第1話・出会いとは数奇なものだ
・深い森
とてもいい夜だ。光のない森を鮮やかな月明かりが柔らかく照らし、地面に咲く青白い光を放つ花が、まるで精霊の楽園にいるような錯覚を与える。
楽園を歩くのは二人の人間。執事服を着た白髭の老夫と、足元に向かってやや広がる形の黒のロングドレスを着た漆黒が如き黒髪の女。
どちらも纏う品格は貴族や王族のそれだ。
老夫は女の二歩後を歩きながら口を開く。
「エシュヴィン様、この辺りで如何でしょうか。あまり奥へ入ってしまうと、貴方様とはいえ、『骸の呪い』を受けてしまいます」
女は立ち止まり、辺りを見渡す。倒れた巨木に生える苔。青白く光る花。僅かに漂う獣達の臭い。
「そうね。オドの濃度も申し分ない。それに、これだけ『不浄』に近づけば確実でしょうし。術の準備は? 」
「既に」
「そう。じゃあ喚んでちょうだい」
御意、と頷いた老父ははめていた手袋を外す。すると、複雑怪奇な文様が老夫の掌と甲に刻まれていた。
文様が淡く発光し始めると、二人の周囲を不可視の何かが満ちてゆく。形のない渦が無数に生まれては弾け飛び、さらなる渦の糧として不可視の何かを二人の元へと運んでくる。
「術式は正常に動作を開始。オドの限定座標密度の上昇を確認。魔力圧縮過程省略術式展開……呪刻の消滅を以ってこれを確認。エシュヴィン様、よろしゅうございます」
「ええ」
エシュヴィンと呼ばれたドレスの女が、遠くの物を取るように手を伸ばす。肘くらいまである手袋をはめていてもわかるしなやかな腕。スラリと伸びる指は物言わぬ淫靡さを漂わせている。
エシュヴィンの艶かしい口元が動く。
「『唇の波紋 言の葉の刻印 漣の軌跡に骸を流せ 錆びた鎖より汝を解き放つ』」
エシュヴィンが一言一言紡ぐ度に凝縮される形のない何かは、やがて不可視の臨界を超え、発光する粒となって二人の周囲を包み込む。
その光景はあまりにも美しい。エシュヴィンらの目的も願望も知らぬ者がこの光景を見れば、生涯に渡ってその目に刻まれるであろう絶景。その中にいながら二人の表情に変化はない。
「『滅びた大地に根付きし影と大罪を犯す幼き忌み子』」
粒が輝く。エシュヴィンが望むこととは裏腹に、美しく。美しく。美しく。
「『揺らげ、不浄なる影法師 屠れ、暗闇の尖兵 代償によって汝を繫ぐ』」
・どこかの部屋
「人の痛みには上限があるって知ってる? 」
殺風景な部屋の真ん中で少年が問いかける。打ちっぱなしの壁。フローリングの床。この部屋を選んだのは、単に雇い主から好きな場所を使っていいと言われ、ここが一番近いという至極単純な理由からだ。
カチャカチャと金属の触れ合う音が静かな部屋に僅かに反響する。
彼は独り言を言っているのではない。いや、相手の反応や返答を考えて話していない点を強調するのなら、独り言と言えなくもないだろう。だが、少年は独り言で言っているのではなく、彼なりの会話なのだ。
彼の言葉が対象としているのは、同じく部屋の真ん中にある椅子に固定され、目隠しと猿轡をされた男だ。鼻息は荒く、目隠しの下から涙が溢れているのが分かる。
「この前ネットを見てたら出てきたんだ。まあ、精神状態とかでいろいろ変わるらしいし、そこまで興味があるわけじゃないんだけどね」
金属音の元を見れば、少年が何を準備していたのか分かるだろう。そしてその目的も。
メス、電気メス、ニッパー、ノコギリ、電動ドライバー、ペンチ、注射器、小瓶に入れられた透明の液体、太く長い針、短く細い針、ナイフ、大きな器具、小さな器具、大量のガーゼ、医療現場で見るようなステンレスの膿盆。床には業務用の消毒液が置かれている。
少年は一通りの準備を終えたのか、別の部屋にあった椅子を取り出して、男に向かい合うように座った。
「よしっ、じゃあ始めよっか」
少年がパチンと手を叩くと、その音にさえ男はビクリとする。手を伸ばし、無造作に男の目隠しを引っぺがすと、男は目を真っ赤に腫らしていて、何時間も泣き続けたのが分かる。
