため息をひとつ、イザベルはムッと顔をしかめる。
(なんなの、この子たち。わたくしと同じ貴族のくせに……みっともなく大声をあげてはしゃいじゃって、馬鹿みたい。かくれんぼに鬼ごっこ、お人形遊びなんて、一体なにが楽しいのかしら? 恥ずかしいと思わないの?)
つまらない。
くだらない。
時間の無駄だ。
子どもたちの輪から離れて一人、イザベルは王宮図書館の本を読み耽る。
新しい知識を吸収することは、彼女にとって何よりも楽しいことだった。逆に、知らないこと、分からないことがあるのは屈辱で、そうならないよう必死だった。
少しでもたくさんの知識に触れたい、吸収したい。同年代の子どもたちと遊んでいる時間なんて、彼女にはなかったのである。
「イザベル、君は本当にいろんなことを知っているんだね」
孤立したイザベルに声をかけてくれたのは、後に夫となるエリックだけだった。彼は穏やかに微笑みながら、イザベルの隣にそっと腰かける。
「ええ、そうよ」
得意げにこたえつつ、イザベルの頬がほんのりと赤く染まっていく。
エリックは美しく温和な男児だった。年齢の割にとても落ち着いており、いつも笑顔がたえない。理知的で、向上心があって、それから優しい。周りの子どもたちに辟易していたイザベルにとって、エリックは唯一心を許し、尊敬できる存在だった。
「イザベルが知っていること、僕にも教えてくれる?」
「……いいわよ」
誰かに知識を分け与える時間なんて勿体ない。皆自分で学び、努力をすべきだ――そう考えているイザベルだったが、エリックに対してだけは違っていた。彼と過ごす時間は心地よく、温かい。
(エリック様ともっと一緒にいたい)
その想いこそが、イザベルの知識欲を加速させた。
エリックになにを尋ねられてもこたえられる自分でありたい。彼に並び立てる女性になりたい。
そうして数年後、イザベルは彼の婚約者の座を手に入れることができたのである。
しかし、彼女にはひとつだけ、とても大きな欠点があった。
なにか――イザベルには他人の感情が理解できないのだ。
「まぁ! イネスったら、そんなことも分からないの?」
そんなことも分からないの? ――――それがイザベルの口癖だった。
知識の足りない妹に対して。
無知な侍女に対して。
不勉強な騎士や文官に対して。
何度も何度も、息をするのと同じレベルで、イザベルの口から自然と言葉がついて出る。
(どうしてその程度の知識で満足しているの? どうしてわたくしのように努力をしないの?)
皆が自分と同じものを見て、聞いて、理解して、自分と同じように考えるべきだ――イザベルは愚かにも、そんなふうに考えていた。そうすれば世の中はもっと良くなるに違いない、と。
けれど、彼女の持っている理想は、他人とは決して相容れないものだった。元々の才覚に加え、貪欲に知識を得てきたイザベルだからこそ可能というだけであって、周囲は彼女のように一度読んだだけで物事を覚えることはできないし、入手困難な関連文書にまで手を伸ばそうとは考えない。他にもすること、大切なことはたくさんあるし、生きていくのに必要な知識があればそれでいい――それが大多数の考え方だ。それがイザベルには理解できない。
「――あなたは王太子妃となるわたくしの妹なのよ? そんなことも分からないなんて、恥ずかしいと思わないの? もっと向上心を持ちなさい」
「……申し訳ございません、お姉様」
妹のイネスは特に、イザベルにとって腹立たしい存在だった。
自分と同じ遺伝子を持つはずなのに全くもってタイプが違う。愚鈍で、平凡で、おっとりとしていて、イザベルがなにを言っても響かない。反省が足らず、いつもヘラヘラと笑っている。
何よりイザベルを苛立たせたのは、イネスと周囲との関係性だ。
彼女は使用人たちにも優しく声をかけ、ときに談笑をし、彼らと心を通わせている。
貴族のくせに。
人の上に立つものなのに。
その自覚が足りないとイザベルは思っていた。王太子妃の妹がこんな人間ではいけない――その想いが、イネスへのあたりをより強くした。
結局、イザベルの結婚までの間にイネスの性格が変わることはなかった。
(本当に、あの子はダメね。放っておいたらどんどん堕落していくに違いないわ。わたくしがなんとかしてやらないと)
イネスが己の汚点とならないように、イザベルは彼女に完璧な結婚を求めたものの、相手探しは難航を極める。バルビリャン公爵家が婚家に求める条件があまりに厳しかったからだ。
