9月1日
「9月1日」
夏休み最後の日、僕は神様の言葉で目を覚ましました。
「あなたは人を殺さなければ、死んでしまいます。誰でもいいから殺しなさい」
僕はベッドの上で跳ね上がりました。
明日なんて永遠に来なければいいと思っていた僕ですが、いくらなんでも唐突過ぎます。「寝耳に水」とはきっとこういうことを言うのでしょう。
どうやら昼も近いようです。カーテンの隙間から太陽の光が漏れています。淡い水色の空を見て、僕は「青天の霹靂」という言葉を思い出しました。
こうして少しの間ベッドの上で思索にふけっていた僕ですが、神様の言葉を疑っていたわけではありません。そもそも疑う必要なんてありません。神様が言うのですからそれは真実なのです。
ああっ。こんなにも品行方正で、皆様の手本となるように生きている僕が、人を殺さなければ死んでしまうなんてっ。やはりこの世は理不尽です。
神様に言われたからとはいえ、人を殺したら法で罰せられてしまいます。警察に捕まり、犯罪者としてネットに顔と名前が出回るでしょう。お先真っ暗とはこのことです。
僕はのろのろとベッドから降り、顔を洗いに行きました。冷たい水は、僕の脳を柔らかく解きほぐしていくようでした。
もっとポジティブに考えてみましょう。僕がもしこのことに気付かなければ。もし神からの啓示を受けることがなければ、僕は死んでいたのです。
この世界の不条理に流されるまま、抗うこともできず、ただ死を迎える。そんな運命を変えるチャンスを、神は下さったのです。僕は人を殺すという選択肢を与えられた、選ばれし者なのです。
水滴の一粒一粒が輝いているようでした。名残惜しく思いながら、僕は雫を丁寧にタオルで拭きとりました。
決意は固まりました。僕は僕のために、人を殺します。
さて、では誰がいいでしょう。殺しやすさで言えば、家族が一番です。寝ているところに包丁を突き立てればそれで万事解決ですからね。しかしよく考えなければならないのは親を殺した後のことです。たしかに楽に殺せはしますが親に死なれたらそのあと僕が困ります。僕の平穏な生活に支障をきたすことは間違いないでしょう。
やはり無難なところで、クラスメイトや周りの人間でしょうか。
正直、嫌いな人間はたくさんいます。
貸したゲームを返さなかった彼。
体育のバスケットボールで僕の顔面にボールをあてて笑っていた彼。
僕が拾ってあげた消しゴムをあとでこっそりゴミ箱に捨てていた彼女。
思い出したくもありませんが、ともかく殺したい人間はごまんといます。でも、わざわざ僕が殺すほどの価値が彼らにあるとは思えません。あんなゴミ虫どもを、僕の手ずから殺すのはもったいないと思うのです。
まあじっくり考えましょう。僕が真に殺すべき相手は、必ずどこかにいるはずですから。
昼過ぎになってから、僕は包丁を持って家を出ました。
台所の棚の奥に、使っていない包丁があったので、僕はそれをタオルにくるんでリュックの底に入れました。本当はマグロ包丁とかがあればよかったのですが仕方ありません。これでも十分人間はさばけますし、まあいいでしょう。
それはそうと、こんなに簡単に凶器が調達できるのに、他の人はどうして人を殺さないのでしょう。人間のセルフコントロール能力について、僕は改めて驚かずにはいられませんでした。
アスファルトの照り返しにも負けず、生温い夏の風にも負けず、うだるような日差しの中を懸命に歩き、僕は駅へとたどり着きました。
そして電車に乗り、街へと出かけました。
今日は夏休み最終日だったので街には人が溢れていました。僕は人混みが苦手なのでこういうところはあまり好きではありません。でも、今日は違いました。
誰を殺しましょうか?
