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同世代を生きる仲間達へ

作者: 国沢茂雄

同世代を生きる仲間達へ


<目次>


1.熟年から老年時代(60歳~70歳)   :1話~14話

2.壮年時代    (30歳~60歳)   :15話

3.青年時代    (18歳~30歳)   :16話~35話


<プロローグ>


これは今のコロナ下という特殊な時代を生きてきた同世代の仲間達に贈るエールでありノンフィクションの手記として読んで貰えれば幸いである。

この手記の目的はこういう人生を送ってきたというそこには様々な生き様や思い出があるはずでこの手記を基に自分自身の人生と重ね合わせて顧みて貰えれば有難いと思う。


人の世は延々と受け継がれて行くのであり人夫々が各々の人生模様を描いて行きそれが又面白いところである。

それでは早速熟年~老年時代の手記から始めてみたい。


~熟年から老年時代(60歳~70歳)~


1.「70代のモチベーションとは。」


毎朝顔を洗い髭を剃る時に鏡の中には年老いた男の顔を見ることになる。

「これは一体誰の顔何だろう。いつの間にか70歳という世間の基準の歳になったようだけど自分の気持ちは未だ青雲の志を少しばかり残し、百歩譲っても40代、50代の頃と何ら変わるところはない!」

けれど他人から見れば年齢相応という事になるのだろう。

この年代の世間から老人と言われる現役の一線を退いた男たちのモチベーションとは何だろうと考えてしまう。


他人からは幸せな人生で羨ましいと言われるがそれは何がその人間にとって幸せなのか、人によって違う気がする。

年金生活者で働かない者に取っては同じ年代で働ける人は羨ましいと思う。そこには今日はこんな仕事が出来て良かったという達成感とか仕事後にしか味わえないビールの旨さがあるはずだ。

一方では働く身にはいつか仕事を辞めて気儘な毎日を過ごしたいという憧れがあるはずで要するにこれはないものねだりというものだ。


誰にでも人生を振り返って自分だけの物語は持っていると思う。これを他人に語るか、語らないかの違いはあるにせよ他人にも知って貰いたいという願いは少なからずあるのではないか。

そんな気持ちで自分の物語を紡んでみたいと思う。興味のある仲間にだけ読んで欲しい。又皆さんも自分だけの物語を紡んでみて下さい。他人に見せるかどうかは別にして。



2.「現在71歳、何もしない毎日でもあっという間に過ぎていく。」


今は時節柄オミクロンが流行していて毎日国内だけでも時には10万人近い感染者が発生している。

この時期の会社勤めは特に大変だと思う反面70歳を過ぎて仕事が出来るのは羨ましいという気持ちもある。

こればかりはやりたくても需要がないと出来ないからでもある。

それにしてもこの年代で尚仕事を求められるスペックは誰にでも公平にチャンスがあるはずもなく特定の分野、人材に限られている。それは若い頃、入社時からの経理、管理部門、IT部門で経験を積み、営業系はえてして潰しが効かない事もありそこまでの需要がないのが一般的な実情である。

現在同年代で活躍している諸氏は大体このような職務経歴が多いはずである。(周囲を見回してみて下さい)


さて70歳の老年は(壮年でもなく熟年でもなく)どのような毎日を過ごしているのだうか。

因みに健康体である自分の毎日はどんなものだろうか。一応整理してみたいと思う。


*毎朝自然に5時前後に目が覚める。(多少早くても4時前後ならそのまま起きる)

*朝食は6時ごろ自分で作る。 (メニューは主にトースト、ハムエッグ、野菜ジュース、ヨーグルトで食器は自分で洗う。)

*朝の5時~9時は自分だけの貴重な時間帯なので映画やNHKの連ドラを観る。

*朝の9時~11時は朝チャンなどの報道番組(玉川が解説したりの)とNHKBSの国際報道(前日夜に予約)を観る。

*朝11時~50CC原付バイクで平塚駅周辺のレストラン(住居は茅ヶ崎と平塚の中間)に週末を除き毎週5日のペースで行く。

 (メニューは日本蕎麦、中華料理、韓国の家庭料理、イタリアン、寿司店、ハンバーグ、豚カツ店などで千円前後の予算)


食生活はとても大事に考えていてランチで色々な種類の好きなものを食べるが毎朝体重測定で基準の68キロを上回ると晩飯で調整する。

(これもオーバーすると野菜サラダ、魚中心にして炭水化物は摂らないが缶ビール1本と焼酎ダブルオンザロック1杯は必ず飲む習慣) さて皆さんはどうしていますか。



3.「毎日の日課はこんなに早く過ぎて行くけど他の人はどうなのかな?」


そのそもなぜ自分の日課の中に週末以外は外でランチの習慣が出来ているのだろうか。それはある時、現役時代の大先輩から

「河田君。君は退職して自宅にいる生活でまさか奥さんに毎日昼飯なんか作って貰ってないだろうね。それだと奥さんが一日の真ん中に家にいないといけないから動きが取れないよ、考えて上げたら。」に始まっている。以来60歳から71歳の今日に至るまで基本はこれを守るようにしている。

これには後日談があってアドバイスを貰って暫く経ってから「先輩は勿論外食ランチですよね。」「それは君、我が家の奥さんは料理好きなんで外食なんかしてないよ。」


ランチ後は腹ごなしに必ず散歩をしている。幸い茅ヶ崎は風光明媚な土地柄で自然に恵まれているので散歩のコースには事欠かない。

平塚方面だと相模川河畔の馬入橋にバイクを停めて平塚港を背にして山側に向かって半時間歩いて戻ってくる。この辺りの相模川の川幅は広く対岸まで100米は優にありそう。

以前北海道の十勝川を散歩した時にもその雄大な自然に圧倒されたがそれを連想させる。ここは対岸のコースもあり同じような景色が2回楽しめる。

茅ヶ崎コースだと茅ヶ崎海岸のサザンビーチにバイクを停めて江ノ島に向かって半時間歩き帰りは富士山を仰ぎながら戻るコースと浜見平から平塚港へ歩き戻る2コース、

バイクを使わない場合は自宅近くの小出川(相模川支流)を海側と山側に向かって半時間の2コースがある。これで飽きることなく毎週6コースを楽しめる。

皆さんの中には都会に住んでいる人達もいるので散歩のコースが限られて困っていないだろうか。その点茅ヶ崎は大変恵まれている。


さてここで前回に続いて午後からの過ごし方を整理してみたい。

*PM1時~4時 「アレクサ、ジャズにして」と言うとパイオニアのアンプ、DENONのスピーカーから流れてくる軽快なジャズを聴きながら読書。(茅ヶ崎図書館から借りた小説本、旅行記等)

*PM4時~5時 4時半まで風呂、以降はニュース番組

*PM5時~6時 パナソニック製の最近購入したマッサージ機(足裏ローラ付で息子から母へのプレゼント)以降はニュース番組

*PM6時~7時 6時半まで夕食 以降は録画した連ドラを観る。

*PM7時~7時半 NHKニュース

*PM7時半~9時 寝室に入り読書の続き

*PM9時~AM5時 爆睡中


何の変哲もない毎日の時間の過ごし方であるがとても早く快適に毎日は過ぎて行く。

毎日の日課とは別にこんな週の予定もある。

*毎日のラジオ体操第1をYouTubeで毎朝7時半ごろにやる。(こんな簡単な3分体操と思うなかれ、身体に少しでも異常があれば簡単には出来ない)

*(月)AM7時半~8時半の専任コーチによるテニス早朝レッスン(生徒は4,5人だが自分より上手いおばさんもいて大体が上級者、12月~2月は寒いので休み)

*(水)午後12時半~5時ごろまでマンションの集会所で麻雀教室(5,6人の昔の女子中心の固定メンバーで今はコロナで休み中)

*(木)平塚桃浜テニスコートでの毎週のテニスで8人固定。(AM11時ーPM1時の2H)

*(土)(日) マンションのテニス仲間と11時~1時の2時間、7人固定、冬季はコートが取れずに(土)又は(日)の1回が多い。


大体こんな処ですが結構毎日の生活は充実していて思いの外早く過ぎていきます。さて皆さんの毎日は如何でしょうか。



4.「60歳前に定年退職してからの仕事探しは大変だった。」


大学卒業後に”大手電機メーカー”に入社後30年間を主に海外営業畑にいて53歳で”自動車部品メーカー”に転職した。その転職自体は大変恵まれていたが海外営業部の責任者から途中で建機事業部の責任者に鞍替えして5年後にリーマンショックに襲われた。年間50億円の建機部門の売上げの70%ダウンが1年間続き赤字経営に耐え切れず会社の勧告に従い60歳の定年の半年前に早期退職した。(売上30%ダウンでも厳しいのに70%ダウンの1年は論外であった。)


退職後半年間は失業手当の給付を受けながらハローワークに職探しで通い始めた。さて60歳前後の職探しの如何に厳しく大変な事か、求人は極端に少なくその困難を極める経験は同世代では言を待たないと思われる。結局ハローワークから紹介されたのは60歳寸前の事もあり大手不動産会社の経営するマンションの管理人として1週間の東京本社での研修後に神奈川県平塚のマンションに着任した。


茅ヶ崎の自宅から原付バイクで10分前後の通勤時間であった。今まで自身が永い期間マンション暮らしだったので管理人は見ていたが具体的な仕事の内容を知るはずもなく現場に出て初めて経験する事柄の連続であった。

そこは世帯数が300を超える大規模マンションの事もあり正面玄関の他に裏門の出入口があり裏門玄関の管理人室の担当になった。このマンションは住民が出入りする時に自動扉が開きその音に気付いて顔を上げるがそれ迄は俯いて本を読むのも自由であった。ただそんな楽な時間が多くある訳ではなく大半は午前と午後の2回の建物全体の定期巡回、各施設の施錠と鍵束の管理、ペット可のマンションだったので清掃人が帰った後の階段でのペットの糞尿の処理もあった。住人の中には定年退職後に暇を持て余している人達もいて窓口での管理人との日常の会話を楽しむのを笑顔で相手するのも仕事の一つであった。それにも益して楽しかったのは子供たちの下校時に合わせて外に出て出迎えながらの会話であった。そんな平和な時間がずっと続いて行くはずもない。事件はそれから間もなくやって来た。



5.「そんなある日あの大地震は起こった。」


そんなある日の午後あの東北大地震は起こった。

偶々平塚のマンションの管理人として建物外の道路を巡回していた時に足元が大きく揺らぎ一人で立っているのが困難な程に大きく永く揺れ続けた。

エレベーターは停まったまま動かなくなり全館の廊下の照明灯も停電の為夜には建物全体が闇に包まれた。

階段と廊下の境目には倉庫にあるだけの懐中電灯をかき集めて点灯しそれでも足りない分は蠟燭を灯して帰宅する住民たちの足元を照らした。

その日本来は朝10時から夕方4時までの勤務時間だったが管理会社から夜中の12時迄残る様要請があり交代要員に引き継ぐ迄働いた。

住人に怪我はなく建物、施設にも大きな破損はなく後での点検では廊下の一部に罅が入っている程度で済んだのは幸いであった。


マンションの管理人の仕事はそのマンションの規模によって大きく異なり小規模であれば廊下、ごみ置き場などの共有部分の清掃業務があり大規模であれば専門の清掃業者が雇われるので建物全体の管理業務と住民対応が主体になるのであった。

その報酬というのも僅かなもので時給千円は良い方で自分の場合はその勤務時間に合わせて1日5時間、週に5日勤務で毎月10万円前後であっただろうか。

ただこの様な生活を1年近く続けた頃には(平塚には半年間いたが東北震災後バイクで30分近くかかる辻堂の大規模マンションに異動になった)流石にこれを今後も繰り返すのは耐え切れず早々に退職する事にして次の仕事を求めてハローワークに通い始めた。

その時に出会ったのが人材派遣会社の採用担当、派遣社員の労務管理であった。人生において無駄な仕事と経験というものはなくこのマンション管理人業務も今までは知り得なかった貴重な人生体験であった。