そのうえ、イネスには落ちこぼれのレッテルが貼られている。そんなイネスとの結婚を心から望むものなど現れはしない。
しかし、二年ほど経ったある日、イネスの結婚が唐突に決まった。
リオネル・オシャロア侯爵――騎士としてエリックの側近を務めていた男性だ。
見目よく、快活で豪胆、懐のとても広い男で、周囲からの信頼も厚い。イザベルすらも彼には一目置いていた。リオネルの隣にいれば、落ちこぼれのイネスも少しはまともに見えるだろう、と。
けれど、それがイザベルの運命を大きく変えることになる。
『そんなことも分からないの?』
そう尋ね続けていた彼女が、それと全く同じ言葉を夫であるエリックに投げかけられることになってしまったからだ。
***
それは、イネスが結婚して数カ月後。彼女がリオネルとともに王宮を訪れたときのことだ。
「あら、誰かと思えばイネスじゃない」
久しぶりに妹のイネスを目にしたイザベルはとても腹が立った。
結婚してから一度も妹が自分に手紙を寄越さなかったことに。いつものように、なにも考えず、へらへらと笑っていることに。
「お久しぶりです、妃殿下」
イネスを隠すようにして、リオネルがイザベルの前に立つ。
イザベルはパッと瞳を輝かせ、ニコリと笑みを浮かべた。
「あら、リオネル。殿下への挨拶は済んだの?」
「いいえ、これから向かうところです」
反応の鈍いイネスとは違ってリオネルは頭の回転が早く、話していてとても楽な相手だ。イザベルは満足気に目を細めた。
けれど、彼女の機嫌の良さは長くは続かない。
「あの……お二人は面識がおありなのですか?」
「それは――――」
「まぁ! イネスったら、そんなことも分からないの?」
またか、とイザベルはため息をつく。
「リオネル様は殿下の側近だったのよ? 当然、王太子妃であるわたくしとも親しくしていたに決まっているじゃない。まったく、貴女は相変わらず、そんな単純なことも分からないのね」
「…………はい、失礼いたしました」
イネスはイザベルとリオネルが旧知の仲であることすらすぐに理解ができなかった。彼がエリックの側近であったことを知っているなら、分かって当然のことだというのに。無知で、愚かで、本当にどうしようもない妹だ。
(それなのに、エリック様がイネスに会いたがっているですって? そんなの時間の無駄だわ)
イザベルはエリックがイネスに会って、失望するのが嫌だった。自分まで妹と同じだと思われたくなかった。エリックにはいつでも完璧な自分の姿を見てほしい、愛されたいと願っていたから。
「殿下にはリオネル様が一人で会ってきてくださいな。その間イネスは、このわたくしが相手をしてあげるから。
だって、この子ったらわたくしと離れている間に、色々と大事なことを忘れているみたいなんだもの。王太子妃であるわたくしの妹として生きるのがどういうことか、もう一度思い出してもらわなければね。
リオネル様との結婚だって、わたくしの体面を保つために組まれたものだもの。変に思い上がったりせず、地に足をつけて生きなさいって。
この子はここまで言わなければ、そんなことも分からないのだから――――」
(イネスのことはわたくしがなんとかしてやらないと)
イザベルにとってそれは悪意ではなく、むしろ善意だった。それでイネスがより良くなるならば、と本気でそう思っていた。彼女の言葉が、態度が、イネスの心を蝕んでいることなど、まったく想定していなかったのだ。
「分かっていないのは君のほうだろう」
リオネルが言う。これまで聞いたことのないような、冷たく厳しい声音だ。
想像だにしない事態に、イザベルはひどくうろたえてしまった。
「なっ……! わたくしが分かっていない、ですって?」
「そうだ。君は大事なことをなに一つ分かっちゃいない。
どれだけ知識が豊富だろうと、論理的な思考ができようと、そこに真心がなければ、何の役にも立ちはしない。
どうして専門家が存在している? なんのために文官が存在している? 彼らに知識で勝ったところで、君自身に一体なにができる? 彼らに成り代わって仕事ができるわけでもないだろう? 君は、そういったことを考えたことがあるのか?」
「そ、れは……」
「君がしたり顔で披露する知識や常識は、皆が知っていて当然なものだと本当に思っているのか? 臣下が、侍女たちが、国民が理解できて当然だと。そんなにも普遍的なものだと思っているのか?