そうやって街ゆく人々を眺めるのは、何だかとても楽しかったのです。
僕はいつでも、誰でも、殺すことができる。まるで、神にでもなったような気分でした。
あの人も、この人も、その人も。誰だって殺せます。彼らの命は、僕の手の中にあるのです。
こんな愉快な気持ちになったのは、生まれて初めてのことでした。
夏の日差しも、汗でべたつくTシャツも、街に溢れる人間も、何もかもを許すことができました。
大きな交差点を渡るとき、肌が真っ黒に焦げた男に足を踏まれました。
でも、殺しません。彼を殺すくらいなら、僕の頭を踏みつけたクラスメイトを殺します。
自撮り棒を持った外国人にぶつかられました。
でも、殺しません。どれだけ羽虫を潰してもキリがないのと同じことです。
電車で、やたら騒がしい女子高生たちがいました。
でも、殺しません。ああいう頭が悪そうな輩は僕が自ら手を下さなくとも、勝手に死にますから。
結局どの人も、僕が殺す一人にはふさわしくないような気がしてきました。一人と言わずもっとたくさん殺したいとも思いましたが、それはよくありません。あくまで、僕が死なないために一人だけ殺すのですから。
よく知らない人間というのは殺すに値しないのかもしれません。そう考えた僕は、ある青年の後をつけてみることにしました。
その青年は自転車で僕の真横を通り過ぎて行ったのですが、僕を追い越すとき舌打ちをしたのです。殺す価値は十分にありました。
自転車相手では尾行できないかと思ったのですが、彼はすぐ近くの駅前で自転車を降りました。そこで僕は彼をターゲットに決めました。
僕が少し遅れて駅へ入っていくと、青年がエスカレーター近くの柱の傍に立っているのが見えました。彼はきょろきょろと周りを見渡しています。誰かと待ち合わせでもしているのでしょうか。
彼はある一点で視線を止め、そちらへ向かって歩き出しました。僕は青年の真後ろにつくようにしたのですが、おかしなことに彼はぐるりと遠回りをしてエスカレーターへ向かうようでした。彼の視線の先に目を凝らし、僕はようやく気が付きました。彼はある女性の後ろを歩いていたのです。
女性をつける青年をつける僕、というのはなかなか滑稽に思えましたが僕の目的はあくまで彼です。彼はいったいどうして彼女のあとをつけているのでしょう。僕はわくわくしてきました。
しかし、すぐに答えは出てしまいました。
女性の真後ろについてエスカレーターに乗ると、彼はポケットからスマホを取り出したのです。そしてそれを、普通に使うならば有り得ないほど下の位置で持ちました。
彼は何のことはない、ただの盗撮犯だったのです。
予想より早く正解が降ってきてがっかりはしましたが、僕は同時に彼を殺すことを決めました。
彼はこれまでもこの行為を繰り返してきたのでしょう。そして、これからも続けるのでしょう。醜い獣はたくさんいます。でも、その中でも僕が殺したいのはこういう輩です。
駐輪禁止の標識の前に並んだ自転車の群れを見て、安心して自分もそこに自転車を停めるような、そんな彼をこそ僕は殺すべきなのです。
僕は列から外れ、エスカレーターの右側を上りました。
青年を追い抜くときこっそりと手元を窺いましたが、画面は真っ暗でよく確認できませんでした。けれど、女性のスカートの下にスマホがあったことは間違いありません。僕はエスカレーターを上りきり、彼が上がってくるのを待ちました。
一秒が一分にも一時間にも感じられました。心臓が脈を打ち、右手が早く命を刈り取りたいと震えています。やっと僕は僕の殺すべき相手を見つけられたのです。
何も知らない女性の後ろから、ついに彼が現われました。
やたらてかてかした黒髪。ニキビの跡。低い鼻のためか、ずりおちた眼鏡。アイロンのかかっていないシャツ。黒くて汚いリュック。だらしない口元。僕は彼の姿をしっかりと目に焼き付けました。
僕はリュックを前に抱え直し、包丁を取り出そうと手を入れます。手が包丁の柄を掴んだそのとき、低く野太い声が聞こえてきました。
「君、スマホ見せてもらっていいかな」
顔を見上げると、あの青年が中年の男性に話しかけられていました。よく見ると、周りにも数人の男性が彼を取り囲むように立っています。
「警察だから。わかってるよね?」
中年の男性が言いました。青年は青ざめた顔で口をパクパクとさせています。
僕に聞こえたのはそこまででした。
彼らはぼそぼそと小さな声で何かを放しながら、階段を降りてゆきました。
残された僕の殺意は、いったいどうしたらいいのでしょう。
二時間ほどあちこちをぶらつきましたが、やはり彼ほどの逸材はそう簡単には見つかりませんでした。
狡猾で、周りの顔色ばかりを窺い、保身だけを考えて、強者や多数派の陰に隠れる風見鶏。そういう卑怯でずる賢い奴は簡単には尻尾を出しません。仕方なく、僕は電車に乗って家に帰りました。
その夜、じっくりお風呂に入っていると、段々と気持ちが切り替わってきました。
あの青年を殺せなかったことはたしかに残念ですが、彼はきちんと警察に捕まりました。よく考えれば、当然のことです。彼は法を犯したのですから裁かれるのです。やはりルールは守らなければなりません。それに、きっとこの不運も神のお告げなのです。
僕は早めに布団に入りました。明日は大仕事です。寝不足ではいけません。
こんなに明日が来るのが楽しみなのは、いつ以来でしょう。早く寝れば、それだけ早く明日が来ます。
僕はクラスメイト達の顔を一人一人思い浮かべながら安らかな眠りにつきました。