少年は口を開く。
「僕が聞きたいのは二つ。一つ目は僕の雇い主、つまりは朧組だね。朧組とロシア系マフィア、名前は確か……そう、シャシュカだ」
少年はいたって普通だ。生々しい拷問器具を言いながら弄んでいても、一般人なら口にしないような内容を話していても、普通だ。
それが少年の日常であるから、仕方がないことなのだが、男からすれば、外見で十七歳か十八歳に見える少年がそのように『在る』だけで、十分な恐怖の対象なのだ。悪戯のように命を奪われてしまうのではないかという、恐怖。
「そことの取引をおじゃんにした君の仲間の居場所。二つ目は君がパクっちゃった朧組の親分である翡翠会の裏帳簿の在り処」
少年はにっこりと笑ってみせる。
「まあとりあえず、爪剥ぎからいっとこっか」
わらう。笑う。嗤う。
少年は手を伸ばしペンチを手に取る。男は拘束されている手足を必死に外そうとするが、手首足首金具で留められていて、男の力でそれは叶わない。
まず、右の親指の爪にペンチがあてがわれる。
「あ、そうそう。拷問するけど、いつでも吐いていいからね。こんな面倒な仕事早く終わらせたいんだ」
一気に爪が剥がされる。少しの肉を伴って剥がれた爪。指と爪には血が当然ついていた。爪を剥がされた指から血が溢れる。
男は喉から絶叫を吐き出した。枯れたと思っていた涙は溢れるように流れ出し、熱を持った激痛が親指から全身へと広がってゆく。
あまりにも突然だったのだ。男にはこれから自分が拷問を受けることはわかっていた。とても怖いが、それなりの覚悟もしていた。だが、唐突に過ぎた。覚悟を容易く置き去りにする少年の所作に男の覚悟は揺らぎ始めた。
(畜生! こんなサイコパスに痛ぶられてまで黙っておくものなのか、俺がやったことは?! )
男にも雇い主がいた。雇い主からの依頼をこなし、そして捕まって、さらには仲間の存在がばれた。これは男と仲間のミスだ。失態だ。だが、男達は何か信念があっての行動ではない。雇い主である三木会には何の義理もなければ、でかい恩義があるわけでもない。
ならばここで俺が話しても自分が何か不利益を被ることはない。ここでこのクレイジーに殺されるのはごめんだ、と男は判断した。
喉から叫び、降伏の意思を示す。猿轡を外された口で左の薬指の爪にペンチをあてがった少年に言う。
「わ、わかった! 全部話す。ほんまや。黙っといたろなんてもう思ってない! 俺らはただ雇われただけやから仕事以外のことは知らんから言われへんけど、知ってることは話すから、どうか、どうか命だけは」
男の言葉を聞いて少年はペンチを台へ置く。
「本当? それは良かった。拷問の手間が省けたのはいいことだよ。じゃあ、一つ目から答えてよ。あ、嘘はダメだよ?」
「も、もちろんや。仲間は、今は天下茶屋の近くにあるマンションにいてる」
「なんてマンション? 」
「冨山ハイム」
「仲間の名前と受け渡し場所は? 」
「な、名前は石巻筅筒。受け渡し場所は」
男はふと考えた。男の仲間のどちらかが失敗した時用の受け渡し場所は知らされている。万一の時、どちらかが失敗した時どちらかが代わりに裏帳簿を三木会に届けるためだ。
だが男は思った、ここで本当のことを言う必要はないんじゃないか、と。
男の思考に影が落ちる。身の程知らずもいいところに。
(あいつとは長年一緒に危ない橋渡った仲や。何でもかんでもペラペラ喋ったらもうあいつに顔向けでけへん。吐き出すのは最小限に、嘘も混ぜて、俺が生き残るように)
打算で僅かに恐怖が薄れた男は、小さな勇気によって少し冴えた頭でいう。
「う、受け渡し場所は聞かさ」
一瞬の思考、表にはほとんど現れることのない僅かな言葉のつまり。それに少年は気づいた。
「あがあぁああぁぁ!! ……ってめぇ!何しとんねん!! 」
受け渡し場所は聞かされていない、と答えるよりも先に少年が長い針を素早く取り、男の太ももに突き刺したのだ。針は太ももを貫通して椅子に突き刺さる。突き刺さる際、音と少年の力の入れ具合から骨を貫通したことがわかる。