だとしたら、愚かとしか言いようがない」
これまでイザベルを否定するものなど誰ひとりいなかった。みなが彼女を称賛し、尊敬し、崇めているとさえ思っていた。
それなのに、リオネルはきっぱりとイザベルを否定する。
正直、とてもショックだった。愚かだなんて単語を自分に向けられたことが。恥ずかしくて、屈辱で、腸が煮えくり返りそうだった。
「くっ、口を慎みなさい! 誰に向かって物を言っているの! わたくしは別に、すべての人に同等の知識を求めているわけじゃありませんわ。わたくしの妹に高い水準を求めるのは当然のこと! 貴方にとやかく言われる所以は――――」
「ある!」
リオネルはくわっと目を見開き、イザベルのことを見下ろした。
「君はイネスを傷つけた! 俺の愛する妻を侮辱した! とても許されることではない!」
イザベルは思わず息をのむ。
妹の――イネスとリオネルの結婚は、形だけのものだと思っていた。イザベルの体面を保つためのものなのだと。けれど、違っていたのだろうか?
(どうして? イネスのために――自分以外の人間のために、人はこんなふうに怒れるものなの?)
分からない――イザベルにはリオネルの気持ちが、イネスの心が分からない。自分にも理解できないものがあるのだと本当の意味で知ったのは、これが生まれて初めてだった。
それまでにも『どうして努力できないの?』『どうしてそんなことも分からないの?』と散々思ってきたというのに、それが『自分に理解できないこと』だとは認識していなかったのである。
けれど、簡単に認めることはできなかった。イザベルにとって『分からないこと』はなにより忌むべきこと、恥ずべきことだからだ。
「『許されることではない』? ふふ……その言葉、そっくりそのままお返しするわ。わたくしは王太子妃よ? 先ほどから黙って聞いていれば、随分と不敬な物言いじゃない。とてもじゃないけど許せないわ」
「王太子妃だからなにをしても、なにを言っても許されるわけではない。
君はイネスだけでなく、沢山の人の心を、想いを踏みにじっている。そんな人間を素直に敬うことはできない! そもそも、偉いのは君ではなく、王太子殿下だろう?」
「なにを……! わたくしが人の心を踏みにじっているだなんてそんなこと、あるはずがないでしょう!」
「リオネルが言っていることは本当だよ」
そのとき、その場にいた全員が思わずそちらの方を向く。そこに居たのはイザベルの夫――――王太子エリックその人であった。
「殿下⁉ いったいなにを……」
「これまで君と接してきた人間から、陳情が複数出ているんだ。イザベルから『そんなことも分からないのか?』と問われることで、どこにいても、なにをしていても萎縮してしまう。苦しんでいると。
自信を喪失し、既に辞めてしまった者も多数いる。
僕が君の妹に会いたかったのは、そういう実情を話したかったから、という理由もあるんだ。二人きりのときに話をしても、君は全く取り合ってくれなかったからね」
困惑しきった様子のイザベルに、エリックは淡々と事実を伝える。
これまで誰かに否定をされた経験がなかったイザベルは、驚愕に目を見開き、ワナワナと唇を震わせた。
「けれど! わたくしの側に仕えるからには、知識を得る努力をするのは当然のことです! 向上心を持つべきです! そんな当たり前のことがわからないなんて――――」
