帰宅したら、弟が、普段、親が買わないような、高いアイスを食べてました。
「ただいまー」
「あ、帰ってきた」
玄関の扉を開きますが、弟がリビングでアイスクリーム、しかも、家でいつも買ってるのより、高いのを食べてる最中でした。
わたしは、膝を擦り付けるように靴を脱ぎ捨て、ソファーに座る弟に、駆け寄ります。
「自分の小遣いで買ったのか、それとも、お母さんやおじいちゃんに買ってもらった。どっち?」
「お袋から買ってもらった」
わたしは、冷蔵庫にすがるようしていました。冷凍庫の引き出しを開けますが、安いアイスクリームしか見当たりません。下に紛れているのかも。両手を突っ込み、探します。
ありません。
かじかむ手を引っ込め、冷凍庫を閉めて、弟に詰め寄ります。
「わたしの分は、どこにあるの」
「ないよ。金曜日、俺が友だちの家に、泊りがけで行っただろう。お袋が、俺が友だちの家に泊まりで行くの忘れてて、トンカツ作ったんだって。それで、お袋が姉貴には、絶対内緒にして食べてって、渡されたんだ。ゴミも新聞紙に包んで捨ててって」
「お母さんは、どこにいるの?」
つま先立ちになり、見渡しますが、弟以外、人の気配がありません。
「いないって、急な仕事で出かけるって」
「おじいちゃんは?」
「ホワイトボード見れば分かるだろう。仕事。職場で急病で休んだ人がいて、急に二十四時間勤務だって、明日の朝帰ってくる」
「お父さんは?」
「だから、ホワイトボード見ろよ。いないって、消防署の宿直で二十四時間勤務だろう。あのさ、一々俺に聞くなよ。冷蔵庫の近くに、親父やおじいちゃんの勤務表、貼ってあるだろう? 勤務の変更は、付箋で書き足してあるだろう」
きっとアイスを食べ終えて、スプーンを手にする弟を睨みます。姉を邪険に扱う言い方に腹が立ちます。
冷蔵庫近くのホワイトボードには、家族のスケジュール表が張ってあります。
母のスケジュール表に、黄色い付箋が、目立つよう貼ってありました。
〈同僚の方が熱が出て休んだの。急な撃ち合い関係の仕事で、朝まで帰れません。美容院に寄ってかないといけないから、早めに出ます。好きなものを買って食べてね。あれは例の所にあります〉
あれ、現金のことです。わたしは、両親の寝室にダッシュします。母のベッド近くに、青いゲーム用CDケースがあります。例の所はココです。
ケースを開ければ、渋沢栄一先生が一枚入ってました。一万円札です。メモも一緒にあります。
〈細かいのなくて、一万円札でごめんね、お釣りは返してね〉
母の字で書いてあります。
一万円札を畳んでポケットに滑らせます。心の奥深くで声がします。
わたしの明るい声が、善の囁きをします。
「一万円預かったことを、弟に正直に言うの」
わたしの風邪引いたような声もします。
「弟は金額知らねぇー。騙して釣りもらえば良いジャン」
心の天秤はワルに傾きかけますが、意思をしっかり持ち、善に集中します。
リビングに戻れば、弟がプラスチックスプーンを水道で洗っていました。
水洗いだけで済ませ、、あろうことか布巾で拭いてます。その刹那、わたしの中で、何かが壊れました。天秤がズドンと大きな音を出して、ワルに傾きます。
「汚ねー。ちゃんと洗剤使って洗ってよ! 布巾に油ついたら、布巾洗うの大変だろ! ゴメンね、お姉ちゃんが言い過ぎた」
「言いすぎ、気付いてるなら自分で直せよ」
弟は横目で、チッ見つかったかと言いたげな、しかめっ面をしています。
苛立つ態度ですが、自分を偽り、優しく接してやります。悪に染まるためには、表面は善になりきる必要があるのです。この前見たテレビで、特殊詐欺グループの元メンバーさんが、モザイクで顔を隠して言ってました。わたしが弱気に出れば、弟は強気になり、胸を張ってます。
「油物じゃないから、水洗いでいいだろう?」
つけ上がりやがって。わたしの頬がぴくっとなります。わたしは腰の後ろで手を組んで、コクリ、と顔を隠すため、頷いてやりました。
「うん、そうだよね。意味は分かるよ。でもね、お姉ちゃんが嫌なら、ううん、お姉ちゃん、気にしすぎだよね。気になるなら、お姉ちゃんが自分で洗っておくべきだよね」
「姉貴、優しくて気味悪いぞ」
邪魔な弟を上目遣いで、どかしてから、布巾とプレスチックスプーンを洗剤で洗いました。プラスチックスプーンを、清潔な布巾で拭きます。
弟は、リビングに繋がる自室の扉を開けてます。ドアノブを握り、半開きのままです。弟へ眼光が鋭いであろう、わたしの顔を巡らせます。
「お袋からお金預かったんだろう?」
