結界を張り直す
結論から言えば、わたしは結界を張り直す為だけにこの世界へ呼ばれたらしい。
あの一角獣が、張り直すための魔法を完成させた、まさにその時、死んで魂が体から離れたのがわたしとキルヴィだったということだ。
わたしの魂はまだ生きられる状態で、キルヴィは魔法を育てるのに耐えうる器で。
条件を満たし、なおかつその瞬間に死ななければ魔法を託されることはなかったのだろう。
運命のいたずらとはよく言ったものだ。
「……はぁ」
だるい、と呟いて左を向く。
耳元で枕がもさもさと音を立てる。
窓の輪郭を目でなぞって、それからそっと閉じた。
夢で、弟のしょうたが笑っていた。
誰かに揺り起こされる感覚と声で意識が覚醒して、目を開く。
もうすでにわたしの目は光を感知しない。ただ真っ暗な闇ばかりが目の前に広がる。いや、闇が広がっているのさえ見ることができない。焦点を合わせようとして合わない、そんなおかしな感覚がする。
「ねぇねぇ」
わたしは目を見開く。
それはアルの声ではなく幼い子どもの声だったからだ。
聞いたことのない声がわたしを不安にさせる。
「誰?」
上体を起こして逃げるように後ろに退がる。すると幼い声は、少し尻すぼみに、
「リュイ。初めまして。」
自分の名を名乗る。リュイとは、5年前に生まれた弟の名前だ。しかし何故その弟がここにいるのか分からない。
「リュイ。どうしてここにいるのかな?来てはいけないと、ミホロワが言ってなかったかい?それに、アルも。」
「あなたは、兄様ですか?」
「え?」
「姉様もお会いしたことがないという兄様がいると、姉様が言いました。」
「そうだよ」
すこし間を置いてから、リュイの言葉に返事を返した。
さっきから拭えない違和感。
それを解決するべく、質問をしてみた。
「…リュイ」
「はい」
「僕が、気持ち悪くはないのかい」
元の白い肌など何処にも見えないほど魔法文字の這った赤黒い肌を、おぞましいとは思わないのかと、少し気になった。
「思わないとは言い切れないのですけれど、でも、平気です。」
幼い声は、しっかりとした声でそう答えた。
「母様がおっしゃるんです。あんなところに一人で、って。悲しそうなお顔をするから。」
見えないが、恐らくは悲しそうな顔をしているのだろう。
「兄様、兄様もあちらの塔で暮らしませんか。そうすればみんな、悲しくないと思うのです。痣なんて、誰も気にしないです。だから」
「ありがとう」
起こしていた上半身が辛くなって、ため息を吐く。
賢い弟だと思う。
まるで全てを知っているかのようだ。
明日わたしが、最初で最後の魔法を使うことも、消えてしまうかもしれないことも、知っていて言っているのではないかと思ってしまう。
生き残る保証はない。
体が残るのか、それすら分からない。
それらも全て魔力に変わってしまうかもしれない。
本当に、今度こそ生の世界と別れるのかもしれない、そう思うと、胸が苦しくなる。
この世界の父さんも、母さんも、アルも、ミホロワも、トルティも、セイラも、城の人たちも、ようやく慣れて、好きになって、生きていけるコンディションが整ったのに、お別れをしなくちゃならないのだ。
だから、そっちには行けない。
守るために、この世界に呼ばれたわたしはその義務を果たさなければならない。
隠れながらわざわざ来てくれたのであろうこの弟を、守らねば。
「わたしは平気だよ。優しいなあ」
頭を撫でようと、手を伸ばした。
前の空間を探っていると、ふわふわとした髪に触れて、
「お母様と同じ、巻き毛だね?」
そう言うと、微かに頷いたような感触が手のひらから伝わった。
「アルが帰ってきたらきっと怒られてしまうよ。もうお行き。」
頭から手を離してそう言えば、少しのためらいと心残りを滲ませた足音が、小刻みになって、人の気配が遠ざかった。
「…っ…はあ」
起こしていることも、今では辛かった。
術式に体力を持って行かれてしまったのだろう。
疲れたわたしは目を閉じて、あっという間に眠りについた。
朝、眩しい陽の光で目を覚ました。
目を開けると、ちゃんと世界が見える。
陽光を差し込む窓と、部屋と、それからあの一角獣が。
完成したようだ さあ わたしがお連れしよう
世界は魔法にかかっているかのごとく静かで、あまりに穏やかで、なんとなく寂しい。
わたしがいなくなっても、この世界はこのままあり続ける、そのことがなんだかはじき出されたような気分になって寂しかった。
アルはどう思うだろう。
母様は、父様は。
みんなは。
「さよなら」
みんなのことを見たつもりで、後ろを振り返って言った。それから昨日とは打って変わって軽い足を動かして、一角獣へ歩み寄り、その背中に乗った。
外へ飛び出した一角獣は一直線に城を離れ、山なみへ向かって行った。
不思議と風はない。
音もない。
ただ風景が流れていくだけ。
それが妙に現実離れしていて、高いところを飛んでいるはずなのに興奮や恐怖がまるでなかった。
さあ 着きました
しばらくそうしていただろうか。
山の頂上に降り立った一角獣はそう言った。
背中から降り、前方に目をやると、そこにはこじんまりとした神殿のような建物が建っていた。
雑草が生い茂りいかにも古そうだが壊れているわけではなさそうだ。
尖った三角形の屋根の建物に足を踏み入れる。
「わぁ…」
中は、教科書でしか見られないような古代ギリシャの神殿のようで、床には不思議な文字、今でこそ読めるが古代魔法文字が彫られ、大きな魔法陣を成していた。
やることは、分かってる。
大きな真円の魔法陣の中心に行き、肌が文字に触れるように寝そべる。
ヒヤッとした石の温度を感じた途端、頭がぼーっとしてきて、何も考えられなくなる。
これからどうなるのかとか。
今自分が何をしているのかとか。
全てが霧に包まれたようにはっきりしなくなってきて、体から力が抜けていく。
魔法陣に、血のように紅い魔法文字が、染み渡るようにじわじわと広がっていった。
その日、国土全域で、異様な雨が降ったという。
人々はそれを、血の雨と表現した。
血のように紅い、温度の無い水滴---------
「キルヴィさまっ、キルヴィさまっ!」
アルの声がする。
「お、お起きくださいっ、キルヴィさま」
どうしてそんな、泣きそうな顔をしているの?
笑ってよ、アル。
その言葉は声にならず、疲れ切った私は再び目を閉じた。
夢のなかで、私はまた一角獣と会った。
でも、その姿はあの角のある姿では無い。
楽器によって声を奏で
草木によって体を成し
海の瞳でこちらを見る
【ありがとう。優秀なる人間よ。世界は破滅を免れた。】
それはそう、高らかに宣言した。
【われが独断で選んだのでな、お前にも不都合があったろう?選べ、キルヴィとして生きるか、あかりとして生きるか______】
私はなんと答えただろう。
【そうか。代償として、お前の記憶をもらい受ける。達者でな、人間よ。】
夢はそこで途切れ、意識は真っ白な光のなかに埋もれていった。