「君のものさしで物事をはかるな」
イザベルの言い分をバッサリと切り捨て、エリックは小さくため息を吐く。
「『君の当然』と『他人の当然』は全く異なる。『君がすべきだと思うこと』と『他人がすべきだと思うこと』も当然異なる。
もっと人の声に耳を傾けろ。心に寄り添え。
王太子妃に求められる能力は、知識でも判断能力でもない。
――――君は、そんなことも分からないのか?」
それは世界中のどんな言葉よりもイザベルの心に響いたのであろう。彼女はその場に座り込み、呆然と言葉を失った。
***
『君はそんなことも分からないのか?』
それは毎朝、毎晩、イザベルが他人に対して使ってきた言葉だ。けれど、言うのと言われるのとでは全くもって意味合いが違う。
(わたくしは『そんなことも分からない』人間……)
そもそも、自分に知らないことがあることを許せなかったイザベルだ。それを他人から――愛する夫から指摘されたことに、尋常ではないほどのショックを受けていた。
しばらくの間自室に閉じこもり、誰とも話すことなく、呆然としていたほどだ。
けれど、なにをしていても、いなくても、あの日のエリックの言葉が――『君はそんなことも分からないのか?』と頭の中に木霊する。
本当は、この世の中の全員が、イザベルに対して『そんなことも分からないの?』と思っているのではないか――そんなふうにも感じられた。
イザベルは怖かった。
苦しかった。
逃げ出したいと心から思った。
けれど、その心こそが、これまでイザベルが傷つけてきた人々と同じものなのだ。
(いつまでもこうしているわけにはいかない)
分からないことは恥ずかしいことだ。悔しいことだ。努力を怠るなんてあってはならない。だって、自分はエリックの妻――王太子妃なのだから。
ひとまず『そんなことも分からないの?』が禁句だということは分かった。
けれど、それだけでは足りない。『もっと人の声に耳を傾けろ。心に寄り添え。王太子妃に求められる能力は、知識でも判断能力でもない』――それが夫であるエリックの考えなのだから。
イザベルはありったけの本を自分のもとに取り寄せた。これまで無駄だからと避けてきたもの――物語や小説の類だ。勉強して分からないことはない――彼女はそう信じていた。
実際問題、イザベルは社交や外交がとても上手かった。これは勉強により身につけた能力だ。
相手を持ち上げ、気持ちよくさせ、そのうえで自分が優位に立つ。上辺だけの付き合いなら、知識さえあればそれらを叶えることは容易い。
だからこそ、王家やイザベルの両親はこれまで、イザベルの欠点に気づけなかったのだが――。
(分からない……登場人物の気持ちが、なにひとつ理解できない)
表情から、言動から、行動から――相手を理解するための要素はたくさんある。
けれど、イザベルには直接的な言葉で落とし込まれている感情しか――『嬉しい』『悲しい』『怒っている』『困っている』と書かれていなければ、理解できなかった。登場人物たちの行動がひどく唐突に思えた。なにより読んでいて楽しいとは思えなかった。
(どうして? わたくしは一体、どうしたら良いの……?)
寝る間を惜しんで書物を読み漁っても、まったく成果を感じられない。このままでは、自分は王太子妃ではいられなくなる。――エリックの側にいられなくなる。
(もしかして、エリック様はもう、わたくしのことを見放しているのかしら?)
