極熱に散る桜
<直也>
夕方、開店前の店内を掃除。俺は手を止め、店を見渡す。
俺は、この店のトップホスト。夜のひととき、花開くような最高の夢を見せている。
でも、あの日以来、俺にとってこの店は針のむしろの上のようだ。
ああ、しかし、俺は店を辞められない。
バックヤードの扉が開く。フロアに出てきたのは、すっと線が通った青年。俺を見つけると、ふわりと笑う。あいつが笑うと、あたりがパッと明るくなったように見える。先月、オーナーが買ったアンドロイドで、桜という。
俺は、あいつに駆け寄りたくなるのを必死にこらえて、目を逸らす。オーナーがレジ台に立っていた。暗い目を、じっとこちらに向けている。
俺とオーナーは、ホストと雇い主以上の仲だった。桜が来るまでは。オーナーは、オーナーを捨てた俺と、俺を奪った桜を深く憎んでいる。俺が店を辞めれば、桜はすぐにでもスクラップにされるだろう。
ああ、でも、俺にとって、この店の空気は黒く重い泥のようだ。居心地が悪い。俺の売り上げが下がってきている。ヤバイぞ。
<桜>
直也、どうしたのかな?
最近、ずっと素っ気ないし、目を合わせてくれない。なにか気に障る事したかな?
<直也>
どんよりと曇ったある日、店に出ると、オーナーが声をかけてきた。目を黒く光らせ、満面の笑みを浮かべている。俺は背筋に冷たいものを感じた。
オーナーは、桜の頭部にヒーターを仕込んだ、と言ってきた。俺の行動次第で、遠隔起動させるつもりらしい。
オーナーが見せた、スマホの画面。地味なアイコン。タンタンっと叩けば、桜は壊れる。
桜、お願いだから話しかけないでくれ。悲しい顔しないでくれ。お前の為なんだ!
<直也>
桜の頭にヒーターが埋め込まれてから一週間。
桜の廃棄日を通告されてしまった。明日の明け方にヒーターの電源が入るそうだ。
閉店からは一緒に過ごして良いと言われた。
壊れた桜の、廃棄処理をすることが条件だ。俺は受け入れるしかなかった。
<桜>
今日は直也の家に泊まる。久しぶりだ。楽しみだなぁ。
そんでもって、この頃機嫌が悪かった直也が、今日は暇さえあれば僕に付きっきり。
まるで別人みたいだ。でも、なんで泣いてるの?
<桜>
店が閉まった後、アフターを断って直也のアパートに遊びに行った。
直也は、僕が、今日の朝までしか生きられないと教えてくれた。
その後は、前に遊びに来たときと同じように、お風呂に入って、ソファでゆったり。
最近の直也の態度の理由がわかって、直也にはひたすら謝られた。僕だって、初めから知ってれば、直也に話しかけて苦しませるようなこと、しなかったのに。
<直也>
どこで朝を迎えるか、二人で話し合った。リビングのソファで、水を入れたバケツを置いて待つことにした。
桜の耐水機能は、加熱されると、ゴムが劣化してすぐに失われるそうだ。桜を水に突っ込めば、熱にもがき苦しむのを見ずにすむかもしれない。
<桜>
直也と一緒に、その時を待つ。体がわずかに痙攣する。緊張のせいだよ、まだ大丈夫だから。そんな顔をしないで。
<直也>
桜を腕に抱いて過ごす。いろいろなことを話す。桜が初めて店に来たときのこと、桜の前の主人のこと。オーナーの事が出ると、会話は気まずく途切れた。
時折、桜が震える。その度に俺は確認して、桜が首を振る。俺は桜の肩を持つ手に力が入る。
<桜>
やがて、時計が6時を指す。僕は、直也の肩に左手を回したまま、じっと待った。耳が痛いほどの静寂。直也が身じろぎして、ソファが軋む。
突然、僕の目の焦点が合わなくなる。気づいてすぐに直したけど、今度は頭がけだるい。僕の肩に掛かる、直也の手を握る。直也が振り向く。直也は目を見開き、顔色が変わる。僕、一目見てわかるほど危ないみたい。
なお…や……
<直也>
6時を過ぎて暫くは、何事もなく過ぎた。このまま杞憂に終わればいい、と思った瞬間、桜に手を捕まれた。こちらを見る桜は、目が虚ろで顔が赤い。急いで桜の額に手を当て、熱を測ると、ほの暖かい物を感じた。ついに始まったのか。俺の名前を呼ぶ桜の声も、熱を持っていた。
桜の異常は少しずつ、しかし着実に進行していった。俺を見ようとする桜の視点はしかし、どんどんと揺らぎ始めていく。体が震えだし、ガクガクと大きくなっていく。首も据わらなくなってきた。俺は急いで桜の体を受け止め、膝の上に載せて休ませてやった。
<桜>
直也は、すぐに僕の顔を両手で挟み、声を掛けてくれた。返事をするけど、頭の中に響いてしまって上手くいかない。目の前の直也を見ているはずなのに、直也の顔がどんどんとぼやけてくる。直也の手の感触もぼんやりと定かではなくなってきて、代わりに熱いのか冷たいのかよくわからない物が沸き上がってきて、体がいうことを利かなくなっていく。僕は、上も下もわからなくなってきていた。
ひどく遠くから微かに、直也の声が聞こえる。後頭部にわずかに圧迫感を感じて、それで直也の膝の上に寝かされていることに気づいた。
直也と話ができるのも今が最後だな、と思って、それで、ありがとう、って言った。直ぐに光が消えて、その後で直也の声が聞こえることもなかったから、直也に届いたかどうかは分からない。