この行動さえも突然。男が何をされるのかを勘付く間も無く繰り出された無言の警告。
男はそこで初めて少年の顔を見た。いや、前々から見ていたが、恐怖によって正しく認識できていなかったのだ。打算によって、小さな蛮勇によって僅かに恐怖が去った頭だからこそ気づいてしまった少年の顔。
「っ! お前……まさか」
男が少年を見て脳裏によぎったのは一つの名前。裏社会に生きるものなら一度は耳にしたことのある、万屋の名前。
「……石田…………新太」
「あれ、お兄さん僕のこと知ってるの? 何だ。知ってるんなら、嘘つかずに本当のこと教えてよ」
少年に嘘は通じない。男はそう聞いていた。どう言う理屈なのかわからないが、この少年に嘘は通じない。嘘は通じないのだ。
日本の裏社会に広がる『石田新太』という名は、それだけで一種の恐怖の対象となっていた。顔は一度どこかの資料で見たことがある程度。詳細は分からない、と言うのが男のような下っ端の本音だ。少年と関わりを持つのは裏社会の重鎮や組の頭、ヤバイ仕事をする奴らや汚職政治家などの日常とはかけ離れた者。そして石田新太の仕事の対象となった者。
「(てことは、俺は仕事の、対象……俺、対象、仕事……拷問で、吐かされて、仲間の居場所を……吐かされた後は? まさか。いや、そんな……まさ…………まさか)……し、ぬ? 」
己の運命を正しく悟ったとき、男は、壊れた。
「し、しし、ししししぬしししぬぬぬしいいぬぬぬぬぬぬぬくぬくっぬぬぬぬぬ」
ガチガチと歯を鳴らし息は荒くなり、またガタガタと動かない手足をばたつかせる。
男の心は脆かった。裏社会の依頼をこなすには、心が、覚悟が脆すぎたのだ。
少年はため息をついた。
「……まだ天下茶屋に仲間がいるってことしか聞いてないのに、こんなにあっさり頭パーになるなんて。高校生でも半日くらいは保つのに」
せっかくの拷問器具の準備が徒労に終わったと新太はペンチを放る。
「てか、途中で仲間がどうのって考えたみたいだけど、仲間を思うなら僕に捕まるった時に死んどけマヌケ」
新太は吐き捨てるように言って、別の部屋にある自分の荷物を取りに行く。
「なんかテンションだだ下がり。ていうか、そもそもこんな仕事は僕に振らないでほしいよ。拷問は苦手なのに」
新太の荷物は物騒だ。
ホルダーに入れられた短いナイフ十二本の束が二つ、ベルトにナイフが一本と脇のホルスターに拳銃一丁。ショルダーバッグにはその弾倉と小さな財布にスマホ。最後の二つはともかく、その他のものは、不測の事態に備えての凶器だ。
二十四本のナイフを体に巻きつけるように装備し、ホルスターの拳銃の感触を確かめるように引き抜き、戻す。
二分ほどで荷造りを終えて部屋を出ようとすると、スマホが着信をアラートで報せる。
「もしもしー、八須義さん?」
『ああ。お疲れさん。そっちどうや。アホの情報引き出したか? 』
「それが、仲間が天下茶屋付近にいるって言ったらすぐ頭パーになっちゃってそれ以外は」
新太が怒られることを覚悟した上で言ったが、電話の主、新太の雇い主である八須義閂の反応は新太の予想を裏切る形となった。
『そうか。今回はそれでええから、もう上がってええで』
「そう、ですか……もしかして僕は裏取りですか」
『裏取り』とは、獲得した情報の真偽を調査することだ。今回、男への拷問は、閂が得た情報の裏取りのための依頼だったのだ。必要なのは自分たちの読みが当たっているかどうかで、引き出す情報の数は関係ない。故に新太は雇い主からのお叱りを免れた、
『まあな。ただ、次こんな仕事頼んだ時は頭パーにする前に情報引き出しや』
と言うわけではなかったらしい。
「うぐ……了解です。じゃあ、今日はもういいですよね」
『ああ。依頼は終わりや。金はいつもんとこ振り込んどく』
「まいどあり。あ、八須義さん」
『ん? 』
「男の人どうしときます? 」