あんなふうに真っ向から否定されたのだ。そう考えるほうが自然かもしれない。
今頃、王太子妃失格だと呆れられているかもしれない。
イザベルの心臓がドクンドクンと鳴り響く。息苦しさに喉が締まる。
あれから数日、エリックとはずっと顔を合わせていない。何度か部屋に様子を見に来てくれたと聞いているが、直接会うことは憚られた。
怖かった。
エリックの失望した顔を見たくはない。別れを切り出されるのではないか、と。
「イザベル」
ビクッと背筋が震える。見れば、私室の扉の前にエリックがいた。
「殿下……」
「少し出かけないか? 君と話がしたいんだ」
「え……?」
イザベルはゴクリと唾を飲む。
話――嫌な予感が胸を過る。
(怖い……)
エリックの顔を見上げると、彼はポンとイザベルの頭を優しく撫でた。
「おいで。たまには息抜きをしよう」
***
馬車に乗り、城を抜け出し、王都へと降りる。
こんなふうに二人で出かけるのは初めてのことだった。市中で王族の警護をするのは大変だし、貴族や王族というのはむやみに出かけたりしない。屋敷の中でじっとするのが正解だと思っていたから。
「……どこへ行くのですか?」
「うん? 色々。イザベルと行ってみたい場所がたくさんあるんだ」
エリックはそう言って微笑むと、イザベルの手を優しく握る。イザベルは胸が苦しくなった。
(殿下はなにを考えていらっしゃるの?)
分からない。分からなくて、怖い。
イザベルはずっとエリックの視線を避けていた。窓の外を見つめながら、目頭にたまった熱を必死に逃した。
「さあ、行こうか」
馬車から降りると、エリックはイザベルの手を取り、おもむろに街を歩きはじめた。
花屋に立ち寄って小さなブーケを購入してみたり、服飾店に立ち寄って服や宝飾品を眺めてみたり、なにがしたいのかさっぱり分からない。王都で評判だというカフェの列に並んだときには、イザベルは思わず驚きに目を見開いてしまった。
(そんな……ひと言店主に伝えれば、わたくしたちの貸し切りにしてくれるでしょうに)
というか、そうして然るべきだろう。エリックは王太子。人の上に立つ人物なのだから。
「――並んでいる間、どんな味かな? 自分はなにを食べようかな? って考えるの、楽しいと思わない?」
「え?」
ポツリとエリックがつぶやき、イザベルは思わず振り返る。
「きっとみんな、そういう気持ちだと思うんだ。僕も普段、出されたものだけを食べる分、自分で選ぶことが新鮮で、楽しい。イザベルもそう思わない?」
まるで、イザベルの疑問にこたえるかのように、エリックはそう言って目を細める。
楽しい――その感覚はイザベルには分からない。けれど、本人の言うとおり、エリックはそう感じているのだろう。
(楽しい……)
「そうですね」
本当はちっとも分からないまま。それでも、エリックの感情をそのまま受け取る。
すると、不思議と楽しい気がしてきた。
困ったように微笑むイザベルを見ながら、エリックはとても満足そうに笑った。
以降も、二人の街歩きは続く。
(果たしてこれは必要なことなのかしら?)
時間が経つにつれ、イザベルの疑問は深まっていく。彼女にはエリックの目的がちっとも分からなかった。
ずっと勉強ばかりしてきたイザベルは、こんなふうに時間を消費していくことに焦燥感を感じてしまう。今だって、イザベルは他人の感情を学んでいる最中だ。早く城に戻って、読書をしたほうが良いのではないか? 先へ進めるのではないだろうか?
