序章
永禄11年
将軍義昭を擁して上洛を果たした信長の元には、洛中は元より近郷のおびただしい人々が挨拶にはせ参じた。
旧勢力が京より駆逐された今、いち早く新勢力に誼を願うもの、権益の保障を得るため、商業経済を重視して富の力で上洛を果たした織田家であるならば新たに始まる領地経営に伴う人材、出入り商人の抜擢、その選に漏れぬよう有力町人までもが押しかけた。
信長はその一人ひとりにいたるまで拝謁を許し親しく声をかけたという。
「連歌師里村招巴殿お祝いにご参上」
取次衆の声、目の前に積まれた夥しい進物の数々、尾張にいては唯噂に聞くばかりであった名物茶器を目の当たりにしても傲然と見下ろすばかりであった信長が少し居住まいを正したかに見えた。
眼前に、招巴は、末広の扇子を二本載せた三方を押し頂いて捧げ持ち、平伏しふと呟いた。
「…二本(日本)手にいる今日(京)の喜び」
不思議な静寂が場に広がる。
「舞い遊ぶ千代八百万の扇にて」
信長がすかさず句を付ける。
並み居る陪席の人々に感嘆のため息が一様にひろがる。
この話はすぐに評判となって洛中に流布した。
京人の端々までもが噂で知る信長のうつけ者の評判、かぶきぶりを知る人々は、この新たな権力者を、半ば恐怖の中で迎え入れ恐れおののいている。
その権力者が、かしずく大勢の美女達や名物の山に目もくれず、京の連歌師にも鷹揚にかまえて句の応酬もできる教養の持ち主と知り胸をなでおろす。
『無用の騒ぎを起こすもの。保護を与えた寺社仏閣に押し入ることを許さず。盗るもの犯すものは斬に処す』
織田家の軍法は秋霜烈日の威を表す。
数日を待たず京は平静を取り戻し民衆は狂喜した。
少し癇癖で憂鬱な面影のこの男の本当の姿を京の人々はまだ知らない。