6.「派遣社員と正社員は天国と地獄の違い。」


それはハローワークに登録して人材派遣会社からの求人に応募し山本という担当者から直ぐに連絡があり面接になった。

「河田さんは今迄こういう人材派遣の仕事の経験はありますか、それとも初めてですか。仕事の内容は平塚に古くからある自動車部品メーカーの生産ラインに人を採用して送りその後の派遣社員の労務管理をお願いします。取りあえずは毎週(月)~(金)の朝8時~午後2時迄で(昼休みの1時間は時給のカウント外)1日5時間を5日間働いて貰い時給千円なので1か月として毎月10万円位が収入の目安となります。」「求められるワーカーのスペックは決して高いものではなくて今までに外の生産現場での経験があればあったに越したことはありませんが例えなくともその職場での教育期間があるので問題ありません。」「それに応募者の多くは中卒、高卒が殆どで中には稀に大卒の方もいますが決してそれで優遇されるというものではありません。見方を変えればその職場の正社員の方にとっては何で大卒がこんな所に来てこんな現場で仕事をするんだ、と敬遠されるか疎ましい目で見られることがあり多くがその待遇に不満で辞めて行きます。」


自分が60歳でこの派遣会社の仕事に関わり70歳で退職するまでの10年間に経験したのは「派遣社員物語」という小説になる位に所謂一般の正社員の待遇とはかけ離れた厳しいものであった。ただこの10年間程世の中の底辺で働く人達を見て派遣と正社員の間の乖離を思い知らされ自分に出来る事の限界に思い至る経験はなかった。

自分は所詮世の中のぬるま湯に浸って生きてきたのだ。だからこそ分かる彼らの辛さも厳しさもあるのかと。それを初めて経験したのは20歳後半の何も資格を持たない大久保尚

(仮名)という青年で履歴書にはxx中学卒としか書かれておらず「大久保さん、何で前の職場は1か月で辞めたのですか。正直なのは良いけどこれではどこにも採用されませんよ。」

仕方ないので本人に聞き取りながら2人による履歴書の書き直しの作業から始めた。 



7.「平塚に小さな事務所を構え派遣業務を開始する。」


ある日派遣会社の上司にあたる山本さんと平塚駅で待ち合わせて徒歩5分ほどの建物に入った。

「河田さん、ここがこれからあなたが仕事をする事務所です。少し狭いかも知れませんが仕事に必要なものは全て揃えてあります。」

そこは派遣会社が平塚駅近くに賃貸した3坪程のスモールオフィスで仮の平塚事務所とした。(小規模なので平塚仮事務所の名称)

ここは狭いながらも自分の城で小さな机の上にはデスクトップのパソコンと電話があり下にはFAXとスキャナー機能のついたプリンターがあった。

面接用には小さなテーブルと椅子が2つありコンパクトな書類棚の他には人一人が入るのが精一杯の狭いスペースであった。


そこから新しい仕事が始まったが毎朝地元の自動車部品工場の製造現場を訪問し自分が採用される前から既に働いている派遣社員の8時からの始業前に何か問題がないか、又工場の管理者に聞き取りを行い何かあれば解決を図る。その様な生産現場が何か所かあったが全体の2割程は派遣社員で占められていて時として欠員が生じる。その時に声が掛かり欠員を埋める為の依頼があるかが派遣会社の担当者の力量に依ることになる。

運よく依頼があれば①求人広告を媒体に出す。②派遣社員の採用面接をする。③応募者を引率して工場見学を行い本人の意思を確認する。④採用側の意思を確認する。⑤両者の意思が合った場合には採用になる。⑥勤務開始日を決め派遣会社への入社手続きをする。⑦派遣先の勤務開始日に職場に引率し管理者に引き渡す。➇数日間の職場研修を受け業務を開始する。⑨以降の労務管理を行う。

これが全ての始まりであり時としては終わりでもある。物事は決して予定通りに始まり終わる事はない。



8.「自分の人を見る目はとんだ自惚れと思い知らされる。」


一応大手と言われる電機メーカーに大卒後就職して53歳で転職し59歳半ばで退職する迄サラリーマンとして過ごしその内の後半は管理職としてマネージメントを経験したので派遣社員の採用、労務管理は何の問題もないと思っていた。”人を見る目は充分備わっているのでこれは定年退職後の天職だろう” という自信は転職後1か月で吹き飛んだ。


「渡辺さん、今日は入社手続きをするのでお願いした書類は全部持って来てくれましたか。」「はい、それでは一応確認しますね。まず自動車免許証、フォークリフト免許証、玉掛け免許証、銀行振込み依頼書、口座番号の掲載された銀行通帳、保険証、マイナンバーカード、年金手帳、秘密保持契約書、住居周辺の最寄駅までの略図です。コピーはこちらで今から取って原本をお返しますね。」

この作業に1時間程掛かるが「はい、今日はこれで結構です。一応手続きは全て完了したので明朝7時半に工場の正門でお待ちしています。作業服と帽子は明日お渡しますので宜しくお願いします。」


翌朝正面玄関に7時20分には着いて待機している。7時半は迫っているが来ない。7時半を過ぎてもその渡辺さん本人は待てど暮らせど来ないのである。

この時10分後には職場に引率する約束になっているので生産現場の責任者には如何なる言い訳も弁解も許されない。そこにあるのは絶望である。

その様な応募者の行動なり性格を見抜けなかった自分への情けなさと怒りである。

本人に来る気がないのだからいくら携帯に電話をしても留守電になっているかコール音が空しく鳴るだけで時間だけが経過して行く。

後で出来ることは職場の管理者に対して事情を説明し謝罪するのみである。

”人は信用できない。だけどそれが全てではない。これはごく例外である。”と自分に言い聞かせる。

それがこの10年間この仕事を続けられた理由でもある。概ね人は信用できるのである。



9.「派遣社員の為に自分は何が出来るのか。」


派遣会社での面接と労務管理としての仕事を始めた頃には今迄の管理者としての経験を生かして派遣先の会社の方針を伝達しそれに従う様に上位下達で伝える、その潤滑油になれば良いと考えていた。要は上から目線の仕事である。ただその方法では派遣社員からの信頼を得ることはおろか見透かされて単なるメッセンジャーとして見下される事になる。

単に収入を得る為のアルバイトと割り切ればそれでも良いのかも知れないがそれでは仕事として面白くない、続ける気持ちにもなれない。 

それである時から自分の気持ちと立ち位置を変えることにした。どう変えるかと言えばそれは自分が雇われている派遣会社でもなくそれを雇う派遣先の会社でもなく自分を派遣社員の立場に置き換えてみようと考えた。例えば採用面接の時に自分の裁量でコントロールできる項目はないか。時給は決められた条件で変更の仕様がないが交通費という項目は何か手を加える事によって派遣社員に還元出来るのではないか。


「堀本さん、今住んでいるアパートから工場までどうやって来るの。」「自転車ですけど。」「どれ位掛かるの。」「15分位です。」「もしバスを使うとどこのバス停から乗って平塚駅には何分位掛かるの。」答えは1駅で5分も掛からない。自宅から最寄駅の距離によりバス代を含めた交通費の有無は決まるが誰も細かくそれをチェックする必要はなく又誰にも余分な負担は掛からない。その結果派遣社員にとっては自転車通勤によりバス1駅分とは言え1か月の定期代相当の8千円近くの収入が得られるのである。


こうした考え方を基に派遣社員の立場で物事を考えると様々な改善策が浮かんでくる。それは派遣社員にも伝わり信頼関係にも繋がる。

いくつかの改善策の中には将来彼らが別の仕事に携わる時にも役立つであろうフォークリフト、玉掛け等の資格を取らせる方法があった。

それらの資格を持っていない派遣社員には派遣先の作業長に働き掛けてこの資格があれば仕事の範囲が広がりますよと勧める。

資格試験を受ける際の費用は派遣会社が負担するので後はその何日かの期間の時給を派遣先の工場負担にして貰う。

そんな事を出来る限り繰り返していたが例えその様な資格を得たとしても彼らの将来は厳しい。なぜならいつでも派遣先の会社都合により切られる可能性があるのだから。



10.「これでどうやって結婚し家庭が持てるのか。」


派遣社員が毎日仕事をする生産現場にもヒエラルキーはある。それは作業員、作業長、職長、係長、課長、工場長の構成だが職長が高卒の行き止まりで現場の責任者である。

大卒は作業員から経験を積み係長になり職長の一つ上に立つが作業スケジュールを組んだりマネージメントが主な仕事で職場によって実際の作業監督をやるのかは異なる。

課長職以上はマネージメントとしてノルマと闘いながら予算達成の責任を負う。平塚事業所には4つの工場があり各々独立した事業体で相互の行き来はない。ただ課長級になると

中国、東南アジアなどの海外工場への転勤が結構頻繁にある。無論作業長、職長には転勤はなくその工場内の部署異動に留まる。


毎日が平穏に過ぎて行く訳ではない。時には生産ラインが止まるような危機にも直面する。

「作業長、すみません。先程大久保から連絡がありまして母親の具合が急に悪くなりこれから病院に連れていくので今日は休ませて下さいとの事でした。」

「それは仕方ないね。こちらにも同じ連絡があって仕方ないのは分かるけどこちらも急に言われても仕事の段取りが付かないから困るんだよね。それに稀になら仕方ないけど結構

頻繁にあるからね。」「申し訳ありません。本人にも注意しておきますので。」大久保の母親は老齢施設の看護師で心臓疾患を持っているせいか朝方動けなくなる事が良くある。


又別の派遣社員からは「河田さん、今週も前借り宜しくお願いします。」毎月2回まで自分の働いた分を担保に1回2万円迄前借り申請が出来るルールがある。

但しこれを続けると際限なくいつか断ち切らないと蟻地獄に嵌まる事になる。この鈴本君は入社後数年になるが毎月同じことを繰り返していた。

ある日本社の事務の女性から「鈴本さんの給与を差し止める様平塚市役所から連絡がありました。何でも一昨年の地方税が未納入なので全額回収するまで給与の差し止処分にするとの事でした」早速本人に「鈴本さん、本社からこんな連絡があったけどこれ本当に払ってないの。」「すいません、当時は失業中だったので払えませんでした。」

「どうするの。これじゃ生活できなくなるよ。市役所の租税課の担当者と掛け合って分割にして貰うか延期にして貰うか交渉してみたらどう。」「分かりました。明日半休貰って市役所に行って来ます。」鈴本君は担当者と交渉し結果的に1か月の支払い延期と6か月の分割払いにして貰い何とか苦境を乗り切った。前借を続けたのは当然だったが。


彼らの毎月の給与は時給1200円前後で税金その他諸々を引かれると手取り20万そこそこで残業を30時間やっても25万になるかどうかのレベルなのだ。

これでは結婚はおろか家庭を持つ事を夢見るのは無理というものだろう。稀に派遣社員から雇先工場の期間社員になり運が良ければそのまま正社員に登用されるケースもあった。

派遣会社の立場で派遣先の会社に正社員に持って行かれると収入源がなくなり本来は困るのだがそんなことは言っていられない。こんなチャンスは派遣社員には滅多にないのだから。

ただ鈴本君は勤務態度が真面目で仕事の習熟度も高く一時は職長から正社員にしたいとの話もあったが過去に一度破産手続きをしていてそれがネックで流れてしまった。

これが概ね今の派遣社員の実情である。何とかならないものなのか!