「エリック様、あの……」
「イザベルはこの料理を知っているかい?」
「え?」
エリックはそう言って小さな出店のメニューを指差した。まるでケーキのような生地に、チョコレートのようなソースが塗られ、その上から白いソースが細くかけられている――そんな料理だ。
(知らない……)
けれど、分からないことがあるとは言いたくない。黙りこくったイザベルに、エリックはそっと微笑んだ。
「食べてみて?」
「え? だけど……」
こんな何処の、なんともしれない料理を食べて平気なのだろうか? お腹を壊したら……万が一毒でも入っていたら、とビクビクしてしまう。
「ものは試しだよ。分からないものを分からないままにするのは嫌だろう?」
はい、と手渡され、おそるおそる口に運んでみる――と、まったく予想と違う味にイザベルは目を見開いた。
(しょっぱい?)
少なくともスイーツではない。おまけにそこはかとなく魚介の風味を感じる。中に入っているのはキャベツだろうか? 困惑した様子のイザベルに、エリックはクックッと喉を鳴らす。
「どう?」
「……美味しいです」
驚いた。本当に、思っていた味とはまるで違っている。けれど、とても美味しかった。
「殿下、これは……?」
「異国のピザだそうだよ。庶民に愛されている料理で、材料も手に入りやすい。けれど、我が国ではまだまだ認知されていない――と、昨日店主に教えてもらったんだ。僕にもイザベルに教えてあげられることがあったらいいな、と思って」
「え……?」
イザベルは思わず顔を上げる。エリックは目を細めつつ、イザベルの頭をそっと撫でた。
「馬車に戻ろうか。話をしよう」
***
イザベルとエリックは隣り合って座る。馬車はまだ動き出さない。指示があるまで出発しないようエリックが事前に指示を出していたからだ。
「イザベルは――」
ビクッとイザベルの体が震える。エリックはほんのりと目を見開きつつ、イザベルの手を優しく握った。
「今日、どう思った?」
「え?」
「僕と一緒に出かけてみて、なにを思い、なにを感じた?」
いつになく真剣な眼差し。なんとこたえるべきか――こたえに窮しているイザベルを、エリックが急かすことなくじっと待つ。
やがて、イザベルはポツリと口を開いた。
「殿下はなにがしたいのだろう? と……そう思いました。このお出かけに意味があるのか……もっと他にすべきことがあるのではないか、とも思いました」
エリックはきっと、イザベルが嘘をつくことを望んでいない。彼女の本心が聞きたいだろうから、思ったままを伝えることにした。
「殿下の仰るとおり、わたくしは『分からない』ことがなにより嫌いです。全部の事柄を知りたい……理解したいと思っています。
けれど、わたくしはどう足掻いても人の気持ちが分からない。理解できないのです」
昔から分からないことが嫌いだった。
自分にも分からないことがあるのだと他人に伝えることが嫌いだった。
イザベルは今、生まれてはじめて、そんな自分の弱さと向き合っている。
「――イザベルは昔から、本当に真面目だよね」
エリックがイザベルの頭をポンポンと撫でる。目頭に熱が込み上げた。
「いつからかな? 君に分からないことがなくなったのは」
「え?」
「昔の君は城に来るたび、色んな人に知らないことを聞いて回っていたんだ。城に出入りしている商人、侍女、文官や騎士たち、あらゆる分野の専門家たちに『ここが分からないから教えてほしい』って頼んでいた。
だけど、そうこうしているうちに、君は一人で知識を得る方法を見つけてしまったんだろうね。誰かに尋ねることをしなくなった」
「あ……」
そういえば、そんな頃もあったかもしれない……イザベルは思わず頬を染める。
「みんなが遊んでいるなか、イザベルはいつも必死に勉強していたよね。努力家で、貪欲で……いつもすごいと思っていた。本当に尊敬していた。幼い頃から君を妃に迎えたいと思っていた。本当だ」
「殿下……」