「うん夕食代なの。好きなものを買って、お釣りは返して欲しいんだって、二人で半分にしてって。お母さんからは、お姉ちゃんが管理するよう言われてるの」
「話はどーでもいいから、早く金くれよ」
生意気な弟に、緩やかな足取りで近寄り、財布をポケットから取り出します。スマイル、スマイル、自分の心に言い聞かせながら、顔の皮膚の引きつりを消します。
財布を開いて覗きこみます。幸いなことに、津田梅子先生の五千円札がありました。北里柴三郎先生の、千円札も五枚あります。さっきコンビニATMでくずしたお陰です。
指先で千円札を挟む手が止まります。脳の奥深くで、わたしの美しい声がします。
「正直に五千円渡そうよ、五千円渡そうよ」
ドスの聞いた声がハモります。
「弟が使ったスプーンしっかり洗ってやったんだぜ! 家事労働の賃金よ」
美々しい声は、遠く本当に心の奥深くに、淀んで消えます。
二千五百円を、弟に差し出します。
「お母さんから、夕食代として五千円預かったの。お釣りはレシートをもらって、お釣りと一緒にお姉ちゃんに渡してね」
「はいはい」
はい、は一回で良い。でも、ぐっとこらえました。預かったの一万円だよ。とても悪い子だぞわたし。
閉じる扉から消え行くわが弟。目先のアイスクリームに、欲求を奪われ、預かった金額を気にせず、気の毒な気もします。
母から預かった金額のことは、多分、怪しんでいません。
「ネエネエ先輩が、後で家に遊びに来るから、言うまでもなく、お姉ちゃんの部屋は出入り禁止」
残り数センチで閉じる扉で、弟のかかとだけ出てます。
もしかして、一万円預かったってバレたのか、背筋を冷たい汗が、つーと流れます。
「ネエネエ先輩って誰?」
「金曜日の夜、遊びに来てくれたうちの高校の撃ち合い部の先輩。ほら、AG49の先輩」
AG49は、ネエネエ先輩が使っている軍用ライフルの名称です。可愛らしいマスコットキャラとして、鞄にぶら下げています。FPSの『共トレ』では、メンテナンス費用が安く、耐久性に優れた軍用ライフルとなってます。
「あ……」
弟は口を少し開いて、視線を彷徨わせています。一万円札のこと、バレたか。わたしの心臓がドクンと飛び跳ねます。
「AG49じゃ分からかったかな。お姉ちゃんの言い方悪かった。『共トレ』で、架空のオービット連合共和国っていう国の軍隊が、一九四九年に正式採用した自動小銃で、AG49」
「『共トレ』のAG49くらい知ってるよ」
オービット連合共和国は、『共トレ』に登場する大国設定の国です。AG49も実在しない銃です。初期装備として課金せずに入手可能です、『共トレ』初心者に、おすすめの軍用ライフルの一つです。
弟が扉を後ろ手で閉めました。でも、どうして、弟、「あ」の一言を出したんだろう。こっちは冷や冷やです。
***
わたしは、トレイから少し離れた場所で、壁に背中を預けていました。窓からは、橙色の西日が差し込んでいます。
さっき、弟がどこかで弁当を買ってきて、食卓で箸でかきこむように、食べていました。その間、わたしは、自室でスマホを使います。高校向け、勉強アプリをしていたんです。
食卓の上にあったレシートとお釣りは、「お姉ちゃんが預かるね」と、自室のクローゼットに、隠しておきました。
弟がトイレに入ってしまって、出てきません。離れた場所で、待っていました。やっとトイレのドアが開く音がします。弟を押しのけます。
「どいてよ」
「ごめん」
わたしは勉強アプリに。集中しすぎてしまったのです。
書道の学習アプリです。毛筆のペンタブで、お手本をなぞるのです。これが結構面白いんです。
楽しすぎて、小用を限界近くまで我慢してしまったのです。
ゲームをしていたら、かなりの確立であることです。弟に近くからカンマ一秒でも早く去るよう、手でしっし、と虫を追い払うような仕草になります。
わたしはトイレから出て、浴室の横にある洗面台で、手を洗っていました。鏡に映る自分の顔は、少しだけ、目が充血してます。自分用の目薬をリビングに取りに行って、さしていました。
「姉貴、先にシャワー浴びるけど良い?」
「いいよ。でも、ネエネエ、じゃなくて、AG49の先輩来るからしっかり、アコーディオンカーテンを閉めてね。前もって着替えは、全てアコーディオンカーテンの向こう側において。もし、浴室から出て、先輩が来てたら、脱いだ服は見えないように、袋に入れるとか、見せない工夫してね。髪をしっかり乾かしてとかしておいて」
「――言われなくてもそうする」
「ううん、お姉ちゃんが言い過ぎたよね、ゴメン」
母から預かった五千円をくすねたのが、トゲとなり、心に刺さっています。
「姉貴。俺も見られたくない」