平里町へ
さやかが人生において、まるで初めての体験であった、人が煙のように消える様子を見た7月31日。
二人の男が、小回りの効く軽自動車を、山並みに沿って曲がりくねる道の上に走らせている。
まだセミも鳴き出していない、少し涼しさを感じる朝方のことだった。
「なあ、このナビ本当にあってるか?」
「さあ。」
相方の素気ない返事に若干うんざりしながらも、運転をする中年にも差し掛かったくらいの男、榎田えのきだは言った。
「まあ、知らない町とか場所で使うナビって大体こんなもんだよな。」
次は返事もなかったので、言葉は着地に困ってしまった。
「...一応確認するぞ?俺たちは今回、神田祭かんださいの企画、運営のアドバイザーとして参加する。ただし、本来の目的はもちろん別。今回は危険度Aクラスの任務だが、組織の改変、任期満了に伴う契約終了が相次ぎ、人員の確保が難しく...」
「新人を危険度の高い任務につかせる必要があった。ただし新人であること、危険度が高いながら、猶予期間もあまり多くない現状により、本来一人のはずの任務にサポートとしてベテランの人員をつけることとする。でしょ?もういいですよ。」
「ウルセェ、規則なんだよ。」
榎田はそう言って、最後に少し間を開けて口を開いた。
「最後に確認だ。お前がこれから担っていかなきゃいけない仕事は、まさに修羅。成功しようが失敗しようが、人として大きく道を踏み外す事になる。それでも、任務を遂行する覚悟はあるか?」
「ないならここにいません。」
「だとしてもだ。今止めるって言えば、まだ間に合う。俺はずっとこの仕事をやりすぎて、もう人としてのネジがどっか外れてやがる。だからお前に何か気の利いたアドバイスなんてもんもいってやれねぇ。一度足を踏み入れてしまえば、抜け出すのは厳しいのは俺を見ての通りだ。なのに抜け出そうもんなら全てを失う。文字通り全てのだ。」
「今更なんですか。私は死ぬ気はありませんし、訓練始めた時からずっと覚悟をしています。だから辞める気もさらさらありませんし、存在抹消だろうがなんだろうがクソ喰らえです。」
「...わかった。じゃあ俺の後に復唱しろ。人を思い、人を讃え、人を救う。」
「人を思い、人を讃え、人を救う。」
「...我ら修羅に堕ち、仲間に手をかけられようとも。」
「我ら修羅に堕ち、仲間に手をかけられようとも。」
「正義と覚悟をもち、死神としての任を全うすることをここに誓う。」
「正義と覚悟をもち、死神としての任を全うすることをここに誓う。」
いつの間にか、この小さな軽自動車の車内を張り詰めた空気が満たしていた。それ以後、神社の麓に着くまで、彼らは一言も言葉を交わす事はなかった。
車内に響いていたのは、張り詰めた空気に反して、憂鬱な朝を盛り上げようと、ラジオから流れてくる人気の歌手の明るい曲だけだった。
・・・・・・
暫くして、錆びて今にも文字が消えそうな、案内看板が目に入った。
『ようこそ、平里町へ』
消えかかったその文字の脇に、何やら大層な甲冑を着た人間の絵が描かれている。榎田は一瞬なんの絵か気にはなったが、特に興味も長続きはせず、運転にまた集中していった。
やがて、小さなトンネルを抜け、視野がひらけた場所に出た。
綺麗に整えられた棚田と、集落の下方にある大きな河川までずっと続く、小川のような用水路。それに沿うようにポツポツと民家が建っており、その様はまさに古き良き里山であった。つまりここが、平里町である。最寄駅からかれこれ3時間。都心部からは6時間という長丁場であった。
「先に神社を拝みにいくか。」
榎田はそういうと、棚田の間を抜け、集落の高台に見えた長い階段へと車を走らせる。
気づけばもう太陽は天辺を通過し、一番暑い時間帯だった。
傍らに車を停めて、榎田は相棒である義亀よしかめに告げる。
「ここからは、お前一人だ。とりあえずいきなりアタックできるタイプの神じゃない。とりあえず挨拶がてら、確認でもしてこい。」
「先輩は何するんですか?」
「俺は町長に挨拶行ってくる。サポートはちゃんとやってやるから、都度連絡しろ。」