「僕はね、知らないこと、分からないことを愚かだとは思わないよ。知りたい、理解したいと思う心があるなら、人はいつからでも、いくらでも変わっていける。
だけど、感情、心というものは、書物だけでは学べないと僕は思う」
エリックの言葉にイザベルはハッと顔を上げた。
「君は幼い頃から人の輪に加わることをしなかった。おままごともお人形遊びもかけっこだって、一度もしたことがないだろう? けれど、そうした触れ合いのなかでしか学べないことはたくさんある。君もそう思わないか?」
イザベルはこれまでの自分を思い出す。
ずっと、他人と関わるのは時間の無駄だと思っていた。目的のない、必要のない会話はわずらわしいものだし、くだらないと思っていた。
けれど――
「ええ……殿下のおっしゃるとおりです」
ポタポタッと涙がこぼれ落ちる。
イザベルがこれまで『くだらない』と捨ててきたものはきっと、とても大切なものだったのだろう。いまさらではあるが、そのことが悔やまれた。
「だからね、イザベル――もう一度、尋ねることからはじめよう。これからはこうして、時々二人で出かけたり、息抜きをしてみよう」
「え……?」
思わぬ言葉にイザベルは目を見開く。気がついたら、彼女はエリックの腕の中にいた。
「今日みたいに美味しいものを二人で食べたり、馬で遠乗りに行くのもいい。海を見に行くのもいいし、どこかの夜会に繰り出すのも楽しそうだ。そうやって、少しずつ少しずつ、僕と一緒に他の人と触れ合う機会を作っていこう」
「殿下……本当に? だけど、わたくしは……わたくしはもう、あなたの側にいられなくなるのではと……」
「僕が君を手放す? そんなこと、絶対にありえないよ。こんなにもイザベルを大切に思っているのに――君はそんなこともわからないのか?」
エリックが微笑む。とびきり温かい――イザベルが大好きな笑顔で。
イザベルの瞳から涙が止めどなくこぼれ落ちる。
言葉は彼女の心を深くえぐったそれと全く同じ。けれど、その意味合いはまったく異なる。
彼の言葉はあまりにも優しく、それから強い愛情に満ちていた。
「君は僕にいろんなことを教えてくれた。今度は僕が教える番だ。
イザベル一人では分からないままかもしれない。だけど、分からない部分は僕が補う。大丈夫、君ならできる。一緒に成長していこう。僕たちは夫婦なんだから」
「エリック様……」
泣きじゃくるイザベルの背をエリックが撫でる。
『君はそんなことも分からないのか?』
頭の中に響くのは優しく甘いエリックの声。
ほんの数文字の強い呪縛から、イザベルはようやく解き放たれようとしていた。
「ところで、君の妹のイネスのことなんだけどね」
「あっ……妹が、なにか?」
「君を心配して、何度もお見舞いに来てくれていたんだ。取り次げる状態じゃなかったから、帰ってもらっていたんだけど」
「そうでしたか……」
思えばイネスにはひどいことをした。たった一度『そんなことも分からないの?』と問われただけで、あんなにも傷ついたイザベルだ。イネスの苦しみが今なら恐ろしいほどに理解できる。
「それでね、二人とも、明日には領地に帰るらしくて」
「……! エリック様、この馬車の行き先、城から変更することはできますか?」
エリックが「もちろん」と微笑み合図を出すと同時に、馬車がゆっくりと走り出した。
***
「お姉さま……?」
ここは王都にあるオシャロワ侯爵のタウンハウス。応接室に王太子エリックとイザベル、それからイネスとリオネルの四人で向かい合って座っている。
イネスは内心とても驚いていた。イザベルがこんなところに来るとは想像もしていなかったからだ。
これまでのイザベルなら『自分から別れの挨拶に来て然るべき』だと強く叱りつけただろうし、イネスも明日、王宮に挨拶に向かおうと思っていたのだから。
「明日、領地に帰るのでしょう?」
「ええ。随分と長く滞在しましたから……ねえ、リオネル様?」
「ああ」