11.「これが本当の派遣社員残酷物語」


この派遣社員の話を締めるに当たって自分の雇い主の会社の上司である山本さんから以下の顛末を聞かされた。私自身も70歳の誕生日を迎えるので定年退職者として3か月後には退職を勧告されていた。ただその頃には全盛期には15人いた派遣社員は10人へそして退職時には5人にまで減って行ったが。それは辞めて暫くして山本さんからの連絡であった。


「河田さんが退職後に5人いた派遣社員は結局1人の女性社員を残して全員退職になりました。理由はこのコロナの影響で得意先からの注文が激減してその結果正社員の雇用が優先され派遣社員の方々は原則退職になりました。大久保も鈴本も堀本も別の生産ラインに前からいた1人も同様です。唯一この女性社員だけは生産ラインではなく管理部門の輸出入課で英語が必要だったので対象外になりました。」この女性は数年前に英語の堪能な輸出入業務の分かる条件の求人があり自分が面接して採用したので良く覚えている。その時給も破格で通常の派遣社員の2倍はあった。

「かく言う私自身も今月でこの人材派遣会社の退職が決まりました。今までお世話になりました。」


このコロナ下で自分が担当している派遣社員が次々に引き上げられていくので会社としてもその収入源が失われ社員の雇用自体が困難になって来たようだ。

山本さんは奥さんが看護師で共稼ぎではあるが中学生と今年公立大学への進学が決まった息子が2人いてこれから先の事を考えると50歳半ばの年齢もあり早い再就職を祈るばかりである。

もう一つの救いは山本さんが退職する前に今まで働いていた4人の次の転職先を見付けて引き継いだ事であり、不満はあるにせよ失業状態からは脱していたのであった。

彼らは今まで経験したことのない更に厳しい世界、仕事に転職して行き(今までの大手メーカーから零細企業へ)特に大久保、堀本、鈴本の3人は自分が面接し採用した仲間でありその成功を祈るしかない。この数年の間にコロナという特別な役災があったにせよ解雇され各々別の職場に散って行った。



12.「60歳からスタートしたもう一つの仕事」


毎年9月の末にその電話は掛かって来る。「ご無沙汰しています。藤沢の杉野です。今年も例年通り10月から宜しくお願いします。」

60歳から始めた人材派遣会社の仕事の他にもう一つハローワークからの求人に応募して採用された。一つでも多くの仕事をしよう、働かざる者食うべからずである。

曰く「英会話講師求む。他に顧客開拓の営業の出来る人材」それは藤沢市内にある小規模な英会話スクールで首都圏在住の外国人(主にアメリカ人、イギリス人、東南アジア系、日本人)

と講師派遣契約を結んでいて彼らの為に派遣先を探す仕事であった。主なコンタクト先は首都圏の専門学校、私立中高校、私立幼稚園で会社支給の携帯電話を使って既に手元にあるリストを元に一軒ずつ連絡していくのであった。このリストの作成も仕事の一つでネット情報から例えば”東京都私立専門学校”と入力し学校名、住所、電話番号をプリントアウトしリスト化する。

「恐れ入ります。こちらは藤沢にある英会話スクールの河田と申します。お世話になります。私共外国人の英語講師の派遣をしておりまして御校で何かお役にたてないかと思い電話しました。」

その口上が上の通りだが100軒~200軒に電話してその中で1軒興味を示し話を聞いて貰えるのが精々であった。

拘束時間は1日5時間と決めて4時間は電話を掛け続けるが1日120軒程度が限界であった。後の1時間は杉野校長宛ての日報の作成に充てた。


いつもなら何人かの取次を経て担当者に辿り着くがそのやり取りは概ね以下の様である。

「内は既に他の会社から外国人の講師に来て貰っています。アメリカ人の先生でもう10年位になり替えるつもりはありません。」

幼稚園では「内は日本語教育に力を入れていて他にも習い事が沢山あるので結構です。」 これを毎日繰り返すのは無理があり毎週2回の1時~5時と決めていた。

この仕事は場所を選ばず派遣会社勤務の時には平塚事務所からの時もあり、帰宅後自宅からも多かった。時給は決まっていて相場の千円で毎月4万円程、他には成約した場合には

成功報酬として1万円が支給された。これは季節労働的な仕事で10月の1週目から12月のクリスマス前の3か月であった。コロナ前だと多くて5,6軒の成約があったが今の期間では良くても2,3軒で悪ければゼロの年もあった。



13.「子供たちの英語はいつからスタートすれば良いのか。」


1日120軒、日によっては断られ続ける訳でその次も何の成果も得られないのは日常茶飯事でどのようにモチベーションを保つかが大きな課題だった。それでも200軒に1軒は話を聞いて貰え相手が幼稚園の園長の場合にはこんなやり取りになった。


園長:「幼稚園児に英語教えても覚えられないでしょう。」

答え:「はい、そうです。1年や2年で英語がペラペラ話せるようになる訳ではありません。ただアメリカ人、イギリス人の先生の生の発音に触れる事は出来ます。幼児の耳は敏感です。英語の入り口に入れます。」

園長:「どういう先生がいるの、アメリカ人、イギリス人?女の先生、それとも男?」

答え:「どういう先生がご希望なのか、そういう先生を選んで送ります。」

園長:「どんな教え方をするの。」

答え:「それは年小、年中、年長によって違います。どんな教え方をしたいのか内容を相談しながら決めて行きます。幼児対象なら音楽や遊びから入って行きます。もしご興味があれば実際に先生が教えている現場にお連れすることも出来ます。」

ここまで来れば先が見えてくる。

園長:「お宅より大手の英会話の学校があるけどどこが違うの。」

答え:「はい、内より大きな会社は沢山あります。ただ彼らは紋切り型の金太郎飴のように決められたことをマニュアル通りの教え方です。内の場合は授業の内容を園長先生と相談しながら手作りで決めて行きます。」

園長:「費用はどれ位掛かるのかな。」

答え:「費用は1時間で消費税別で12,000円です。ただこの1時間を年小、年中、年長の3コマに分ける事は出来ます。」 


これらの質問に一つずつ丁寧に答えていく。一つでも納得されなければ会話は終わり電話は切れてしまう。研ぎ澄まされた遣り取りの中で相手の関心を把んでいく面白さがある。

これは釣り人が糸を垂らして魚を釣り上げるのと似ているのかも知れない。焦ってはいけない。じっくりと引きを待つのである。


コロナ前にはそれでも多い時には1シーズンで5,6軒の成約があった。少ないときでもその半数はあったのでモチベーションの維持は出来ていた。ところがこの2年間のコロナになってからは対面授業がなくなりリモート中心になり英語教育の優先順位も必ずしも確保されないので講師そのものの需要が停滞して行った。この辺の事情は専門学校、私立中高校も同じであった。

そうは言ってもコロナはいつかは収束する。その時に備えて今出来る事はしておかないと将来に禍根を残す。備えあれば憂いなし。


この仕事を通じて常日頃思うのは日本人の英語力は世界のレベルに東南アジアの中でさえ遠く及ばない!読み書きも心許ないが会話に至っては一部の人達を除いて低レベルである。

それには幼少期に耳から入り小、中、高で深めていくしかない。言語はそれを習得する為の学習時間に比例しているのだから。それが証拠に時間さえあれば幼児はそれが何語であれ

話せるようになる。 



14.「これからも楽しい事は何でもやろう。」


この手記もそろそろ終わりに近づいてきた。それで最近気になっている事を記しておきたい。若い頃とこの人生の終焉を迎えつつある今時の思いの一つに物の価値観の違いがある。

身に付ける服装、乗る車、住居等若い頃にはその目的さえ達せられれば余り気にならない事柄が年齢が重なるにつれてその価値観が異なるような。


今から思い起こすとそれはとても若い頃、それも結婚して間もない頃、福岡の義父の家に正月に帰省し皆で天神町の大手デパートの岩田屋に買い物に行き「河田君、男は身の回りの物、特に身に付ける物にはこれから気を配らなければいけないよ。」と店内の靴店に連れて行かれSWISS BALLYの靴を1足買ってくれた。その靴の何と履き心地の良かった事か、今迄は靴は履ければ良いと考えていたのがそこで人生観が変わり全く別の物の価値観を教えて貰った。SWISS BALLYは当時の自分の月給の半額はする高級品であった。ただその1足の靴によって服は着れれば良い、車は走れば良いの人生観が一変した。良いものはとてつもなく良い。但しその品質に見合った対価を払う必要がある事が分かった。

以来少しずつ収入が上がるにつれてそのスタンダードが変わって行った。スーツはコナカの3万円から横浜高島屋のバーゲンを待って求めるイギリスのアクアスキュータム、フランスのダーバンの良さが分かるようになった。その仕立ての良い服を身に纏うことによって生まれる自分への自信もその効用かと思われる。腕時計はセイコーからオメガになり車もホンダのアコードワゴンからBM325iに代わり今は環境に優しいトヨタのハイブッリド車CHRに乗っているが。但しこれらは30代、40代、50代と永い時間を掛けての少しずつの変化であった。


さて71歳を過ぎて今現在の物に対する拘りと言えばリビングにある49インチの液晶TVをいつ65インチの有機TVに替えるかである。但しどこのメーカーでも良いという訳ではなく高級品好みのアメリカ人が車はベンツ、TVはソニーに拘ってきたようにソニーの65インチ有機TVにしたいが高額過ぎて手が出ない。その内に液晶並みに価格が下がるのを待っている。

なぜ有機に拘るかは理由があって最近液晶から有機に替えた友人が「映画を観るなら絶対に有機が良い。黒のシャープさと画面のコントラストが全然違う。どうせ観れても後10年だろ。多少高くてもこれにしろ。」と言われたのが強く印象に残っている。

それは時期を見ていずれ替える事にして映画好きのこの友人に最近3か月間にどんな映画を観ていたかを送ったリストがある。もしかして皆さんの好きな映画と重なるものがあるかも知れないので一応記しておきたいと思う。

シンドラのリスト(第2次大戦でのユダヤ人迫害の戦争映画)、どら平太(役所広司)、グリーンカード(黒人の差別が主題)、ファイアーフォックス(クリンストイーストウッド)、クリムゾンリバー(ジャン・レノ)ゴッドファーザー(マーロンブランド、アルパッチーノ)、ブロークンアロー(ジョントラボルタ)、ブリッジオブスパイ(トムハンクス)、プライベートライアン(トムハンクス)。ブラックスアン(ナタリーポートマン)、羊たちの沈黙ジョディフォスター、アイアムサム(ジョン・ベン)、ジェイシージェイムズの暗殺ブラッドピットブラックホークダウン(友人からの推薦でソマリア戦争での実話、迫力満点)


還暦を過ぎてこの10年余り、何を考えながらどう過ごしてきたかを思い付くままにこの14話迄記してみました。(熟年から老年時代、了)



~壮年時代(30歳~60歳)~


15.壮年時代に思う事


本来であれば還暦前に定年退職し70歳を過ぎる迄の10年余りを回顧した後には壮年時代(30歳~60歳)を振り返るのが筋だと思う。

ただその時期を振り返ってみた時に書いてみたい内容がないのである。別にその時期に中身のないスカスカの人生を送ったつもりはなく人並みに充実した期間を過ごして来たと思っている。

それなのになぜ他人に語るべきものがないのか、自問してみた。それは余りにごく普通の恵まれたサラリーマン生活を送ってきた為に他人がそれを知って何らかの興味なり関心を示すとは思えないのである。人は他人の人生、生き方を見てその悪戦苦闘ぶりに関心を持ち、感動し、拍手喝采しもっと知りたいと思うはずである。何も他人の幸福物語を知りたいのではない。昔、ごく親しい友人と酒場で飲んでいて「もし君がこれから家族の幸福物語を聞かせようというなら僕は聞きたくないからもう帰る。」と言われた事がある。これをもって人生の教訓とした次第である。

その意味でこの期間は語るべき物語はなく中抜きにはなるが因みに恵まれたサラリーマン生活の一端とは以下のようであった。(一体こういう物語を聞きたいと思うであろうか。)


(1)30-40歳 ヨーロッパ(オランダ)赴任時代(3年間)

(2)40-50歳 韓国ソウル赴任時代(3年間)

(3)50-60歳 転職時代(53歳~59歳の6年間)


但し恵まれなかった時代もその中には含まれていて最後の転職時代は50台に入りご多分に漏れずサラリーマンの終着駅として通常コースを外れた者たちが味わう出向、転籍等のリストラが待っていた。53歳の時にその洗礼を受けたのだが唯一の救いはただ外に放り出されるのではなく会社による手厚い保護が加わるのであった。一つには早期退職優遇制度という退職金の加算があり、加えて会社が次の就職先を紹介してくれた。当然自分で面接を受けて採用されれば転職になる訳だがこの道も険しく転職組の半数近くは3年以内には退職し次の仕事を探すことになる。