「了解です。...先輩、これ登りたくないだけじゃないですよね?」
「な、何を言っているのかわからないなぁ。は、は、は。...ボケはこれでいいか?ほら、とっとと行け。」
「ではまた後で。」
・・・・・・
あいつ真面目でエリートぶってるくせに、変なとこ抜けてんだよな。やっぱ残った方がよかったか?まあでもアレ登るのは面倒だろ。
面倒だったのである。
榎田がそんなことを思っている間に、義亀は準備を着々と進めていた。概ねマニュアル通りに従って。ただ、そこに隠れていたさやかには気づかないという、かなり大きな失態を犯してはいたが。
「人を思い、人を讃え、人を救う。」と唱え
、印を作り、組織それぞれ個人に支給される武具玉を変質させ、刀として携帯する。そして、鳥居をくぐる。
彼らは、『死神』と呼ばれる存在であり、人の繁栄のために存在する組織である。
我々一般の人間が生活を謳歌する裏で、神と人とを陰ながらに取り持つ為に活動している。
彼らは神によって、神の住む世界、聖域と呼ばれるこの世のはずれへと入り込むことを許可されている。それは外からは見えず、死神達が、内なる瞳で見出し、そして神へと呼びかける事で達することのできる世界である。
死神達はそうして、神々と交渉をし、人と神との関係を取り持つのである。
義亀は聖域をそれと認識し始める。暫く後、ボヤけていた視界が開け、目の前に唐皮の鎧を着た武者が、地べたに胡座をかいて座っている姿を確認する。
「主は、何者じゃ。」
「...死神です。お迎えにあがりました。」
「ふん、もうそんな時勢か。だが、我はまだ自我を失ってはおらんぞ。そこはどう捉える?」
「見たところ、貴方様はもう意識を保つのも精一杯なご様子。いずれ近いうちに、厄災を起こしうるかと。」
「ほぉ。神の御前でなかなかどうして、よくそんな豪胆にものを申せるものだな。ふふ。よい。ではも一つ聞こう。我はいつまで、保つと考えておる?」
「正確にとなると難しいです。当初は1ヶ月以内だと考えていましたが、貴方様の御様子ですと、もっと早めに見積る必要がありそうと言ったところでしょうか。...ふむ、2週間というのは?」
神は息を一つつき、こう言った。
「...なんとか、25日まで保たせられはせんだろうか。」
義亀は驚いた。大抵の神は、もっと生きたいと願い、死神の提示した期限よりもっと先に存在することを願うと聞いていた。だがその短さに違和感を感じ、そしてふと気づく。
25日は例の神田祭の実行日だという事に。
「それは、祭と関係はありますか?」
「あるか、ないかといえば、ある。
我も武士。引き際は心得ているつもりだが、ある事情の為にその日までは見届けたいのだ。なんとかならんだろうか?」
義亀は悩んだ。が、新人の自分が性急に、無責任に答えても後々まずい事になる。
「一度、持ち帰ってみます。明日また、この時間、ここで面会させていただいてもよろしいですか?」
「あいわかった。では、出口まで送ろう。」
次の瞬間、義亀は急激に船酔いのような感覚に襲われ、気がつくと鳥居の前に立っていた。
・・・・・・
「吐いたか?www」
「今話しかけないでください。」
今日から泊まらせてもらう民家へと向かう車中、義亀は今にも胃がひっくり返りそうだった。とりあえず民家に着くまでにはなんとかしようと、途中買ったミネラルウォーターを飲みながら、頭の片隅で、今日の神との対話の内容を思い返していたのだった。
・・・・・・
民家に到着し、荷物を下ろす。
「俺は先に車停めてくるから、挨拶だけしてきて。」と言われた義亀は、一人民家の呼び鈴を鳴らした。
『カァーン』
珍しい音だ。そう思っていたら、若い女性が玄関を開けてくれた。が、彼女は自分を見て、何か困惑しているようだった。
自分の顔が誰かに似てたか?元カレとか?
アホな想像を膨らませながら、彼女が重大な事実を知っていて、それが後々、大きな問題として自分の身に降りかかってくる事を、彼はまだ気づいてさえいなかった。
7月31日は、こうして、平里町の日常に少しの波乱の火種を持ち込んで、更けていった。