イネスとイザベルが対峙したのはもう一カ月ほど前のこと。その間ずっと、イザベルは一人で部屋に閉じこもり、思い悩んでいたことになる。
「あの……お姉さま、お体の具合は大丈夫ですか? きちんと食べていますか? わたし、お姉さまのことが心配で……侍女の方にお見舞いの品は小説がいいとお聞きして、いくつか差し入れたんですが」
「え……? 貴女が?」
知らなかった――どうやらあのなかには、イネスがイザベルのために選んだ本が混ざっていたらしい。
「そう……」
イザベルは嬉しかった。妹が自分を案じてくれたことが。
と、同時に気恥ずかしかった。恥ずかしさのあまり、ふいと顔をそむけたくなる。
「わたくしは……元気よ。まったく、貴女はそんなことも――っ」
思わず口癖が出そうになって、慌てて口を閉じる。そんなイザベルの様子を、エリックも、リオネルも、固唾をのんで見守っている。
「違う……そうじゃなくて! ……心配してくれてありがとう、イネス」
言いながら、瞳に涙が滲んでくる。イネスはそんな姉を見ながら「良かった……!」と嬉しそうに笑った。
(こんなわたくしに対しても、イネスは優しく接してくれていたのに)
――昔からずっとそうだ。どれだけイザベルに悪態をつかれても、イネスはずっと穏やかで温かかった。反発するようなこともなかった。
ただ、思い返してみれば、とても悲しそうな表情をしていた気がする。
イザベルの胸がジクジクと痛んだ。
「イネス……その」
「はい」
必死に声を出そうとするのに、中々言葉が出てこない。音にならない。
たった数文字。伝えたい想いはそこにあるはずなのに、どうしても上手にできない。
「その……」
「お姉さま……領地に帰ったら、お姉さまに手紙を書いてもいいですか?」
「え?」
イネスは隣に座るリオネルと微笑み合う。
「久しぶりにお会いして、わたしにはまだまだお姉さまに教えていただくべきことがたくさんあると気づきました。ですから、また……」
「ダメよ!」
イザベルの剣幕に、他の三人が顔を見合わせる。彼女は立ち上がると、首を横に振った。
「わたくしを甘やかさないで頂戴! どうしてそんな、そんな――――本当に……貴女はすごい人だわ。わたくしとは違う。他人の気持ちを理解できるなんて、わたくしにはできないことだもの」
イネスにはイザベルがなにを言おうとしているのか、きちんと分かっていたのだろう。そのうえで、イザベルのプライドを守り、茶を濁そうとしている。けれど、これではイザベルはいつまで経っても成長できない。
悔しくて、恥ずかしくて、頬から火が出そうだった。けれど、だからこそ、きちんと向き合わなければならない。
「教えを請うべきなのはわたくしのほうよ。イネス――これからわたくしに、人の感情というものを教えてちょうだい。わたくし、本当に分からなくて……」
「お姉さま……」
「それからこれまでのこと――――ごめ、……っごめんなさい!」
イザベルはゆっくり、深々と頭を下げる。
誰かに謝るのなんてはじめての経験だった。元々の性格のせいもあるが、貴族や王族は簡単に謝罪などしてはいけない。本当はイネス以外にも謝るべき相手はたくさんいるが、彼女たち全員に頭を下げることはできないのだ。
――けれど、反省し、変わりゆくイザベルを見せることはできる。
「お姉さまならきっと大丈夫。分かるようになります。わたしも、喜んでお手伝いします」
イネスの言葉に、イザベルは涙し、それから微笑み合う。
傷つき、傷つけられた過去は消えない。
けれど、上書きしていくことはできる。
なぜなら他でもない――自分自身がそうだったのだから。
『君はそんなこともわからないのか?』
夫からの温かい言葉を思い返しつつ、イザベルはそっと目を細めるのだった。
本作はこれにて完結しました。
もしもこの作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけると、今後の創作活動の励みになります。
改めまして、最後までお読みいただき、ありがとうございました!