さて壮年時代は上述の次第であるが青春時代はその限りではない。70歳を過ぎてその青春時代を振り返るのは何か気恥ずかしくもあり少年時代に胸をときめかせながら読んだ森鴎外の”イタ・セクスアリス”を思い起こさせる物語が数多く詰まっている。これには青春時代の甘酸っぱい物語も世間の常識を知らない為に引き起こした数々の人生の失敗談もあり皆さん方が過ごした青春時代に重ね合わせて読んで貰えれば様々な思い出が想起されるのではないだろうか。それでは高校入試を控えた10台の後半から入社後の米国研修時代の20台後半までの物語を始めてみたいと思う。

(尚ここに登場する人物名については仮名にしたのでご容赦願いたい。)


~青年時代(18歳~30歳)~


16.大学は男の金看板


大学受験の年齢になった。男にとって大学は生涯の金看板である。都内の豊島区にある2流の公立高校生としては根拠のない自信家で悪くても今でいうMARCH位は簡単に受かると考えていた。現役時は慶応経済、早稲田商学、明治商学を受験し全て落ちた。学部選択の根拠は好きな小説、文学では飯が食えないと本能的に分かっていたのでそれなら出版社や新聞記者の文芸担当という知恵もなく、文学部卒では小中の教師位でその重責を担う意欲も関心もなかった。何となくその時に憧れていたのは[海外]という二文字だった。外交官になりたい。それには登竜門である東大法学部、教養学部、悪くても東京外語大英文科には入りたいが難関であり自分にはとても望み得ない選択肢であった。それなら経済の外交官として民間の商社マンならどうかと考え、上記大学を受験し失敗した。一浪時代は新大久保の新宿予備校に通った。当時は西武池袋線の池袋から2駅目の東長崎の借家に家族と住んでいた。家業は父親の営む剣道具の製造、修理業であった。新宿予備校にしたのはまずは駿台予備校の入学試験に落ち、無試験で入学出来て好きな新宿経由で帰れる事であった。


その頃はナンパの面白さにはまっていて必ず歌舞伎町近辺で女子に声を掛けるのを日課にしていた。10人の若い娘に声を掛けると1人位は喫茶店について来て身分を大学生と偽って口説いていた。その中に神戸出身の参宮橋に住んでいる外人との既婚者がいた。要は金持ちのおばちゃんで毎週のように金曜の夜に歌舞伎町のホテルに泊まり土曜日の朝帰りを繰り返していた。この状況なので一浪時は初めから国立は諦めて私立3科目に絞るしかなく英語、国語はある程度出来ていたので社会は日本史に絞り初めからやり直した。これで 明治、立教が滑り止めとはあり得ない選択であったが今から振り返るとただただ無謀でありラッキーだったとしか言い様がない。当時一浪後に受験したのは慶応法学部、早稲田商学部、上智文学部新聞学科、明治商学部、立教経営学部であるが明治と立教以外は全て落ちた。実家から自転車で10分程の距離に立教大学があり赤煉瓦の蔦のはう西洋風の校舎にも強く心を惹かれたが余りに近すぎるのと卒業生が少ないので悩んだ末に明治を選択した。卒業して既に50年近くになるがこの大学と学部の難易度は殆ど変わらないと思われる。早稲田、慶応は当時からも頭抜けて難しかった。男の大学の金看板は自分の場合は明治商学部だったがその後どれだけこの看板に助けられたかは言を待たない。



17.大学生活、男の1人暮しは早い程良い。


晴れて明治大学商学部に入学し、京王線明大前に通う学生生活が始まった。当時は1年次と2年次の学生は教養課程として明大前にある和泉校舎に通い3年次からお茶の水の駿河台校舎に通学することになっていた。校舎も今の様な現代的な高層ビルではなく昔の情緒漂う広島の原爆ドームを思わせる古色蒼然とした建物であった。和泉校舎は郊外に建てた大学らしく広い敷地に緑豊かな環境にあり真新しい校舎もこれからの大学生活に夢を持たせてくれた。大学と言えばサークル活動も盛んで多くの勧誘がある中で社交ダンスクラブに関心を持った。これも発想は女子に持てたいという動機からなのだが入会して1か月も経たないうちにその練習量の多く内容の厳しい事は予想を遥かに超え体操の運動部と変わらない事に怖れをなして早々に退会した。さて自分が所属するクラスは50人前後で編成されていて女子は当初は3人程いたが1人、2人と段々消えていき最後には誰もいなくなった。席順は入試の成績順で決められているらしく自分に与えられた席次は33番であった。商学部は1200人前後の入学者がいたので1クラス50人として24クラスになるが同じクラスのメンバーとの授業は語学くらいだった。入学してからも自宅の東長崎から明大前 迄は池袋、新宿経由になるので授業が終わると必ず新宿駅下車でナンパは続けていた。もっとも登校するのは週に何回かの限られた出席を取るフランス語、英語の語学の授業位でマンモス教室で行うマイク片手の授業はボイコットし自宅での剣道具修理、製造の家業のアルバイトに勤しんでいた。2年目からは自宅から歩いて数分のアパートで1人暮しを始め親からの干渉を避けて気ままな学生生活を楽しんでいた。この頃は近所の幼友達や大学の学生仲間とアパートで朝まで徹夜麻雀をしたり、ナンパで知り合った女子を泊めたりと勝手気ままな生活ぶりであった。そんな時に超有名女優に声を掛けた!



18.超有名女優の卵に声を掛けた。


この頃いつもの様に明大前から西武池袋線の始発池袋駅に夕方頃に戻って発車時間を待っていると目の前の座席に目を見張るような美人が座っていた。身長までは分からなかったが全体に細身の身体つきで顔は小さく細長い瓜実型で黒目がちの大きな瞳が異様に光っている様に見えた。こちらを見てくれないかと目の合う瞬間を期待したが俯き加減でそれでも世の中にこんな美人がいるのかと感動した。やがて電車は動き出したが夕方のせいか乗客もまばらで2つ目の降車駅でもある東長崎に着いた時に何とその美女も下車したではないか。ここでやり過ごしては男がすたる。勇気を振り絞りバクバク波打つ心臓の鼓動を抑えながら後ろから「失礼ですが本当にお綺麗な方ですね。もしお時間があればお茶でも如何でしょうか。」「余り時間はありませんが少しで良ければ大丈夫です。」天にも上る気持ちであったがその後の彼女との30分程の喫茶店でのやり取りは生涯忘れられないものとなった。相手は当時「聖獣学校」の映画に主演していた滝川由美だったが恐らく自分が世の中でどれ位知られているのかその認知度を計りたいとの目的ではなかったのか。次のデートを申し込むと「母がとても厳しいので無理です。マネージャーを通じてからにしてください。」と体良く断られた。その時にはこの女優がどれ位有名なのかの知名度は良く分からずにアパートに帰宅後に隣室のバーテンダーの西さんに「今日電車の中で見た滝川由美という女優に声を掛けて喫茶店でお茶をしたんだけどこの女優知ってますか。」と聞いたら「それは今デビューしたての結構話題になっている女優だよ。凄いな、そんな相手をナンパしたのか。」と言われた。この女優はその後多くの映画の主演女優として活躍しお茶の間のテレビドラマを賑わし大女優になった。当時しがない市井の大学生が後に大女優になる卵時代に半時間程2人だけのお茶の時間を持ったというだけの話だがそれでもこれは青春時代の想い出としてはほろ苦く充分に大きなハプニングであった。もしも相手に1ファンとして昔こんな事がありましたねと聞く機会があったとしても覚えてはいない事だろう。こちらには強烈な思い出になっているのだが。



19.なぜナンパをするのか、その極意とは。


それは女子に持てたいからに他ならない。

中学、高校時代に親しんだ小説などの読書量は大学入学後は目に見えて減ったが特に日本文学への関心は持ち続けていた。学生時代に新宿、池袋で学校帰りにしていたナンパは益々面白くなり10人、20人の好みの相手だけに絞って声を掛けても必ず1人、2人と喫茶店に付き合う相手がいるので止められなくなった。このナンパについては当節の好きな流行作家の石田衣良がその作品の「スィングアウトブラザーズ」に詳しい。大学卒業後10年経った冴えない、女に持てない3人の男たちを持てる男に変える為の改造講座が小説のモチーフになっているがその中のナンパ術の何と真に迫って面白い事か。当時を思いだしながらその通りだ、これなら上手く行くと拍手喝采していた。例えば声を掛ける位置は斜め後ろからで決して大きな声で相手を脅かさないように振り向かせる。笑顔を絶やさず「綺麗な方ですね」と相手を誉める「もしお時間があればお茶でも如何でしょうか。」相手と喫茶店で向き合ってからが本当の勝負で自分には多少の教養があり話題が豊富で相手を飽きさせない、面白い人との印象を与える。ここでも明治大学の看板は大いに役立ったと言える。


喫茶店、食事代を含めて決して相手には払わせない。割り勘は論外。自分には自信を持ち続ける事。自分より持てる男など存在しない位に。20人に声を掛けても駄目な時はダメ。何も起きない。それでも続けると自己嫌悪に陥るのでその前に切り上げる。喫茶店での相手との会話には教養が求められるが中、高校時代に読んだ文豪たちの何と役に立ったことか、漱石、鴎外、芥川、藤村、太宰、谷崎、荷風、三島由紀夫と綺羅星の如く。人生、無駄なことなど何もない。


ナンパと言えばほろ苦い経験もあった。むしろ危険と隣り合わせのような出来事も。それは池袋駅東口にある小さな公園での出来事だった。公園のベンチに佇んでいる学生風のうら若い女子に何をしているのと声を掛けると近くの物陰から雪駄せったを履いた地場のヤクザと思しき人相の悪い男がいきなり現れて「兄ちゃん、ここで何してるんや!俺の縄張りで何さらしてるんや!」とどすの効いた声で怒鳴られたのでその場から逃げ出そうとすると血相を変えて追い掛けて来た。ここでもし捕まれば殴られどやされる事は分かっていたのでこちらも必死で逃げた。こちらは革靴、相手は雪駄で逃足の速さでは引けを取らず勝負にはならなかったが。それ以来ヤクザには気を付けるようになった。「三十六計逃げるに如かず」である。



20.女に騙されて男は成長する。


大学生3年次のある週末、新宿駅東口の舗道で夜の10時過ぎにナンパに疲れ果て帰ろうとしていた矢先に俯き加減に歩いてくるミニスカートの若い女に目が止まり声を掛けたら素直に喫茶店に付いて来た。黒革のミニスカートに黒色のストッキング、赤いスエードの長袖セーター、背丈は中肉中背で顔は小さく眉毛はあくまでも濃く、髪も豊かで黒色だった。マキという沖縄出身の女で和風の接客店での仕事帰りであった。

「これから東長崎近くのアパートに帰るところだけど良かったら来る。」「私、今働いているお店の会社の寮にいるんだけど近々出なければいけなくてこれから住む部屋を探すところなの。」その時には既にクリーニング店の2階にアパートを借りていたので喫茶店での会話を経て部屋に誘いそのまま帰らずにいつく形になった。これが同棲生活の始まりになった。このマキという女は自由気ままな性格でそれ以降どれだけ振り回される事になったことか。それでも住むに当たっては部屋代の半分は出したいと申し出があったのでそれは有難く乗ることにした。

彼女は夕方からの出勤でこちらは昼間は学生生活で授業のない日は実家での家業を手伝いながらのアルバイトをしていたので接点は彼女の帰宅後の深夜12時過ぎと翌朝の遅い目覚め以降ですれ違い気味の短い時間でしかなかった。


同棲して3か月ほど経った夏のある日、突然海に行きたいと言い出したので千葉県の館山海水浴場に行くことになった。ビーチに着くと浮き輪代わりに横長のビーチマットを借りて沖へ向かって2人で脚をばたつかせながら漕ぎ出した。マキは沖縄出身というのに全く泳げない事を隠していたがこのビーチマットに突然穴が空いたのか見る間に萎んで行き溺れる者の苦しさで首に手を巻かれ身体ごと預けられるままに水を飲みながら沈んで行った。

もうダメだと諦めかけた矢先に溺れる2人を見付けたのか、さっと身体の横に救命ボートが滑り込み男たちの手で救い上げて貰い一命を取り留めた。

正に九死に一生を得たとはこの事でこれがなければ翌朝の新聞に小さな死亡記事に載るところであった。”千葉の館山で大学生が女友達と2人で溺死”