翌日、わくわくしながら学校へ向かうと、何も知らないクラスメイトたちはさっそく僕に悪意をぶつけてきました。
さて、この中で誰を殺しましょうか。卑怯でずる賢い奴という点では、一番後ろでカメレオンのように擬態しているスネ夫くんがいいでしょうか。
そんなことを悩んでいたら、クラスのある女子生徒が突然、僕らのあいだに割って入りました。
「やめなよっ」
顔を真っ赤にして、拳を握りしめて、彼女は大きな声でそう言いました。
理由はわからないのですが、彼女は怒っているようでした。
そして何を思ったのか、彼女はクラスメイトたちに向けて、大層なご高説を始めたのです。
それはもう、聞くに堪えない、とてもつまらない話でした。誰もが知っていて、なおかつ何の役にも立たないような。「赤信号を見たら、止まりなさい」とでも言っているかのような。そんな意味のない話です。
僕らはもう中学生なのですから、わざわざ言わなくてもわかっています。
醜くて、汚くて、自分のことしか考えていない獣。それが人間です。
道徳や倫理を振りかざしてお高くまとまっているように見えるかもしれませんが、それは打算に過ぎません。自分のことが何より大事で、だからこそ仲良しごっこをするのです。
「あなたを殺さないあげるから、私のことも殺さないでね」と。
もちろん、そんなのはまやかしです。ほんとはみんな、気に入らない奴を殺したくてたまりません。だから、自分より弱い、やり返してくる心配のない奴を攻撃して、ストレスを発散します。当然のことです。醜い僕たちにとって、いたって普通の、健全な営みです。
なのに、彼女は滔々と偽りの正義を語ります。人間は、本当は美しい生き物なんだと、自分にも周りにも思い込ませようとしています。
菜食主義者も人肉を好む民族も、自分の主義主張を人に押し付けようとはしません。けれど彼女は違います。彼女は妄想癖で、虚言癖で、ペテン師です。
彼女を殺そう。そんな思いが僕の頭をよぎりました。
彼女はクラスメイトへの説教を終えると、僕の元へ歩み寄りました。そして、泣きながらこう言いました。
「私、夏休みのあいだ、ずっと後悔してたの。なんで見て見ぬふりをしてたんだろうって。ほんとにごめんね。でも大丈夫。私がいるから」
僕には彼女の言いたいことがよくわかりませんでした。ただ、彼女の泣き顔をみっともないとは思いました。そして、僕の殺意はまたしても行き場を失ってしまいました。
その日の放課後のことでした。公園の前を通りかかると、植え込みのあたりに何か動くものが見えます。
気になって近づいてみると、少年が一人で蟻を潰していました。隣に置いてあるバケツには水が張られていて、蟻が何匹も入っていていました。
少年は一匹ずつ丁寧に木の枝で潰したかと思えば、今度は一度にたくさんを足で踏み潰し、今度は巣の中に水を流し入れ、とバラエティに富んだ方法で蟻を殺していました。
「なにしてるの?」
僕の声に少年はパッとこちらを振り返りましたが、すぐに視線を足元へと戻しました。
「アリ、潰してるの」
「どうして?」
少年はすぐに答えてくれました。「楽しいから」と。
少年は本当に楽しそうに笑っていました。バラバラになった蟻の死骸の上に立つ少年の屈託のないその笑顔は、西日に照らされて輝いて見えました。
直後、戦慄が僕を襲いました。
頭の先から足の先まで一気に駆け抜けるような。むき出しの脊髄を舐められたような感覚に、僕は真っ直ぐ立っていることさえ覚束なくなりました。
これです。僕が探し求めていたのは、これだったのです。
僕は鞄をゆっくりと地面に下ろしました。ジッパーをあけ、包丁を取り出します。巻きつけてあったタオルを丁寧にとって、少年の背中に包丁を突き立てました。何度も何度も、色んなところに僕は包丁を突き立てました。
肉を裂き、心臓を穿つその感触。綺麗に歪む少年の顔。
あふれ出す真っ赤な血液。鮮血が僕の手を伝い、滴り落ちていくさま。
そのすべてが、僕にはとても楽しかったのです。
僕が人を殺した理由は、至極簡単です。
僕は、誰でもいいから殺したかったのです。
後付けの理由なんて、何一つ必要ないのです。
人間として当然のことをした僕が、なぜ裁かれなければならないのでしょう?
やはりこの世は狂っています。
終わり
お読み頂きありがとうございます。
下記のような流れのつもりだったのですが、ご感想・アドバイスを頂けたら嬉しいです。
①いじめられている主人公がストレス発散のために他人を殺そうとする
自分の心のバランスをとるために、他人を殺そうとする
殺さなければ死んでしまうくらいつらいのだから、殺すのは仕方ないことだと思い、
神という言葉で無意識に自分を正当化する
↓誰を殺す?
②ずるい奴を殺そうとするが、失敗する
ずるい奴は本当は、主人公と同じ虐げられる側のはず
なのに、姑息な手を使って、強者のふりをしている。だから殺したいと考える
↓しかし、ルールに反した人間は(個人的な制裁を加えなくとも)裁かれる
③女子生徒を殺そうと思うが、やめる
人間が美しいなんて心の底から思っているやつは気に入らない
↓自分のためではなく、主人公のために必死になっている彼女を見て殺意が萎える
④理屈を捨て、蟻を潰している少年を殺す
蟻を潰すのが楽しいと言っている少年を見て、自分も人を殺して楽しみたいと思った
最初の、人を殺してストレスを発散したい、という欲望に戻った
人間はもしかしたら美しいのかもしれない、と③の最後で期待して、
やっぱり醜い獣に違いない、という結論