『ほっといてええで。そもそもの原因は内の若い衆のミスや。身内のことは身内で片付けんのが筋やさかい。手間とらせてすまんな。掃除屋はこっちで手配するわ』
「了解しました」
新太は壁に掛けられていた時計に目を向ける。電子時計のそれは窓のないこの部屋からはわからない午前と午後を知らせてくれる。今は午前八時を少し過ぎたところ。
「では、良い一日を」
『おう。新太もな』
電話を切って部屋を出る。外に出るといつも以上に多くの人が行き交っていた。スマホを確認すると、今日が土曜日だったので納得がいく。
近くのマックに立ち寄り、単品でコーヒーを一つ頼む。それほど間を置かず出てきた商品を受け取りまた歩き出す。
新太がいるのは大阪にある日本橋。付け加えるならそこにある戎橋の上で立ち止まり端にもたれかかりながらコーヒーを飲んでいる。グリコのランナーは今日も元気そうだ。
六十二年前、『東京崩壊』という災害があった。どういう理屈でそのような災害が起こったのか、今でも明確な答えは出ていない。ただ、この時代に生きる人々の認識としては、『半年の内に東京付近がクレーターに変わった』だ。新太もその例外ではない。六十二年前のことなど、それを経験したことのない者からすれば、石器時代や江戸時代の様に、実感のない過去の出来事に過ぎないのだ。
チビチビと飲んでいたコーヒーを飲み終え、家に帰ろうと歩き出した。その際、すれ違いになった女性と肩がぶつかる。
「あ、すいませ」
新太は何が起きているのかわからなかった。
静止しているのだ。不機嫌な顔の女性が、写真を撮る外国人観光客が、空を舞う鳥が、全てが。
「何が、起きてるんだ」
何処もかしこも止まっている。クルージングの船があげる水しぶきも、躓いてペットボトルの中身をこぼす子供も、何もかも、全てが止まっている、新太を除いて。
ゴーンゴーンと、鐘の音が聞こえた。世界を揺らすような異様な音が新太を包む。
そして、視界で光が、鋭く弾けた。
・ある森
不可視を超えた光の粒も、そこに在る限界に近づき、揺らぎ、さらに発光し、周囲を昼が如く照らし出す。
「『契れ、選定の契り』」
光が弾ける。
二人の間を強い風が吹き抜けた。
老父が告げる。
「エシュヴィン様、呪刻の完全消滅を確認しました」
「ええ、でしょうね」
エシュヴィンが手を伸ばしていた先の地面に、刻みつけられる様にある呪刻と呼ばれた老夫の手に刻まれていた複雑怪奇な文様と同様のそれ。そして赤い稲妻の様なものをバチバチと纏いながら文様の上に何かを構えて立つ何か。否、誰か。
「なっ?! 」
老夫は絶句した、長く生きた中で経験したことのない事柄に直面した様に。
「彼が……『災厄』だと」
「……貴方、名を名乗りなさい」
エシュヴィンが近く。
「それで契約は完全に成」
パンッ、と破裂音が二人の鼓膜を揺らす。誰かが構えていた物からゆらりと白い煙が上がっていた。誰かの目には明らかな警戒が浮かんでいる。成人よりは少し若い誰かは言う。
「それ以上近づくな。次は当てる」
「……あは、は、あはははははははは」
声高らかに笑うのはエシュヴィンだ。腹を抱えて心底楽しそうに笑う。
「ふっふふふふ、ははははは、人型だからそういう『災厄』かと思えばクフフフフ、自我があったとははははは。そうね、ええ、そうよね。貴方からすれば、ええ、そうよね。どうか無礼を許してちょうだい。私はエシュヴィン。王国魔術師が一人、エシュヴィン・リリア・アルトルムよ。貴方に危害を加えるつもりはない。本当よ」
優雅に、気品を備え、そして幼子の様に目を爛々と輝かせ、エシュヴィンは名乗った。
誰かは構えた物をゆっくりと下ろす。
「……嘘は……言ってないみたいだな」
「ええもちろんよ。さあ、誰かさん。貴方の名前を教えてくれるかしら」
誰かは少しの間黙った。当然だと言うように、二人は誰かの返答を無言で待つ。急かすようなことはしない。それが野暮なことだと知っているから。
誰かが名乗る。
「僕は新太。石田新太だ」