後から思うとこの時マキという女は既に他にいた恋人の子供を妊娠して産める目途もなくわざとビーチマットの栓を抜いたのではないかとの疑念に取り付かれた。それを証明するかのようにその事があって暫くしてマキは小さな荷物を持っていなくなった。


その後マキの失踪から数か月が経ち忘れた頃に身分を明かさない高齢の婦人がアパートを訪ねてきた。

「マキさんは赤ちゃんを産んで1人で施設に保護されています。それで出来れば又あなたと暮らしたいと言っています。」

当時は大学3年生で自分の子供の様な曖昧な言い方をされ、そう思い込んだので観念して母親と子供の面倒をみる為に退学して仕事を探そうかと考え始めた。

その婦人は暫くしてから又アパートを訪ねて来た。「実は赤ちゃんはあなたの子供ではなく別の人の子供であり事情があって育てられないので他所に養子に出しました。今は身一つになりそれでも良ければあなたと又暮らしたいと言っています。」

その意味するところは出会った時には既に他の男の子供を妊娠していて出産までのある期間だけ緊急避難の為に同居していた事になる。流石に馬鹿にされた気持ちになり訪ねてきた婦人にはその申し出を断る様に依頼した。こちらにも若気の至りで落ち度はあったにせよそこまでの義理や責任はないと思った。情にほだされてはいけない。これは自分にとって将来危険な相手になる。それからは声を掛けて部屋に連れてきても同棲する気持ちはなくなった。恋愛をするなら質の良い相手を選んで中身のある普通の恋愛をしようと切り替える事にした。それにしても女は怖い!こうして騙されながら男は成長し打たれ強くなっていくのだ。以来少々の事では動じないようになった。



21.大学卒業に向けて


大学時代はスポーツに打ち込んだ訳でもなく何か特別なサークル活動に夢中になった経験もなく、何となく単位に必要な授業を受けながらアパートと実家での家業の剣道具の製造のアルバイト、大学の3か所を行ったり来たりしていた。ダンス同好会はスポーツ系の激しさがあり早々に退会したが3年次からはゼミへの入部が就職活動にも有利になるため必修と考えていた。授業の中で関心があったのが①経済学原論:ポール・サムエルソン(経済学入門書のバイブルとして何度も読み返した)②マーケッティング論:三上富三郎(当時のマーケッティング論の代表者で看板教授)③保守と革新の日本的構造:伊東光晴(東京外語大教授で政治学に関心を持ったきっかけになった本)。この中で就職活動を意識した時に一番役に立ちそうなマーケティング論を選ぶことにして三上ゼミへ入部の申し込みをしたが希望者多数のため面接試験が行われた。部屋に入ると応募者用の椅子が一つ置いてあり正面の机には3人のゼミ運営担当者らしい学生が座っていて早速質問された。なぜマーケッティングを希望するか等のいくつかの質問の中で印象的だったのは「あなたの好きな言葉はなんですか。」「え、考えた事もないですがあえて言えば”美”ですかね。それと”遊び心”でしょうか。」何でこんな事を聞くのか、この答えで合否を決めるのかしら。結果は不合格であった。 


これで就職活動を諦めては元も子もないので気を取り直して次の目標設定に切り替えた。折角商学部に入ったのだから皆が一度は考える公認会計士に挑戦してみよう。それに必要なのはまずは会計学だ。そこで会計学ゼミに応募したがここは希望者が少なく応募者全員が入部する事が出来た。夢は公認会計士だったがこれも受験科目が多岐に及びその難易度も半端なく高い事が分かるにつれその入口で早々に挫折した。結局2年間の会計学ゼミの中で会計学そのものが好きになれなかったが就職活動には大いに役に立ったと思われる。「ゼミで会計学を専攻していました。」と言うと相手はこいつは経理に使えるかなと考え少なくとも入社選考試験の入口には立てたのである。これを元に就職活動に入る事が出来た。



22.就職活動。[夢は海外で仕事をする事]


その頃は未だ今日の様な学生の為のエントリー制度もなく就職活動と言っても具体的に何をすれば良いのか分からなかった。

仕事で何をしたいという明確なビジョンはなかった。ただ学生時代から抱いていたイメージとして何をではなくどこでには[海外]があった。まず商社を志望したが当時は指定校制度があり私立では早慶迄で大手商社は明治は指定校外であった。駄目元で丸紅に会社訪問し人事担当者が会ってくれたが「これからはどういう会社が伸びると思いますか。」と聞かれて「これからは自分の力で物を造り自分の力で売る会社が伸びると思います」と答えた。商社でこの答えは完全にアウトであり「それなら松下電器とかソニーのような会社に行かれたら如何ですか。」この一言で電気メーカーを受ける事にした。他には富士ゼロックスを会社訪問したが内定の可能性はあったものの半年間の新人研修があり千葉の研修所に缶詰めになると聞き恐れをなした。女に持てたいという単純な動機から資生堂を会社訪問したが指定校制度外で圏外、カネボウ化粧品は経理ならと言われたが不向きなので辞退した。


そこで推薦された電気メーカーに行ったが初めの人事担当者との遣り取りでは「どんな仕事をしたいとか具体的な希望はありますか。」それに対しては「海外で営業の仕事をしたいです。」「それでは外国人と仕事上で例えば英語で喧嘩が出来ますか。」「いえ、日常会話程度しか出来ません」これには理由があって担当者曰く「海外との仕事をするには海外企業との交渉、契約の纏めもあり日本語と同等の語学力を求められます。」そこで外人と仕事上英語で喧嘩が出来るかの質問になる。当時このレベルに応えられるのは帰国子女か、大学ではICU、東京外大、上智大外国語学部、青山学院大位で早慶を含めたMARCHの文系経済学部、商学部のレベルではなかった。その後の人事担当者との遣り取りでは営業をやりたいのなら国内営業からスタートしてはどうか、になり国内営業部門の人事担当者との面接になったが「あなたはこの学業成績では学生時代一体何をしていたのですか。」「家業が剣道具の製造をしていたので時間があればアルバイトしながら手伝っていました。将来学者になる積りもなく仕事なら誰にも負けない自信があります。」なぜか根拠のない自信だけはあったので面接に臆する事はなかった。この電気メーカーは海外にも強く当時から学生に人気があり狭き門であった。


ある日実家の郵便受に薄鼠色の小さな封筒が届いて開封してみると内定通知であった。あの時の嬉しさは他に例えようもない。採用後の研修時に人事担当者から言われたのは応募者は国内部門だけで数千人いて合格者は20人弱だった。同期生の出身大学もバラバラで一橋、早慶、理科大、立教、明治、國學院、日大、神戸大、関西大、等で単に有名大学だけでなく様々な大学、学部から人物本位で採用していると思った。学力優秀よりも仕事の出来そうな面白い、根性、忍耐力があり逆境に強そうな学生が多いというのが同期の印象としてあった。学力だけで採用するなら東大と早慶からだけ採用すれば良いが人事は決してそのような採用の仕方はしない。無事に何とか就職は出来たものの夢は海外で仕事をすることでありこれから先は国内勤務でどうなって行くのだろうか。



23.初めての赴任地(福岡)


初めての赴任先は福岡だった。半年間の新人研修後の辞令式で18人の新人社員が全国に散って行く。多くは東京本社の営業部勤務だが中にはいきなり地方勤務者も出てくる。「福岡支店に出向を命じる」が自分への辞令であった。東京しか知らない自分がなぜいきなり九州の福岡くんだり迄転勤しなければならないのか。見知らぬ土地での新たに生活に対する不安と戸惑いがある中でまずは行くしかない、やるしかない、多分何とかなるがスタートだった。着任早々不動産屋廻りをしていくつかの物件の中から通勤にも便利そうな博多駅南にあるガソリンスタンドの敷地の隣にある10階建てのマンションの2DKの部屋に引っ越した。


家財道具とて何もなくベッド、ソファーの大きな家具はこちらで買い揃えたが唯一東京から父親に買って貰った日産スカイライン1600GLという当時のケンメリの派生モデルを幼馴染に頼み船で運び込んだ。マンション下のガソリンスタンドの駐車場を借りて車通勤で2年半を過ごした。この車は大変気に入っていたし役にも立ち週末のデート等では随分活躍してくれた。地方での1人暮しは心もとなく夜になると灯りの灯らないアパートのドアを開ける時の寂しさは例えようもなかった。ただそれはいつの間にか慣れてくるもので人は皆孤独な生き物だと覚悟すれば不安はなくなり居心地の良さに変える事が出来る。益して福岡は小都市で人情味に溢れ魚も新鮮で美人の産地でもあった。この小都市の住み心地の良さは着任後の生活の中で徐々に分かっていった。赴任後の会社の事務所は天神町の岩田屋前の大通りを博多港に向かって暫く歩くとダイエイショッパーズのはす向かいにあった。6階建てのテナントビルで事務所から徒歩10分程の博多港の駐車場を借りて通勤生活を始めた。


初めての福岡での仕事は会社が輸入専門商社を子会社としてつくり海外から輸入した製品を国内販売する国内セールスだった。アメリカ製のワールプール社の業務用冷蔵庫、フーバー社の掃除機、オスター社の鉄板焼用の電気フライパン、電気毛布、ドイツ製のコーヒーメーカー、髭剃りシェイバーが主な取扱商品であった。商社とはいえ製品に故障があればそれを修理するサービス部門も持っていた。これらの製品を北は北海道から南は沖縄までの全国のデパート、量販店で販売するのが新しい会社の仕事であった。とは言え自分が売場に立つ訳ではなくあくまでその手助けをする販売促進の担当者である。さて禄に充分な商品知識もない新人が新任地でどのような活躍が出来るのだろうか。とにかく福岡での新しい生活と仕事はスタートした。 



24.九州は天国だった。


今でこそ国内メーカーはこぞって家庭用の500L、600Lの大型冷蔵庫を出しているが業務用は言うに及ばず40年以上前の当時は発売していないか、又は全く普及していなかった。そこで米国製の大型冷蔵庫の出番になる。これは大型冷蔵庫好きの富裕層の主婦や食品関係の業務用冷蔵庫として良く売れた。面白いのは製品開発の考え方で冷蔵庫は冷えれば良い!掃除機はゴミが吸えれば良い!は当然だが両製品ともそのモーター音の大きさは尋常な範囲ではなくこれが日本の一般家庭に普及させる一つのネックになっていた。ただそれを普及させるのがセールスの腕というものだ。その中で特に力を入れていたのは大型冷蔵庫と掃除機であり九州各県のデパート、大型電気量販店への拡販であった。その為各営業所所長、担当者への販売応援要請をし営業マンの車に便乗してそれらのデパート、量販店へのセールスを行った。鹿児島県の天文館にある量販店の明星堂には店の正面には名物女将が陣取っていて初めての訪問で挨拶しても方言で意味が分からず同行したセールスマンに聞くと「初めて人の店にくる時には手土産の一つも持ってくるものだ。」と言われたそうだ。女将は冗談でからかいを込めて言ったのだがそれ以来この店を訪問する際には自腹で必ず博多からお茶菓子を持参する事にした。こうして地方での商談は始まる。今でも鮮明に覚えているのは福岡を起点に鹿児島、宮崎、大分、佐賀、熊本、北九州の小倉、門司に頻繁に訪問しその土地土地の雰囲気に浸るのを楽しみにしていた。ある時には宮崎の所長の営業車に同乗する事になり所長に手招きされたので後のドアを開けてそのまま座り込むと偉い剣幕で怒鳴られた。何かと思うと「俺はお前の運転手じゃないぞ!」これは当然助手席に座るべきで新人社員の常識を知らない若気のいたりであった。 


若い時に知り合って何年か一緒に仕事をしてその後転勤がありお互いが各々別の道に進んで行き、その接点がなくなりいつの間にか疎遠になり以来数十年会わなくなっても突然何かの折にその名前と人物を思い出す事はないだろうか。自分の場合にはその仲間が何人かいる。北九州営業所にいた池本と藤本の2人がそうであった。彼らとは北九州営業所管内の販売店を共に訪問している時に言葉を交わすようになり、いつの間にかどちらが誘うともなく仕事の後に一緒に飲みに行くようになり、そのまま遅くなれば泊まればと誘われ2人の住む共同生活のアパートの世話になった。それが北九州に行く楽しみにもなり行けば必ず彼らと一緒に飲み泊まることになった。20台に出会って70台の今でもはっきりと覚えているような一度にその時その場所に引き戻されるような懐かしい郷愁がそこにはある。