<直也>
俺の膝の上で、桜はうなされ続けていた。時には体中をかきむしり、髪の毛を掻き上げて、時にはぐったりしたまま荒い息をついていた。
俺は、暫くはそんな桜を見ていることしかできなかった。しかし突然思いついて、桜の両手を俺の手で包み込んで、桜の目を見て大声で呼びかけた。何度も呼びかけ続けた。
何回目か分からないが、虚ろだった桜の目に生気が戻って俺と目があった。俺はびっくりしてしばらく動けなかった。そこでこいつ、絞り出したようなか細い声で、俺に「ありがとう」って声を掛けたんだ。俺が我に返って返事しようとしたときには、もう虚ろな表情に戻っちゃってたんだけど、それでも俺は桜に、お互い様だ、って返事をしたんだ。
<桜>
直也に声を掛けてからは、僕は水の中のような、霧の中のようなところにいる感じで、見えるっていうか感じる物も鋭い光のような、よく分からない物ばかりで、ひたすら熱くて冷たくて苦しかった。時間が経つにつれてどんどんと深みに入っていくようで、とても恐ろしかった。むちゃくちゃに手を振り回してもがいていると、たまに手の先に暖かい物を感じて、少し楽になれた。それでも沈んでいくのは止められなくて、体は動かなくなっていった。ある時、騒がしかった周りが急に静かになって、でも僕は疲れて指一本動かせなくなっていて、そしてそのまま灰色が濃くなって、何も感じなくなっていった。
<直也>
桜は、俺の膝の上で、また苦しそうにもがき始めた。でも動きが鈍くなっていって、力も弱くなっていたから、俺は桜の片手を持ったまま、反応がない桜に呼びかけ続けた。
やがて桜はもがくことさえしなくなって、赤い顔を転がして、ぐったりと動かなくなった。
そして、最後まで動いていた目や瞼が動かなくなった。
このままだと、桜の頭の中のヒーターは桜の記録装置を焼き切ってしまうだろう。失敗してもこのまま見ているよりは、と考えて、急いで桜の頭に手をかけた。
柔らかい髪の毛を必死に探ると、後頭部にひっかかる物を感じた。
電源を切らなければ桜が壊れる、と気づき、電池を引き抜く。その後、後頭部に指を掛けて引き開けた。
桜の頭の中には、明らかに後付けの部品がねじ止めされていた。部品は熱を持っていて、これが問題のヒーターのようだった。ヒーターにはバッテリーのような部品が付いていて、まだ止まっていないようだ。不味いな。桜をクッションに寝かせると、部屋中ひっかき回してねじ回しとミトンを探した。
ねじ頭に、ねじ回しを差し込む。熱を放つヒーターの周りチップと桜の笑顔が重なって、手がひどく震える。ねじ回しがねじ頭から外れそうになる。深呼吸して、ねじ回しを両手で押さえた。
ヒーターをミトンで掴み、慎重に引き出す。バッテリーをもぎ取って、ヒーターをバケツに投げ込んだ。桜のチップや基盤は、無事そうだ。
頭を元通りに閉じ、電池を戻しても、桜は直ぐには目を覚まさなかった。俺は祈るような気持ちで待ち続けた。
そのうちに、うつらうつらして、気がつくと眠ってしまったようだ。頬をつつかれた。うたた寝から跳ね起きた俺の前には、にこにこ笑う桜が居た。
<桜>
目が覚めたら、いつもと違う天井だった。
ソファの背もたれに縋って身体を起こすと、直也が床に座って、寝息を立ててる。そういえば直也の部屋に泊まったんだよなぁって、思い出した。
バケツの水に浸かった部品、すっかり乱れた僕の服を見て、何があったのかが少しずつ分かってきたんだ。直也が、僕が目を覚ますまで横で待ってくれてたって分かって嬉しかった。抱きついて起こそうかと思ったけど、少し気恥ずかしかったのと、体がまだ上手く動かせなかったから、そーっと近づいて顔をつっつくことにした。
<直也>
オーナーからは、桜を自由にしていいと言われていた。
白々しいよなあ。俺が壊れた桜の後始末をすることになっていたわけだ。
でも、桜は今、俺の前で笑っている。桜はまだ上手く動けないようだったから、念のために点検してもらうことにした。万が一にもオーナーにバレないように、俺の友人に頼む。
桜を預けた俺は、夕方からの仕事に備えて短い睡眠を取った。
今日、仕事を辞めると伝えよう。
新しい街で、桜と一緒に働ける新しい職を探そうと思う。
以下、バッドエンドの場合です。
<直也>
桜の髪を掻き分け、必死に取っかかりを探ったが、それらしい物は見つからなかった。俺は諦めきれずに桜の髪をぐちゃぐちゃに乱して、口や耳の中まで探した。
そうしているうちに、桜の頭から焦げ臭いが漂ってきた。俺は泣きながら桜の頭をまさぐり続けた。
桜は、鼻から何かどろりとしたものを流していた。俺が支えている丸く整った後頭部も熱を持ち、じんわりと沈み込み始めていた。俺は桜の頭を水に沈めた。
水面に桜の髪の毛が広がる。桜から流れ出たもので、水が濁っていく。桜の体はしばらく震えていたが、やがて動かなくなった。
俺はそこで初めて、桜の電池のことを思い出した。急いで蓋を開け、電池を引き抜く。電池を外せばヒーターが止まったかもしれない。もっと早く電池に気づいていれば助けられたかもと、動かない桜の横で後悔し続けた。