お稲荷様
稲荷神は狐を使役し、従えることから、
稲荷神自身が狐として描かれる事もままあるが、実際にはそうではないとされている。
全国に分布する稲荷神社は伏見稲荷神社の分社であり、それぞれ仏教系、神道系に分かれ、源流も違いがある。
数の多さもあるのか、中には狐を敬う神社も存在すると言われる。
稲荷神と狐がイコールでイメージされるようになった経緯として、稲荷神の信者は商人などが多かった事が関係していると言われる。彼らは、主神であるウカノミタマ以外にも、遣いである狐にも気に入ってもらおうと、ある種の賄賂として、狐に対してお供えをしたという。それが周りまわって、狐を敬うことと、稲荷神を敬うことが重なった結果、イメージとして狐が定着したというのが一説としてある。
また、当時備えてあった油揚げに、ご飯を詰めて寿司にしたという話もあり、これが俗にいう、稲荷寿司の起源である。
京子の家は、榎田たちの予想通り、稲荷神を屋敷神としていた、古くは商人の家系であった。
・・・・・・
京子:「今日はよく狐の話を聞かれるわね。」
義亀:「よく?というのは?」
京子:「ついさっきまで、さやかちゃんがウチに来てて、お話ししてたんだけど、あの子も狐の話が気になるからって。だから今日はこれで2回目。」
榎田と義亀は、少し違和感を抱きながらも、京子にさやかと同じ話をしてもらった。
榎田:「ちょっとお庭を見せてもらってもいいですか。」
京子:「いいけど、何かあるの?もう暗いし明日にしてもいいんじゃない?」
義亀:「いや、まあすぐ終わると思います。多分庭にお稲荷様の石碑みたいなものがあるんじゃないかと思ったものですから。」
そう言って、二人は庭に出る。田舎ならではの土地を生かした、一軒家のリビング二部屋分くらいの広さと、同じ丈に整えられた青々とした芝。それを囲うように、色とりどりの花が咲いた花壇が建てられた庭だった。
だが、二人の目当てのものはなく、数分探した後、京子に質問する。
榎田:「あの、京子さん。なんか石碑みたいなものって、庭とか、ここら近くに立ってたりしません?」
京子はふと考えたようなそぶりをして、
京子:「特に、そんなもんがあった覚えはないけど、元々この家は離れがあって、そこに私のばあちゃんが住んでたから、もしかしたらそこんあったかもねぇ。」
義亀:「ちなみにその離れは?」
京子:「いやいや、もう何年も前の話よ。木造だったし古くてねぇ。ばあちゃんが亡くなったから取り壊して、この家もそん時新しくしたのよ。お陰で20年前はこの家は壊れずに済んだと。場所は、あのあたりやね。」
榎田と義亀はそのあたりに目を向ける。
そこは庭とは正反対にボウボウと草が生え、人の手が入っていない荒れた土地そのものという姿だった。
榎田:「うーん。じゃあ、何か祖母さんの形見みたいなものとか、お稲荷様に纏わるものってとってらっしゃいます?」
京子:「ああ、ウチの代々大切にしてる掛け軸があるわ。今は押し入れの中やけど、ちゃんと年に数回は出して、管理してるわよ。」
榎田:「それって見せてもらえます?」
すると京子は少しムッとした顔をして
京子:「悪いんだけど、あんたたちは昨日初めてここにきたんだろ?私はまだいいけど、初対面の人にそんなにガツガツプライベートなこととかいろいろ行くもんなのかい?」
義亀:「すいません。確かに失礼でした。先輩、ちょっと...」
榎田:「狐。見たいんです。好きなので。
だから、来なくなった理由があるなら知りたいんです。
そんで、問題があるなら解決して、京子さん家に来てもらって、会ってみたい!」
見た目からは想像できないキャラを表に出した榎田に、残りの二人は呆気に取られた。
妙な空気が流れた後、
京子:「まあ、なんか、うん。でも少しは遠慮くらいしてちょうだいよ。面倒くさいってのはなんとなくわかるだろ。」
義亀:「ええ、すいません。あの、後日でもいいので、よかったら私たちにも見せて下さい。」
すると奥から、
「京子。お客様ね?」
京子:「あ。お母さん。横になっとらんでいいとね?」
守子「掛け軸を出すって聞こえたから、準備を手伝おうかと思って。」
榎田「あ、すいませんお邪魔してます。お隣に昨日から泊まらせてもらってます。榎田と、こっちは義亀です。
お母様は、狐の掛け軸、大切になさってるんですか?」
守子:「ええ。私は狐さんに悪い事した負い目と後悔があってね。私の義母ははが生きてた時は来てくれたんだけど、多分それで嫌われてしまったんだろうからねぇ。
その謝罪と、私には悪印象持ってもらってもいいから、娘には恨みっこなしにして欲しいって言うお願いを込めて、せめて自分のできる掛け軸を大切にすることと、お稲荷さんはちゃんと毎年作るようにしてるのさ。」
京子:「私も一緒に作るから、結構作り過ぎちゃってね。昨日あんたらも食べたんじゃない?八代はつよ(*1)さんにもお裾分けしてただろ?」
義亀:「ええ。酢飯の甘さ加減の絶妙さ、あと、油揚げの旨味も凄くて、稲荷寿司自体あまり食べたことありませんでしたが、とても美味しかったです。」