25.3ヶ月目のジンクス


未だ着任して間もない頃に同じ本社から出向している広島出身の目のぎょろりとした高山先輩から「君は麻雀はやるのかな。」「並べられる程度です。」と答えると早速翌週の日曜日の早朝から西鉄福岡線の高宮にあるマンションの一室に呼び出された。そこには九州支社の天皇と言われた須川社長が鎮座していて他の2人の先輩に混じって麻雀を始めた。ただその連中は麻雀の掛金を飲み代にしているような強者揃いで早速鴨にされ、断っても誘いの手は緩まず数ヶ月して這う這うの体でその場から逃げ出した。早々に高い代償を伴う洗礼を受けた事になる。この須川社長は九州支社の名物社長で月に一度の支店長会議では日頃は部下達に勇ましい支店長達も借りてきた猫の様に大人しくなり、ノルマ未達成の場合などは衆人の面前で面罵され締め上げられるのを常としていた。ただ厳しいばかりでは人は随いて来ないのを良く知っていて無類の酒好きも手伝って会議の前日には近くの居酒屋に全員を集めて慰労会を開くのが慣例であった。この席には支店長の他になぜか本社からの出向組も呼ばれていたので自分のような若輩者でも支店長達の幹部連中と面識を持つ事が出来た。お陰で普段はありつけない下関の河豚刺や日頃呑んだ事のない鹿児島の芋焼酎の洗礼を受ける事になった。


毎日は仕事に忙しい日々を過ごしていたが週末になると話は別で部屋にいてもする事がなく天気の良い日曜日などはドライブに行くか天神の街をぶらぶら散策したくなった。主な行先は天神町か博多駅周辺で若い綺麗な娘に的を絞って声を掛けていたが誰にどう誘っても振り向かれる事はなく虚しい週末をやり過ごしていた。そうした週末が過ぎて3か月が経った頃、きっかけは偶然に中洲のクラブに勤めているホステス嬢に声を掛けて喫茶店に行き、そのクラブの客になってから何度目かにようやくベッドに辿り着いた。なぜ3か月もの間女子に持てなかったを思い返すと話しかける時の表情や声の掛け方などの動作、所作に余裕がなくどれをとってもこの人は焦っていると相手に見透かされるのでネガティブスパイラルに陥る事になる。これが一人でも相手が出来るようになると自然に心にも余裕が生まれ、表情も所作も別物に生まれ変わるのではないか。これは仕事にも共通するかも知れない。焦れば碌な結果にならず余裕があればそれなりの結果を伴うような。そのジンクスはその後何度か転勤を繰り返したが例外はなかった。これをきっかけに楽しい週末を過ごす事が出来るようになった。博多は美人が多いとは本当の話であった。



26.仕事を取るべきか、女を取るべきか、それが問題だ。


当時の九州支社の6階には同じ会社系列の英会話スクールがあり外人講師が一般の生徒を教えていた。今でいう駅前留学の走りでECCやNOVAのようなものだった。今は国内営業でもいつか海外で仕事がしたいという夢は萎む事なく転勤早々に入会した。偶々その受付にいた大分県日田市出身の女性の美しさ、愛らしさの虜になりレッスンのある週に2日間は楽しみで必ず受付嬢に声を掛けるのが習慣になっていた。その頃にデートする相手に対して自分が課していたのは3度目の正直であった。3度目のデートまでに口説く。時間を掛け過ぎても駄目、会って直ぐも駄目、それでも3度目迄にと言うのは今まで繰り返してきた経験則の中での答えであった。 


その受付嬢を誘い初めてのデートの約束を次の日曜日に取り付けた時にそれは起きた。上司から「次の日曜日には福岡市内の大小の販売店を一堂に集めての新製品発表会がある。本社からはオーディオ、テレビ、ビデオの担当者が応援に来るが輸入製品についてはこちらで対応する事になった。本来なら俺が出るところだが前々からその日は熊本のデパートで大型冷蔵庫の製品導入会が決まっているのでお前が代わりにやってくれ。」と言われた。「すみませんが次の日曜日には初めてのデートの約束があるので参加は出来ません。」とは流石に言えずその事実を相手に伝えたらもう会って貰えないのではないかという不安でいても立ってもいられなかった。やがてその日曜日が来て市民会館の舞台に立ち大勢の観客に向かって輸入製品のデモを行った。「このアメリカ製の掃除機はこの様に吸引力は抜群です!」と実際に会場の壁に吸い付けても落ちない様子を見せて「ただこの様に吸い付く為にモーター音も抜群に大きいです!」と会場を笑わせて製品のアピールをし一応の役割を果たした。後で聞いたところでは「あいつはどこか変わっているが面白そうだ。」と参加者達から言われたらしい。さてその後受付嬢とはどうなったのか。無事に2度目、3度目のデートを重ねる事が出来たのは幸運であった。



27.綺麗な花には棘がある。


九州支社の営業マンの車に便乗してある夜に疲れ果てて営業所に戻ると「お前を先ほどある女性が訪ねて来た。自分はここにいるので連絡して貰いたいとの事なので一応伝えておく。」と先輩から言われた。そこに電話してみると学生時代に一時付き合いのあった日航のCAであった。偶々声を掛けたのがその女性であったが北海道旭川出身でそのスタイルの良さと彫りの深い顔立ちは日本人離れして全くの規格外であった。彼女と知りあって間もないある日、教えられた住所を基に青山近くにあるアパートを赤い薔薇の花束を携えて訪れた時の事。大家さんに部屋を教えて貰ったが本人は不在で呼び声にも答えず恐る恐るドアのノブを捻ると鍵がかかっていないのかそのまま開いた。部屋の様子を玄関口から見るとその状態は信じらない位に散らかり脱ぎ捨てた服、履いた後のストッキングもその辺に何足か散らばっていた。これがあの美しい女性の部屋なのか!外側と内側の如何に違う事か!益々女という生き物が分からなくなった。そういう経緯が過去にはあり当時からボーイフレンドが他にいる事も知らされそれ以上深入りする事はなかった。その夜彼女と会えたのか、会ってどこかて食事をしたのかの記憶は定かではない。ただ一つ確かなのはその夜も彼女とは何も起きなかったという事だった。


その後英会話教室の受付嬢とは週末のデートが多かったがその頃には泳げ鯛焼君という曲がカーラジオから頻繁に流れていた。そうして1年程が瞬く間に経ち未だ結婚は早いが相手が望むならそうしても良いかという気持ちになり明日は2人で日田市の彼女の両親の家に行く約束をした。その夜の事、彼女がアパートに尋ねて来て「あなたとは明日日田には行けなくなった。なぜなら自分には永く付き合ってきた大学生の彼氏がいてあなたとの約束を打ち明けると絶対に行っては駄目と言われ慰められるままベッドを共にして来たから。」目の前が真っ暗になるようなショックに襲われこの娘は一体何を言ってるんだろう。気がついた時には頬に2、3発ピンタを浴びせていたが相手は驚いてそのまま走り去って行った。暫く放心状態が続いたが立ち直った頃に単身で日田の彼女の実家を謝罪するつもりで訪ねたが名前を名乗ると玄関口に家人が現れ「どうぞお引き取り下さい。」と会う事も謝る事も出来なかった。そこは大きな屋敷だったが受付嬢によると金融業を営む日田では有力な地主らしかった。後日談になるが暫くしてアパートに1人の男が訪ねてきた。「自分は彼女と付き合っていた熊本大生です。あなたと決着をつけに来たので表に出て下さい。」「いつでも相手になるがもし君が同じ立場に立ったらどうする。それでも納得出来ないなら一緒に外に出ようか。」それに応じる事なく彼はその場から立ち去って行った。それが受付嬢との最後の顛末であり再び会う事はなかった。この花にも棘があった。


悪い事ばかりが続くはずもない。雨の後には必ず日は差すものだ。ある週末の雨の降る黄昏時に天神町のダイエーショッパーズ前を歩いているとグレーのトレンチコートに身を包み赤い傘を差した細身の女とすれ違った。その女の美しさに心を奪われ思わず後を付け声を掛けると喫茶店に付いてきた。思い付く限りの言葉を尽くしてかき口説いた。彼女は出会った時には人妻とは言わなかった。当然独身の女性として接し付き合い始めいつしか週末にはアパートに泊まっていくようになった。とても穏やかな性格の笑顔の爽やかな美人で痩せているのにこぼれるような豊かな胸をして2人で過ごす時間はやがて次第に離れ難くなっていった。そんな甘美な関係はそう永くは続くはずはない。知りあって数ヶ月が経っていたが暫く会えない週末が続いたある時突然アパートを訪ねてきて「もうあなたとは今晩が最後で会えなくなるからお別れに来ました。主人にあなたの事が分かってしまい直ぐに別れるなら出来てしまった事は問わないと言われました。主人がいるのを黙っていてごめんなさい。言えばもう逢って貰えないと思ったから。」そう告白されて引き留める術もなくただ立ち去るのを見送る他はなかった。ほろ苦い思い出になった。この花にも又棘があった。 25歳



28.南の島沖縄へ転勤になった。


南国の島「沖縄支店に出向を命ず」との辞令を受けた。福岡で2年半過ごしこれより遠い転勤はあるものかと鷹を括っていたら沖縄という南国があった。青い海とサンゴ礁の島。今まで観光パンフレットで憧れの沖縄旅行と謳われて余りに遠いので行けなかった島。何か日本というよりも東南アジアの南の島国が連想された。初めて那覇空港に降りたった時の心細さは言いようがなかった。アパートは国際通りの端にある県庁近くのマンションに2DKの部屋を借りて週末には国際通りを散策する生活が始まった。この8階建てのマンションの1階は昼はレストラン、夜はスナックになる店で管理人を兼ねた麻雀好きのマスター夫婦と直ぐに親しくなった。愛車のスカイラインは福岡から船で送りここでもアパートから当時浦添市の支店へ車通勤をした。4月初旬の月曜日に初出社して若い仲間の社員達との交流が始まると新任地の不安はどこかに吹き飛んでいた。ここでは営業所の隣に机を並べていた照木が何かと面倒を見てくれ彼の友達の安慶名と大出とも親しくなり4人で週末の夕方には食事やディスコに遊びに行ったりした。照木はがっしりした体躯で空手の有段者でもあり時間がある時には請われて空手道場の師範代として生徒を教えていた。安慶名も大出も沖縄の男にしては大柄な方だった。後で聞けば彼らは既婚者でありながら週末の夕方などに独身の転勤者の為にわざわざ付き合ってくれたのだ。その意味ではその後数十年も付き合いは途切れたものの忘れ難い友人達となった。


そうは言っても周囲は現地採用のセールスマンばかりで実際に仕事が始まると地場の中小電気店との繋がりが強くおまけに沖縄独特の方言という言葉の厚い壁があった。東京本社から来て現地セールスマンと同じ成績では許されない。彼らと同じ事をやっていてはとても敵わないので彼らが決められた取引店を相手に毎日同じような訪問を繰り返している間に新規取引店の開拓に打ち込んだ。それは全く取引のない競合メーカーの松下、東芝、サンヨーの様な専門店に飛び込みセールスをして自社製品を取り扱ってくれないの売り込みをする。初めは当然全く相手にされない状態が続くがテープレコーダーの1台でも良いから店に展示してくれと訪問を繰り返す内に相手の気持ちも動いてくる。半年もすると少しずつ新規契約店が取れる様になり売上も上がるようになった。これは東京から来た人間にしか出来ない荒業であったがこれにより現地セールスマンと売上げのトップを争うようになった。とは言え誰もが東京から来た転勤者に同情的な訳でもなく言葉の壁にも塞がれて人並みの苦労はあった。

沖縄時代の忘れ難い思い出として週末の夜に照木達と遊んだ後に恩納村にある大出の家に泊めて貰い翌朝小さな船を漕ぎ出してメバル釣りに興じた。ほぼ入れ食い状態で竿を垂らしていればいくらでも釣れた。これを持ち帰って奥さんに捌いて貰いみそ汁や唐揚げで食べるのが習慣になっていた。照木、安慶名、大出、今頃どうしているのかな。

伝え聞くところによると照木はその後沖縄支店長になった。安慶名は若くして転職しコンビニ店を立ち上げ何店かのオーナーになった。大出は北九州に出稼ぎに行ったらしい。



29.沖縄から夢のアメリカへ


青春時代の一時期を沖縄で過ごす幸運を思い描いた事があるだろうか。日本の南国の島、首里城の朱色に染まった美しさ、慶良間諸島の珊瑚礁に遊ぶ熱帯魚の群れ、それらがいつも身近にある。3月初旬の恒例の月曜日の朝礼でそれは支店長の口から発表された。「この度河田さんはアメリカのトレーニーに合格してアメリカに行く事になった。ここでは約1年という短い期間ではあったが皆の中に溶け込んで良くやってくれている。このトレーニーと言う制度は私も詳しくは知らないが国内セールスに携わる社員を対象に海外でのスキルを身に付ける為に今はアメリカが対象だが厳しい試験を受けて多くの応募者の中から毎年2、3名が選ばれるそうだ。一度海外での経験を積むと再び国内営業に戻ることはないと聞いている。良く頑張って試験に受かったと思う。これは我々にとってもとても名誉な事なので皆さんで彼の門出を祝って上げたいと思う。」本来ならこれで4月から晴れてアメリカ渡航の予定であったが暫くして本社人事から 「今年の河田さんのトレーニーは延期になりました。本社の事情で詳しくは言えませんが来年は優先的に配慮します。」との連絡があった。既に沖縄支店ではアメリカ赴任を前提に発表されセールスから取引店への連絡も済んでいた。支店長からは「気の毒だがここでもう1年頑張って貰うのも良い、もし居ずらければ一度東京本社に帰って来年に備えたら良い。」と言われ考えた末に東京に戻る事にした。そうは言ってもこの短い間とは言え慣れ親しんだ沖縄と言う土地と会社の仲間達と別れるのは辛いものがあった。いつか又必ず来よう、仕事でなくてもプライベートなら来れるだろうしその時には又再会を祝おう。


東京での生活は先ずは東中野のマンションに1DKのアパートを借り新しい生活の基盤にした。東中野は新宿にも近く通勤にも便利であった。この独身時代の東中野の1年を語るには週末の新宿歌舞伎町を中心にした活動もあり一つの物語になるがここでは趣旨に外れるので割愛したい。本社での新しい配属先は国内販売促進部のカタログ販促物制作課に半年間いてその後国内のテープセールス営業部に半年であった。各々の部署で自分に出来るベストは尽くしたがこの1年にどんな意味があったのかは分からない。その1年後には再試験は免除されて翌年のアメリカトレーニーに採用された。この時に一つの条件が人事部から付けられた。それは単身赴任という条件であった、この一つの条件が赴任後に大きな意味を持つ事になるとはその時は知る由もなかった。単身赴任とはトレーニー期間中の結婚は認められないという事であった。 27歳



30.こうしてアメリカでの新生活は始まった。


その後のアメリカでのトレーニー期間中をどのように過ごし何が起こったかを語る上で又とない手紙が44年ぶりに見つかった。それは白洲君という竹馬の友により44年もの間保管されていた。まるで44年前の自分にタイムスリップしたかのようで一字一句違える事なくありのままを再生したいと思う。竹馬の友は小学校の教師として永年活躍し、その傍らで永年見守ってくれていた。まずは彼に宛てた絵はがきから。


「こちらニューヨークのフォーレストヒルズもようやく春めいて来ました。当分下宿生活ですが元気にやっています。天を貫くような摩天楼にはそれ程驚かなかった自分ですが初めてニューヨークの地下鉄に乗った時には驚きました。扉が開いた途端に何というのか出来れば乗りたくないという思いに一瞬取り憑かれました。人種の坩堝という言葉通りあらゆる種類の人間が無表情に座ったり吊革にぶら下がったりしていました。これが実感でしたがこんな事に驚いてはいられない!追伸、金髪は未だ先のことになりそう。1978.4.20」 この後に少し長い手紙が続く。



「前略、お元気の事と思います。ここニューヨークもすっかり春めいた感じで暖かい陽射しが昼間のオフィス街を照らしています。僕のオフィスはマンハッタンのど真ん中にあり地上42階からの眺めは中々のものです。真下にはセントラルパークの緑をたたえた木立が一面に生い茂りそれに分け入るかの様にハドソン河の流れがニューヨークとニュージャージーを分け隔てています。今は下宿住まいで自炊も思いに任せませんがその分外での食事に舌つつみを打っている毎日です。今日はイタリア料理だったので明日はフランス料理にしようとか。その分食事代が毎月600ドルを数え230円×600ドル=138000円が飯代として消えていく格好です。破産寸前ではありますが気に入った家を見つける迄の辛抱だと耐えている次第です。参考迄に書きますと月給が手取りで800ドルだから何と4分の3が食事代に費やされている訳です。残りの200ドルは下宿代で小遣いの分だけ赤字になるという計算です。白洲の方は相変わらず飲み歩いて使っているのかな。今頃は彼女も出来ていつ結婚しようかなと迷っている頃だと思います。なるべく早くしてくれ。」


今から読み返すと44年前とは言え多分に詩的な要素もあって永井荷風の「アメリカ物語」には遠く及ばないが貧しいながら日々の生活を楽しんでいた様子が分かる。

この当時はマンハッタンの本社オフィスに通うにはとても市内のアパートに住む余裕はなく地下鉄で30分程のフォーレストヒルズに下宿していた。

そこはルーマニア人の老夫婦が2階の1室を間借りさせて一度台所で魚を焼いていたら凄い剣幕で止めるように言われた。匂い、煙が問題で要は自炊出来る環境ではなかった。

つまり一人住まいとしての生活の基盤さえ未だ出来ていなかった。新たに通い始めた5番街の本社オフィスは新築のピカピカの高層ビルで快適そのものだったが仕事の方は必ずしも恵まれていた訳ではなかった。それは追々話すことにしよう。さて期待に胸を膨らませて新天地のアメリカでの生活がスタートしたがこれからどんな毎日が待っているのだろうか。



31.アメリカトレーニーの期間中にこうして結婚した。


大手電気メーカーの国内部門に入社して九州に2年半、沖縄に1年いてその間アメリカトレーニーに応募し一度合格の内定を貰ったが人事の都合で他の妻帯者を優先する事になり取り消された。沖縄では既に合格が発表されていたので居ずらくなり東京本社に戻り又1年後に再トライしてトレーニーとしての赴任が確定した。その頃の赴任を前にして同期の友人のアパートで一緒に飲みながらの会話。トレーニーはその時は独身としての赴任が条件であったが詳しい事情を知らない友人は「アメリカの金髪女と一緒になるつもりなのか。今まで付き合ってきた女の中で一緒になりたい相手はいないのか。もし心当たりがあるならここから電話すれば良い。」とけしかけられた。


福岡の独身生活の中で2年近く付き合った相手が一人いて沖縄に赴任する時に一緒に行かないかと誘ったが断られ、そのままになっていた女性がいた。普通に付き合っていた相手が急に転勤になりそれも福岡から沖縄では二の足を踏んでも無理からぬ話だろう。彼女とは先輩に教えてもらった天神近くの薬院にある市民図書館で知り合った。読書好きなので週末には良く図書館に通っていたがその中で時々見掛ける若い綺麗な女性がいたので話掛けてみたのがきっかけだった。旅行関係の本棚の前にいたので「旅行はお好きですか。」から始まったと思う。彼女は福岡市内の長尾にある建設関係の工務店の経営者の次女であった。どこで 待ち合わせても必ず30分は約束の時間に遅れるのである時痺れを切らして長尾の大きな家の回りをうろうろしていたら洗車をしていた父親に見つかりそのまま家の応接間に招き入れられた。何を聞かれたかは覚えていないがその時に母親が色々と気を遣ってくれて気に入られたのは記憶に残っている。


その夜に友達の電話を借りて連絡した訳だが母親から本人に取り次いで貰い久し振りに近況を語りあった。彼女には交際相手はおらず何度かの連絡の後に福岡で再会する事になった。それから先は話はトントン拍子に進み先ずは結婚を前提に赴任前に結納を交わす事になった。運命の悪戯はこのように面白い。もしあの時あの部屋から友達の電話を借りて連絡しなければその後運命はどのように変わっていたのだろうか。今は感謝しかない。


”前回のニューヨークから日本の竹馬の友に宛てた手紙の続き ”

僕の方も今年8月にはハワイで落ち合って初めの計画より半年早目にしてしまおうかと思ってる。8月12日にニューヨークを発って4、5日間松居さんの両親と妹と本人、うちは私ひとりが出席して小さな教会で形だけの結婚式をするつもりです。1年間も待ちきれないのと東京というより日本でやるよりは実のある想い出深い結婚式が出来ると思ったからです。暇と金があれば来て下さい。でも東京では帰ってから小さなパーティーをごく親しい人を集めてしたいと考えています。日本を離れてみると日本の良さが分かるというのは本当だという気がする。東長崎の細々とした街もこちらにはない代わりとても懐かしく想い出されます。瞼を閉じただけで僕はあの道を歩く事が出来るし白洲の家の中のこたつに足を伸ばす事が出来るので未だ想い出にしまい込むのは早すぎるけれども。結婚式の後ニューヨークの片隅にある田舎街で僕たちの新婚生活の一歩を始めたいと思っています。会社の方が半年後の結婚に反対なので公に友達には紹介出来ず必ずしもすべての人に祝福されてのスタートではないけれどむしろ細やかにひっそりと始めた方が良いと思います。僕は白洲と交遊を始めてから十数年手紙というものを貰った事がないけれど今回は遠く離れている事もありきっと筆無精の貴君でもくれることを確信しています。


7月から入りたいと思っているアパートは1ベットルームで350ドルの家賃です。フォーレストヒルズという緑の綺麗な住宅街で家賃が高い為黒人が入れず従って安全というニューヨーク市最後の砦というところです。リビングルームが16畳の広さで一つありこれはキッチンに繋がっています。冬には暖炉の火を灯せるのが楽しみでベットルームは8畳あるかないか位の部屋、バスルームはトイレと一つになった造りで地下室には洗濯機と乾燥機があります。これでしめて8万円というのは日本では少々無理かも知れない。ファミリーハウスという普通の住まいの1階を全て借りきってしまうという訳です。今心配しているのは車を買う予算がなくなりつつあるという点で僕がこちらにいる間に遊びに来ると良い。今度は奥さんもいるからちゃんと飯も作ってあげられるはずで博多の轍は踏まないつもりです。でも相変わらず金はないので沢山持って遊びに来て下さい。それでは今回はこの辺で失礼、近況を知らせて下さい。1978.5.14   


この時点ではすっかりニューヨークでの新婚生活をスタートさせるつもりでいたようだ。



32.アメリカでの新婚生活と突然の帰国


(友達への手紙)

「良く晴れた晩秋の日曜日の朝、こんな陽気に誘われて車でもあれば紅葉を観にハドソン河を越えてアップステイツの方へでも脚を伸ばそうかと考えている。ニューヨークはもうすっかり秋が遠のいて冬が駆け足でそこまで迫っています。白洲先生は如何お過ごしですか。可愛らしい子供たちに囲まれて落葉の溢れる校庭で二日酔いの目を光らせながら駆けっこをしている長閑な風景が浮かびます。小生は12月に帰国が決まりこれから先慌ただしくなりそうです。かいつまんで事情を説明しますとハワイで式を挙げて1ヶ月程ニューヨークで新妻と新婚生活を送ったのだけど滞在許可が1ヶ月しかなかった為に一度奥さんを帰国させざるを得なくなりました。その後交渉を会社と続けたけれどはかどらず家内を呼べる目処が立たないので一人こちらにいるよりはと帰国を決意したような訳です。一人身の気軽さは何かにつけてなくなったけどそれなりに結婚生活も楽しいと思うよ。ましてこれから日本に帰って始める訳だから夢があって良いと思う。今の内にニューヨークで 観れるもの、聞けるもの、行けるところを出来るだけ経験して帰ろうと思う。メインイベントは帰る時ヨーロッパ回りでパリ、ローマを経由して行こうかと思っている。