守子は少し笑顔になって、
守子:「お揚げさんもウチは豆腐を作るとこからやってるから。全部自家製なのよ。あんまりお店みたいな味は出さないけど、心は込めているつもりよ。」
その後も義亀は作り方から何から何まで守子に聞き始める勢いだった為、榎田はそれを止めるのも含めてこう言った。
榎田:「あの、守子さん。狐さんを傷つけたとおっしゃってましたが、その話、よかったら詳しく教えて頂けますか?」
京子はそれを聞いて、榎田を非難するような目で睨む。が、守子は特に気にした様子もなく、
守子:「こんな年寄りの話に興味を持つなんて、変な人たちもいるのね。いいわよ。
私はね、元々この平里町の人間じゃないの。」
・・・・・・
守子は福岡の生まれで、家庭科教師として宮崎県に採用され、宮崎県の様々な場所に転勤をしていた。
そのうち、平里町の高校に赴任が決まった際に出会った、平里の町役場で働いていた京子の父親と結婚。そのまま平里町の現住居に京子の祖母である珠江たまえと、守子、守子の父で暮らし始める。
数年後には京子が生まれ、それからずっと平里町で暮らし続けた。
珠江は厳しいが、決して理不尽な姑ではなく、何か知りたいことがあればしっかりと教えてくれ、守子が体調が悪い時や、用事で出かける必要がある時は、京子の面倒を見てくれて、なおかつ守子の看病をしてくれるなど、決して仲が悪いわけでもない良い関係を築いていた。
珠江は自分が料理をしたり、家事をしているところを人には見せたくないと、恥ずかしがる性格があったが、守子に対しては逆にその姿を見せてくれていた。何かをする時のお手本にしようとしている守子の気持ちを汲んでくれていたのかもしれないと、守子は思っている。
珠江:「守子ちゃん。ウチの豆腐は手作りだから、ちょっと形が歪なん。揚げるのはコツがいるから、失敗してもいいからなんとなくコツを掴んでみてん。」
守子:「はい、お義母さん。」
油揚げの下準備を終え、揚げ始める。
シャアアアアアアアぱちアアアアアぱちっ
守子:「おいしそうな音ですね。」
珠江:「守子ちゃんも頑張ってるんだから、絶対美味しいわ。不味くなるわけないわ。多少失敗しても、頑張って、知識を持って、適切に愛情持って作れば、大抵のもんは美味しくなるんよ。」
もちろん稲荷寿司の作り方も、珠江が守子に伝えたものである。そしてこの作り方は、守子から京子へと受け継がれている。
ただ、珠江は年齢もあって、年月が経つにつれだんだんと一人で何かを行うのが難しくなり、ついには現代でも問題となりつつある、認知症のような症状が出始める。
そして、誰かの介護がなければ生活するのが難しくなってしまう。
日本の昭和特有の女性に家事のほとんどを任せる風土もあり、それは守子の家も例外ではなかった。結果、守子が家事の殆どを行いながら、珠江の介護も行うという、家の全てを一人が担うという大変な状態であった。
それからは、基本、守子にとって辛い日々だった。良い関係だった珠江の衰えた姿を毎日見ながら介護し、夫は手伝わず、料理、洗濯、掃除等々、家のことで自分の時間はなく、多少大きくなっていたとはいえ、反抗期でもあった京子との関係など、問題は多かった。しかし守子は不満を漏らさず、珠江の言っていた
「頑張っていることを、人に見せるのは恥ずかしい」という言葉を思い出し、誰にも辛さを見せずに毎日淡々と仕事をこなしていた。
ある時、毎年の恒例であった稲荷寿司を作る季節がやってきた。いつもはこの時期になると、珠江も思い出すのか、腰を曲げながら守子と京子と一緒に稲荷寿司作りに参加をしていた。この時だけは珠江が昔に戻ったようで、辛い毎日を過ごす守子にとっては、この時だけはとても嬉しい時間だった。
しかしその日は違った。
珠江は稲荷寿司作りに初めて参加しなかったのである。
珠江は例の狐と縁側で戯れていた。守子が、
「お義母さん、一緒に稲荷寿司を作りませんか。」と聞くと、珠江は怪訝な顔をして守子を見て、
「あんたは誰なん?なんでそんげな事させられなならんの。なんであんたみたいなよそ者モンがいるの?ウチから出て行け!よそ者!」
これを聞いた時、守子の中に虚無か、怒りか、なんとも言えない暗い気持ちが湧いた。
ふと縁側にある石を見て、守子はそれを手に取った。
気がつけば、石を持った手を振り上げ、珠江を殴りつけようとしていた。珠江は守子に目すら向けず、どこか遠くをぼーっとみていた。
そして守子と珠江の間には、狐がまるで珠江を護るようにちょこんと、守子の目をまっすぐ見て座っていた。
ダメだよ
そう言われている気がした。
守子は動揺して、しかし行き場のない気持ちをどう整理すればいいのかわからず、そのまま手を思い切り振り下ろしてしまった。...狐に対して。
狐は少し体に傷がついて血を流していたようだが、逃げたりもせず、あいも変わらず守子を真っ直ぐ見据えていた。
-----------続く
補足
(*1)さえこの母。1話や2話などに登場している。