仕事は余り得るところがなかったけれど1箇所に10ヶ月いれば大体様子も分かるしニューヨークに関して言えば思い残すことなし。もっとアメリカ的な田舎の街に身を置きたかったと悔やまれることしきり。ロスとサンフランも観れずに帰るみたいだな。白洲先生は毎日どのようにお過ごしですか。嫁さんは決まったかな。それだけが気掛りで早く一人前の男になって下さい。小生は今のところ半人前ですが。人間は本質的にどこに居ても変わらないしこのような短期間では余りアメリカンナイズされていないので期待しないで下さい。あいつスケールが大きくなって財布のヒモも軽くなっただろうと想像されると困るので。人間の住む社会というのはそう変わるものじゃないというのが僕の哲学みたいなもので日本もアメリカも多分ヨーロッパもそう変わらないというのが正解みたいだ。一方ではおとぎ話の国を想像してそういう夢を持っていたのだけど結局見つからなかったようだ。どこかもっと夢のある楽しい国はないかしら。中南米なんか良さそうな気がするけどどうかな。早く日本に帰って赤ちょうちんで一緒に飲めるのを楽しみにしています。引っ越して住所が変わったので手紙をくれる時に注意して下さい。最近又こちらに来てから英語の学校に通っている。会社では日本人と話す機会が多いしアメリカ人がまともに話し出したらついて行くのが精一杯というところなので。今日はこれからその予習でもしようかと思っている。夜も更けて来たので一まずこの辺で失礼。 1978.OCT15th.PM9.00、To.Shiras.from.T.K」28歳


会社からはトレーニーの期間として2、3年は独身と言われていたが自分の結婚についてそんな条件を付けられるのはおかしい、納得出来ないと人事部と掛け合う事にした。まずは出身母体の国内営業部門の専務宛に窮状を訴える手紙を書いた。それを受け取った専務はその手紙を本社の人事部にそのまま持ち込んだと後から聞いた。これがその後人事部のブラックリストに載る事になった。トレーニーとしての3年間を独身でまっとうするか、直ちに帰国するかどちらかを選ぶように本社の人事部長からの指示があった。婚約者からはそういう事情なら3年間待っても良いと言われ、それをまっとうすれば会社からはあなたの将来はそれなりのものにはなるでしょうと説諭された。自分にとっては究極の選択ではあったが会社の命令には従わず1年未満であったが帰国を選択した。


一見深刻な話のようだが何が正解なのかは誰にも分からない。このままアメリカに3年間留まっていればその後ハッピーなサラリーマン生活が送れたのかという保証はどこにもない。むしろ正しい選択をしたように思えてならない。さて帰国を控えこれから先はどうなるのだろうか。



33.窮地で一生の恩人と巡り合う。


アメリカでのトレーニーとしての10ヶ月間は決して夢溢れるハッピーなものではなかった。当時はオーディオ部門のマーケティング担当部署の中で来る日も来る日も新聞広告の切り抜きと年老いた女秘書の嫌がる大量のコピー取りが主な仕事であった。自分は厳しいトレーニーの試験をくぐり抜けて選ばれたはずなのになぜこのような仕事をしなければならないのか悩んでいた。結婚問題に加えて与えられた仕事への不満がこの帰国という決断を後押した。不幸な事にこのオーディオ部門にいた日本人マネージャーは自分達で人事に派遣を要請しておきながら日本から来たトレーニーをどう育てようかとのビジョンを持っていなかった。まるでコストの掛からないアルバイトを得るような感覚であるかのように。


窮すれば通ずではないがこの時期に業務用、放送局機器の全世界のマーケティング統括責任者の宮元常務が出張でこちらを訪問し面接の機会を得た。「しかじかの理由で身の振り方に困っています。このままアメリカに留まるのも一つですが出来れば常務の営業部門で働かせて頂きたいです。」「分かった。未だ立ち上げて間がないので今なら米国、欧州どちらでも好きな方を選んで良い。」と言われ欧州地域担当を要請した。 このトレーニーの1年未満の人事部の間での結婚トラブルについて自分とは全く繋がりのない部署の1人の日本人社員がこれはおかしいという正義感と頼りないトレーニーへの同情心もあってか本社人事部と掛け合ってくれた。これが本社の広報部から派遣されていた大樹マネージャーだった。この出来事がその後の自分の永いサラリーマン生活に大きな影響を与える事になった。捨てる神あれば拾う神であった。後の本社の専務取締役になるその人だが。「なぜ個人の結婚問題に会社が干渉するのか、おかしいではないか。」人事部としては「独身が条件でトレーニーに採用したので予算も独身用しか確保していない。」この平行線の議論は日本に帰国するまで覆る事はなかった。ただこの時期にこのようなタイミングで本社の放送機器海外営業部門のトップと面接をセットしそのまま迎え入れて貰えるというのは常識で考えられる話ではない。この人が掛け合ってくれたのではないのか。世の中には偶然とか、幸運というのは概してないものだ。殆どは人によってなされる必然なのだとその時に学んだ。28歳



34.ニューヨークの思い出


ニューヨークでの生活を振り返ると忘れ難い思い出もいくつかあった。

アパートのあったフォーレストヒルズの街中の小さな映画館に週末に一人で入った。タイトルは覚えていないがアクションではなくコミカルな人情物の映画だったと思う。観ていて9割の言葉は分かるのに後の1割が分からない為に観衆の笑いから取り残されてしまう。いくら日本の教科書で勉強してもその辞書にさえ載らない”スラング”という黒人や特殊な階層の人達が使う俗語がありこればかりはそこで生まれて育った人でないと理解出来ないのだ。周囲が可笑しそうに笑っている時に取り残されまいと作り笑いをする自分がそこにはいた。自分の語学力がどれ程のものか試したければまず字幕スーパー無しの洋画を観ればすぐに分かる。


本社オフィスの中でもブロンド美人はいくらでもいる。その中で特に目を引いたのはそれ程背は高くないがスタイルの良い足首にアクセントとして金の細い鎖を巻き付けた生粋の目の覚めるようなブロンド美人がいた。その人とは廊下などで良くすれ違うのだがにっこりと笑いかけ目が合えばハイと挨拶もしてくれる。それは別にこちらに気がある訳ではなくごく自然なアメリカ人の習慣なのだ。

いつか機会があれば声を掛けてお茶や食事、映画などに誘ってみたいとは思うもののそんな勇気もなくただ遠まきに見ているだけであった。例えデートに誘えたとしても言葉の壁で会話にならないだろう。益して育った環境も教育も習慣も全てが違うのだ。これは想像するしかないがその後何組かの国際結婚をしたペアーが全て離婚した例を見るとやはり結婚はベッドだけではなく日頃のコミュニケーションで成り立つものなのだろう。食生活も極めて大事な結婚生活の一部だがブロンド美人に味噌汁と漬物を期待するのは所詮無理な話なのだ。


週末にマンハッタンを散策しながら緑が恋しくなればセントラルパークを訪れる。又独り身の寂しさを紛らわす為に時として女子に話しかけることもあるがその時に分かった事が一つあった。それは東洋人の女性からは時折色よい反応が返って来るがアメリカ人を含めた西洋人からは素っ気ないものだった。やはり自分の顔は東洋人そのもののフラット系でこれが原因のようだ。親はなぜもう少し彫の深い顔に生んでくれなかったのだろう。


WEEK DAYの夕暮れ時に5番街の交差点を歩いていると向こうからミンクの毛皮のコートに身を包んだ背のすらりとした女がこちらに歩いて来るのが目に留まった。すれ違い様に顔を見るととてつもない美人でどこかで見た事があるな、銀幕スターの有名な女優だな、確か十朱幸代じゃないかなと気がついた。付き人もなく一人無防備に5番街を散策している女優の姿はただただ眩しかった。「あの失礼ですが女優の十朱幸代さんですか。」恥じらう様に「はい、そうですが。」「もしお時間があれば少しお話出来ませんか。」その時は残念ながら仕事中で心の余裕もなく想像しただけでそうはならなかった。柳の下に2匹目の泥鰌はいなかった。20歳の頃に出会った滝川由美を思い出したがそれにしても輝くような美人だった。


ニューヨークという街はWHO LOVE OR WHO HATE NEWYORKと言われている。これは単純な話で金持ちには堪らなく快適で居心地の良い街であり貧乏人にはあくまでも冷たく何の楽しみも与えない街なのだ。寒さと飢えを凌ぐだけの生活のような。自分の場合はどちらであっただろうか。少なくとも前者でなかったのは確かだが貧しい階級との中間であったと思う。生活に余裕はなかったがそれなりに充実した時間を過ごす事が出来た。機会があれば又行きたいか。答えは当然イエスである。



35.エピローグ 世界は広かった。


この手記もいよいよこの35話を以って終焉となる。「同世代を生きる仲間達へ」の青春編として今迄の軌跡を振り返ってみた。アメリカの1年弱の滞在が何も収穫がなかった訳ではない。むしろその後の人生にどれだけ影響を与えたかを思うと感慨深いものがある。人生にもしもはないがもしもあの時カネボウ化粧品に経理マンとして働いていたら、富士ゼロックスの国内セールスに従事していたらこのような人生を過ごせただろうか。


アメリカ滞在の間に英語はしっかりと着実に上達していた。入社試験時に問われた「あなたは外人と英語で喧嘩が出来ますか。」の問いに「はい、出来ます。」と答えられるようになっていた。勿論ビジネス上の様々なルールは後から習得する事になるが少なくても言葉の上ではいつの間にかそのレベルになっていた。その言語力が役に立ちその後どれだけの国々と都市を訪問しただろうか。それは28歳でトレーニー終了後に帰国し定年退職までの30年余の期間に訪問した国々と都市であった。これらの全ての国と都市に思い出があるがそれらを一度整理してみたい。


アメリカ:ニューヨーク、フィアデルフィア、シカゴ、デトロイト、ウイスコンシン、ロサンジェルス、サンホセ、ニューオーリンズ、ラスベガス、ハワイ   

<ヨーロッパ>

オランダ:アムステルダム、ユトリヒト、アイントホーフェン

ベルギー:アントワープ、ブリュッセル

ドイツ:ミュンヘン、デユッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、シュツットガルト、東ベルリン

フランス:パリ、ニース、マルセイユ

スイス:ジュネーブ、チューリッヒ、ツーグ

スペイン:マドリード、バルセロナ、グラナダ カナリー諸島

ポルトガル:リスボン

イタリア:ローマ、ベネチア、ミラノ、ナポリ

ギリシャ:アテネ、クレタ島

イギリス:ロンドン、ベージングストーク

フィンランド:ヘルシンキ

ノーウェイ:オセロ

スウェーデン:ストックホルム

<東南アジア>

中国:北京、上海、広東省、深セン、青島

香港、マレーシア:クアラルンプール、タイ:バンコック、インド:ニューデリー、シンガポール、韓国:ソウル、プサン 

<中南米>

パナマ、アフリカ、エジプト:カイロ


これらの中には数日の滞在もあれば長い期間繰り返し滞在した都市もあった。自分は一体恵まれたサラリーマン生活を送ったのか。どれだけ多くの人がこれらの経験を成しえるだろうかを考えると恵まれていたように思う。全てのスタートは中学生時代に近所の英語塾に通い始めそこで出会った慶応英文科の美人学生教師への憧れに始まり、勧められるままにNHKラジオ講座の基礎英語(松本亨講師)を聴講し続け英語に目覚め世界が開けたのだ。人間何が幸いするか分からない。だから人生は面白い。 (了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 社会や会社のルールに翻弄されながらも、自分の思うがままに生きてきた同輩の素直な手記。 [気になる点] 英語を武器にどう磨き、戦ったかが書かれているが、その過程でこんな苦労もしたという点が有…
[一言] 一人の人間の歩んできた軌跡と自分を重ね合わせながら楽しく拝読しました。
[良い点] 私も同世代なので、非常に興味深い読ませて頂いた
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